今週12日、ロンドン五輪マラソン代表の6人が発表されました。全員が初出場ということで、他の競技と比べても非常に珍しい顔ぶれとなったように思います。代表選考の場の1つであるびわ湖毎日マラソンは私もテレビで観ていたのですが、その前に行われた東京マラソンでの川内優輝選手の給水失敗が取り沙汰されて、はじめて給水がマラソンの見どころのひとつだと知りました。
さて、その渦中の川内選手が選考から漏れたことについて、世間だけでなく日本陸上競技連盟理事会内部でも疑問が湧いていると聞きます。私はマラソンについてはまったくの素人なので、選考の過程についてとやかく言うことはできません。ただ、問題の本質は、選考基準が基準と呼ぶにはあまりにも不明瞭だという点にあるように思います。
川内選手は、代表選考のひとつである福岡国際マラソンで、日本人ではトップの3位に入りました。しかし、タイムが五輪で要求されるものに及ばなかったため、あらためて東京マラソンに出場して確実なタイムを出そうとしたところ、順位もタイムも代表争いからは程遠い結果となってしまったということだそうです。順位だけでは代表選出には不十分と判断したことが、かえって川内選手にはあだとなってしまいました。
ここで、もし代表選考基準が簡単明瞭なものであれば、川内選手のこのような逡巡はありえなかったでしょう。別に川内選手のためにどうこうということではなく、選手に無用な苦悩を与え、選考後には決まって不満がくすぶるような選考基準では問題だということです。
調べてみると、マラソンの選考基準は「各選考会の上位選手から本大会で活躍が期待される競技者」としか規定されていないのだそうです。「基準」であるにもかかわらず、選ばれる者と選ばれない者の線引きを示す文言が1つも入っていないというのが信じられないのですが、なかでも問題なのは「活躍が期待される」という部分でしょう。
このような「期待値」で選考するというのは、私からみればまったくのナンセンスです。誰にどのくらい期待するかなどというのはきわめて主観的なものであり、できるだけ客観的であるべき「基準」にはそぐわないものです。もちろん、誰もが文句なしに期待する選手というものはいるでしょう。ですが、2番目・3番目に期待する選手までもが満場一致するなどということは、常識的にみて考えられません。ですから、毎回のように「最後の一枠」を巡ってわだかまりが残ってしまいます。
基準が明確でないことは、先にも述べたとおり選手にとっても大きなマイナスとなります。選考会を前に基準をクリアして代表選出が決定していれば、その選手は以降余計な不安を抱えずに練習に邁進することができますし、五輪へ向けた調整として種々の大会への出場をはかることができます。選考会の日まで悶々としながら練習するよりずっと有益でしょう。
実際、以前からあった基準明確化の要求は、今回の川内選手の一件があってかさらに強くなっているようです。そのなかでよく耳にするものが、「一発選考で決めれば良いではないか」というものです。たしかに、一発勝負よーいドンで先着順に決めてしまうのが、もっとも単純明快かつ公平なものといえるかもしれません。実社会でも、学校の試験や就職試験は一発勝負(複数次試験がある場合でも、その都度の一発勝負の繰り返し)です。
しかし、受験や就職で経験された方も多いと思いますが、一発勝負ではその日に体調を崩すなどして実力を発揮できなければ一発アウトになってしまうという問題もあります。体調管理も含めて実力だといわれてしまえばそれまでですが、人間にとって一発選考というのは、やはり公平性という面からみて不完全といわざるをえません。会社だって学校だって、できることなら全員を何度も何度も試験して実力を見極めたいところでしょう。多人数から中小人数を絞らなければならないという場合に限っては、一発選考が有効かつ功利的な選考方法となります。
これに対し、代表選手選考は少人数からさらに少人数を絞る選考です。少人数での勝負というものは、たとえば剣道では3本勝負を採っているように、複数回の試合が可能です。であれば、複数回選考機会があった方が、公平性はより担保できます。ただし、もちろん選考基準が明確であればの話です。仮に、代表選手を3人選ぶとすれば、3つの選考大会のそれぞれの優勝者(1つ目の優勝者が2つ目でも優勝した時には次点の選手)とするのがもっとも単純でしょう。順位だけでなくタイムも重要だというのであれば、大会順位とタイムの全体順位をそれぞれサッカーの勝ち点のように数値化して合計点を競うなどすれば良いと思われます。
要するに基準が客観的であること、すなわち誰が見ても明瞭な線引きによって選出・不選出が決定されていることが大前提でなければなりません。期待なんてものは、良い意味でも悪い意味でも往々にして裏切られるものです。川内選手だって藤原新選手だって、もとは誰も「期待」していなかったところから飛び出してきたことで一躍時の人となったのではありませんか。代表に選出された山本亮選手も、選出理由となったびわ湖マラソンでは「まったく注目していませんでした」と実況されていたのを覚えています。
こうした、あやふやな選考基準によって代表が選出されている競技は、何もマラソンに限ったものではないように思います。なかには、期待値と話題性を取り違えているように感じるものもあります。人間のさまざまな思惑で選考したところで、そう期待通りに事は運ぶものではなく、本番でどう転ぶかなど分かりません。ですから、せめて選考の段階ではきちんとした基準で線引きしてもらった方が選手としても世間としても割り切って気持ちを切り替えることができると思うのですが、五輪を取り巻く人間の環境というのもなかなか「期待」どおりには行かないもののようです。