塵埃日記

つれづれなるままに、日々のよしなしごとなど。

国技の品格:相撲社会の閉鎖性と無教養

2007年10月09日 | 社会考
  
 本当は元時津風親方が逮捕されたら書こうと思っていたのですが、なかなか捕まらないので、協会の解雇を受けて書いてしまうことにしました。

 時津風部屋での事件についての感想としては、稽古と私刑の区別もつかないような人間が指導者を名乗っていることに、ただただ怒りを覚えるばかりです。亡くなった力士と、ご両親の無念は察して余りあります。おそらくは、その死が無駄にされないことを願うよりほかないのではないかと考えると、耐えざる思いに駆られます。

 しかし、相撲協会の反応は、真実を知りたいという遺族の切な思いとは明らかに逆行しているように思われます。政府からも真相の究明、再発の防止を強く求められていながら、その双方とも第三者を交えず、協会の人間だけで話を進めようとしている。そして元親方と兄弟子の証言が食い違っているまま、つまり根本的な部分で真相が明らかになっていないにもかかわらず、元親方の処分だけがさっさと済まされてしまった。

 これでは、事態の沈静化ばかりを気にしてうやむやに終わらせようとしていると非難されても仕方がありません。結局、朝青龍問題のときから何も変わっていない、学んでいないのだろう。とかく近視野的にしか動いていない。

 だが今回は朝青龍の問題とは次元が違う。事は所属力士に対するリンチ死であって、あまつさえ部屋の親方がそれを指示したとされている。協会は「把握していなかった」では済まされない。管理者としてこれ以上ない危機感で望まねばならない事態だ。

 そもそも、何故リンチとしか言いようのない暴力が「稽古」として日常的に行われる環境が出来たのか。これを考えると、システムとして固定化された相撲という世界の問題が浮かび上がってくるように思う。

 一般的に、力士を目指す人は中学卒業と同時に、あるいは遅くとも高校中退ぐらいで部屋の門をくぐる。その後は、もちろん外に出ないというわけではないが、多くの制約を受けながら、相撲という特殊な社会で青年期の身を処すことになる。つまり、非常に閉鎖的な社会で人格形成がされるということである。

 多様性のない閉鎖的な社会、すなわち単一の秩序しかないところで育てば、通常人は自分がされたようにしか後人に接することは出来なくなる。父親と同じ道しか許されなかった古い家父長制社会を引きずったような相撲社会では、自分が親方にされたようにしか弟子に対せない力士が多いと考えてもおかしくはない。つまり、良き悪しきにかかわらず一度習慣として定着すれば、それは「伝統」として連綿と受け継がれてしまう可能性を最初から孕んでいるといえる。
 
 また、力士個人の教養も大きな問題だと思う。協会理事長だろうが名門親方だろうが、頭と心はほとんど中学生程度のまま、ともすれば「体は大人、頭脳は子供」のまま今の地位と財を築いた人たちではないだろうか。野球でさえ、プロとして採用するのは高卒以上である。中卒で社会勉強もしないままの人だけで構成される相撲世界に、一体どれだけの自制を期待できるだろうか。もし中学生の野球チームで先輩がバットで後輩を殴っても、大人が誰も監視していなければ、それが「伝統」として慣習化したところで何ら不思議ではない。

 その好例が、つい先日の武蔵川部屋での一件ではないだろうか。僕はこのニュースを聞いたとき、山分親方の仕置きより何より「30歳にもなってちゃんこ番やってるなんて一体どんな奴だ」というところが気になった。案の定このちゃんこ番の男性は、新入りをいじめては嫌われていたらしい。親方は彼を懲罰したというのが真相のようだ。いじめなどどこでもあるといわれればその通りだが、僕はやはりこの一件も、相撲という社会に閉じこもっていれば何歳になってもおっきな子供でしかないということの証左であるように思う。

 もちろん親方の行為は褒められたものではない。今や暴力で物事を糺すこと自体が、受け入れられる時代ではない。ただいずれにせよ一連の事件は、相撲社会全体の自制と監視が行き届いていれば、そもそも起こることはなかった。

 僕は教養と礼節は不可分だと思っています。教養ある人物が礼儀、作法や心構えを絶えず指導していかない限り、国技だ何だと騒いだところで崇高な精神など浸透するはずがない。あるいは力士自身に高度な教育が施されていなければ、それを理解することはできない。

 伝統を守ることと閉鎖的であることは、全く別である。むしろ閉じこもっていなければ守れない伝統など単なる悪習だと思っています。相撲協会の改革について、既に方々から様々な要望と意見が出されていますが、まずは相撲社会全体をオープンにし各力士への高等教育の道を開くことが肝要ではないかと考えます。