塵埃日記

つれづれなるままに、日々のよしなしごとなど。

国技の品格②:「稽古」の精神

2007年10月18日 | 社会考
   
 しばらく忙しくて、また大分時間が空いてしまいました。一応前回の続きですが、これだけ間が開いたというのに、全く進展がないように思えて警察も行政も何をやっているんだろうという苛立ちでいっぱいです。

 さて今回は、ガラッと趣向を変えて「そもそも稽古とは何か」という点から観念的に考えて見たいと思います。

 この稽古という言葉、字面だけ見ると分かりにくい熟語ですが、その意は古(いにしえ)を稽(かんがえる)ということだそうです。つまり、先人の境地に思いを致し、自分の修養を高めることを指しています。「稽古をつける」といえば、今では単に練習相手になってやる程度に使われるのでしょうが、本来は自分一人では確かめにくいことを、他人の手を借りて行うことを意味するものだと考えられます。いずれにせよ、稽古とは基本的に個人が自己の研鑽のために、自発的に行うものである。

 そう考えると、「稽古」は「道」に近い概念であると思う。そして両者とも、やはり僕は日本独特の思想であると思う。もちろん同じ儒教という規範をもつ中国や朝鮮にも同様の概念はあるだろう。しかし、日本古来の神道思想(たとえばアニミズム)と、儒教思想や禅思想が混ざり合うことで、大陸にはない日本独自の思想体系が生まれたのだと考えている。

 「道」に身をおく者は、決して辿り着くことのない究極、あるいは完全に少しでも近づこうと終わりのない修練を続ける。終着点は、見えることはあっても辿り着くことはない。そのような「道」を求め実践する形の一つとしてあるのが「稽古」なのではないだろうか。

 僕はいま居合道を習っている。居合いというとマンガなどでは剣閃も見えない抜刀術として描かれるが、実際には一言でいえば実践剣術と考えていただきたい。模造刀を使って最も無駄なく迅速に敵を制し、それでいて敵にも刀にも礼を尽くす動きを目指して型を演舞するものだ。居合道の稽古は、まさに本来の意味の「稽古」に近いと思う。何せ模造刀とはいえ実際に人に切りつけるわけにはいかない。自然敵に対している自分を想定しつつ、完全な型を目指して一人葛藤を続ける。

 居合をはじめる動機は様々だが、緊張と集中を求めてだったり刀に惚れ込むあまりだったり、単に運動不足解消だったり刀を振り回してみたいだけだったりする。ただし、僕の見るところやはり後者の目的に留まっている人は、ある程度以上に昇進することはないように思う。

 本来日本では、剣道にしろ柔道にしろそして相撲道にしろ、強いだけでは地位を得ることはできなかった。強さに溺れず、自らを律して常に道の上に身をおく人間こそが敬意の対象であった。単に強いだけなら、実戦に明け暮れるそこらのチンピラのほうが強いだろうとは、よく言われる話である。日本の国技が国技たる所以は、まさにこの点にあるのではないだろうか。

 柔道は、国際化と同時に日本の国技からは脱落した。ワールドワイドの競技として、普遍性と分かりやすさを求められるまま、見分けが付きやすいよう柔道着を二色に分け、ポイント制にし、国際柔道連盟から完全に日本人が消えた。柔道ははやヨーロッパ色に染め替えられつつある。僕の知り合いによれば、剣道も骨抜きにされつつあるという。一度国際化が進むと、自己の研鑽云々よりも白黒はっきり付けることの方が重要となる。自然日本の独自色は薄めていかなくてはならなくなる。

 相撲道の堕落は、前回の記事の通り上記の問題とは全く別物である。むしろ相撲は閉鎖的に過ぎたのが問題であり、柔道や剣道は無思慮にオープンにしたことで世界に呑まれてしまったのだから、両者は正反対の失敗といえる。しかし問題の根底にあるのは、国技として本当に死守しなければならないものは何なのかを見誤っていたという点で同じなのではないだろうか。それをわきまえていれば、頑なに旧弊ごと殻に閉じこもる必要も、いざ国際化したとて呑まれてしまうこともないはずだ。

 日本の国技とは口にするのは簡単だが、その守るべき一線は何なのか。この機会に今一度考えてみる必要があるだろう。