

神はその国々の国民性を大切にしておられる。農耕民族である日本の『水の文化』に対し、遊牧民族であるイスラエルは『血の文化』である。彼らは血に命が宿っていると考え、食事を共にすることは、同じ血で結ばれた同胞関係であることを示す行為である。従って、血による贖い、契約の血というのはユダヤ人にとっては生活に根ざした概念であり、彼らの歴史・文化の土台となっている。
その価値観は、創世記3-4章の出来事から発生している。アベルとカインの話に注目してみよう。カインは地の産物を神に奉げ、アベルは羊の初子を奉げた。(当時肉食は存在しない)すると神は、アベルの供え物を顧みられたが、カインと供え物は顧みられなかった。それでカインは怒りのあまり、弟のアベルを殺してしまう。一見、意味不明なこの創世記の事件に、人間にとっての『救いの根拠』が、明確に記されている。
カインは決して、二番煎じの奉げものをしたわけではない。そうであれば、彼は弟を殺してしまうほど怒りはしなかったはずである。彼が殺人にまでに至った理由は、自分の行いが神に拒否されてしまったことによる失望と嫉妬の故である。カインは必死に自分の努力によって救いを得ようとした。だが、もし人が努力によって救われるのであれば、どこに救いの基準を置くべきなのか?また、その救いの基準を置いた途端、そこまで到達出来ない者は皆、滅んでしまうことになる。
だから神は、たとえ力がなくても、たとえ知恵がなくても、たとえ病んでいても、ただキリストの十字架を仰ぐ者を全て救うことにされたのである。カインは『自己義認』、アベルは『信仰義認』のモデル。犠牲による救いの原型は、エデンの園を追われたアダムとイブを守るために、神が動物の犠牲によって与えられた皮の衣であり(3:21)、アベルが奉げた羊の初子は(4:4)、私達のために十字架に架かられたイエス・キリストの予表である。
ノアは新天地で一番最初に祭壇を築き(8:20)、アブラハムは旅の先々で最初に祭壇を築いた(12:7、13:8、22:8-9)。しかし、一箇所だけアブラハムが祭壇を築かなかった場所があった。そして彼はそこで問題を起こしてしまったのである。(12:10-20)この祭壇を築くという行為は、神の怒りを宥め、罪の贖いをし、神と和解するという意味であり、この行為を経てはじめて、人生に祝福が与えられることを彼らは知っていた。
エジプトでファラオに次いでNo2の地位にいたはずのヨセフの子孫達が、400年の間に奴隷になってしまったのは、彼らが祭壇を築くことを忘れてしまっていたからである。だからモーセは出エジプトを果たした後の荒野で最初に祭壇を築いたのである。(出17:15)神に祭壇を築かない(礼拝をしない)者は皆、サタンの奴隷になってしまうのだ。以下、旧約の聖徒達が祭壇を築いた箇所である。
















モーセが神に祭壇を奉げることによる救いの契約の締結を行った時、(出24章)天国の存在が未だ啓示されていないはずの旧約の時代に、黙示録4章6節に登場する天上での礼拝が瞬間現れ、モーセたちは天上での礼拝に参加した。この天上礼拝に至らせたモーセの契約を包括し、全人類のために完璧に備えられた救いの祭壇こそ、イエス•キリストの十字架の血による新しい契約である。
イエス・キリストが、全人類の罪の身代わりとなって、十字架上で死んでくださったことにより、神の怒りが宥められ、私達はサタンの奴隷から贖なわれ、神と人とが完全に和解することが出来た。故に、私たちはこのイエス・キリストを通して、創造主である神の元へ帰ることが出来るようになったのである。






この地上における人間のあらゆる営みの中で、最も尊く、最も価値があり、最も崇高な行為。それは神への礼拝である。私達クリスチャンは、「都合が悪い」、「子供の食具合が悪い」から礼拝に行かないのではなく、だからこそ、礼拝をすべきである。それが私達の『人生の祝福の源』だからである。
この世でどんなことが起きようとも、イエスがお生まれになった時から今日に至るまで、天上では礼拝がずっと礼拝が続けられている!つまり、現世においても、来世においても、輝ける勝利は既に神と私達の元にあるのだ。ハレルヤ
