Good News Report

Good News Station の活動模様をお伝えしています。

Awakening House Church (7/19/12) 黙示録4-5章 天上での礼拝

2012年07月26日 | Good News
祭壇にある救いの根拠

血を流すことなしには罪の赦しはあり得ないのです。(ヘブル9:22)

 神はその国々の国民性を大切にしておられる。農耕民族である日本の『水の文化』に対し、遊牧民族であるイスラエルは『血の文化』である。彼らは血に命が宿っていると考え、食事を共にすることは、同じ血で結ばれた同胞関係であることを示す行為である。従って、血による贖い、契約の血というのはユダヤ人にとっては生活に根ざした概念であり、彼らの歴史・文化の土台となっている。

 その価値観は、創世記3-4章の出来事から発生している。アベルとカインの話に注目してみよう。カインは地の産物を神に奉げ、アベルは羊の初子を奉げた。(当時肉食は存在しない)すると神は、アベルの供え物を顧みられたが、カインと供え物は顧みられなかった。それでカインは怒りのあまり、弟のアベルを殺してしまう。一見、意味不明なこの創世記の事件に、人間にとっての『救いの根拠』が、明確に記されている。

 カインは決して、二番煎じの奉げものをしたわけではない。そうであれば、彼は弟を殺してしまうほど怒りはしなかったはずである。彼が殺人にまでに至った理由は、自分の行いが神に拒否されてしまったことによる失望と嫉妬の故である。カインは必死に自分の努力によって救いを得ようとした。だが、もし人が努力によって救われるのであれば、どこに救いの基準を置くべきなのか?また、その救いの基準を置いた途端、そこまで到達出来ない者は皆、滅んでしまうことになる。

 だから神は、たとえ力がなくても、たとえ知恵がなくても、たとえ病んでいても、ただキリストの十字架を仰ぐ者を全て救うことにされたのである。カインは『自己義認』、アベルは『信仰義認』のモデル。犠牲による救いの原型は、エデンの園を追われたアダムとイブを守るために、神が動物の犠牲によって与えられた皮の衣であり(3:21)、アベルが奉げた羊の初子は(4:4)、私達のために十字架に架かられたイエス・キリストの予表である。

 ノアは新天地で一番最初に祭壇を築き(8:20)、アブラハムは旅の先々で最初に祭壇を築いた(12:7、13:8、22:8-9)。しかし、一箇所だけアブラハムが祭壇を築かなかった場所があった。そして彼はそこで問題を起こしてしまったのである。(12:10-20)この祭壇を築くという行為は、神の怒りを宥め、罪の贖いをし、神と和解するという意味であり、この行為を経てはじめて、人生に祝福が与えられることを彼らは知っていた。

 エジプトでファラオに次いでNo2の地位にいたはずのヨセフの子孫達が、400年の間に奴隷になってしまったのは、彼らが祭壇を築くことを忘れてしまっていたからである。だからモーセは出エジプトを果たした後の荒野で最初に祭壇を築いたのである。(出17:15)神に祭壇を築かない(礼拝をしない)者は皆、サタンの奴隷になってしまうのだ。以下、旧約の聖徒達が祭壇を築いた箇所である。

イサク(26:25)
ヤコブ(33:20)
ヨシュア(8:30)
ギデオン(6:24)
マノア(13:19)
イスラエルの民(21:4)
サムエル(上7:17)
ダビデ(下24:18、25)
ソロモン(列上3:4)
ヨシア(歴下35:16)
イエシュア、ゼルバベル(エズラ3:2-3)
ネヘミア(10:34)
イザヤ(56:7、60:7)
アモス(9:1)
マラキ(1:7、2:13)


現代の祭壇

 モーセが神に祭壇を奉げることによる救いの契約の締結を行った時、(出24章)天国の存在が未だ啓示されていないはずの旧約の時代に、黙示録4章6節に登場する天上での礼拝が瞬間現れ、モーセたちは天上での礼拝に参加した。この天上礼拝に至らせたモーセの契約を包括し、全人類のために完璧に備えられた救いの祭壇こそ、イエス•キリストの十字架の血による新しい契約である。

 イエス・キリストが、全人類の罪の身代わりとなって、十字架上で死んでくださったことにより、神の怒りが宥められ、私達はサタンの奴隷から贖なわれ、神と人とが完全に和解することが出来た。故に、私たちはこのイエス・キリストを通して、創造主である神の元へ帰ることが出来るようになったのである。

傷や汚れのないキリストの尊い地によるのです。(Iペテロ1:19)

御子イエスの血によって、あらゆる罪から清められます。(Iヨハネ1:7)

キリストの血によって近い物となったのです。(エペソ2:13)

更に大きく、更に完全な幕屋を通り、雄山羊と若い雄牛の血によらないで、御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです。(ヘブル9:11-12)

キリストの血は、私達の良心を死んだものから清めて、生ける神を礼拝するようにさせないでしょうか?(ヘブル9:14)

自分の身体を神に喜ばれる聖なる生ける生贄として献げなさい。これこそ、あなた方が成すべき礼拝です。(ローマ12:1)

 この地上における人間のあらゆる営みの中で、最も尊く、最も価値があり、最も崇高な行為。それは神への礼拝である。私達クリスチャンは、「都合が悪い」、「子供の食具合が悪い」から礼拝に行かないのではなく、だからこそ、礼拝をすべきである。それが私達の『人生の祝福の源』だからである。

 この世でどんなことが起きようとも、イエスがお生まれになった時から今日に至るまで、天上では礼拝がずっと礼拝が続けられている!つまり、現世においても、来世においても、輝ける勝利は既に神と私達の元にあるのだ。ハレルヤ


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Awakening House Church

2012年07月26日 | Good News
 AHC Awakening House Church

 今、多くの教会は、教会の枝となって懸命に奉仕している人達は全体の二割。その他はお客さんの状態です。

 しかし、それは主が望んでおられる教会の姿ではありません。

 教会とは、この世の権威や価値観の管轄外にある神の国の領事館です。

 そこは、互いに祈り合い、信頼し合い、助け合える関係で成り立っています。

 その調和と霊的一致は、互いの賜物を引き出すことによってはじめて生まれます。
 

 そして、御言葉の理解と信仰の成長は、ほぼ比例すると言って良いでしょう。

 何故なら、主と私達との関係は御言葉によって結ばれ、その言葉を正しく理解することは、成長の為に必要不可欠だからです。

 神の御心を深く知ること、真理を新たに発見することによって生まれる感動は、この世が与える喜びとは全く異質のものです。

 このような霊的交わりと学びの場が、クリスチャンライフの中心となっていなければなりません。

 
 日本のリバイバル(霊的戦い)の先頭には、主が立たれます。

 しかし、戦士が整えられなければ主はリバイバルを起こすことが出来ません。

 従って、霊の戦士である私達に課せられていることは、一人一人が戦死として整えられること。

 大教会をつくることでも、大きなイベントを企画することでもありません。

 今、日本に必要なのは、『家の教会』であり、福音を人々に語ることが出来る『万人祭司』です。

 事実、それが日本には決定的に欠けており、そこを通過して日本でリバイバルが実現することはありません。
 

 私達には一人一人、主から与えられた使命があります。

 その使命を遂行する方法は違っていても、その究極的な目的は一つだけ。

 それは、一人でも多くの魂の救いです。

 真理を発見した喜び、人が救われた喜び、そして天で主と共にいる喜び。

 これ以上に人生を賭ける価値のあるものがあるでしょうか?

 どうか、日本のリバイバルのために立ち上がってください。

 AHCの発展が、日本のリバイバルに小さな一歩を踏み出すことになるのです。

 共に主の御心を実践して行きましょう! (田中啓介牧師)




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