今やこのキリストを通して和解させていただいたからです。(ローマ5:11)
人は、神がいるのなら何故、この世の悪を放置されているのか?と問う。
確かに神は、エデンの園事件の時、悪を滅ぼすことが出来た。だが、悪を滅ぼせば、同時に人をも滅ぼさなければならなかった。神は愛の対象として創造した人間が、そのまま滅びる事をどうしてもよしとされなかったのである。
そこで神は、愛する一人子イエス・キリストをこの世に送り、人間に執行猶予を与えられた。
従って私達は、生きている間にそのまま悪魔に付くか、神の元に帰るかを決断しなければならない。つまり、私達人間は、この世では保釈中の身の上なのである。(メッセージより抜粋)
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人は、神がいるのなら何故、この世の悪を放置されているのか?と問う。
確かに神は、エデンの園事件の時、悪を滅ぼすことが出来た。だが、悪を滅ぼせば、同時に人をも滅ぼさなければならなかった。神は愛の対象として創造した人間が、そのまま滅びる事をどうしてもよしとされなかったのである。
そこで神は、愛する一人子イエス・キリストをこの世に送り、人間に執行猶予を与えられた。
従って私達は、生きている間にそのまま悪魔に付くか、神の元に帰るかを決断しなければならない。つまり、私達人間は、この世では保釈中の身の上なのである。(メッセージより抜粋)
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1)贖い
2)なだめ
3)和解
1)は、私たちの罪のために私たちが命を差し出さなければならないはずが、イエス様が代わりにご自分の命を差し出してくださり、私たちの罪が赦されたこと、それが、贖いです。
2)は、神様は、愛のお方であると同時に聖なる方であるため、罪を容認されません。イエス様の十字架によって、神様の人間に対する罪への怒りがなだめられました。
3)罪を持っていた人間は、神様と関係を持つことができませんでした。しかし、イエス様の十字架によって、人間は再び、神様が人間を創造された時の関係を修復、つまり、神様と和解することができました。
イエス様は、この3つの業を全人類のためになしてくださいました。
もう救いは、完了しました。
私たちはそれを受け取るか、受け取らないかだけです。
この世の人々は、執行猶予期間。
クリスチャンは、日々、救いの自覚を持って生活しているか?
私たちは、神様に問う存在ではなく、問われる存在だと言うことを忘れてならないと思わされました。
十字架の御業の2つ目が“宥めの供え物”。罪に対して神様は耐えられないほど聖く、正しく、義に満ちておられるお方。一方私たちは、罪を知っているにも係らず、罪への甘さ、罪を大目に見てしまう。神様の罪の赦しのレベルと、私たちの許しのレベルが全く違うと言う事を思いました。
イエス様という、義と聖さで満ちた神の子が、罪に対する怒りの犠牲となってくださった。泥水どころではなく汚物を引き受けてくださった。そして、私たちは完全に赦された。
赦された私たちは、そこで赦されるという事を知り、神様の愛がとんでもなく大きなものであることに気が付く。赦された私たちは、そこではじめて人を許す事が出来るようになるのだと思います。
そして、十字架の御業の3つ目、“神との和解”。神が謙遜の限りを尽くして、宥めの供え物となってくださり、神様が自ら、私たちに和解の手を差しのばしてくださっている。良い王様が出された手を振り払うような国民がいるだろうか!?イエス様の手を振り払うことなど私には到底できないのです。
神様との和解、これこそ私たちが本当に自由になること。健康になること。どんな状況の中でも主をほめたたえ、喜んでいることができる理由だと思いました。ただ、信じるだけ。この喜びがまだイエス様を知らないノンクリスチャンの人々の心を照らす光となると信じます。とても感謝な時間でした。
神様は100%聖く、正しいお方だから、罪を寛容に受け入れられた訳ではなく、イエス様が十字架上で流された血によって、私達の罪を受け入れて下さったのである。イエス様が私達の身代わりとなって、罪に対する罰を受けた事で、神様の罪に対する怒りが宥められた。そして、神様は私達に手を差し伸べて、神様の方から「和解をしよう」と言ってくださっているの。 本来なら、私達の方から「神様、赦してください!!と頼み見込むべきなのに、神様の方から、「あなたを赦してあげるから帰っておいで!」と言ってくださっているのである。こんな神様は、他にはいない!
イエス様の十字架による“贖い”、“宥め”、“和解”を感謝し、神様が伸ばして下さった手をしっかりと握りしめ、もう二度と離れないようにしなければ!と、改めて強く思わされた。
理解→感情→行動
1)贖いー旧約聖書では自分の罪の贖いの為、動物犠牲を捧げていた。
ローマ3章ー十字架により神の前で義とされる
ヘブル9:22 また、血を注ぎ出す事が無ければ罪の赦しは無いのです。
ヘブル12:4罪に対して自覚が無い私達に罪と戦って勝利された。
ヘブル12:2、3
神様が憐れみ深いのは愛するイエス様を送った事、罪に対する神の怒りが慰められ宥められたのでどんな罪人も受け入れる様になった。(私達が天国に行ける根拠)
第1ヨハネ2章、4章ー私達が神を愛したのでは無く私達の罪の為に宥めの供え物として御子を遣わされました。ここに愛があるのです。
2)宥め ローマ5:8-11 (福音の核)
3)和解 神と人間との和解- 第2コリント5:19、20
第1段階ー神様から一方的に私達に救いの手を差し伸べた十字架の救い(福音)
第2段階ー神様から差し伸べられた救いを受け取る
パウロは人々に懇願して宣べ伝えた。人間と神との間に敵対してはならない。(今の世界は人間に特別な執行猶予を与えている)
私が人々に伝える事はーイエス様をどうするのか?
信じなさい!
十字架上で成された3つの業で神が私達の罪の為、宥めの供え物としての御子を遣わされた。神様の人格をもっと深め知る事が出来ました。私も人に懇願してイエス様を伝える時が来ると思います。信じます。
感謝して Yuko
2、なだめ:チェックポイント! 私たちが正しい神観を持っていること。神の国には罪がない。神様は清いお方、一点の曇りもない清さ。だからこそ神の国は天国。私たちが罪を薄めても、軽くしても天国に入ることはできない。神と共に住むことはできない。しかし、神様は愛の対象として創造された人間をどうしても助けるために、ご自分のひとり子イエス様をおくってくださった。
神様は愛なるお方。義なるお方である。罪に対しては徹底して嫌われた。この神様は、私たちを愛しているから、哀れみ深いお方だから私たちを赦されたのではない。罪に対する怒りをなだめる供物としてイエス様を犠牲にすることを選んだお方。イエス様が犠牲となったことによって、罪への怒りがなだめられた。それは罪に対する徹底して厳しい処置だった。(半端ない落し前のつけ方:エンジェル師風)フリーズしました。
罪の全くないイエス様がこの怒りを一身に受けられた真実。『この方こそ、わたしたちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえです。1ヨハネ2:2』
3、和解: 1)神様の方から一方的に手を差し伸べておられる ーー→全ての方に与えられている (十字架の福音)
2)神様からの差し出された手(救いの手)を受け取る(信じる)。
罪の問題をどうするのか。私たちはイエス様を信じることしか方法がない。ならば伝道は、イエス様を信じる決断まで迫ること。
メッセージ冒頭で「この教会に行きた~~い!」と思わせる教会がどれくらいあるだろうか、という問題提起があった。患者は急増、病気に気がついてこちらに来てくれる人もいれば、全く気がつかず近寄らない人も多い今。教会の中でも外でも、イエス様の手を受け取った私たちは、癒しの方法を伝えるべく歩いていきたい。ここはイエスキリストの教会。主の御名が賛美でこだまする。祈りの中で奇跡が起こり、癒しが起こり、キリストに仕える者たちの群れが育てられる。だからこそ、主の教会のご用にためにまさに私世代、『おばちゃんパワー』が用いられることを信じます。
⑵なだめ
⑶和解
⑵なだめ
「なだめ」について理解するには、正しい神観が必要。“…憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち、幾千代にも及ぶ慈しみを守り、罪と背きと過ちを赦す。しかし罰すべき者を罰せずにはおかず、父の罪を、子、孫に三代、四代までも問う者。”出エジ34:6~7
神様は完全で聖く、義なるお方であるから、罪や汚れ不純物を一切受け入れられない。故に、罪の性質を持つ人間が、そのまま神の御前に出ることはできない。よって常になだめの供えものである動物犠牲が必要であった。これは十字架のひな型でもある。
神の怒りをなだめるために、罪のないイエス・キリストが十字架にかかるというプロセスを経ることのみにより、人類は神の前で義とされる。
“人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。”ロマ3:23~25
“血を流すことなしには罪の赦しはありえないのです。”ヘブル 9:22
“『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主
は言われる”ロマ 12:19
“信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら.…あなたがたはまだ、罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません。”ヘブル 12:2~4
神が罪を赦されたのは、神が罪に対して憐れみ深く寛大だったからではない!〈神は罪を受け入れられない〉神が憐れみ深いのは、愛する一人子イエス・キリストを犠牲にされたことによる。
罪のないイエス様が私達の身代わりに十字架で犠牲となり、罪に対する神の怒りをなぐさめ、なだめられた。= “神の義の要求が、完全なる十字架の業によって満たされた!故に、どんな罪人もイエスの名によって神に受け入れられることとなった。
1ヨハ2:2、4:10
これにより、人類は何1つよいことができなくてもただ十字架を見上げ、十字架の救いを心から受け取ることによって救われる。
⑶和解
”…御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです.…今やこのキリストを通して和解させていただいたからです。ロマ 5:8-11
“…神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。 ですから.…キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい。2コリ 5:19-20
★和解の2段階★
①神から救いの手を差し伸べてくださっている→人類全てへの、十字架による和解〈福音〉
②神からの救いの手を受け取る→十字架を受け取る
受け取らない=永遠の滅び
人への執行猶予期間である今、イエス様(神)につくか、サタンにつくか?
ヘンリー・ハーレイ『全ての人類にとって要請されている最も重要な決断はイエス・キリストに対する態度を心の底からはっきりさせることである』
C.S.ルイス『あなたは選択しなければならない。イエスが過去においても現在においても神の子であるか、それとも狂人あるいはそれよりも悪いものであるかどちらかである。』
イエス様は偉大な教師なのではなく『命』そのもの。
“罪をどうするか”ではなく“イエス様をどうするか!”が重要。
この終わりの時代に“イエス様をどうするか?”が人にとって緊急課題である。身近な人の病気による死。事故、地震、津波、そしてイースターに教会や高級ホテルを狙ったテロにより300人以上の方が一瞬に同時に命を落とす事件このようなことが現実となっている。一刻の猶予もないのである。
私達クリスチャンが躊躇してる暇はなく、とにかく福音を伝えなければ、滅びゆく魂、死に至る病を持つ人々が大勢いるのである。振り切った“おばちゃん”パワーでとにかく伝えて行こう!
目を上げ、十字架をいつも見上げ、歩む信仰者でありたい。このイースターで、改めて十字架についてのメッセージを学び、深く理解することができたことに感謝しています。十字架でなされた業の、重さ、深さ、神様の愛にただただ感動するばかりです。
感謝して
陽子