〇高槻泰郎『大坂堂島米市場(こめいちば):江戸幕府vs市場経済』(講談社現代新書) 講談社 2018.7
私は歴史は好きだが、経済は苦手だ。だから、こういう経済史の本を見ると、分からなかったらどうしよう…とかなり躊躇する。それでもパラパラ中をめくって、何とか行けそうだと判断して読み始めた。
江戸時代の諸大名は、年貢を米で徴収し、それを大坂に運んで現金に換えていた。大坂の米市は、豪商・淀屋辰五郎の店先に商人が集まり、自然発生的に始まったものと考えられている。ごく初期の段階(17世紀半ば)から、現金・商品ではなく手形で売買が行われた。米手形は実際に在庫されている米の量以上に発行することが可能で、諸大名が将来の収入を引き当てにして資金調達をする金融市場としても機能していた。その後、米手形(代銀の一部を支払った証書)に代わって、米切手(代銀を完納した証書)が盛んに取引されるようになった。
米と米切手の流れを具体的に追ってみよう。絵画資料『久留米藩蔵屋敷図屏風』(大阪歴史博物館に寄託)によれば、水運で大坂に運ばれてきた米俵は、検査、選別を経て蔵入りとなる。次に米仲買人による入札・売却が進められ、落札から10日以内に代銀を払うと米切手が発行された。ここまでは、商品と証券がセットになっているので私にも分かる。米切手と引き換えに直ちに米を受け取ることもできたが、多くの米切手は転売された。その転売市場が堂島米市場である。だから堂島米市場に米俵の影はない。いや、米切手さえ見えないのだという。
堂島米市場の主な取引には「正米(しょうまい)商い」と「帳合米(ちょうあいまい)商い」がある。正米商いは、現代でいうスポット市場で(私は分からなくて調べた)現金・現物(=米切手)の決済が原則だった。一方、帳合米商いは、現代でいう先物取引で、帳簿上で売りと買いを相殺する仕組みである。取引を始める時点で、現金も米切手も持っている必要がなく、売りと買いの価格差(差金)のみを授受することで完了する。少ない元手で参加することができるため、より多くの参加者を引き付けることができた。ううむ、経済オンチには難しいが、素朴な実体経済から遥かに進んだ金融市場であったことは分かる。江戸時代の商人たちと諸藩の財政を預かる武士たちが、こんな取引にしのぎを削っていたとは驚くばかり。
また、米切手には蔵屋敷が水火之難に遭ったときは蔵米への引き換えを拒めること(災害時の免責)が記載されていたとか、大坂の米価は飛脚や旗・伝書鳩等によって素早く全国に伝達されていたことや、取引終了の時刻が近づくと。火縄に火をつける習慣があったことなど、面白い話がたくさん載っている。なお、火縄に点火されてから消えるまでの間に1件も約定がなされない場合は、その日の取引を全て無効にする取りきめがあった。相場が上昇しすぎたり下落しすぎたとき、健全な価格形成を守る機能であったという。へええ賢い。
また、帳合米商いの取引の対象を立物米と言い、諸大名は立物米に選ばれようと競い合った。しかし、明治維新後、全国各地で産米品質が悪化したのは、品質プレミアム(高品質の商品を生産することで得られる利得)が農民のものではなく、大名のものだったことを示しているという考察は興味深い。
帳合米商いのように実物と結びつかない取引を「不実の商い」「天下御免の大博打」と呼んで批判する学者もいたが、江戸幕府は、当初、基本的に黙認の姿勢をとった。しかし「開発の17世紀」が終わり、18世紀(享保年間)に入ると、米供給量の増大に対して人口成長に歯止めがかかり、米価が他の物価に比べて相対的に下落傾向になった。米を換金して財政支出を賄っていた江戸幕府や諸大名にとって、米価の下落は歳入の目減りを意味した。そこで、江戸幕府は、米価を上げる(望ましい水準に調整する)ことに様々な努力を払った。なるほど。私は今の政府が「物価上昇」を目標とするのが腑に落ちないくらいの経済オンチだが、この説明はよく分かる。
18世紀中後期(田沼意次の時代)、財政悪化に悩んだ一部の大名は安易に米切手の発行を増やし、空米(からまい)切手問題から取り付け騒ぎが発生する。そこで幕府は宝暦11年(1761)に「空米切手停止令」を発した。これで在庫米量以上の米切手が根絶されたわけではないが、米切手と蔵米の交換が滞ったときは、この法令が「原則」としての効果が発揮する。
さらに幕府は、市場に出回る「危ない米切手」を回収してしまおうと考え、大坂の豪商・鴻池屋と加島屋に資金提供を依頼する。これは断られるが、かたちを変えた政策として、蔵米との交換が滞った米切手は公金で買い上げることを公布するに至った。これも政府が明確にコミットする(約束する)ことの波及効果をねらったものと言える。法令や政策というのは、100%達成されなくても一定の意味があるということを、面白く理解した。江戸幕府、なかなかしたたかである。このほかにも、手を変え品を変え、米の適正価格維持に取り組んでおり、江戸幕府が市場経済に疎いという評価は、少なくとも18世紀以降には当てはまらない、という著者の表明は非常に納得できた。
私は歴史は好きだが、経済は苦手だ。だから、こういう経済史の本を見ると、分からなかったらどうしよう…とかなり躊躇する。それでもパラパラ中をめくって、何とか行けそうだと判断して読み始めた。
江戸時代の諸大名は、年貢を米で徴収し、それを大坂に運んで現金に換えていた。大坂の米市は、豪商・淀屋辰五郎の店先に商人が集まり、自然発生的に始まったものと考えられている。ごく初期の段階(17世紀半ば)から、現金・商品ではなく手形で売買が行われた。米手形は実際に在庫されている米の量以上に発行することが可能で、諸大名が将来の収入を引き当てにして資金調達をする金融市場としても機能していた。その後、米手形(代銀の一部を支払った証書)に代わって、米切手(代銀を完納した証書)が盛んに取引されるようになった。
米と米切手の流れを具体的に追ってみよう。絵画資料『久留米藩蔵屋敷図屏風』(大阪歴史博物館に寄託)によれば、水運で大坂に運ばれてきた米俵は、検査、選別を経て蔵入りとなる。次に米仲買人による入札・売却が進められ、落札から10日以内に代銀を払うと米切手が発行された。ここまでは、商品と証券がセットになっているので私にも分かる。米切手と引き換えに直ちに米を受け取ることもできたが、多くの米切手は転売された。その転売市場が堂島米市場である。だから堂島米市場に米俵の影はない。いや、米切手さえ見えないのだという。
堂島米市場の主な取引には「正米(しょうまい)商い」と「帳合米(ちょうあいまい)商い」がある。正米商いは、現代でいうスポット市場で(私は分からなくて調べた)現金・現物(=米切手)の決済が原則だった。一方、帳合米商いは、現代でいう先物取引で、帳簿上で売りと買いを相殺する仕組みである。取引を始める時点で、現金も米切手も持っている必要がなく、売りと買いの価格差(差金)のみを授受することで完了する。少ない元手で参加することができるため、より多くの参加者を引き付けることができた。ううむ、経済オンチには難しいが、素朴な実体経済から遥かに進んだ金融市場であったことは分かる。江戸時代の商人たちと諸藩の財政を預かる武士たちが、こんな取引にしのぎを削っていたとは驚くばかり。
また、米切手には蔵屋敷が水火之難に遭ったときは蔵米への引き換えを拒めること(災害時の免責)が記載されていたとか、大坂の米価は飛脚や旗・伝書鳩等によって素早く全国に伝達されていたことや、取引終了の時刻が近づくと。火縄に火をつける習慣があったことなど、面白い話がたくさん載っている。なお、火縄に点火されてから消えるまでの間に1件も約定がなされない場合は、その日の取引を全て無効にする取りきめがあった。相場が上昇しすぎたり下落しすぎたとき、健全な価格形成を守る機能であったという。へええ賢い。
また、帳合米商いの取引の対象を立物米と言い、諸大名は立物米に選ばれようと競い合った。しかし、明治維新後、全国各地で産米品質が悪化したのは、品質プレミアム(高品質の商品を生産することで得られる利得)が農民のものではなく、大名のものだったことを示しているという考察は興味深い。
帳合米商いのように実物と結びつかない取引を「不実の商い」「天下御免の大博打」と呼んで批判する学者もいたが、江戸幕府は、当初、基本的に黙認の姿勢をとった。しかし「開発の17世紀」が終わり、18世紀(享保年間)に入ると、米供給量の増大に対して人口成長に歯止めがかかり、米価が他の物価に比べて相対的に下落傾向になった。米を換金して財政支出を賄っていた江戸幕府や諸大名にとって、米価の下落は歳入の目減りを意味した。そこで、江戸幕府は、米価を上げる(望ましい水準に調整する)ことに様々な努力を払った。なるほど。私は今の政府が「物価上昇」を目標とするのが腑に落ちないくらいの経済オンチだが、この説明はよく分かる。
18世紀中後期(田沼意次の時代)、財政悪化に悩んだ一部の大名は安易に米切手の発行を増やし、空米(からまい)切手問題から取り付け騒ぎが発生する。そこで幕府は宝暦11年(1761)に「空米切手停止令」を発した。これで在庫米量以上の米切手が根絶されたわけではないが、米切手と蔵米の交換が滞ったときは、この法令が「原則」としての効果が発揮する。
さらに幕府は、市場に出回る「危ない米切手」を回収してしまおうと考え、大坂の豪商・鴻池屋と加島屋に資金提供を依頼する。これは断られるが、かたちを変えた政策として、蔵米との交換が滞った米切手は公金で買い上げることを公布するに至った。これも政府が明確にコミットする(約束する)ことの波及効果をねらったものと言える。法令や政策というのは、100%達成されなくても一定の意味があるということを、面白く理解した。江戸幕府、なかなかしたたかである。このほかにも、手を変え品を変え、米の適正価格維持に取り組んでおり、江戸幕府が市場経済に疎いという評価は、少なくとも18世紀以降には当てはまらない、という著者の表明は非常に納得できた。