〇立石泰則『戦争体験と経営者』(岩波新書) 岩波書店 2018.7
著者は企業取材を始めて四十年になるというジャーナリスト。大手企業のトップから中小企業の創業者まで一千人を超える経営者の取材を通して、彼らには「戦争体験」の有無が決定的な影響を及ぼしていると感じるようになった。はじめに紹介するのは、西武の堤清二氏(1927-2013)とダイエーの中内功氏(1922-2005)である。
「西のダイエー、東の西武」と呼び称された二人の経営者は、全く対照的な生まれ育ちである。堤清二は西武グループの総帥・堤康次郎の二男として生まれた「お坊ちゃん」。兵役を避けるため、嫌いな理系の勉強をしていたが、二十歳直前に終戦を迎えた。その後、西武百貨店に入社し、文化戦略で百貨店のイメージを一新する。流通を中心に、観光、ホテル経営など事業を多角化し、「生活総合産業」を標榜する「セゾングループ」をつくり上げた。1970-80年代の「西武文化」を知る私には、なつかしい話ばかりだ。
中内功は大阪で小さな薬局を営む父のもとに生まれた。一兵卒として満州に派遣され、戦争末期のフィリピンに転戦し、ルソン島で飢餓と負傷、暗闇と「人肉食い」の噂に怯えながら敗走を続けた。復員後、父の薬局に身を寄せた中内は、医薬品や食料品を扱う「主婦の店ダイエー」を開店し、徹底した安売りで全国各地へ出店攻勢をかける。東京育ちの私は、残念ながら、この頃のダイエーになじみは薄い。
堤清二については辻井喬(堤清二の筆名)と上野千鶴子の『ポスト消費社会のゆくえ』(文春新書、2008)を、中内功については佐野眞一の『カリスマ:中内功とダイエーの「戦後」』(新潮文庫、2001)を読んでいたので、それほど新しい情報はなかったが、2017年2月に閉店した西武デパート筑波店が堤清二の発案だったというのを、元つくば住民として感慨深く読んだ。また、阪神淡路大震災でダイエーが果たした役割は、何度聞いても感動を通り越して鳥肌が立つ。中内の持論「スーパーはライフライン」というのが、単なるお題目でなく、命を賭けた覚悟だったことが分かる。「被災者のために灯りを消すな」「商品が揃わなくても店の灯りだけは点灯し続けろ」という号令が、「暗闇は人間に絶望感をもたらす」という戦争体験に基づくものだという説明には、ただただ唸った。
私が本書を読んでよかったと思ったのは、むしろ後半である。私の知らなかった二人の経営者が登場する。一人目は家電量販店ケーズデンキの創業者・加藤馨(1917-2016)。神奈川県の農家に生まれた加藤は、満州で暗号班長となり、通信隊員としてラバウルに赴く。戦後はラジオの修理を手がける電気屋を開業し、明朗会計と親身なサービスが喜ばれて、個人商店から株式会社へと成長した。面白いのは「がんばらない経営」という理念で、社員にはノルマを課さず、ペナルティを課さず、普通に働けば定年までに財産ができる会社を目指したという。業界トップになることよりも長く続く経営。いいなあ、こういう考え方。著者は加藤を「個人の尊厳と自由意思をどこまでも尊重した経営」という言葉で称えている。
次にワコール創業者の塚本幸一(1920-1998)。塚本は仙台の繊維卸商の家に生まれ、商人になることを志して、母の郷里・近江八幡の八幡商業に進学した。ここでのちに自分を支える二人の同級生、川口郁雄と中村伊一に出会う。二十歳で入営した塚本は、悪名高いインパール作戦に従軍し、壮絶な敗走を生きのびて復員。婦人アクセサリーを扱う「和江商事」(後のワコール)を立ち上げるが、慣れ親しんだ繊維製品を扱いたいと考え、婦人洋装下着の販売に商売替えする。塚本は「女性が生きることは美しくありたいという願いそのもの」と考えており、その願いを叶えることが塚本のビジネスの理念だった。ワコールは順調に業績を伸ばしたが、60年代初め、労使関係がこじれてストライキ寸前となった。塚本は、あるべき労使関係を考え抜いて「四つのビジョン」を提示する。この中には「遅刻早退私用外出のすべてを社員の自主精神に委ね、これを給料とも人事考課とも結びつけない」「労働組合の正式な文書による要求はこれを100パーセント自動的に受け入れる」という、驚くべき項目がある。さすがに読んでポカンとしてしまった。そして、塚本はこれを実践に移し、経営危機を乗り越えて「相互信頼の経営」をワコールの社是とするに至った。
ちなみに塚本にインスピレーションを与えたのは出光佐三で、出光興産には定年制も出勤簿もタイムカードもなく、人間尊重の経営を実践してきたという。これらは、おとぎ話にしか見えない。今の会社組織にこんな経営をリバイバルさせることを、私は断じて許したくない。しかし、戦争の悲惨さや理不尽さを体験した世代の何人かは、戦後、人間の喜びを実感できる社会や個人の尊重される組織を、本気でつくろうとしたのではないか、その志だけは覚えておきたいと思った。
著者は企業取材を始めて四十年になるというジャーナリスト。大手企業のトップから中小企業の創業者まで一千人を超える経営者の取材を通して、彼らには「戦争体験」の有無が決定的な影響を及ぼしていると感じるようになった。はじめに紹介するのは、西武の堤清二氏(1927-2013)とダイエーの中内功氏(1922-2005)である。
「西のダイエー、東の西武」と呼び称された二人の経営者は、全く対照的な生まれ育ちである。堤清二は西武グループの総帥・堤康次郎の二男として生まれた「お坊ちゃん」。兵役を避けるため、嫌いな理系の勉強をしていたが、二十歳直前に終戦を迎えた。その後、西武百貨店に入社し、文化戦略で百貨店のイメージを一新する。流通を中心に、観光、ホテル経営など事業を多角化し、「生活総合産業」を標榜する「セゾングループ」をつくり上げた。1970-80年代の「西武文化」を知る私には、なつかしい話ばかりだ。
中内功は大阪で小さな薬局を営む父のもとに生まれた。一兵卒として満州に派遣され、戦争末期のフィリピンに転戦し、ルソン島で飢餓と負傷、暗闇と「人肉食い」の噂に怯えながら敗走を続けた。復員後、父の薬局に身を寄せた中内は、医薬品や食料品を扱う「主婦の店ダイエー」を開店し、徹底した安売りで全国各地へ出店攻勢をかける。東京育ちの私は、残念ながら、この頃のダイエーになじみは薄い。
堤清二については辻井喬(堤清二の筆名)と上野千鶴子の『ポスト消費社会のゆくえ』(文春新書、2008)を、中内功については佐野眞一の『カリスマ:中内功とダイエーの「戦後」』(新潮文庫、2001)を読んでいたので、それほど新しい情報はなかったが、2017年2月に閉店した西武デパート筑波店が堤清二の発案だったというのを、元つくば住民として感慨深く読んだ。また、阪神淡路大震災でダイエーが果たした役割は、何度聞いても感動を通り越して鳥肌が立つ。中内の持論「スーパーはライフライン」というのが、単なるお題目でなく、命を賭けた覚悟だったことが分かる。「被災者のために灯りを消すな」「商品が揃わなくても店の灯りだけは点灯し続けろ」という号令が、「暗闇は人間に絶望感をもたらす」という戦争体験に基づくものだという説明には、ただただ唸った。
私が本書を読んでよかったと思ったのは、むしろ後半である。私の知らなかった二人の経営者が登場する。一人目は家電量販店ケーズデンキの創業者・加藤馨(1917-2016)。神奈川県の農家に生まれた加藤は、満州で暗号班長となり、通信隊員としてラバウルに赴く。戦後はラジオの修理を手がける電気屋を開業し、明朗会計と親身なサービスが喜ばれて、個人商店から株式会社へと成長した。面白いのは「がんばらない経営」という理念で、社員にはノルマを課さず、ペナルティを課さず、普通に働けば定年までに財産ができる会社を目指したという。業界トップになることよりも長く続く経営。いいなあ、こういう考え方。著者は加藤を「個人の尊厳と自由意思をどこまでも尊重した経営」という言葉で称えている。
次にワコール創業者の塚本幸一(1920-1998)。塚本は仙台の繊維卸商の家に生まれ、商人になることを志して、母の郷里・近江八幡の八幡商業に進学した。ここでのちに自分を支える二人の同級生、川口郁雄と中村伊一に出会う。二十歳で入営した塚本は、悪名高いインパール作戦に従軍し、壮絶な敗走を生きのびて復員。婦人アクセサリーを扱う「和江商事」(後のワコール)を立ち上げるが、慣れ親しんだ繊維製品を扱いたいと考え、婦人洋装下着の販売に商売替えする。塚本は「女性が生きることは美しくありたいという願いそのもの」と考えており、その願いを叶えることが塚本のビジネスの理念だった。ワコールは順調に業績を伸ばしたが、60年代初め、労使関係がこじれてストライキ寸前となった。塚本は、あるべき労使関係を考え抜いて「四つのビジョン」を提示する。この中には「遅刻早退私用外出のすべてを社員の自主精神に委ね、これを給料とも人事考課とも結びつけない」「労働組合の正式な文書による要求はこれを100パーセント自動的に受け入れる」という、驚くべき項目がある。さすがに読んでポカンとしてしまった。そして、塚本はこれを実践に移し、経営危機を乗り越えて「相互信頼の経営」をワコールの社是とするに至った。
ちなみに塚本にインスピレーションを与えたのは出光佐三で、出光興産には定年制も出勤簿もタイムカードもなく、人間尊重の経営を実践してきたという。これらは、おとぎ話にしか見えない。今の会社組織にこんな経営をリバイバルさせることを、私は断じて許したくない。しかし、戦争の悲惨さや理不尽さを体験した世代の何人かは、戦後、人間の喜びを実感できる社会や個人の尊重される組織を、本気でつくろうとしたのではないか、その志だけは覚えておきたいと思った。