見もの・読みもの日記

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20世紀の技術とその未来/戦争と農業(藤原辰史)

2018-01-03 22:18:16 | 読んだもの(書籍)
〇藤原辰史『戦争と農業』(インターナショナル新書) 集英社インターナショナル 2017.10

 あけましておめでとうございます。今年最初の記事だが、読み終わったのは年末。昨年10月に読んだ『トラクターの世界史』がめちゃくちゃ面白かったので、同じ著者の新書をもう1冊、読んでみた。本書は、著者が大学以外の場で市民を対象に話してきた内容を連続講義のかたちに構成しなおしたもの。はじめに「農業の技術から見た20世紀」を語り、次に「暴力=戦争の技術から見た20世紀」を語る。二つのフィールドにおける技術の進歩は無関係ではなく、実はきわめて相補的で、その結節点に「食/飢餓」の問題があることが示される。

 いろいろ興味深い話が頻出するのだが、『トラクターの世界史』を読んで期待していたような博引傍証はなく、やや性急に著者の主張が述べられていた。著者自身が「本書は(略)学術書ではありません」と断っているとおり、本書の成り立ちを考えれば仕方ないのだが、ちょっと拍子抜けしてしまった。

 印象的だった話を挙げていく。まず農業について、20世紀以降の農業を劇的に変えたのは「農業機械」と「化学肥料」と「農薬」と「品種改良」。ドラクターの導入によって牛馬が放逐されると、肥料となる糞尿が入手できなくなり、化学肥料が必要となる、というロジックは前著『トラクターの世界史』で理解したところ。日本で窒素肥料の生産を担ったのが、日本窒素肥料(チッソ)や新潟の昭和電工だった。石牟礼道子さんは、実家の畑で窒素肥料を使っていて、生肥とちがって腰を曲げずに撒けるので「いいものだ」と語っている。「わたしたちの暮らしのあらゆる場面が化学肥料的世界に組み込まれていく時代だった」という著者の言葉は難しい。国家と企業の不誠実さ、ずさんな調査やデータを隠した学者など、悪いものは悪い。その一方、安価で大量の化学肥料と、それによって実現される生活の便利さを欲した大衆の欲望は、無罪なのかどうなのか。

 戦争について。ターニングポイントは第一次世界大戦である。第一にきわめて破壊力の大きな武器(火器)が使われたこと。その結果、「戦友たちに囲まれ、最期の言葉を残し、息を引きとる」という「テレビドラマにあるような死に方」は少なく、首が飛び、手や足がもげ、バラバラになって死ぬ兵士が多かった。ううむ、真実の悲惨な光景はなかなか映像化できないので、21世紀になっても私たちは、戦死といえば「ドラマにあるような死に方」しか想像ができない。第二に「総力戦」が戦われたこと。総力戦では、兵隊だけでなく銃後の女性や子どもも殺さないと戦争に勝てない。そして生まれたのが無差別殺戮。一つは空襲であり、もう一つは経済封鎖すなわち兵糧攻めだった。ドイツでは76万人の餓死者が出たというのは初めて知った。

 そして、トラクターのキャタピラーから戦車が開発され、化学肥料は火薬産業と結びつく。逆なのは毒ガスで、第一次世界大戦後に大量に余った毒ガスの活路として、アメリカでは綿花畑の害虫駆除に用いられることになる。この民生技術と軍事技術の「デュアルユース」の問題は、今日の原子力にも引き継がれている。戦争に応用される技術は使うべきではない、というような単純な議論は、私も著者の言うとおり、無意味だと思う。ただ、私たちの生きている世界の仕組みの危険性を、つねに意識しておくことは無駄ではないと思う。

 後半は、食と飢餓について。対ソ戦においてナチスが実行した選民的飢餓計画はすさまじい。兵站を軽視した日本軍で、多くの兵士が餓死したことも広く知られるようになった。しかし「飢えない民の民主主義」というのは今なお実現していない、と著者はいう。飢えさせないためなら基本的人権を制限してもよい、という主張に反論することはできるのか、というのは難しい問題提起である。人はパンのみで生きるものでない。それでもパンは大事。だから著者は「幸福追求の中心には、食べものを据えるべき」という。私はこれに強く共感する。
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