見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

春日大社・国宝御本殿特別参拝、東大寺

2015-05-11 23:09:03 | 行ったもの(美術館・見仏)
○5/3(日)万葉植物園→春日大社・国宝御本殿特別参拝→東大寺→奈良国立博物館→奈良県立美術館→大和文華館→大阪・天王寺泊

春日大社

 朝イチで奈良博に行こうと思っていたのだが、早く目が覚めてしまったので、春日大社に藤を見に行く。まず万葉植物園の「藤の園」をひとまわり。春日大社の拝殿前の「砂ずりの藤」は、今年は最長「1m53cm」という張り紙が出ていたが、そんなにあるかなあ。古木だからしかたないのだけど、花つきがスカスカで、樹勢の衰えを感じてしまう。


 
 楼門を入る前に、以前から確かめようと思っていた物件に気づいた。赤童子(若宮神社の祭神)が現れた「出現石」または「影向石」、雷で落下した社額を埋納した「額塚」など、諸説あるという神石。想像していたのとは異なり、砂利に埋もれそうな小さな石だった。



 春日大社では、現在、20年に一度の「式年造替」にともなって、ふだんは近づけない御本殿の特別公開が行われている。せっかくなので参加してみることにした。拝観料1,000円を納めると、中門の前を通って「御仮殿(おかりでん)」に入る(※以下、境内地図を参照)。地図では「移殿/うつしどの(内侍殿)」と呼ばれている建物。参拝者の正面には、畳敷きの間を挟んで、四つの御簾が下りており、その前に経机というのかしら、脚の低い机と灯籠が床置きされている。春日大社の主祭神は、武甕槌命(たけみかづちのみこと)、経津主命(ふつぬしのみこと)、天児屋根命(あめのこやねのみこと)、比売神(ひめのかみ)の四柱。簡素な内装だが、ふだん本殿にいらっしゃる神様が、すでにこの御仮殿に移されているのだと気づいて、神々との距離の近さに身が引き締まる。御簾の上の方には、銅鏡がそれぞれ三面ずつ(円形・八稜鏡・円形の組み合わせ)計12面、掛けてあった。そういえば『春日権現験記絵』に、神鏡強奪事件が描かれていたことを思い出す。いま調べたら「大宮・若宮の神鏡計十四面を盗み取り」と解説しているサイトを見つけた(※藤原重雄氏・論文目録より)。

 多少なりとも『春日権現験記絵』に親しんだ目で見ると、この特別拝観は味わい深い。宝庫、風宮神社、椿本神社などを見て、はじめに御本殿(四つの神殿が塗り壁で横一列につながっている)を裏側から(!)見せていただく。まあ今は神様のいない空き家だからよいのですかね。第一殿と第二殿の間の塗り壁の裏側には、石を寄せ集めて白い漆喰で固めた「磐座(いわくら)」があった。春日大社に伝わる文書や絵巻等にも記載のない謎の「磐座」であると、特別公開のパンフレットには掲載されている。

 神殿の前にまわると、塗り壁には神馬や唐獅子の絵が描かれていた。二礼二拍手一拝の作法でお参りする拝観者がたくさん見られたが、今ここ空き家なのに…と思わないでもなかった。解説板を読んだら、幕末の第53次式年造替までは実際に建替えをしていたが、社殿が国宝に指定されてからは壊すことができず、部分修理と屋根・塗装の取替えをもって造替に代えているとのこと。なお幕末までの建替えでは、不要になった旧神殿をゆかりの神社等に下げ渡していた。そういえば、奈良近郊の寺社で見たことがあるような気がする。

 東回廊から外に出て、御蓋山浮雲峰遙拝所にも参拝することができる。鳥居の先はすぐ急斜面が始まっていた。そうそう、春日曼荼羅のとおりだ。拝殿→神殿の奥(北)ではなくて、脇(東側)に御蓋山が位置しているんだな。



 若草山を通って、東大寺三月堂方面に向かい、三月堂・四月堂・二月堂・梵鐘・戒壇院・大仏殿と、久しぶりにほぼフルコースの拝観を堪能する。それから奈良博へ。(続く)
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広島県・耕三寺と鞆の浦の船旅

2015-05-10 10:31:51 | 行ったもの(美術館・見仏)
○5/2(土)福山→尾道→耕三寺→尾道→鞆の浦→福山→奈良泊

 今年の連休は奈良からスタートする予定だったのだが、突然、5/1(金)に熊本&博多に出張する仕事が入ってしまった。そこで、5/1は福山に宿泊することにした。先日読んだ『見仏記:メディアミックス編』に影響されたためである。翌日は尾道に出て、できれば耕三寺も訪ねてみたいと思っていた。

 連休初日。福山→尾道に移動し、駅前の渡船乗り場に行ってみる。耕三寺のある生口島は、橋を経由してバスでも行けるが、往路は船を利用することにした。サイクリングの人気スポットなので、自転車を持って乗り込むお客さんが多い。

潮騒山耕三寺・耕三寺博物館(尾道市瀬戸田町)

 瀬戸田港から静かな商店街を抜けていくと、耕三寺に到着。実業家の耕三寺耕三氏が、母への報恩感謝の意を込めて建立したお寺。宇治の平等院鳳凰堂や石山寺の多宝塔を「復元」した、極彩色の堂塔が立ち並ぶ。日光東照宮の陽明門を模した三門の屋根の上に風神、雷神が乗っていたのは、オリジナルのとおりなのだろうか。

 道を挟んで向かいの耕三寺博物館にも寄る。平安~鎌倉の仏像の佳品あり。佐竹本三十六歌仙『紀貫之像』が出ていて嬉しかったが、「絵は藤原信実、書は伝・狩野探幽」という解説がついていて、え?とびっくりした。実は、書跡の部分は江戸時代に修理されているそうだ。確かによく見ると料紙の左半分(絵)と右半分(書)の質が違った。

 バスで尾道駅に戻る。前日まで、午後は尾道の寺めぐりの予定だったが、朝、渡船乗り場で鞆の浦行きの船があるのを見て、どうしても乗りたくなってしまった。13:30発の船に間に合いそうなので、再び駅前の渡船乗り場へ。鞆の浦は、朝鮮通信使の寄港地として知られている。以前、福山からバスで訪ねたことはあるが、朝鮮通信使を偲ぶには、やっぱり海からアクセスしてみたい。

 沼隈半島の南端にある阿伏兎(あぶと)観音堂も海から遠望。



 阿伏兎岬を回り込むと、鞆の浦の港が見えてくる。



 朝鮮通信使の高官の宿舎であった対潮楼(福禅寺)を久しぶりに訪ねてみた。残念ながら修復中で、風情はいまいち。観光ビジネス的には、坂本龍馬と「崖の上のポニョ」押しらしく、観光客の姿は多かった。
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高野山開創1200年記念大法会(2):慈尊院ご開帳2015

2015-05-10 00:39:25 | 行ったもの(美術館・見仏)
○5/4(月)天王寺→難波→高野山→(※ここから)九度山→慈尊院・弥勒堂ご開帳→京都泊

 高野山を後にして、九度山の駅についたのが午後3時くらいだったと思う。私は2005年のご開帳のときも来ているので、10年ぶり二度目になるが、道はすっかり忘れてしまった。同じ方向に行きそうな降車客もいなかったので、スマホの地図をたよりに、車の往来の多い道の歩道を20分くらい歩く。前回は「慈尊院特別公開」のポスターがぽつりぽつりと貼ってあって目印になったが、今回はない。そのかわり、連休中に行われる「真田まつり」のポスターが目立つ。来年の大河ドラマにも決まったから、盛り上がっているんだろうな。

 道の駅「柿の郷くどやま」(10年前にあったかしら?)を通り過ぎ、古い家並みの裏道をしばらく歩くと、慈尊院に到着した。



 紫の幕が張られた三門を入ると、左手に本堂(弥勒堂)と拝堂が、近い距離で相対している。この配置にはなんとなく記憶があった。実は、前回ご開帳(2005年)時の参拝は、このブログにも書き残しているように、非常に不本意だった。ほとんどお姿が認識できなかったのだ。ところが、今回、弥勒堂の前に立って驚いた。見える。信じられないくらい、よく見える! たぶん前回はなかった筈だが、ご本尊にきっちり照明が当てられていた。ちょっと照明が強すぎて、陰影が少ないのが物足りないくらいの明るさ。

 お堂の横に(最近、頻発している文化財への油被害を警戒して)「ご本尊の前に透明板を設置していますが、ご了承ください」という断り書きがあったが、全然問題なかった。というのは、お堂と参拝者の間(1メートル半くらい?)に、金襴の布でつくった箱状のトンネルが設置されているのだ。おかげで参拝者は、外光が透明板に映り込むのを気にせず、ご本尊に正対することができる。おおお、なんというGJ!

 御朱印を書いてもらいながら、和尚さんとお話する。博物館では周りを暗くして照明を当てるからよく見えるやろ。本当は(布のトンネルは)文化庁に知れると叱られるのや、火が出たら危ないから、とおっしゃっていた。何もないけどご本尊をしっかり拝観していただくのが唯一のご馳走だから、とも。ありがとうございます。

 なお、お堂の前には制服を着た警備員の方がひとり控えめに立っていた。ご苦労だなあ。4月中旬に拝観に来た友人の話では、透明版は設置されていなかったと思う、と言っていたので、こうした配慮は、連休直前に決めたことかもしれない。

 ご本尊の前に小さめの四天王像が置かれていたことも記録しておこう。これは残念ながら逆光になって、ちょっと見にくかった。
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高野山開創1200年記念大法会(1):壇上伽藍・金剛峯寺・霊宝館

2015-05-09 11:19:48 | 行ったもの(美術館・見仏)
○5/4(月)天王寺→難波→高野山(壇上伽藍・金剛峯寺・霊宝館)→九度山→慈尊院・弥勒堂ご開帳→京都泊

 関西周遊旅行に行ってきた。書いておきたいことがたくさんあるので、順不同でレポートを書いていく。まずは今回の最重要目的であった高野山訪問から。前日は大阪・天王寺のホテルに泊まった。「高野山開創1200年記念」の特別仕様で走っている南海電鉄の特急こうやに乗りたかったのだが、出発直前に調べたら、午前中の便はもう満席。宿坊も全く取れなかった。

 しかたないので、できるだけ早起きして難波駅から急行に乗る。しかし車内は、思ったほどの混雑ではなかった。みんな車で行くんだな、と納得する。ケーブルカー、バスと順調に乗り継ぎ、檀上伽藍(中門)に到着したのは9時半頃。

 中門は平成22年(2010)10月に再建工事が始まり、このたび平成27年(2015)4月2日に落慶法要が行われた。私は初めて高野山に来たのが2010年8月で、二回目が2013年9月なのだが、全く記憶に残っていない。今回初めて、朱塗りも鮮やかな中門の存在を認識した。道路に面した側の左右には、黒光りする江戸時代の持国天と多聞天を安置。寺の境内側の左右には、新調された広目天、増長天が安置されている。広目天の胸にはセミ、増長天の胸にはトンボの装飾がつけられているのがポイント。→壇上伽藍中門再建





 蝉は「威嚇」を表し、蜻蛉は「後ろにしりぞかない」という姿勢を表しているのだそうだ。確か中国の石仏に蝉の飾りの冠をかぶった仏様があって、清廉の印だったように記憶しているが、それとは違うのだな。

 門をくぐると、金堂拝観と納経所のどちらにも列ができていた。迷ったが、納経所から並ぶ。西国三十三所などで並んだ経験からいうと、そんなに長くかかると思わなかったのだが、1時間以上かかってしまった。書いていたのが若いお坊さんばかりで、やっぱり筆文字に慣れないのかな。さて、金堂に並ぼうと思ったら(法会が始まるらしく)「12時半まで入れません」と止められた。仕方ないので、西塔、御社、三鈷の松、根本大塔、愛染堂(めずらしく開扉して修法中)などに立ち寄りながら移動し、先に金剛峯寺を拝観する。持仏間の襖が開いて、秘仏ご本尊(弘法大師像)が公開されていたが、遠くてお姿はよく分からなかった(あとで霊宝館でポスターを見て、これか!と納得する)。

 続いて、霊宝館にも寄る。開創1200年記念展『初公開!高野山の御神宝』(2015年4月2日~7月5日)に併せて、開創法会期間限定特別公開『高野山三大秘宝と快慶作孔雀明王像』(4月2日~5月21日)も開催中。新館第1室の、不動明王がたくさん並んでいることが多い展示スペースに、いきなり孔雀明王像がおいででびっくりした。展示位置がすごく高いので、拝観者は、明王でなく乗り物の孔雀に見下ろされる状態になる。顔先に突きつけられた嘴が怖い。翼の、少したわめた広げ方にも力がみなぎっている。これまでいくつかの博物館や展覧会で、この孔雀明王を見てきたが、これほど感激したことはなかった。孔雀明王の孔雀は単なる乗り物ではなくて、むしろこちらが「本体」であると感じた。その背中にふわりと影向した明王の軽さ、小ささ。薄い藤色(に見えた)背景パネルも、邪魔にならず、孔雀の羽の金色と明王像の赤味がかった肌を引き立てていた。

 第2室が『特別公開 高野山三大秘宝』。三大秘宝とは「諸尊仏龕」「聾瞽指帰」それに「金銅三鈷杵(飛行三鈷杵)」をいうのだそうだ。第3室では壇上伽藍御社(だんじょうがらんみやしろ)に祀られる地主神、丹生・高野両明神ゆかりの神宝を見る。さっき、御社に参拝してきたばかりなので感慨深い。もとは丹生・高野明神二柱だったところに、北条政子が気比明神、厳島明神を勧請したという説明を読んで、狭いお宮でぎゅうぎゅう詰めの同居を迫られた神様たちを想像して、同情を感じてしまった(こういうとき、別のお宮を建てないのが不思議)。

 本館の展示室だったと思うが、垂髪・十二単の『丹生明神像』(金剛峯寺所蔵)を見ることができて嬉しかった。八大童子像もこっちにあった。左側から(順路が左→右)指徳、恵光、制多迦、矜羯羅。不動明王を挟んで、恵喜、清浄比丘、烏倶婆伽、阿耨達(龍に乗っている)童子の順。サントリー美術館で見たときのメモと比べると、四人ずつのグループ編成は変わらないが、順序はかなり異なっている。あと地味だが、文書類にけっこう面白いものが出ていた。『白河上皇高野御幸記』『明恵上人金剛峯寺巡礼次第』など。最後の展示室まで来て、深沙大将立像がないと思ったら、2015秋まで修復中だという。対になる執金剛神立像は展示されていた。

 さて、再び中門をくぐって、金堂を目指す。拝観者の長い列ができていたが、御朱印の列より動きが早く、あまり待たずに中に入れた。御本尊の薬師如来坐像は、「高野山開創1200年記念大法会」のホームページでは「初公開」をうたっているが、お坊さんたちは「80年ぶり」と解説していた。大仏師・高村光雲作。現在の金堂は昭和9年(1934)再建というから、だいたい80年になる。白木の木彫で、素焼きの土のような温かみのある色をしている。円形の光背は、部分的に火焔のような模様が施してあるが、化仏や天女などの装飾がなく、スッキリした印象である、向かって右に不動明王、左は降三世明王だろうか、動きが派手で色彩が鮮やかで、ご本尊と好対照をなしていた。また左右には曼荼羅もかかっていた。

 天気を心配していたが、時折、折りたたみ傘を開くくらいで何とかなったのは幸運だった。奥の院は割愛し、九度山の慈尊院に向かう。昼食も…割愛。(続く)
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資料と証言から/関東大震災と中国人(田原洋)

2015-05-07 22:18:10 | 読んだもの(書籍)
○田原洋『関東大震災と中国人:王希天事件を追跡する』(岩波現代文庫) 岩波書店 2014.8

 1923年(大正12年)の関東大震災に際して、朝鮮人が放火、井戸に毒を入れるなどの凶悪犯罪を起こしているという「デマ」によって多数殺害されたというのは、確定した事実だと思っていたが、最近、それを否定する動きが出ている。ネットで検索すると、朝鮮人による凶悪犯罪(テロ行為)はデマではなかった、という考証が上位に出てきて恐れ入る。私は、寺田寅彦が「流言蜚語」という随筆で淡々と述べているとおり、科学的常識から考えて、地震の発生を予知して爆弾や毒薬を準備しておける可能性は著しく低いと思っている。

 さて、関東大震災において、朝鮮人だけでなく中国人の殺害もあったということを知ったのは、比較的近年である。うろ覚えだが、小松裕氏の『「いのち」と帝国日本』(小学館、2009)で読んだような気がする。

 本書によれば、中国人の虐殺が集中的に行われたのは南葛飾郡大島町(現・江東区大島)だった。このあたりは豊富な水路を利用した物資集散の中心地になっており、朝鮮人や中国人の労働者が集中していた。彼らは単純な重労働を、日本人とは比較にならない低賃金で引き受けていたので、日本人労働者の恨みを買うことが多かった。彼らは日本人に敵視されていると知って、自らを隔離・孤立し、ますます日本人に薄気味がられた。…なんか、21世紀の今と、基本的な構造は全く変わっていない気がする。

 こうした背景のもとで起きた中国人虐殺事件。そこに巻きまれた、王希天という留学生がいた。1917年(大正6年)一高予科に入学、1919年に八高(名古屋)に進学するが、学業を断念し、在東京中華メソジスト教会の代理牧師となる。社会主義思想に接近し、大島町に同胞のためのセツルメント「僑日共済会」を設立して、その世話にあたっていた王希天は、警察から「排日運動のリーダーの一人」と見られていた。震災発生後、中国人労働者が(朝鮮人と誤認されて?)殺されているという噂を聞き、救世軍の山室軍平の名刺を携えて、9月9日、江東地区に向かった王希天は、そのまま帰ってこなかった。

 身の危険を感じた中国人たちは、9月から10月にかけて続々と帰国の途についた。帰国者が到着する前の中国紙は日本の震災被害に同情的で、「10月2日には、東大図書館の漢籍が多数灰になったのを聞いて(略)『四庫全書』八五四八巻を寄贈することになったとの報道が行われたりした」。ほんとか、これ。最終的に実行されたのかどうかを知りたい。ところが、帰国者が戻るにつれて、同胞の虐殺が伝えられ、中国世論は180度旋回して、日本への反感・不信を強めていく。

 当時、朝鮮人の殺害は日本の「国内問題」だったが、中国人の殺害は「外交問題」に発展しかける。そこで、日本政府は徹底した隠蔽工作を行う。まあしかし、事件解決のため東京入りした中国側の調査団も、円借款交渉のほうが真の目的で、真相究明には力が入らなかったというから、どっちもどっちだ。国と国の政治の間で、個人が殺されていく。いまの拉致問題をめぐる日朝交渉がこんなふうでないことを祈る。

 最終的に日本政府からは、謝罪や関係者の処罰をしないかわりに金を払うという解決策(一人あたりの金額は、当時の日本人の事故賠償金額に比べて圧倒的に低い。ただし朝鮮人よりは高い)が示されたが、中国側の内戦激化等によって、うやむやのまま終わっている。

 以上は本書の記述に拠って述べたものだ。著者は、東京都公文書館、アメリカ議会図書館等で文書を調査し、さらに王希天殺害にかかわった二人の老人の証言を採録している。二人は、最終的に「実名で書く」という著者の希望を受け入れた。これらの「証拠」に興味があるときは(疑いがあれば)実際に本書を読んでみてほしいと思う。著者の努力と執念も素晴らしいが、それ以上に、真実を語る資料が失われずに永らえてきたことに感銘を受けた。たぶん今も各国の図書館や文書館の保管庫には、正確な読み解きを待っている歴史資料がたくさん眠っているのではないか。
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2015年GW@関西旅行ほか

2015-05-06 21:24:33 | 行ったもの(美術館・見仏)
新生活が落ち着いたようで、まだリズムに乗れない。読んだものも行ったものもいろいろあるのに、レポートが追いついていない。とりあえず、覚え書。

【東京周辺の行ったもの】
・国立歴史民俗博物館『大ニセモノ博覧会-贋造と模倣の文化史-』(2015年3月10日~5月6日)…常設展も久しぶりに見た
・江戸東京博物館 徳川家康没後400年記念特別展『大関ヶ原展』(2015年3月28日~5月17日)
・弥生美術館『日本の妖美 橘小夢展』(2015年4月3日~6月28日)…竹久夢二美術館も一緒に
・三井記念美術館 三井文庫開設50周年・三井記念美術館開館10周年 記念特別展『三井の文化と歴史(前期)茶の湯の名品』(2015年4月11日~5月6日)
・泉屋博古館分館(東京)『小川千甕(おがわ せんよう)縦横無尽に生きる』(2015年3月7日~5月10日)

【関西旅行】
5/1(金)仕事で熊本&博多に出張(往路打ち切り)→広島県・福山泊
5/2(土)連休開始! 福山→尾道→耕三寺→尾道→鞆の浦→福山→奈良泊
5/3(日)春日大社・国宝御本殿特別参拝→東大寺→奈良国立博物館 特別展『まぼろしの久能寺経に出会う 平安古経展』(2015年4月7日~5月17日)→奈良県立美術館 特別展『奈良礼讃』(2015年4月11日~5月24日)→大和文華館 特別企画展『風俗画と物語絵』(2015年4月3日~5月10日)→大阪・天王寺泊
5/4(月)天王寺→難波→高野山(大伽藍・金剛峯寺・霊宝館)→九度山→慈尊院・弥勒堂ご開帳→京都泊
5/5(火)京都国立博物館 特別展覧会『桃山時代の狩野派 永徳の後継者たち』(2015年年4月7日~5月17日)※もちろん常設展示も→龍谷ミュージアム 春季特別展『聖護院門跡の名宝~修験道と華麗なる障壁画~』(2015年3月21日~5月10日)→京都文化博物館 増誉大僧正900年遠忌記念展『聖護院門跡の名宝-門跡と山伏の歴史-』(2015年3月21日~5月10日)
5/6(水)狩野辻子(狩野元信邸址)※石碑のみ→白峯神宮→京都市学校歴史博物館 企画展『日本画開拓の時代-明治を生きた京の画家-』(2015年4月25日~6月30日)→帰ってきた

【読んだもの】
すでに読み終わっているもの。最近、筆が遅くて、よろしくない。
田原洋『関東大震災と中国人』(岩波現代文庫) 岩波書店 2014.8
黒嶋敏『海の武士団』(講談社選書メチエ) 講談社 2013.9
中島岳志『下中彌三郎』 平凡社 2015.3
ドナルド・キーン『果てしなく美しい日本』(講談社学術文庫) 講談社 2002.9

あまり長い文章を書こうとせず、メモだけでも残しておくようにしないと。
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