○おおい・高浜の秘仏めぐり:長楽寺~おおい町立郷土資料館~(昼食)~馬居寺~中山寺
今年が3年目となる「みほとけの里 若狭の秘仏 特別公開」。秘仏めぐりバスツアーの時期も伸び、コースも多彩になった。そこで「若狭おばまの秘仏めぐり」と「おおい・高浜の秘仏めぐり」それぞれ1回ずつ参加を計画していたのだが、先月の小浜コースは台風で断念せざるを得なかった。さて、おおい・高浜コースである。
ツアーの起点である「うみんぴあ大飯」で前泊。ここで、一足先に若狭入りしていた友人と合流した。国内旅行では、めったに泊まることのない素敵なリゾートホテルだったが、土地柄、レストランも大浴場も21:00には営業終了という「早じまい」で、少しせわしなかった。
翌朝、天気はあいにくの小雨だったが、大きく崩れなければいいことにしよう。ホテルに隣接する道の駅から、見覚えのあるミフクツーリストさんのバスに乗車する。その後、小浜線の若狭本郷駅で、さらにお客さんを拾って、総員31名満席だった。ほかに2名、自家用車で着いてきて、拝観場所で合流する男性客がいることに、あとで友人が気づいた。確か、以前にもあった参加形態だと思う。
この日、このコースを選んだのは、若狭歴史民俗資料館あらため、若狭歴史博物館の芝田館長のガイドがつくためである。「昨日まで声が出なかった」とおっしゃっていたが、体調が万全でないためか、または小浜市内ほど知悉したエリアでないためか、車内での説明は控えめだった。ほかにミフクツーリストの男性添乗員さんも同乗していた。
バスは若狭本郷駅を出ると、青戸の大橋を渡って、大島半島に渡る。この半島の先端部に大飯発電所(大飯原発)がある。昨日、すでに別コースのバスツアーに参加した友人の話では、この橋は原発建設のためにつくられたものだそうだ。
海岸沿いをしばらく走ったバスは、少し内陸に入ったところで停車。寺院らしい建物は見えない。長楽寺まで細い道を少し歩くというのだが、先に立った添乗員さんが道を間違えてしまう。後ろから館長に呼び戻されて「すみません。小浜に40年以上住んでいるんですが、このお寺に来たのは初めてで」と恐縮していた。
長楽寺さんの収蔵庫は狭いので、二組に分かれ、入れ替わりで参観。本尊の阿弥陀如来坐像は、宇治の平等院の阿弥陀如来坐像を作った仏師定朝の作と伝える。それは伝説としても、かなり洗練された都ぶり。平等院の阿弥陀様ほど貴族的で眠たげでなく、きりっと清新な感じがして、私は好きだ。全体を覆っていたであろう金箔がかなり残っており、金が剥げ落ちた木目はかなり赤い。ヒノキの色だという。収蔵庫を開けてくれたおばさんは「あまり近づくより、階段の下から見上げるくらいがいいんですよ」とおっしゃっていたが、私もそう思った。
収蔵庫の中はかなり広くて、ほかにもいくつか地方色のある仏像が置かれていた。館長の話では、ここに近隣の仏像を全て集めて収める計画があったのだが、うまく行かなかった、とのこと。おばさんが、このあたりは、原電さんのおかげで、ずいぶん手厚くしてもらってます、と語っていたのも印象的だった。
大島半島の付け根を通って、対岸の町中心部へ戻る。おおい町立郷土資料館へ。「プレーパーク大飯」という総合運動公園の中にあり、新しくて大きくて、立派な郷土資料館だった。少なくとも以前の若狭歴史民俗資料館より、ずっと「新しい」感じがした。「町立」と聞いて、もっとしょぼい施設を想像していた自分を反省。でも、これも「原電さんのおかげ」だとしたら複雑な気持ちである。郷土資料館の中心部には、さっきの長楽寺の阿弥陀如来坐像の模像(レプリカ)があったが、顔立ちは本物のほうがいいと思った。ただ、飛天光背の再現は、こちらのほうがよくできている。『涅槃図II~おおいの仏教美術~』(2014年10月25日~12月7日)という特別展もやっていて、面白かった。
道の駅「うみんぴあ大飯」に戻り、海鮮丼の昼食。午後は高浜町の馬居寺(まごじ)へ。創建は聖徳太子と伝えられるが詳細は不明。高野山真言宗の寺院で、中世には東寺の末寺であった(Wiki)。アクセスは「JR若狭和田駅から徒歩15分」だというから、車がなくても来られなくはないのだな。若狭観音霊場の札所でもあり、手前に観音堂が立つが、本尊の秘仏・馬頭観音は、裏手の収蔵庫に収められている。
収蔵庫内は狭いように見えたが、31名全員一度に入れてもらって、中で説明を聞く。ちょうど霊場めぐりのツアーとかち合って、彼らは我々の背後で熱心にお経を唱えていた。馬居寺の馬頭観音像は三面八臂。胸前で馬口印という馬頭観音独特の印を結ぶ。右膝を垂直に立て、直角に寝かせた左足は足裏を見せる。次に行く中山寺の馬頭観音に比べると、肉体の表現は、やや生硬で稚拙な感じがする。だが、その稚拙さが、かえって自然界に根を下ろした、強い霊力を感じさせて、とても好きな仏像である。一目見て、初めてなのに懐かしいと感じたのは、若狭歴史博物館で、複製の馬居寺・馬頭観音像を何度か見ていたためだろう。
馬居寺から丹後街道(国道27号)をさらに西へ進む。正面に、どこか見覚えのある三角形の山が見えてきた。館長が「若狭富士と言われる青葉山です」と解説する。東方向から見るときれいな三角形だが、視点が南北にずれると、実は山頂が三つあることが明らかになる。舞鶴市側の西中腹には、西国三十三所の札所・松尾寺があり、東中腹には、これから行く中山寺がある。どちらも馬頭観音を本尊とし、山号を「青葉山」としている。馬頭観音を祀る古い寺院は多くなく(関東には皆無)、この青葉山周辺に集中しているのは興味深い。なお、中山寺は、白山信仰を広めた泰澄大師が開いたと伝えているが、青葉山の山頂からは加賀の白山が見えるそうだ。
館長が「馬頭観音の形態は、8世紀頃に中国で完成されてます」と解説していたので、「中国のどこに残っているんですか?西安?」と聞いたら「ええ、そう」とおっしゃっていた。いま調べたら、2004年の『中国国宝展』(東京国立博物館)に西安碑林博物館から『馬頭観音菩薩坐像』(陝西省西安市安国寺址出土、唐時代・8世紀中頃)が出陳されているではないか! ううむ、私は図録を持っているはずなのだが、段ボール箱を掘り返さないと引っ張り出せない…。
中山寺では、収蔵庫でなく本堂で、本尊・馬頭観音坐像を拝観した。基本的な姿は、馬居寺と同じだが、左右の膝の高さにあまり差がない(こころもち右膝のほうが高い程度)。左右の足の裏を合わせるように崩しており、足の親指が外側に反っているなど、肉体のとらえかたが動的、人間的である。さすが鎌倉彫刻。
三門の仁王像を見て、書院で寺宝を拝観し、茶席でお菓子とお抹茶もいただいて、心あたたまる見仏旅だった。ひとり旅の参加者も多かったはずだが、帰りの車内では、ずいぶん会話が弾んでいた。他人のことは言えないが、みんな物好きだなあ…。
これで3年間の「若狭おばまの秘仏めぐりバスツアー」の実証運行は終了したわけだが、その評価はぜひ公開してほしい。そして、この企画、続いてくれるといいなあ。館長は、舞鶴コースも構想しているとおっしゃっていた。
そして、私はこの3年間、福井県に通って、若狭湾沿岸に多くの原発が存在することを初めて認識した。原電の補助金が、地域の文化財保護に恩恵をもたらしていることはありがたい、のかもしれない。しかし、もし何かの事故があって、この地域が汚染され、半永久的に立ち入れないようなことになったら、人の命や生活、自然の山河だけでなく、歴史も文化財も全て失われてしまう。このまま、リスクを冒し続けていていいのだろうか。今、すごく片付かない気持ちでいる。
今年が3年目となる「みほとけの里 若狭の秘仏 特別公開」。秘仏めぐりバスツアーの時期も伸び、コースも多彩になった。そこで「若狭おばまの秘仏めぐり」と「おおい・高浜の秘仏めぐり」それぞれ1回ずつ参加を計画していたのだが、先月の小浜コースは台風で断念せざるを得なかった。さて、おおい・高浜コースである。
ツアーの起点である「うみんぴあ大飯」で前泊。ここで、一足先に若狭入りしていた友人と合流した。国内旅行では、めったに泊まることのない素敵なリゾートホテルだったが、土地柄、レストランも大浴場も21:00には営業終了という「早じまい」で、少しせわしなかった。
翌朝、天気はあいにくの小雨だったが、大きく崩れなければいいことにしよう。ホテルに隣接する道の駅から、見覚えのあるミフクツーリストさんのバスに乗車する。その後、小浜線の若狭本郷駅で、さらにお客さんを拾って、総員31名満席だった。ほかに2名、自家用車で着いてきて、拝観場所で合流する男性客がいることに、あとで友人が気づいた。確か、以前にもあった参加形態だと思う。
この日、このコースを選んだのは、若狭歴史民俗資料館あらため、若狭歴史博物館の芝田館長のガイドがつくためである。「昨日まで声が出なかった」とおっしゃっていたが、体調が万全でないためか、または小浜市内ほど知悉したエリアでないためか、車内での説明は控えめだった。ほかにミフクツーリストの男性添乗員さんも同乗していた。
バスは若狭本郷駅を出ると、青戸の大橋を渡って、大島半島に渡る。この半島の先端部に大飯発電所(大飯原発)がある。昨日、すでに別コースのバスツアーに参加した友人の話では、この橋は原発建設のためにつくられたものだそうだ。
海岸沿いをしばらく走ったバスは、少し内陸に入ったところで停車。寺院らしい建物は見えない。長楽寺まで細い道を少し歩くというのだが、先に立った添乗員さんが道を間違えてしまう。後ろから館長に呼び戻されて「すみません。小浜に40年以上住んでいるんですが、このお寺に来たのは初めてで」と恐縮していた。
長楽寺さんの収蔵庫は狭いので、二組に分かれ、入れ替わりで参観。本尊の阿弥陀如来坐像は、宇治の平等院の阿弥陀如来坐像を作った仏師定朝の作と伝える。それは伝説としても、かなり洗練された都ぶり。平等院の阿弥陀様ほど貴族的で眠たげでなく、きりっと清新な感じがして、私は好きだ。全体を覆っていたであろう金箔がかなり残っており、金が剥げ落ちた木目はかなり赤い。ヒノキの色だという。収蔵庫を開けてくれたおばさんは「あまり近づくより、階段の下から見上げるくらいがいいんですよ」とおっしゃっていたが、私もそう思った。
収蔵庫の中はかなり広くて、ほかにもいくつか地方色のある仏像が置かれていた。館長の話では、ここに近隣の仏像を全て集めて収める計画があったのだが、うまく行かなかった、とのこと。おばさんが、このあたりは、原電さんのおかげで、ずいぶん手厚くしてもらってます、と語っていたのも印象的だった。
大島半島の付け根を通って、対岸の町中心部へ戻る。おおい町立郷土資料館へ。「プレーパーク大飯」という総合運動公園の中にあり、新しくて大きくて、立派な郷土資料館だった。少なくとも以前の若狭歴史民俗資料館より、ずっと「新しい」感じがした。「町立」と聞いて、もっとしょぼい施設を想像していた自分を反省。でも、これも「原電さんのおかげ」だとしたら複雑な気持ちである。郷土資料館の中心部には、さっきの長楽寺の阿弥陀如来坐像の模像(レプリカ)があったが、顔立ちは本物のほうがいいと思った。ただ、飛天光背の再現は、こちらのほうがよくできている。『涅槃図II~おおいの仏教美術~』(2014年10月25日~12月7日)という特別展もやっていて、面白かった。
道の駅「うみんぴあ大飯」に戻り、海鮮丼の昼食。午後は高浜町の馬居寺(まごじ)へ。創建は聖徳太子と伝えられるが詳細は不明。高野山真言宗の寺院で、中世には東寺の末寺であった(Wiki)。アクセスは「JR若狭和田駅から徒歩15分」だというから、車がなくても来られなくはないのだな。若狭観音霊場の札所でもあり、手前に観音堂が立つが、本尊の秘仏・馬頭観音は、裏手の収蔵庫に収められている。
収蔵庫内は狭いように見えたが、31名全員一度に入れてもらって、中で説明を聞く。ちょうど霊場めぐりのツアーとかち合って、彼らは我々の背後で熱心にお経を唱えていた。馬居寺の馬頭観音像は三面八臂。胸前で馬口印という馬頭観音独特の印を結ぶ。右膝を垂直に立て、直角に寝かせた左足は足裏を見せる。次に行く中山寺の馬頭観音に比べると、肉体の表現は、やや生硬で稚拙な感じがする。だが、その稚拙さが、かえって自然界に根を下ろした、強い霊力を感じさせて、とても好きな仏像である。一目見て、初めてなのに懐かしいと感じたのは、若狭歴史博物館で、複製の馬居寺・馬頭観音像を何度か見ていたためだろう。
馬居寺から丹後街道(国道27号)をさらに西へ進む。正面に、どこか見覚えのある三角形の山が見えてきた。館長が「若狭富士と言われる青葉山です」と解説する。東方向から見るときれいな三角形だが、視点が南北にずれると、実は山頂が三つあることが明らかになる。舞鶴市側の西中腹には、西国三十三所の札所・松尾寺があり、東中腹には、これから行く中山寺がある。どちらも馬頭観音を本尊とし、山号を「青葉山」としている。馬頭観音を祀る古い寺院は多くなく(関東には皆無)、この青葉山周辺に集中しているのは興味深い。なお、中山寺は、白山信仰を広めた泰澄大師が開いたと伝えているが、青葉山の山頂からは加賀の白山が見えるそうだ。
館長が「馬頭観音の形態は、8世紀頃に中国で完成されてます」と解説していたので、「中国のどこに残っているんですか?西安?」と聞いたら「ええ、そう」とおっしゃっていた。いま調べたら、2004年の『中国国宝展』(東京国立博物館)に西安碑林博物館から『馬頭観音菩薩坐像』(陝西省西安市安国寺址出土、唐時代・8世紀中頃)が出陳されているではないか! ううむ、私は図録を持っているはずなのだが、段ボール箱を掘り返さないと引っ張り出せない…。
中山寺では、収蔵庫でなく本堂で、本尊・馬頭観音坐像を拝観した。基本的な姿は、馬居寺と同じだが、左右の膝の高さにあまり差がない(こころもち右膝のほうが高い程度)。左右の足の裏を合わせるように崩しており、足の親指が外側に反っているなど、肉体のとらえかたが動的、人間的である。さすが鎌倉彫刻。
三門の仁王像を見て、書院で寺宝を拝観し、茶席でお菓子とお抹茶もいただいて、心あたたまる見仏旅だった。ひとり旅の参加者も多かったはずだが、帰りの車内では、ずいぶん会話が弾んでいた。他人のことは言えないが、みんな物好きだなあ…。
これで3年間の「若狭おばまの秘仏めぐりバスツアー」の実証運行は終了したわけだが、その評価はぜひ公開してほしい。そして、この企画、続いてくれるといいなあ。館長は、舞鶴コースも構想しているとおっしゃっていた。
そして、私はこの3年間、福井県に通って、若狭湾沿岸に多くの原発が存在することを初めて認識した。原電の補助金が、地域の文化財保護に恩恵をもたらしていることはありがたい、のかもしれない。しかし、もし何かの事故があって、この地域が汚染され、半永久的に立ち入れないようなことになったら、人の命や生活、自然の山河だけでなく、歴史も文化財も全て失われてしまう。このまま、リスクを冒し続けていていいのだろうか。今、すごく片付かない気持ちでいる。