見もの・読みもの日記

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正倉院整備工事現場公開(第5回)を見に行く

2014-02-11 22:22:21 | 行ったもの(美術館・見仏)
正倉院正倉整備工事第5回現場公開の見学(2014年2月9日)

 年度末が近づいて、かなり仕事が厳しくなってきた。先週は、一晩だけど朝まで宿題の原稿を書いていて、何年ぶりかでほぼ徹夜してしまった。もういい歳なのに。

 それでも週末は遊んできた。昨年12月に友人が「正倉院整備工事の現場公開に行かない?」と誘ってくれて、二つ返事でOKしたら、私の分も一緒に申し込んでくれた。「申込み多数の場合は抽選」だったらしいが、無事に当たって、2月9日(日)9時の回に参加することになった。

 まず、受付所で身分証チェック。当選のお知らせには「9時から9時半に間に入場して、1時間程度で見学してください」という注意書きがあったが、グループを組まされるわけでもなく、行動はわりと自由である。

 正倉とその東側に設置された仮設の倉庫(資材などが入れてある)を覆う「素屋根」の中に、東側から入る。まず1階の床下の様子。すり減った礎石の上に太い柱が載っている。宮内庁のジャンパーを来たおじさんの話では、大正2年の工事の際、10センチほど柱を切ったそうだ。礎石の凸凹にぴったり収まるように柱の底面も凹凸が施されており、震度7にも耐えられる強度がある。「(地震については)それより何より、この土地を選んだのがよかったんでしょうねえ。昔の都は場所を間違えません」とぼそっとおっしゃっていたのが、宮内庁の方らしくてよかった。



 階段で2階へ。仮設床を歩きながら正倉東面の様子を扉前から見学。南倉→中倉→北倉の順に見て行く。南倉は、仏具類のほか、東大寺大仏開眼会に使用された品も納められている倉。長く東大寺が管理していたが、明治8年に勅封となった。

 この日は、麻紐で錠前を縛って、ひねった和紙がつけられていた。墨書は読めなかったが、「勅封」なら今上天皇の署名であるはず。そして、勅使を以てしなければ開封できないはずだが、説明のおじさんの話では「いや、今は正倉院事務所の所長がもっと簡単な封をするんですけど、今日は勅封がどんなものかをお見せするために取り付けました」とのこと。錠前を囲むように扉の色が変わっているのは、ふだん、左右の金具にはめ込む「錠前カバー」を付けているためである(外されて、扉の下に置いてあった)。



 扉を開けるには、錠前を外す鍵(おじさんは「さじ」と呼んでいた)と、向かって右側の木片が詰めてあるところに差し込む鍵が要る。「その鍵は正倉院事務所で保管してるんですか!?」とか、興味津々のあまり、安全上答えにくいことまでお聞きしてしまった。

 中倉・北倉は扉が開いていて、内部を覗くことができた。中倉には正倉院文書を収める。内部は三層になっており、初層はすっからかん。第二層にガラスの嵌った木製の展示ケースが見える。第三層は登り口しか見えない。



 また違うおじさんの話では、この展示ケースは明治期に置かれたもの(あとで伊藤博文が設置させたと知る)。しかるべき筋の参観者や宝物調査に訪れた人は、倉の中に入って宝物を見ることができたのだそうだ。明治期と聞いて「じゃあ、帝室博物館総長だった森鴎外なんかも」と、思わず確認してしまった。「そうです、まさにその時代です」と言われて、鴎外の眺めた展示ケースか~と往時をしのぶ。

 最後の聖武天皇・光明皇后ゆかりの品を収めらる北倉には、初層・中層とも、ぐるりと壁に沿って展示ケースが設置されていた。見栄えのする名品の多い倉だからね。

 さて、三階に上がると、正倉院の瓦屋根を眼下に収めることができる高さ。東側の仮設倉庫の上に当たる広いデッキで、解説パネルや模型をじっくり見たあと、北→西→南→東と、屋根のまわりをほぼ一周することもできる。正倉院の屋根には約2万枚の瓦が使われており、天平期の瓦が約800枚見つかった。このうち200枚は再利用されることになり、600枚は下ろされた(この数字、ネットで読めるニュースと食い違うところもあるが、現場で聞いたまま記録する)。

 驚いたのは「天平」「鎌倉」「江戸」「大正」など、各時代の瓦を実際に触れるコーナー。「大英断ですよねっ!」と説明のおじさんもテンションが高かった。友人と、各時代の瓦を前に抱いて記念写真を取り合って、はしゃぐ。第1~4回の現場公開のルポを公開しているブログ等を訪ねてまわっても、このことに触れている記事がないので、今回だけの企画だったのかもしれない。



 瓦コーナーのおじさんは「正倉院」の腕章をつけていたが、宮内庁の人ではないらしかった。瓦のことなら何でも教えてくれそうで、時間を忘れて話に聞き入ってしまった。プロフェッショナルの話は本当に面白い! 参加者も、わざわざ申し込んできたくらいなので、老若男女問わず、好奇心旺盛で熱心な人が多かった。瓦の制作年代は、曲率とか重さ・大きさなど、時代の特徴(標準)を見つけ出して、それと比較していく。天平時代の瓦には布目が残っている。「桶巻き作り」をしたものは、底面があまりきれいに整形されていない。鎌倉期になると、表面も底面(側面)も整えられる。鎌倉期の瓦は、菱形の繋ぎ文様があるのが特徴。この時代の流行のようだ(あ、袈裟などの織物や、書籍の摺り表紙にもあるなあ、菱形文)。

 天平時代の瓦が完全形で800枚というのは、遺跡考古学では、まずあり得ない発見。確かにそうだ。再利用された200枚は、北側の△屋根(寄棟造)の両隅の2~3列に使われている。「量が少ないからですか?」と聞いたら「水捌けがいい位置であること、それから5枚ごとに釘留めをするのですが、創建時の瓦には穴を開けたくなかったので」と教えてくれた。なお、天平瓦については、軒丸瓦・軒平瓦は見つからなかったとのこと。残りにくいんだなあ(あとで東大寺ミュージアムを見に行ったら「天平期の東大寺瓦としては、ほぼ唯一の遺例の軒丸瓦」というのが展示されていた。この話は後日)。

 新調した瓦には全て年号が入っている。鬼瓦の側面に「平成二十五年七月吉日」とあるのを確認。色は、古い瓦に合わせて「とばしている」とおっしゃっていた。瓦は平群(生駒郡)で焼いたそうだ。「瓦は奈良の地場産業ですよ」とおっしゃっていた。あと平群地区には、こうした伝統建築の工法を守る業者の組合のようなものがあるとも。調べたら「平成の大修理」が進む姫路城のしゃちほこも、平群の山本瓦工業で焼かれたそうだ。

 また、新調瓦は先端の左右に穴が開いている。大正2年の工事までは、屋根に土を盛って瓦を固定するという伝統工法が用いられたが、今回は瓦を針金で「釣る」ことで止めるためだ。密度が高く、上質の瓦であるのはもちろんのこと。幕末の瓦は「正直、あまりよくない」と苦笑されていた。

 屋根の一周では、全く経験したことのない眺望も楽しめた。正倉院展で名前だけは知っていた「聖語蔵」の建物も眼下に! 同じ校倉造だが、正倉に比べるとずっと小さい。現在は何も入っていないそうだ。調子に乗って「聖語蔵っていつ建てられたんですか?」と質問して、若い係員の方を困らせてしまった。今の建物は、雰囲気から見て江戸モノかしら。

 なお、この日、2階と3階は奈良の正倉院事務所の職員で、1階は京都事務所の職員の担当だったそうだ。皇宮警察のワッペンをつけた方も見かけた。女性の姿が全然なかったけど(腕章をつけて取材をしていた方が1名)、宮内庁って、そういう職場なんだろうか。

 最後に1階で、工事の経緯を撮影したDVD(12分)を鑑賞。寒かったけど、寒さを忘れるほど楽しかった。この日の記念に二月堂に寄って、御朱印「観音力」を書いてもらった。

※久々のフォトチャンネル「正倉院整備工事」もあわせてお楽しみください。

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