見もの・読みもの日記

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花の盛り/マグダラのマリア(岡田温司)

2007-06-08 23:31:42 | 読んだもの(書籍)
○岡田温司『マグダラのマリア:エロスとアガペーの聖女』(中公新書) 中央公論新社 2005.1

 西洋美術史の岡田温司さんの本にちょっとハマっている。『もうひとつのルネサンス』(平凡社ライブラリー 2007.3)も『処女懐胎』(中公新書 2007.1)も面白かったので、もう1冊読んでみることにした。

 本書の主題はマグダラのマリア。悔悛した娼婦、キリストの磔刑、埋葬、復活に立会い、「使徒のなかの使徒」とも呼ばれたことになっている。「なっている」というのは、聖書(四福音書)を読む限りでは、彼女について、明らかなことは殆んどないのだ。そもそも娼婦であったかどうかも分からない。わずかに、ルカによる福音書が「七つの悪霊を追い出していただいたマグダラと呼ばれるマリア」と伝えるのみである。

 これに、聖書外典の伝承、同じ「マリア」という名前で(あるいは名もなく)聖書に登場する女性たちとの混同が加わり、上述のようなマグダラ像が作られていく。著者は触れていないが、娼婦を石打ちにしようとしていた群衆に向かって、イエスが「この中で罪のない者だけが、この女に石を投げよ」と告げたという逸話、これも近代のキリスト伝(映画など)では、マグダラのマリアと結びつけることが定番になっている。

 こうして、人々の無意識の欲望を引き受け、両極端と言えるほど多様な解釈や表象を与えられながら、マグダラ像は形づくられてきた。たとえば、ティツィアーノの『悔悛のマグダラ』(1530年代はじめ)。「この上なく美しく、できるだけ涙にくれている」という困難な主題に挑んだこの作品で、マグダラは波打つ金髪で覆われただけの豊かな裸身に描かれており、あたかも異教のヴィーナスのようだ(後年、ティツィアーノは、同じポーズで、官能性を薄めた着衣のマグダラ像を2点描いている)。一方、ドナテッロの木彫『マグダラのマリア』は、痛ましいまでに痩せ細った聖女の姿をしている。

 私が好きなのは、カルロ・クリヴェッリの描くマグダラ(図版2点あり)。華麗な衣装、輝く金髪、花の盛りの美貌を見せつけるような驕慢な表情が、ぞくぞくするほど魅力的である。また、天使に呼び止められて振り返ったという、一瞬の表情を捉えたサヴォルドのマグダラには、市井の風俗美人画のような魅力がある。この時代(16世紀前半)、「コルティジャーナ」という語は、宮廷婦人と高級娼婦の両方の意味を持った(!)。それほど、両者の境界は曖昧だったのである。

 もうひとつ、復活のイエスに出会い、「我に触れるな」と制止されるマグダラの表象もスリリングで魅力的だ。つまり、キリスト教においては、女性であるマグダラこそが、キリストの復活の最初の証言者であり、最初の「使徒」という特権を得ているのである。ただし、四福音書の立場は、マグダラ(と女性の弟子たち)に最も好意的なヨハネから、最も手厳しいルカまで、微妙な差異があり、原始キリスト教における女性の位置づけに、葛藤があったことがうかがわれる。

※付記。遅ればせながら「芸術新潮」6月号を買った。特集「レオナルド・ダ・ヴィンチ《受胎告知》を読み解く」に付随して、岡田温司さんのインタビューで構成された「《受胎告知》の図像学」という記事がある。新書『処女懐胎<』では小さな図版でしか見られなかった名品の数々が、大図版で見られる! 幸せ!

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