見もの・読みもの日記

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忘れ去られる死者/故郷はなぜ兵士を殺したか(一ノ瀬俊也)

2011-01-18 00:09:31 | 読んだもの(書籍)
○一ノ瀬俊也『故郷はなぜ兵士を殺したか』(角川選書) 角川書店 2010.8

 いわゆる靖国問題では、国家による戦死者の顕彰が「国のための死」を強要した、と論じられている。しかし、兵士の苦難と死の顕彰を担ったのは、「国」ではなく、むしろ「郷土」だった。そこで、本書は、日露戦争(1905年)から1995年の戦後50年までの間、「郷土」がいかに兵士たちを拘束し、やがて見捨てていったのかを明らかにする。

 材料となるのは、戦前・戦後に各都道府県・市区町村が編纂した(したがって多少なりとも公的な)従軍者記念・顕彰誌と、前線兵士に送った慰問文・慰問誌である。著者は、これらの膨大な資料を時系列順に読み解いていく。

 日露戦争直後には、愛国的感情に基づく戦死者顕彰が盛んに行われたが、大正に入り、平和な時代が続くと、戦死者の記憶は次第に風化していった。だが、第一次世界大戦後、再び日清・日露戦争の記憶が、教育的意図をもって呼びもどされ、満州事変、日中戦争と続く戦争の中で、兵士の死や苦難の意味づけが与えられるようになる。具体的には、全国の市町村に「軍事援護」(兵士とその家族に対する経済的+精神的支援)を行う援護団体・銃後奉公会がつくられ、激励、慰問・慰霊活動が行われた。「地域」主導のこうした事業は、兵士と家族に対する「監視」、さらには、戦死の称揚と強制の役割を果たしていた、と著者は考える。

 しかし、戦争の長期化とともに「様式美」は綻び、戦争の意義は不明瞭化していく。そして訪れた敗戦。戦後の日本は、まず「礎」論(戦死者が礎となって、今日の平和が築かれた)によって死者を意味づけようとした。しかし、1970・80年代には「加害」の問題が無視できなくなり、90年代には、豊かな社会の実現とともに、戦死者への敬意は忘れられてしまった。「この時期の靖国神社問題に関する遺族たちの主張の底流には、このような戦死者を忘れ去った同時代社会への反感があると考えられる」という指摘は、重い。真面目に考えなければいけないことだと思う。

 しかし、結局「なぜ」戦死者は死ななければならなかったのか、という問いに、誰も答えられないまま、遺族は沈黙し、忘却を選んで(あるいは強いられて)いく。…というのが、おおよそ本書の描く見取り図であるが、面白いのは、どの時代についても、平板な整理に回収されない庶民の声が、多数収録されていることだ。特にそれは、子どもたちの作文について顕著である。

 「『満州国の地図は赤くぬってしまいたいですね』といったら先生は笑って、『さうはいかないのですよ。みんなは欲ふかだね』とおっしゃった」という作文は、図らずも日中戦争の目的がどこにあったかを伝えている。「こんどの支那とのせんそうで、戦死までして下さる兵隊さんを、ほんたうにありがたく思ひます」とあるかと思えば、「ニュースで支那の町が我空軍のため火災を起してゐるのを見ました。支那の子供達はほんとうにかはいそうだと思ひました」とも。いったい、前線の兵士たちは、どんな思いでこれらを読んだのだろう。また、戦後、全国から戦死者遺児の靖国集団参拝が行われたが、長崎市の女生徒は、嫉妬心むきだしの友達に「うちの父ちゃんも死ねば良かったとにね、東京に行かれるとに」とあてこすられている。子どもの価値観では、お国のための戦死より東京旅行のほうが、ずっと重大だったのだ。

 本書について難をいえば、「故郷はなぜ兵士を殺したか」というタイトルは、あまり適切でないような気がする。故郷は、確かに兵士に死を強いたかもしれない。でも、それが「なぜ」(何のため)だったかという問いには、誰も、本書でさえも、答えられていないのだ。その答えを求めずに読むのであれば、本書には、さまざまな考察の材料が転がっていて興味深い。

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