見もの・読みもの日記

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8K映像で訪ねる/中尊寺金色堂(東京国立博物館)

2024-03-19 20:59:47 | 行ったもの(美術館・見仏)

東京国立博物館・本館特別5室 建立900年・特別展『中尊寺金色堂』(2024年1月23日~4月14日)

 上棟の天治元年(1124)を建立年ととらえ、中尊寺金色堂の建立900年を記念して開催する特別展。先月から参観の機会をうかがっていたのだが、来場者の波は減る様子がなく、先週末、建物の外に30分くらい並んで入場することができた。

 会場に入ると、展示物に進む前に大きなスクリーンで区切られた空間があって、金色堂の映像が映し出される。私は展覧会のイメージ映像や説明動画はスキップしてしまうことが多いのだが、これはちょっと様子が違うと思って立ち止まった。ゆっくり金色堂の扉が開くと、カメラは3つの須弥壇の全景を映し、さらにそれぞれの須弥壇に寄っていく。恐れ多くも須弥壇の上に乗って、中尊の阿弥陀仏と間近に正対するような視点である。この8K原寸大映像で体験する「没入感」は、本展の目玉のひとつとなっている。

 東向きの金色堂には、中央壇・西南壇・西北壇の3つの須弥壇があり、それぞれ11躯(阿弥陀・観音・勢至・二天・六地蔵)の仏像が安置されている。スクリーン背後の空間には、中央壇の11躯がいらしており、四方からよく見えるようにばらばらの展示ケースに収められていた。像高はどれも70cm前後で、比較的小さい。阿弥陀三尊は、凹凸の少ない穏やかな面相。観音・勢至の衣の裾が短めで、華奢な足首が目立っていた。二天像(増長天・持国天)は衣の袖を翻し、大きく体をひねって、なかなかの迫力。向かって左の増長天は刀を高く掲げ、口を開けた阿形、右の持国天は右手に刀、左手に鎗を構え、口を結んだ吽形である。六地蔵は額が広く、目鼻立ちが頭部の下の方に集まっているせいか、あどけない印象。8K映像で見たとき、縦に三人ずつ整列しているのが珍しくて、おもしろかった。

 壁沿いには、文書や古経、仏具や金具残欠などが展示されており、私は初っ端の『中尊寺建立供養願文』の前で固まってしまった。藤原清衡が中尊寺の大伽藍を建立し供養した際の願文で、私が見たのは南北朝時代・北畠顕家による写しだった(前期は鎌倉時代後期・藤原輔方による写し)。清衡が「東夷の遠酋」「俘囚の上頭」として、白河法皇の治世に感謝し、鎮護国家と天皇家の安寧を願う趣旨が述べられている。え~こんな自己認識を持つなんて、どういう人物だったんだろう?と、俄然、興味が湧いてしまった。しかし、あとで図録の解説を読んだら、この願意は、清衡自身の意思を反映したものではなく、文章博士・藤原敦光の作文だろうという。敦光の高い教養と仏教理解を示すとともに、都人の辺境人への蔑視からくる表現ともあって、背景を踏まえて史料を読む難しさを実感した。

 本展は、モノも面白かったが、図録の解説がさらに面白かった(巻頭文を書いている児嶋大輔さん、覚えた)。清衡願文にいう大伽藍は現在の中尊寺とは一致せず、かつては毛越寺伽藍と考えられたが、現在は否定的な見解が多く、金色堂南東の谷あいの大池付近に未知の伽藍跡が存在する可能性が示されているとのこと。また清衡願文に金色堂に関する記述がないのは、清衡自身の極楽往生を願った私的な堂だったためだという。そして、堂内に藤原氏歴代の遺骸が納められたことは長らく秘されていたようで、近世になるまで寺外にそのことが明かされた形跡は残らないという。遺骸を堂内に恒久的に安置する例は金色堂以外に見られず、遺体が腐らないことを往生の条件とした中国の思想が混入している可能性が強いというのも興味深い。どういう経路で?

 本展には清衡と見られる遺骸を納めていた『金箔押木棺』も出陳されている。日本の歴史文物で木棺を見るのは初めてかもしれない。絵画や彫刻の装飾は一切なく簡素だが、内外とも金箔貼り。蓋板の内側にはズレないように添え木がされていた。釈迦を納めた金棺になぞらえたともいう。

 3つの須弥壇は、中央壇→西北壇→西南壇の順に制作されたもので、清衡→基衡→秀衡に対応すると考えられている。しかし調査の結果、西北壇に安置されているのは秀衡の遺骸と泰衡の首級、西南壇に安置されているのは基衡の遺骸の可能性が高く、どこかで混乱があったと見られている。同様に、須弥壇上の仏像にも混乱が見られ、当初の中央壇(清衡壇)に付随した二天像は、いま西南壇に安置された二天像だろうという。確かに、やや古風な、威厳に満ちた静謐な造形だった。

 金色堂の棟木(展示なし)には「天治元年」の年記と、清衡のほか「女壇」(女性の壇越)として安部(倍)氏、清原氏、平氏の記載がある。え~誰なんだ、この3人。また巻柱などの部材の年輪年代調査によれば、伐採年または枯死年は、棟木銘の建立年代と矛盾しないという。金色堂の保存(当初材の残存率がきわめて高い)を助けたのは覆堂(鞘堂)の存在で、この修繕を命じたのが北条政子であること、甲冑姿の法師(秀衡?)が政子の夢に現れたのが機縁と『吾妻鏡』に記されていることも記録しておこう。

 私が初めて中尊寺金色堂を訪ねたのは中学3年の修学旅行で、その前に国語(古典)の授業で『奥の細道』の該当箇所はしっかり叩き込まれた。いま図録に引用された「四面新たに囲て甍を覆て風雨を凌ぐ。しばらく千載のかたみとはなれり」などの章句を見ると、わけも分からず覚えた文章のリズムが身体の中からよみがえってきて懐かしい。


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