見もの・読みもの日記

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高低差と歴史で読み解く/京都の凸凹(でこぼこ)を歩く2(梅林秀行)

2017-10-15 22:15:04 | 読んだもの(書籍)
○梅林秀行『京都の凸凹を歩く:名所と聖地に秘められた高低差の謎』 青幻舎 2017.5

 『京都の凸凹を歩く:高低差に隠された古都の秘密』からちょうど1年。嬉しいことに続編が刊行された。今回、取り上げられているのは「嵐山」「金額寺」「吉田山」「御所東」「源氏物語ゆかりの地(五条大橋西詰)」「伏見城」である。「嵐山」と「伏見城」は、NHK「ブラタモリ」でも紹介されたので、それ以外の章がとりわけ目新しく、興味深かった。

 まず「金閣寺」である。室町時代前期、足利義満が造営した邸宅「北山殿」がもとになっていると言われているが、実はそれ以前、鎌倉時代前期、西園寺家が造営した「北山第」があった。鎌倉時代には、すでに想像以上の規模で人工地形の造成が行われていたと見られている。

 金閣は鏡湖池の南岸から眺めるのがベストビューと考えられている。ところが、実は鏡湖池のさらに南には「南池」と呼ばれる庭園が広がっていたことが、古い絵地図などから分かっている。江戸時代中期には涸れ池だったと見られ、いつ造られ、いつまであったかは定かでないそうで、発掘調査の結果が待たれる。

 また、「北山殿」の主人・足利義満は、ふだんどこから金閣を眺めていたか。著者は、おそらく金閣の東側、現在の方丈付近ではないかと考える。さて、どんな光景が義満の目に映っていたか。ここでわくわくとページをめくると、見開きページをフルに使った写真がどーんと目に飛び込んでくる、本のつくりが巧い。視界前景の右端に金閣、左端には池中島。左側の遠景には衣笠山があり、ここは義満の祖父、初代将軍・足利尊氏が荼毘に付された場所であるという。幕末の錦絵にこの「東側から見た金閣」の構図があるのも面白かった。あんまり面白かったので、実際にこの視点から金閣を見に現地に行ってしまったくらいだ(※記録)。

 ほかにも金閣の裏側(北側)には天鏡閣という別の建物があり、複道(二階建ての廊下)でつながっていたとか、「安民沢」というもう一つの庭園、藤原定家も激賞した四十五尺滝の所在など、金閣だけですごい情報量である。2016年に金閣寺境内から巨大な銅片が発見され、まぼろしの「北山大塔」の相輪と考えられている、という話も知らなかった。また義満には「北山新都心構想」ともいうべき計画があり、一条通から北山殿まで「八丁柳」という中心道路を設け、守護大名や有名寺院をその周辺に集めようとしたらしい。歴史を語る地名が、現在もまだ残っているというのが嬉しい。

 「吉田山」の吉田神社には何度か参拝したことがあるが、現在の本宮は、かつては「春日社」として知られていたという。吉田神社は江戸時代を通じて神道界の権威として強い影響力を持ち、現在の「大元宮」がその本宮だった。しかし、吉田神道の秘儀的な色彩に批判的な神道家が出現し、さらに近代以降、国家神道が基軸となると、吉田神社は受難の時代を迎え、境内の大部分を政府に没収されてしまい、本宮の「入れ替え」が行われたらしい。ううむ、「神道」の盛衰って一括りにできないものなんだなあということを、あらためて感じた。

 その後、20世紀に入ると、谷川茂庵という実業家が吉田山の東山に山荘を造営し、モダンな集合住宅地を開発した。へええ、これも初めて知った。今回、吉田山の大元宮は行ってみたのだが、次の機会があれば、茂庵の山荘の食堂を生かしたというカフェへぜひ行ってみたい。

 また、「源氏物語」の六条院があったと想定される五条大橋西詰を歩く章では、紫の上の住まいである「春の町」の位置が、昭和30年代まで「七条新地」(戦後は「五条楽園」)と呼ばれる遊郭の地だったこと、六条御息所の旧宅であり、秋好中宮が暮らす「秋の町」に女人守護の市比賣神社があることなど、物語と現実が交錯する語りが興味深かった。市比賣神社には行ったことがあるが、源氏物語を偲んで歩いたことはないので、覚えておこうと思う。

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