見もの・読みもの日記

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歴史物語としての魅力/吾妻鏡(藪本勝治)

2024-08-19 00:17:55 | 読んだもの(書籍)

〇藪本勝治『吾妻鏡-鎌倉幕府「正史」の虚実』(中公新書) 中央公論新社 2024.7

 『吾妻鏡』は、鎌倉幕府の公式記録として1300年頃に編纂された史書で、治承4年(1180)に源頼朝が伊豆で挙兵してから、文永3年(1266)に第6代将軍宗尊親王が京都に送還されるまでを各将軍ごとに漢文編年体で記している。鎌倉幕府の草創から中期までの事蹟を記した、ほぼ唯一のまとまった文献であり、現在一般にイメージされる鎌倉時代の歴史像は『吾妻鏡』によって形成されてきた。私はこの時代にそれほど詳しくないけれど、一昨年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』を熱心に見ていたので、『吾妻鏡』にはこう記載されている、という解説には、けっこう気を配っていた。

 ところが、近年の研究によれば、『吾妻鏡』の本質は、多くのフィクションをまじえて構築された虚構のストーリーであることが分かってきたという。本書はこれを「頼朝挙兵」「平家追討」「奥州合戦」「比企氏の乱」「和田合戦」「実朝暗殺」「承久の乱」「宝治合戦」に焦点を当てて読み解いていく。

 たとえば「頼朝挙兵」について、『平家物語』では後白河の院宣と以仁王の令旨という二つの端緒が描かれるのに対して、『吾妻鏡』は令旨のみである。これは頼朝の挙兵を、頼政の宿意に端を発する源家再興の事業と位置づけるためと、令旨拝受の場に北条時政を介在させ、北条氏と源氏の結びつきを強調するためと考えられている。北条氏が自家の優越性を主張するために源氏将軍の権威を利用しているとも読める。ちなみに頼朝と時政の関係は、頼義(東国に源氏の地盤を確立)と平直方(助力者となった地元の豪族)の関係を想起させるように記述されている。

 もちろん『吾妻鏡』には、北条氏以外の忠臣の活躍も書き込まれている。こうした記事は、各家が頼朝と結びつこうとした家伝や、合戦の論功行賞のために提出した資料をそのまま取り込んだと見られている。その結果、複数の家の物語の相克が明らかになったり、敗者の声が紛れ込んだりしているのは、頼朝の支配の正統性を描くという構想の「ほころび」なのだが、そこにこの史書の魅力があるとも言える。

 頼朝の死後、頼家は徹底した悪王として描かれ、これと対比的に、北条泰時こそ頼朝の政道を継承する者として描かれる(このへん完全に『鎌倉殿』の配役でイメージ)。続いて登場する実朝は「文」(文芸、文書)の力を持ち、神仏と交信する存在であるのに対し、泰時は「武」と仁徳で武士たちを率いるという分業が意識されている。これは『吾妻鏡』編纂当時の、親王将軍と得宗家の分掌体制を反映してるという論も面白かった。

 しかし実朝は徐々に悪王化し(武を軽んじ、華美を好む)、神仏の加護を失い、暗殺される。この「悪王化」の一例として、唐船建造(失敗)説話が語られているが「これは虚構である可能性が高い」とのこと。「東大寺の大仏を再建した技術者である陳和卿が、海岸に船体が浮かぶかどうかという基本的な構造設計・地形調査を怠るはずもない」って、まあそうだよね。

 そして「承久の乱」を経て、頼朝以来の正統を受け継ぎ、神仏に庇護された英雄・泰時によって、得宗執権体制が確立される。なお京都では、その後の三浦義村の頓死、北条時房の急死、さらに泰時の死も後鳥羽院の怨霊の所為と考えられたが、『吾妻鏡』に後鳥羽院の怨霊に関する記事はない(泰時死去の年は欠巻)。編纂の同時代に近づく『吾妻鏡』後半の筆致が、前半の「文学的」魅力を失っていくのは、まあ仕方がないことかもしれない。

 本書は、京都の貴族の日記など、できるだけ同時代の史料を参照して『吾妻鏡』の曲筆、虚構を指摘しているのだが、参照資料のひとつとして、何度か定家の『明月記』が登場する。たとえば「和田合戦」について、鎌倉で起きた大事件だし、後世の編纂と言っても幕府の公的な史書なのだから『吾妻鏡』のほうが信用できるだろうと思ったら、実は『明月記』の記事の切り貼りで、しかも三浦義村の働きを省筆して、北条義時の美化が追加されているという検証には笑ってしまった。『明月記』、身近な京都の出来事だけを記録しているのではないのだな。あなどれない。

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