〇岡本隆司『二十四史:『史記』に始まる中国の正史』(中公新書) 中央公論新社 2025.4
「二十四史」とは、中国の史書の系列(シリーズ)の総称である。おおむね歴代王朝を単位(ユニット)にして編纂を重ねた書物群で、合計24部が「正史」と見做されている。ということくらいは知っていたが、あらためて24部の書名の一覧表を見て、半分くらいは、へえ、こんな史書があったのか、と驚いてしまった。本書は、これら「正史」の成立を時代順に追いながら、中国における「史学」の起源と発展を考える。
はじめに紀伝体を生み出した『史記』。列伝は司馬遷の独創であったけれど、主たる叙述の対象とした「春秋戦国」の時代は、生まれに依らず、一個人の才覚のみで功名を立てることができた時代だった。逆にいえば、個人の事蹟を書くことで社会のありようを書くことができた。特に注目すべきは貨殖列伝と游侠列伝。富豪も侠客も反儒教的な題材だが、民間の力量が積極的に評価されている。ああ、やっぱり『史記』は魅力的な書物だな~と胸が熱くなった。
しかし司馬遷以後の標準的な知識人たちは、もっと単純明快な書物を求めたという。その結果、生まれたのが『漢書』だった。著者の班固は、本紀を現体制=漢王朝の歴代天子に純化し、列伝は個人の才力よりも、儒教の教義に照らした道徳的な毀誉褒貶を語ることが主になった。
続く『三国志』は、当初、陳寿の私的な著述だったが、のちに西晋の公認となった。陳寿は蜀びいきといわれるが、「三国」分立を強調したのは、最終的に現王朝=西晋による統一を寿ぐ狙いがあったと著者は述べる。次いで登場する『後漢書』は列伝がユニークだというが詳細は略。ここまでを「前四史」という。
南北朝・隋を経て、唐王朝が成立すると、唐太宗・李世民は、史書の編纂を命じる。ここから正史の編纂が「官修」「分纂」となる伝統が始まる。筆を執る史臣は政権イデオロギーを体した記事を残すための存在となった、という記述はわびしい。現王朝の正統性を示すため、隋を傾けた煬帝は暗君暴君に描かれた。
宋代。旧来の門閥勢力は没落し、天子・皇帝は至尊の地位になった。たとえば近侍の史官が天子の言動を記録する「起居注」は、従来、原則として君主に忖度しなかったが、宋代になると「起居注」の記事をまとめて天子の一覧を経るのが慣例になったという。古い時代のほうが皇帝の力が強いように思っていたが、違うんだな。一方で宋代は文運さかんな時代だったので、すぐれた史書もつくられた。司馬光は「正史」のスタイルを踏襲しない編年体の史書『資治通鑑』を生み出す。さらに『通鑑』を効率的に読むために『通鑑紀事本末』とか『資治通鑑綱目』などが作られているのも、おもしろい。
やがてモンゴル帝国が崛起し、契丹・金を滅ぼすと前代王朝の正史編纂に取り掛かるが、最終的に宋を加えて『遼史』『金史』『宋史』が完成するには80年以上を要した。これは「正統」問題で議論が紛糾したためとも言われるが、著者はこれに賛成しない。三史の出来栄えはあまり評価されないが、史料的な価値は無視できないという。
次の明朝は成立早々、手回しよく『元史』を編纂した。これは、北方に隣接するモンゴル勢力が大きな脅威で、朱元璋が自らの体制存立に自信を持てなかったからこそ、明朝を「正統」として示すことが喫緊の課題だったのではないか。内藤湖南先生によれば『元史』は「歴代の正史中で最も蕪雑」だという。しかしそこからモンゴル語資料『元朝秘史』への注目が生まれたかもしれないので、歴史の禍福は分からない。
続く清朝も北京に入るとまもなく『明史』の編纂を計画したが、目前の騒乱平定にてこずって沙汰止みになり、乾隆年間にようやく完成した。当時は考証学の機運が高まっており、公文書に基づく実証的な記述が採用された。半面、文章は味も綾も乏しく、面白さに欠けるという評価は仕方のないところだろう。これは二十四史の最後になる。
清朝滅亡後、中華民国政府は清史館を設けて『清史』の編纂に取り掛かったが、完成したのは蒋介石の南京国民政府が北伐に成功した年だった。この『清史稿』の運命、および新たな『清史』編纂の試み(戦後、台湾にも大陸にもある)も興味深かった。「革命いまだ成らず」よりも「修史いまだ成らず」の状態なのだな。
政治(君主)と史書の関係について、すでにさまざまなパターンが試されているのは、さすが歴史の国だと思った。中国史の常識のように言われる「新王朝は前王朝の歴史を編纂する」慣習も、そうではないケースが多々あると分かったのは大変よかった。