見もの・読みもの日記

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諸侯の国際機構から「中国」へ/戦争の中国古代史(佐藤信弥)

2021-04-22 20:33:41 | 読んだもの(書籍)

〇佐藤信弥『戦争の中国古代史』(講談社現代新書) 講談社 2021.3

 本書は殷から漢王朝初期まで、様々な勢力間の戦争を見ていくことで「中国」形成の様子を描き出すことを目的とする。ある勢力と別の勢力が、戦争によって覇権を争い、興亡する様子を描くのは、最もスタンダードな歴史記述だと思う。最近は、経済とか生産力とか、新しい切り口の歴史記述が増えているように思うので、「戦争」に着目するのは、わりとオールドスタイルな感じがした。

 はじめに戦争の起源について。黄河の中下流域では、新石器時代後期には集落間の戦争が頻繁に起こるようになっていたと推定されている。河南省偃師市の二里頭遺跡では宮殿址や青銅礼器が発見され、殷に先立つ王権の存在が認められている(中国では夏王朝に比定)。

 「二里頭王朝」に取って代わったのが殷で、複数の都城が発見されているが、偃師商城・鄭州商城が内城外郭を具えるのに対して、安陽市の殷墟には城壁が確認されておらず、中国古代の都市は外郭を具えていないのが常態だったのではないかと考える中国の考古学者もいるという。これには通俗的な理解を覆されてびっくり。なお、殷代には戦車の使用が始まるが、騎兵が存在したかどうかは議論があるそうだ。

 周は兵農一致の常備軍を持ち、前線には諸侯を封じ、軍事力によって様々な勢力を服属させ、膨張していった。しかし後継者をめぐる政治的混乱に加え、西戎の侵攻によって東遷を余儀なくされ、以後、群雄割拠の時代(春秋、戦国時代)が始まる。東周時代の諸侯国の関係は、「国際政治」の観点から語られることが多いというのは面白い指摘だ。覇者を中心とする多国間の同盟関係は、現代の「国際機構」のような役割を果たし、同盟内の平和維持や内紛の調停、同盟外に対する共同防衛などが協議された。台北故宮博物院の「散氏盤」には、紛争解決の約定が記録されているという。ただし蛮夷戎狄は会盟の場から排除され、周王朝を奉じる諸侯国が「中国」の範囲と考えられるようになる。

 「尊王攘夷」が『春秋九羊伝』に出典を持つことは初めて知った。斉の桓公が、東周の襄王を保護し(尊王)、戎夷に侵攻された諸国を援け、自ら南方の楚国と戦ったり(攘夷)したことを評した言葉である。また『左伝』には、楚の荘王が「戈を止めるを武と為す」と語ったと記録されている。『義経千本桜』の渡海屋銀平、実は平知盛のセリフじゃないか! 日本の伝統と思って疑ったことのなかったもののルーツが、こんなところにあるなんて面白い。

 戦国時代には諸侯国の滅亡が進行し、生き残った諸国は競って「帝国」化を進め、最終的に秦が「中国」を統一する。この時代の兵法書『孫子』は「兵は詭道なり」で知られている。近年、中国古代の兵法や軍事思想に関する文献がいくつか発見されており、そのひとつ『曹沫之陳(そうばつのじん)』は、奇襲戦法を説かず、奇襲に対する用心も説かない。これは、同書の想定する戦争が、戦車中心の堂々たる会戦で、「軍礼」に基づくものだったからだ。宋の襄公は春秋時代の人物で、敵軍が川を渡り切る間、攻撃を控えたため、かえって敗北を喫し、「宋襄の仁」のいわれとなった。しかし、研究によれば、当時の人々には、戦争にまつわるルールと、スポーツマンシップ的な規範意識「軍礼」が共有されていたという。春秋から戦国にかけて、戦争が車兵中心から歩兵中心に変化し、戦争の大規模化と長期化が進行すると、詭計や陰謀が普通に受け入れられるようになった。そのほか、鉄製の武器や大型の弓「弩」が用いられるようになったこと、戦車でなく騎兵が導入されたのもこの時代の変化である。

 秦の始皇帝により統一された中国は、たちまち瓦解に瀕する。著者は「中央集権的な統一への忌避感が秦への反抗を促した」と述べる。そして、よりゆるやかな結合である郡国制を選択した漢は、「草原帝国」匈奴と共存共栄を図る。しかし武帝の時代には、国内の体制は中央集権的な郡県制に変質し、対外的には積極攻勢によって匈奴との共存を清算する。以後、漢の衰退は、長い「古代の終わり」である。

 中国史の概説書は、どうも長いタイムスパンを1冊に詰め込みすぎるきらいがあるが、次は春秋戦国時代に焦点をしぼった本を読んでみたい。あと、この時代を題材にした中国ドラマの情報がさりげなく盛り込まれていたのも、いずれ活用したいと思う。

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