〇原直史『近世商人と市場』(日本史リブレット) 山川出版社 2017.7
近世は商品経済が次第に社会を覆っておく時代であり、市場(いちば)が発展し、現代の専門化・高度化した市場(いちば/しじょう)の基礎が形づくられた時代だった。本書では魚肥(ぎょひ)の市場を取り上げる。魚肥とは魚を加工してつくられた肥料のことで、中心的な原料はイワシとニシンである。
ちょっと面白そうだと思って読み始めたのだが、知らないことが多くて難渋した。ドラマや小説になり易い、誰と誰が戦って誰が天下を治めたか、という歴史は知っていても、人々の暮らしの具体的な実態はまるでつかめていないのだ。私は都会育ちでもあり、農業や漁業には全く疎い。魚肥? 海で獲れる魚を畑の肥料にしていたの? 肥料にするために魚を獲って、商品として流通させていたの?? という、最初の前提でつまずいてしまった。まあしかし、知らないことを学ぶのは楽しいことだ。
あらためてWikipedia等を調べて、「干鰯(ほしか)」(鰯を干して乾燥させた後に固めて作った肥料)の出現は、一説には戦国時代にまで遡ると言われていることを知った。日本近海で獲れる鰯を乾燥させ、肥料として自己の農地に播いたのが干鰯の始まりで、江戸時代も17世紀後半に入ると、商品作物の生産が盛んになり、同時に農村における肥料の需要が高まり、干鰯が商品として流通するようになったという。
本書ははじめに江戸における干鰯市場の成立を扱う。房総半島での魚肥生産は、漁業先進地である上方からやってきた出漁民によって戦国末期~江戸初期に開始された(この話も気になる)。当初は出漁民自身が魚肥を上方に持ち帰っていたが、やがて江戸や東浦賀で中継取引が行われるようになる。江戸に成立した干鰯問屋は、北新堀町・南茅場町などに店を構えたが、船の積荷を陸揚げする空き地がだんだん少なくなってきた。そこで新たに深川地域に干鰯場がつくられ、銚子場・永代場・元場・江川場の四つが設けられた。これらは荷揚げの場であると同時に、売り手と買い手が立ち会って価格を決定する市場でもあった。富岡八幡宮の境内には、江川場の買手中が奉納した石灯籠が残っているという。おお、今度、見に行ってこよう。
市場を構成する人々、問屋とか仲買の役割や、市場を維持する仕組み(手数料の徴収)などの説明は、正直、よく理解できなかった。私は経済活動は苦手なのだ。この複雑な市場の仕組みをまわしている江戸の人々に感心する。
次に、大坂における魚肥取引について述べる。大坂では、靭町・天満町がまず魚市場となり、寛永元年(1624)永代掘が開削されると、永代浜が諸魚干鰯揚場・市場として認められた。調べてみたら、中之島の南の辺りかあ、行ったことないかなあ。江戸では食用の鮮魚や塩干魚の市場と干鰯の市場が別々に成立したが、大坂では食用の塩干魚と干鰯の融合した市場であったというのも面白い。
18世紀後期以降、蝦夷地産ニシン魚肥が本格的に流入するようになる(背景に、松前や江差の近江商人の衰退→各地の船持の自立→北前船ルートの開拓。これも詳しく知りたい)。大坂の干鰯屋には、取引地域に基づき「関東最寄」「近州最寄」などのグループが存在していたが、新たに「松前最寄」が成立する。このように多様な取引が成立した理由として、魚肥という商品が、魚の種類や加工方法によって、どの地域のどの作物に向くか、細かな好みが分かれるものであった、というのがとても面白い。よい魚肥と悪い魚肥は、一元的に格付けできるものではないのだ。こういう多様な「関係性の束をすりあわせていく」というのが、市場の大切な機能だったことが納得できた。
最後にもう一度、関東に戻って、房総産魚肥の流通を見ながら、九十九里の浜商人(はまあきんど)の活躍や、浜商人のネットワークを束ねて江戸の干鰯問屋に対抗しようとした東浦賀の干鰯問屋や、領主権力が関与して問屋を介さずに魚肥を送り出そうとした動きを紹介する。流通ルートが多様化・流動化する中で、時代は近代を迎え、新たな商人による新たな市場が作り上げられていく。本書の内容が十分理解できたかどうか、自信はないが、具体的なイメージを伴う生産や流通の歴史をもっと知りたいと思った。

ちょっと面白そうだと思って読み始めたのだが、知らないことが多くて難渋した。ドラマや小説になり易い、誰と誰が戦って誰が天下を治めたか、という歴史は知っていても、人々の暮らしの具体的な実態はまるでつかめていないのだ。私は都会育ちでもあり、農業や漁業には全く疎い。魚肥? 海で獲れる魚を畑の肥料にしていたの? 肥料にするために魚を獲って、商品として流通させていたの?? という、最初の前提でつまずいてしまった。まあしかし、知らないことを学ぶのは楽しいことだ。
あらためてWikipedia等を調べて、「干鰯(ほしか)」(鰯を干して乾燥させた後に固めて作った肥料)の出現は、一説には戦国時代にまで遡ると言われていることを知った。日本近海で獲れる鰯を乾燥させ、肥料として自己の農地に播いたのが干鰯の始まりで、江戸時代も17世紀後半に入ると、商品作物の生産が盛んになり、同時に農村における肥料の需要が高まり、干鰯が商品として流通するようになったという。
本書ははじめに江戸における干鰯市場の成立を扱う。房総半島での魚肥生産は、漁業先進地である上方からやってきた出漁民によって戦国末期~江戸初期に開始された(この話も気になる)。当初は出漁民自身が魚肥を上方に持ち帰っていたが、やがて江戸や東浦賀で中継取引が行われるようになる。江戸に成立した干鰯問屋は、北新堀町・南茅場町などに店を構えたが、船の積荷を陸揚げする空き地がだんだん少なくなってきた。そこで新たに深川地域に干鰯場がつくられ、銚子場・永代場・元場・江川場の四つが設けられた。これらは荷揚げの場であると同時に、売り手と買い手が立ち会って価格を決定する市場でもあった。富岡八幡宮の境内には、江川場の買手中が奉納した石灯籠が残っているという。おお、今度、見に行ってこよう。
市場を構成する人々、問屋とか仲買の役割や、市場を維持する仕組み(手数料の徴収)などの説明は、正直、よく理解できなかった。私は経済活動は苦手なのだ。この複雑な市場の仕組みをまわしている江戸の人々に感心する。
次に、大坂における魚肥取引について述べる。大坂では、靭町・天満町がまず魚市場となり、寛永元年(1624)永代掘が開削されると、永代浜が諸魚干鰯揚場・市場として認められた。調べてみたら、中之島の南の辺りかあ、行ったことないかなあ。江戸では食用の鮮魚や塩干魚の市場と干鰯の市場が別々に成立したが、大坂では食用の塩干魚と干鰯の融合した市場であったというのも面白い。
18世紀後期以降、蝦夷地産ニシン魚肥が本格的に流入するようになる(背景に、松前や江差の近江商人の衰退→各地の船持の自立→北前船ルートの開拓。これも詳しく知りたい)。大坂の干鰯屋には、取引地域に基づき「関東最寄」「近州最寄」などのグループが存在していたが、新たに「松前最寄」が成立する。このように多様な取引が成立した理由として、魚肥という商品が、魚の種類や加工方法によって、どの地域のどの作物に向くか、細かな好みが分かれるものであった、というのがとても面白い。よい魚肥と悪い魚肥は、一元的に格付けできるものではないのだ。こういう多様な「関係性の束をすりあわせていく」というのが、市場の大切な機能だったことが納得できた。
最後にもう一度、関東に戻って、房総産魚肥の流通を見ながら、九十九里の浜商人(はまあきんど)の活躍や、浜商人のネットワークを束ねて江戸の干鰯問屋に対抗しようとした東浦賀の干鰯問屋や、領主権力が関与して問屋を介さずに魚肥を送り出そうとした動きを紹介する。流通ルートが多様化・流動化する中で、時代は近代を迎え、新たな商人による新たな市場が作り上げられていく。本書の内容が十分理解できたかどうか、自信はないが、具体的なイメージを伴う生産や流通の歴史をもっと知りたいと思った。