〇大竹文雄『競争社会の歩き方:自分の「強み」を見つけるには』(中公新書) 中央公論新社 2017.8
著者の名前を見て、あ、「競争社会」の人だ、と思った。前著『競争と公平感』(中公新書、2010)がとても面白かったのである。かなり評判にもなったはずだ。そこで新刊のタイトルにも「競争社会」というキーワードを入れた中公新書編集部のマーケティング戦略は正しい。ただし実際の内容は、「競争」に限らず、もう少し幅広い経済学の視野から、さまざまな社会問題を扱っている。
序盤はかなり強く「競争」にフォーカスする。プロバスケットボール船選手のマイケル・ジョーダンは、一度だけメジャーリーガーへの転身を図ったが、夢を果たせず、バスケットボールを極めたことを例に取り、熾烈な競争には、人をそれぞれの得意分野に向かわせると説く。その結果、一人の強者による独占が阻止され、弱者にも活躍の場が生まれる。逆にいうと、競争が少ないと私たちは、自分の本当の長所を見つけることができない。これが競争の利点だという。論理的に間違ってはいないのだが、なんとなく納得できない。私は自分の得意分野を見つけるより、自分の好きなことに従って生きたいのだが、そういう人間は社会の経済効率を阻害する存在なのだろう。
それから「チケット転売問題」について。私は、ときどき転売サイトの恩恵を受けているので、転売を悪と決めつける風潮には違和感を持つ。しかし著者のように、ファンの熱心度=どのくらいチケットが欲しいか=いくらまでならお金を出せるか、に単純化することにも納得がいかない。経済学とはそういうものだというけれど、チケット代1万円が、年収1000万円の人にとって持つ意味と、年収200万円の人にとって持つ意味を同一視していいのだろうか。まあ著者も、これは乱暴と思ったのか、行動経済学的な解釈を加味して、一部の席をオークションにして、しかもその差額をチャリティにしては?という提案を試みている。これは賛成できる案である。
また、司馬遼太郎の経済観を論じて、著者は、司馬が1975年に「資本主義である限りは、社会科学的に徹底的な合理主義が確立していなければなりませんでしょう」と述べ、そのような精神が日本から失われている、と嘆いていることを紹介している。まことに資本主義(競争メカニズム)が健全に機能するには、合理主義と一体でなければならないのだ。70年代に司馬が案じた「ぶよぶよの水増しの資本主義」の末路が、現在の日本経済、日本社会なのではないかと思う。
司馬が指摘している「外部性」の問題も面白かった。ある人が自分勝手な土地の利用をすると、景観が壊れ、土地の価値を下げて周囲に迷惑をかける。迷惑をかけているが、迷惑料を払う必要がないので、迷惑が過剰になる。これを「負の外部性」という。逆に自分の行動で周囲に利得を与えているが、自分に利益がない場合は、その行動が過小になる。これを「正の外部性」という。
この問題は後半にもう一度出てきて、「外部性の内部化」という解決指針が示される。たとえば教育に税金を投入することを、教育を受ける者の私的利益と考えるなら、それは他の人たちにとって「正の外部性」である。しかし、教育を受ける者が増えることで、企業は従業員の訓練も簡単にできるし、新しい技術開発も起こるし、社会全体の生産性も高まると考える人が多数になれば、より多くの税金を教育に投資することが可能になる。うん、これからは、他人の説得や問題解決を考えるとき、「外部性の内部化」という視点を持つといいかもしれない。
感情と経済について、費用を伴わない丁寧な謝罪文のほうが、少ない金額でまともな謝罪がない場合よりも許される、という調査(オックスフォード大学)は興味深い。訴訟大国アメリカでも、医療事故が起きた場合「ごめんなさい」と謝罪してもそれが証拠にはならないという法律(アイムソーリー法)が整備されつつあり、この法律が通った州では医療過誤の訴訟件数が減っている。こういう効果を、経済学的には「謝罪は社会的コストを下げる」と表現するのがまた面白い。
さらに、これは経済学なのか?と驚く研究も紹介されている。「互恵的な考え方や他人に対する信頼の程度が、経済成長や所得水準に影響を与える」というのだ。「一般的に言って人々は信頼できる」と思っている人の割合が高い国の方が、経済成長率が高いとか、「他人に親切にする」という躾を子供の頃から受けて育った人は、そうでない人よりも平均で30万円ほど年収が高い(日本)という調査結果もあるそうだ。私は直感的に納得できると思ったが、詳しくは本書で確かめてもらいたい。
また「姉をもった男性は競争嫌い」とか「弟をもった女性は、他の女性より競争的報酬を好む」という実験結果もあるそうだ(あくまで「傾向」であるけれど)。継続的にストレスにさらされ、ストレスホルモンが高い状態が続くと、人はリスク回避的になり、技術革新が少なくなるという話もある。社会調査、医学、心理学など、さまざまな研究が活用されており、とにかく面白い話のネタには事欠かない本である。

序盤はかなり強く「競争」にフォーカスする。プロバスケットボール船選手のマイケル・ジョーダンは、一度だけメジャーリーガーへの転身を図ったが、夢を果たせず、バスケットボールを極めたことを例に取り、熾烈な競争には、人をそれぞれの得意分野に向かわせると説く。その結果、一人の強者による独占が阻止され、弱者にも活躍の場が生まれる。逆にいうと、競争が少ないと私たちは、自分の本当の長所を見つけることができない。これが競争の利点だという。論理的に間違ってはいないのだが、なんとなく納得できない。私は自分の得意分野を見つけるより、自分の好きなことに従って生きたいのだが、そういう人間は社会の経済効率を阻害する存在なのだろう。
それから「チケット転売問題」について。私は、ときどき転売サイトの恩恵を受けているので、転売を悪と決めつける風潮には違和感を持つ。しかし著者のように、ファンの熱心度=どのくらいチケットが欲しいか=いくらまでならお金を出せるか、に単純化することにも納得がいかない。経済学とはそういうものだというけれど、チケット代1万円が、年収1000万円の人にとって持つ意味と、年収200万円の人にとって持つ意味を同一視していいのだろうか。まあ著者も、これは乱暴と思ったのか、行動経済学的な解釈を加味して、一部の席をオークションにして、しかもその差額をチャリティにしては?という提案を試みている。これは賛成できる案である。
また、司馬遼太郎の経済観を論じて、著者は、司馬が1975年に「資本主義である限りは、社会科学的に徹底的な合理主義が確立していなければなりませんでしょう」と述べ、そのような精神が日本から失われている、と嘆いていることを紹介している。まことに資本主義(競争メカニズム)が健全に機能するには、合理主義と一体でなければならないのだ。70年代に司馬が案じた「ぶよぶよの水増しの資本主義」の末路が、現在の日本経済、日本社会なのではないかと思う。
司馬が指摘している「外部性」の問題も面白かった。ある人が自分勝手な土地の利用をすると、景観が壊れ、土地の価値を下げて周囲に迷惑をかける。迷惑をかけているが、迷惑料を払う必要がないので、迷惑が過剰になる。これを「負の外部性」という。逆に自分の行動で周囲に利得を与えているが、自分に利益がない場合は、その行動が過小になる。これを「正の外部性」という。
この問題は後半にもう一度出てきて、「外部性の内部化」という解決指針が示される。たとえば教育に税金を投入することを、教育を受ける者の私的利益と考えるなら、それは他の人たちにとって「正の外部性」である。しかし、教育を受ける者が増えることで、企業は従業員の訓練も簡単にできるし、新しい技術開発も起こるし、社会全体の生産性も高まると考える人が多数になれば、より多くの税金を教育に投資することが可能になる。うん、これからは、他人の説得や問題解決を考えるとき、「外部性の内部化」という視点を持つといいかもしれない。
感情と経済について、費用を伴わない丁寧な謝罪文のほうが、少ない金額でまともな謝罪がない場合よりも許される、という調査(オックスフォード大学)は興味深い。訴訟大国アメリカでも、医療事故が起きた場合「ごめんなさい」と謝罪してもそれが証拠にはならないという法律(アイムソーリー法)が整備されつつあり、この法律が通った州では医療過誤の訴訟件数が減っている。こういう効果を、経済学的には「謝罪は社会的コストを下げる」と表現するのがまた面白い。
さらに、これは経済学なのか?と驚く研究も紹介されている。「互恵的な考え方や他人に対する信頼の程度が、経済成長や所得水準に影響を与える」というのだ。「一般的に言って人々は信頼できる」と思っている人の割合が高い国の方が、経済成長率が高いとか、「他人に親切にする」という躾を子供の頃から受けて育った人は、そうでない人よりも平均で30万円ほど年収が高い(日本)という調査結果もあるそうだ。私は直感的に納得できると思ったが、詳しくは本書で確かめてもらいたい。
また「姉をもった男性は競争嫌い」とか「弟をもった女性は、他の女性より競争的報酬を好む」という実験結果もあるそうだ(あくまで「傾向」であるけれど)。継続的にストレスにさらされ、ストレスホルモンが高い状態が続くと、人はリスク回避的になり、技術革新が少なくなるという話もある。社会調査、医学、心理学など、さまざまな研究が活用されており、とにかく面白い話のネタには事欠かない本である。