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見もの・読みもの日記

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足利将軍家の兄弟ゲンカ/観応の擾乱(亀田俊和)

2017-08-16 23:30:58 | 読んだもの(書籍)
〇亀田俊和『観応の擾乱:室町幕府を二つに裂いた 足利尊氏・直義兄弟の戦い』(中公新書) 中央公論新社 2017.7

 『応仁の乱』に続いて、話題の南北朝・室町時代「乱」シリーズを読んでみた。観応の擾乱(1349-1352)は、征夷大将軍・足利尊氏と、幕政を主導していた弟の直義(ただよし)との対立から起きた全国規模の内乱であるというが、私は本書が出るまで全く知らなかった。私は高校で日本史を習わなかったので、大人になってから読書で知識を身に着けたが、かなり偏りがあることは自覚している。南北朝に興味はあるのだが、なかなか糸口が見いだせない。ドラマや映画になる機会も少ないし。以前、古典の『太平記』に手を出してみたが、人物が類型的で(※平家物語と比較)あまり面白くなかった。そんなわけで、本書を読むのもけっこう苦労した。

 本書は、後醍醐天皇が尊氏・直義兄弟を朝敵と認定し、官軍を差し向けたにもかかわらず、尊氏軍は東海道を攻め上り、ついに後醍醐天皇を吉野亡命に追いやって、建武5年/暦応元年(1338)室町幕府を開いたところから始まる。尊氏は征夷大将軍、直義は左兵衛督に任ぜられたが、尊氏は政務に消極的で、幕府の権限の大半は直義が行使した。そして、このあとも足利尊氏という人物は、何を考えているのか、なかなか表面に出てこない。

 高師直は、尊氏・直義兄弟共通の執事の役割を果たしていたと本書は考えるが、貞和5年/正平4年(1349)直義は側近の武将らの進言を容れ、尊氏に迫って師直の執事職解任を成し遂げる。しかし、師直は逆クーデターを仕掛けて成功し、直義は出家して幕政から退くことになった。直義に替わって、尊氏の嫡男・義詮が幕府の権限を握った。一方、足利直冬(ただふゆ、尊氏男、直義養子)は九州・四国に転進して、猛威を振るった。

 尊氏-義詮-師直は、直冬はじめ各地の反乱への対応に苦心していたが、観応元年(1350)直義は京都を脱出して河内国石川城に入り、吉野の南朝に降伏を申し出る。これはびっくりした。幕府の権力闘争(兄弟げんか)に南朝の権威を利用するって、手段を択ばないにもほどがある。日本にもこんなに面白い武将がいたのかと呆れ、感心した。こういう人物、嫌いじゃない。そして、各地で尊氏-師直派と直義派の衝突が起きたが、師直は摂津国武庫川辺で戦死し、擾乱の第一幕は直義派の圧勝で講和に至る。

 しかし直義は、愛児・如意王の死という不幸もあって気力を失い、諸将の失望を買う。「(このひとの下で)努力すれば報われる」という信頼がなければ、武士の棟梁は成り立たないのである。孤立した直義は、京都を出奔し、関東に転戦して、尊氏軍に敗れ、最後は鎌倉・浄妙寺境内の延福寺に幽閉されて死去した(毒殺説もあり)。直義の、忙しく動き回ったわりに功の少ない生涯には、感慨をもよおす。逆に、観応の擾乱の第二幕あたりから、ようやく表舞台に這い出てきた感のある尊氏のほうが、知名度がずっと高いのも面白いと思う。

 その後の室町幕府は、尊氏が旧鎌倉幕府(東日本)、義詮が旧六波羅・鎮西両探題(西日本)の領域を統治したと推定されている。また、九州の直冬は、正平10年/文和4年(1355)に京都に攻め上り、市中で尊氏軍と激突した。これ以降は勢力を失い、没年もはっきりしないとのこと。この時期、晩年(50代)の尊氏は戦いの陣頭に立っており、なかなかカッコいい。かつて全くパッとしない征夷大将軍だったのがウソのようで、人生あきらめてはいけないなあと思った。
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