○ケストナー著、丘沢静也訳『飛ぶ教室』(光文社古典新訳文庫) 光文社 2006.9
小説をほとんど読まない私だが、ときどき、発作的に読みたくなる。そういうときは古典を選ぶ。「名作」と聞いていても、まだ読んだことのない本は多い。本書も、子ども時代に、たぶん一度くらいは読みかけたと思うのだが、きちんと読み通すことなく終わってしまったようだ。私はファンタジーびいきだったので、こういう写実的な物語は苦手だったのかもしれない。
舞台は、1930年代(大不況時代だ)のドイツのギムナジウム。男子学生だけが集う、9年制の寄宿学校である。主人公集団は高等科1年の少年たち(14歳くらい?)。物語は、主人公集団のひとり、アメリカ生まれのジョナサン・トロッツが、4歳のとき、離婚した実父によって、厄介払い同然に、単身ドイツ行きの船に乗せられたことから始まる。ハンブルクの波止場に迎えにくるはずの祖父母は現れず、ジョナサンは船長の妹に引き取られた。
成長したジョナサンが、ギムナジウムの同級生のために書きおろしたクリスマス芝居が「飛ぶ教室」である。クリスマス祭を控えて、出演者たちは練習に余念がない。そこに、敵対する実業学校の生徒たちが、彼らのディクテーション・ノートを奪い去り、さらに仲間のひとりを人質にするという事件が持ち上がる。少年たちは、寄宿舎を抜け出し、仲間の奪還に成功する。しかし、帰ってきたところを上級生に見とがめられてしまう。
「正義さん」と呼ばれる、正義が大好きな舎監のベーク先生は、少年たちの話を聞き、「どうやら私はまだちゃんと信頼されていないみたいだから」と前置きして、自分が寄宿生だった頃の体験談を物語る。病気の母親の見舞いに行くため、何度も無断で学校を抜け出したこと。厳しい舎監の先生には、真実が話せなかったこと。「そのとき決心したんだ。苦しんだのは、心を割って話せる人がいなかったためだから、まさにこの学校で、自分が舎監になろう、ってね。そうすれば少年たちは、悩みごとをなんでも相談できるわけだから」。
うわ。何てカッコいいんだ。この箇所を電車の中で読んでいた私は、ぼろぼろに涙腺崩壊してしまった。「ハリー・ポッター」シリーズのダンブルドア校長にもちょっと通じるけど、正義さんのほうが、野暮で骨太のカッコよさ、男らしさを感ずる。いずれにしても、少年の理解者である大人(とりわけ教師)を描いた児童文学の伝統を持つ国は幸せだと思う。こういう作品を読んで育ったら、厳しい現実に突き当たっても、大人になること(大人に立ち混じること)に絶望しないですむのではないかしら。同時に、既に大人になってしまった自分が、子ども(後輩)のために、何をすべき責任を負っているか、ということを、あらためて思い出させてくれる物語でもある。
「禁煙さん」というおじさんも素敵だ。お払い箱になった禁煙車両で暮らしている謎の人物で、夜はあまり品のよくないレストランで、ピアノを弾いて生計を立てている。少年たちは、正義さんに相談できないことも禁煙さんになら相談できると感じている。それから、火を噴くようなディクテーションで生徒をしぼり上げるクロイツカム先生も、凡庸なりに少年たちを愛している校長先生も、みんな好きだ。私がもう少し若かったら、主人公の少年たちの個性豊かな造型に夢中になったと思うのだが、この歳で読むと、むしろ大人たちの描き方に惹かれた。世間にはさまざまな大人がいるけれど、ある者は思慮深く、ある者はぎこちなく、でもみんな、子どもを愛しているのだということが信じられて、感動的だった。
最後のエピソードは、父親が失業中のため、家から汽車賃を送ってもらうことができず、クリスマス休暇に帰省できなくなったマルティンに、ベーク先生が旅費の20マルクをプレゼントするというもの。これ、今の学校で読ませたら、「教師が生徒に現金をプレゼントするなんてもってのほか」「むしろ我慢を教えるべき」とか、紛糾しそうだなーと思った。いいんじゃないの? 貧乏が不幸なのではない。でも貧乏が理由で、クリスマスの家族団欒が奪われるのは、当の子どもにとって、間違いなく不幸なことだ。それが20マルクで救えるのなら。そして、救われたマルティンが「お母さんとお父さんが、正義さんと禁煙さんが、ジョニーとマティアスが、ウーリとゼバスティアンが(同級生たち)、ほんとうに、ほんとうに幸せになりますように。そしてぼくも幸せになりますように」と願いを捧げてくれるなら。私は泣いた。そういう真剣な願いがあってこそ、未来は少しずつ明るくなっていくのだと思う。
親の育児放棄とか貧困とか、意外と今日的なテーマに結びつきつつ、たぶん子どもたちには生きていく勇気を、大人には、より住みやすい社会をつくる責任を思い出させてくれる名作である。「子どもの涙が大人の涙より小さいなんてことは絶対にない」って名言。「元気をだせ。打たれ強くなれ」「ガードを固めることだ」というのは、作者が子どもたちに贈る、人生に立ち向かうための心構えである。

舞台は、1930年代(大不況時代だ)のドイツのギムナジウム。男子学生だけが集う、9年制の寄宿学校である。主人公集団は高等科1年の少年たち(14歳くらい?)。物語は、主人公集団のひとり、アメリカ生まれのジョナサン・トロッツが、4歳のとき、離婚した実父によって、厄介払い同然に、単身ドイツ行きの船に乗せられたことから始まる。ハンブルクの波止場に迎えにくるはずの祖父母は現れず、ジョナサンは船長の妹に引き取られた。
成長したジョナサンが、ギムナジウムの同級生のために書きおろしたクリスマス芝居が「飛ぶ教室」である。クリスマス祭を控えて、出演者たちは練習に余念がない。そこに、敵対する実業学校の生徒たちが、彼らのディクテーション・ノートを奪い去り、さらに仲間のひとりを人質にするという事件が持ち上がる。少年たちは、寄宿舎を抜け出し、仲間の奪還に成功する。しかし、帰ってきたところを上級生に見とがめられてしまう。
「正義さん」と呼ばれる、正義が大好きな舎監のベーク先生は、少年たちの話を聞き、「どうやら私はまだちゃんと信頼されていないみたいだから」と前置きして、自分が寄宿生だった頃の体験談を物語る。病気の母親の見舞いに行くため、何度も無断で学校を抜け出したこと。厳しい舎監の先生には、真実が話せなかったこと。「そのとき決心したんだ。苦しんだのは、心を割って話せる人がいなかったためだから、まさにこの学校で、自分が舎監になろう、ってね。そうすれば少年たちは、悩みごとをなんでも相談できるわけだから」。
うわ。何てカッコいいんだ。この箇所を電車の中で読んでいた私は、ぼろぼろに涙腺崩壊してしまった。「ハリー・ポッター」シリーズのダンブルドア校長にもちょっと通じるけど、正義さんのほうが、野暮で骨太のカッコよさ、男らしさを感ずる。いずれにしても、少年の理解者である大人(とりわけ教師)を描いた児童文学の伝統を持つ国は幸せだと思う。こういう作品を読んで育ったら、厳しい現実に突き当たっても、大人になること(大人に立ち混じること)に絶望しないですむのではないかしら。同時に、既に大人になってしまった自分が、子ども(後輩)のために、何をすべき責任を負っているか、ということを、あらためて思い出させてくれる物語でもある。
「禁煙さん」というおじさんも素敵だ。お払い箱になった禁煙車両で暮らしている謎の人物で、夜はあまり品のよくないレストランで、ピアノを弾いて生計を立てている。少年たちは、正義さんに相談できないことも禁煙さんになら相談できると感じている。それから、火を噴くようなディクテーションで生徒をしぼり上げるクロイツカム先生も、凡庸なりに少年たちを愛している校長先生も、みんな好きだ。私がもう少し若かったら、主人公の少年たちの個性豊かな造型に夢中になったと思うのだが、この歳で読むと、むしろ大人たちの描き方に惹かれた。世間にはさまざまな大人がいるけれど、ある者は思慮深く、ある者はぎこちなく、でもみんな、子どもを愛しているのだということが信じられて、感動的だった。
最後のエピソードは、父親が失業中のため、家から汽車賃を送ってもらうことができず、クリスマス休暇に帰省できなくなったマルティンに、ベーク先生が旅費の20マルクをプレゼントするというもの。これ、今の学校で読ませたら、「教師が生徒に現金をプレゼントするなんてもってのほか」「むしろ我慢を教えるべき」とか、紛糾しそうだなーと思った。いいんじゃないの? 貧乏が不幸なのではない。でも貧乏が理由で、クリスマスの家族団欒が奪われるのは、当の子どもにとって、間違いなく不幸なことだ。それが20マルクで救えるのなら。そして、救われたマルティンが「お母さんとお父さんが、正義さんと禁煙さんが、ジョニーとマティアスが、ウーリとゼバスティアンが(同級生たち)、ほんとうに、ほんとうに幸せになりますように。そしてぼくも幸せになりますように」と願いを捧げてくれるなら。私は泣いた。そういう真剣な願いがあってこそ、未来は少しずつ明るくなっていくのだと思う。
親の育児放棄とか貧困とか、意外と今日的なテーマに結びつきつつ、たぶん子どもたちには生きていく勇気を、大人には、より住みやすい社会をつくる責任を思い出させてくれる名作である。「子どもの涙が大人の涙より小さいなんてことは絶対にない」って名言。「元気をだせ。打たれ強くなれ」「ガードを固めることだ」というのは、作者が子どもたちに贈る、人生に立ち向かうための心構えである。