○竹信三恵子『ルポ雇用劣化不況』(岩波新書) 岩波書店 2009.4
あまり感心しない本だった。2009年4月に店頭に出たのを見たときは「え?いまさら?」と思った。約1年後に読んでみて、一層「いまさら」感がつのった。もともと、2008年3月から5月にかけて朝日新聞に連載された企画だというから、その当時なら、もう少し新鮮味があったのかもしれないが。
カバーの折り込みに記された内容紹介はこうだ。「大幅な人件費削減で不況を乗り切ろうとする日本企業。規制緩和の後押しも受け、いまや労働現場は激変している。過酷な労働と不安定な生活を強いられる非正社員、目先のノルマに追われる正社員……。劣化し続ける雇用は企業の力を奪い、さらなる不況をもたらしている。丹念な取材で今日の雇用の実態を浮き彫りにし、解決の糸口を探る」。
「丹念な取材」の対象は、以下のような人々だ。派遣工からホームレスになった24歳の男性。ホームセンターのパート職員だった69歳の女性。高齢者ケアのNPOで働く29歳の女性。コンビニの「名ばかり正社員」「名ばかり管理職」だった29歳の女性、外食チェーンの「店長」として、過労死した49歳の男性、等々。要するに、非正規労働、公共サービス、民間企業の正社員&管理職など、今や性別と年代を問わず、雇用労働のあらゆる局面で「劣化」が進行していることが示されている。
書かれていることは正しい。ただ、本書を読んで、日本の雇用現場の「劣化」にはじめて気づくって、どういう人たちなんだろう?とフシギでしかたなかった。学生なら仕方ないか。でも、実際に仕事を持っている人間なら、たとえ自分の周辺がこれほど深刻でなくても、「社会全体で何が進行しているか」は分かっていて当然ではないかと思う。
むかし、宇宙論の本で、羊羹の内部にいる人間でも、「このへん」の羊羹の密度と「あのへん」の羊羹の密度の違いを比較計量すれば、全体として羊羹がどんなふうにねじれているか、把握することができる、というのを読んで、卓抜な比喩だと思ったことがある。「全体状況を俯瞰する」ためには、大所高所に立つ必要はなくて、そういう類推能力があれば足りると思うのだが、日本人には、その能力がなくなってしまったのかな。そう、本書の告発を待つまでもなく、間違いなく日本の雇用労働は、広範囲にひどいことになっている。
ただし、「いまや労働現場は激変している」という表現にも注意が必要だ。著者は、一体「いつ」と比べているのか? 「過酷な労働と不安定な生活」に苦しむ労働者は、いつの時代にもいたはずだ。確かに、終身雇用と年功賃金が一般的だった時代(1960~90年代中葉?)は比較的目立たなかったけれど、問題が見えなかっただけということもできる。問題を日本の外部に押し付けて、日本の繁栄が成り立っていた面もあると思う。だから、むかしは良かったが、いまは駄目になったという考え方を、安直に受け入れてしまうことはできない。
それと、人件費削減も規制緩和も、それを選んだのは、われわれ自身(の多数)ではなかったか。コスト削減は無条件の善だった。1円でも安い製品、安いサービスを求めて、努力の足りない企業はあからさまに切り捨てた(今でもその風潮は続く)。成果主義を徹底すれば、成長の可能性に投資する余裕はなくなる。目前の競争に勝つために、われわれは進んで未来を捨てたのだ。この場合、「責任者出てこい」的な言い草は、空しく響くばかりだと思う。
「解決の糸口を探る」というのは、デンマークの例(解雇自由だが、再就職支援などの公的援助が厚い)が示されていることを指すのだろうか。デンマークねえ。人口550万人だよ。東京都の半分以下の人口規模の国の政策が、日本に応用できるのか、疑問である。
そして、結局、わたしたちは、どこに行こう(戻ろう)としているのか。今のままでいいとは思わない。でも、国民の生活水準を下げず、経済力を通じて、国際的なプレゼンスを保ち続けることにこだわる限りは、限界を超えた頑張りをギリギリまで続けるしかないのじゃなかろうか。いっそ、グローバルな競争から下りてしまって、ゆるやかに縮んでいく国家の運命を受け入れるほうが個々人にとっては幸せかもしれないとは、さすがに言えないのかな。そのあたりが、大新聞の筆法の致命的な限界のように私は思う。

カバーの折り込みに記された内容紹介はこうだ。「大幅な人件費削減で不況を乗り切ろうとする日本企業。規制緩和の後押しも受け、いまや労働現場は激変している。過酷な労働と不安定な生活を強いられる非正社員、目先のノルマに追われる正社員……。劣化し続ける雇用は企業の力を奪い、さらなる不況をもたらしている。丹念な取材で今日の雇用の実態を浮き彫りにし、解決の糸口を探る」。
「丹念な取材」の対象は、以下のような人々だ。派遣工からホームレスになった24歳の男性。ホームセンターのパート職員だった69歳の女性。高齢者ケアのNPOで働く29歳の女性。コンビニの「名ばかり正社員」「名ばかり管理職」だった29歳の女性、外食チェーンの「店長」として、過労死した49歳の男性、等々。要するに、非正規労働、公共サービス、民間企業の正社員&管理職など、今や性別と年代を問わず、雇用労働のあらゆる局面で「劣化」が進行していることが示されている。
書かれていることは正しい。ただ、本書を読んで、日本の雇用現場の「劣化」にはじめて気づくって、どういう人たちなんだろう?とフシギでしかたなかった。学生なら仕方ないか。でも、実際に仕事を持っている人間なら、たとえ自分の周辺がこれほど深刻でなくても、「社会全体で何が進行しているか」は分かっていて当然ではないかと思う。
むかし、宇宙論の本で、羊羹の内部にいる人間でも、「このへん」の羊羹の密度と「あのへん」の羊羹の密度の違いを比較計量すれば、全体として羊羹がどんなふうにねじれているか、把握することができる、というのを読んで、卓抜な比喩だと思ったことがある。「全体状況を俯瞰する」ためには、大所高所に立つ必要はなくて、そういう類推能力があれば足りると思うのだが、日本人には、その能力がなくなってしまったのかな。そう、本書の告発を待つまでもなく、間違いなく日本の雇用労働は、広範囲にひどいことになっている。
ただし、「いまや労働現場は激変している」という表現にも注意が必要だ。著者は、一体「いつ」と比べているのか? 「過酷な労働と不安定な生活」に苦しむ労働者は、いつの時代にもいたはずだ。確かに、終身雇用と年功賃金が一般的だった時代(1960~90年代中葉?)は比較的目立たなかったけれど、問題が見えなかっただけということもできる。問題を日本の外部に押し付けて、日本の繁栄が成り立っていた面もあると思う。だから、むかしは良かったが、いまは駄目になったという考え方を、安直に受け入れてしまうことはできない。
それと、人件費削減も規制緩和も、それを選んだのは、われわれ自身(の多数)ではなかったか。コスト削減は無条件の善だった。1円でも安い製品、安いサービスを求めて、努力の足りない企業はあからさまに切り捨てた(今でもその風潮は続く)。成果主義を徹底すれば、成長の可能性に投資する余裕はなくなる。目前の競争に勝つために、われわれは進んで未来を捨てたのだ。この場合、「責任者出てこい」的な言い草は、空しく響くばかりだと思う。
「解決の糸口を探る」というのは、デンマークの例(解雇自由だが、再就職支援などの公的援助が厚い)が示されていることを指すのだろうか。デンマークねえ。人口550万人だよ。東京都の半分以下の人口規模の国の政策が、日本に応用できるのか、疑問である。
そして、結局、わたしたちは、どこに行こう(戻ろう)としているのか。今のままでいいとは思わない。でも、国民の生活水準を下げず、経済力を通じて、国際的なプレゼンスを保ち続けることにこだわる限りは、限界を超えた頑張りをギリギリまで続けるしかないのじゃなかろうか。いっそ、グローバルな競争から下りてしまって、ゆるやかに縮んでいく国家の運命を受け入れるほうが個々人にとっては幸せかもしれないとは、さすがに言えないのかな。そのあたりが、大新聞の筆法の致命的な限界のように私は思う。