見もの・読みもの日記

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経済と文化の担い手/江戸の本屋さん(今田洋三)

2009-12-24 23:54:05 | 読んだもの(書籍)
○今田洋三『江戸の本屋さん:近世文化史の側面』(平凡社ライブラリー) 平凡社 2009.11

 近世以前、印刷(プリンティング)という文化現象はあっても、出版業(パブリッシング)はなかった――という説明になるほど、と思った。一般に「出版文化史」は、この二つを一括りに論じてしまうのだけど。では、日本において、経済活動としての出版業(本屋さん)は、どのように成立し、発達したか。あとで参照できるように、ポイントをまとめておくと以下の通り。

■近世初期(17世紀初頭)

 秀吉の朝鮮侵略を機に活字印刷がもたらされ、権力者の保護のもとで数百種に及ぶ開版活動が起こる。印刷部数は少なく、流通層も限られていたが、次第に、士大夫層・豪商に書籍への関心が高まる。

■寛永期(17世紀前半)

 読者の拡大とともに、活字→製版印刷への切り替えが起こり、出版業者が登場する。担い手は京都町衆。(1)仏書→(2)日本古典→(3)漢籍→(4)仮名草子、俳諧書と進む。

■元禄期(17席後半)

 寛文12年(1672)、西廻り海運航路が開かれ、裏日本の物産は海路大坂へ輸送されることになり、京都は平安以来の中央市場としての機能を急速に失っていく。大坂の新興書商が出版した日用教養書や重宝記、万宝記などの簡易百科は、周辺の農村地主商人層にも読者を獲得した。西鶴の浮世草子は元禄のベストセラーとなり、好色本が人気を博した。代表的な出版者に、京都の八文字屋八左衛門がいる。この時期は、出版統制令が相次いで出された。対象は、(1)時事報道、(2)好色本、(3)大名・旗本の先祖に関すること、など。特に江戸が厳しかった。また、書物屋仲間が結成され、版権の保護と自己規制が行われるようになった。

■田沼時代~寛政期(18世紀)

 三都の出版物の合計は、1750年代に爆発的な増大を見せ、寛政期(1780年代以降)には、江戸の出版が上方(京都+大坂)を完全に追い抜く。この時期、注目すべき書商として、須原屋市兵衛と蔦屋重三郎(吉原細見、黄表紙、狂歌本などを手がけた)がいる。

■化政期(19世紀前半)

 老中松平定信の辞職以降も、文化期に至るまで寛政改革の基調は守られ、出版取り締まりも緩められなかった。厳しい抑圧の中、文化の享受層は、かつての上層町人層から中下層の町人・職人層に拡大したが、出版の質は停滞した。その一方、書本を大量にかかえた貸本屋が、庶民の裏道コミュニケーションとして活躍した。

■幕末から明治へ(19世紀後半)

 天保期以後、社会変革期の危機意識の中で、庶民の生活向上、防衛の一環として、読書・学問への欲求が高まる。寺子屋の増加、教科書の商品価値の増大、読売の発達、地方書商の発達など、みな同根である。しかし、明治20年代には、博文館などの新興出版業者によって出版界は席巻され、江戸の本屋たちは知らぬ前に消え、忘れ去られてしまった。

 面白かったのは、西廻り海運の開拓によって出版業の中心地が京都から大坂へ移動したり、幕末の社会変革の予感が学問の需要を高めたり、一見、あまり関係なさそうな社会の動きと出版業の興廃が密接に結びついていること。人物では須原屋市兵衛である。八文字屋と蔦重(蔦屋重三郎)は国文学史で習ったが、啓蒙科学書の開版に積極的に携わった須原屋市兵衛の名前は知らなかった。禁書すれすれの危険を冒しながら(実際に罪にも問われた)、杉田玄白の『解体新書』や平賀源内の『物類品隲』『火浣布略説』、森島中良の『紅毛雑話』などを刊行しているんだからすごい。さらに、一地方知識人・建部清庵の『民間備荒録』を、採算を度外視して出版した話には打たれた。なお、同じ須原屋一門で、「武鑑」の出版にかかわった須原屋茂兵衛についても、一章を設けて、詳しく論じており、こちらも興味深い。

 本書の底本は、1977年の刊行である。巻末解説の著者、鈴木俊幸氏は、大学生当時にこの本を読み、近世の書籍文化史研究の道に進まれたそうで、本書の先進性、革新性を高く評価するとともに、「考察の甘い部分や思い誤り」をきちんと指摘しているのは、気持ちのよい解説だと思った。
コメント (1)
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