○小松裕『「いのち」と帝国日本』(全集 日本の歴史 第14巻) 小学館 2009.1
タイトルを見てドキリとした。ずいぶん正面切ったタイトルを付けたものだ。歴史とは人の記録であり、生命(いのち)の記録に他ならない。けれども、普通、私たちは、歴史を学ぶとき、そこで消えていった無数の「いのち」のひとつひとつには気を配らない。そんなことを気にしていては、大局的な政治や制度の変遷を把握することができないと思うからだ。本書のタイトルは、そんな常識に抵抗する意思を表していると思った。
本書が扱うのは、1894年(明治27)の日清戦争から、1904年(明治37)の日露戦争を経て、1920年代まで。この時期、近代国家権力の本質ともいうべき「いのち」の序列化が行われた。著者は序列化の尺度として、(1)文明、(2)民族、(3)国益、(4)ジェンダー、(5)健康、の5つを挙げる。十分に文明化(近代化・西洋化)されていない人々(アイヌ民族や台湾の先住民族)、植民地・アジアの人々、市場原理に基づく国益・公益の邪魔になる人々(公害問題)、そして、女性、病者・障害者の「いのち」が、どのように軽んじられ、虐げられたかを、多くの実例に即して、具体的に明らかにしていく。
「旧土人」と呼ばれ、同化を強制されたアイヌ民族。「民族浄化」政策に曝されたハンセン病患者。長時間労働と搾取に加えて、夜這いなどの性的被害も受けていた女工たち(ただし、それでも農村よりはいい暮らしができると考えて、自らの意志で女工になるケースも多かった)。華やかな夜の顔とは裏腹に、冷えたご飯で昼食をとる娼妓の日常。関東大震災下の朝鮮人虐殺や、台湾における抗日霧社蜂起も詳述されている。要所要所に挟まれた小さな写真、包帯の巻き直し作業をするハンセン病患者たちや、惨殺された朝鮮人の死体の山には、沈思を迫るものがある。
いのちと暮らしを守るための民衆運動として、著者が高く評価するのが、足尾鉱毒事件と米騒動である。米騒動(1918=大正7年)の基本は、「集団の圧力による廉売強制」だった。民衆は、1升50銭まで急騰していた米を25銭前後まで値下げさせ、その価格で買い取った。門戸や障子を破るという打ちこわしは、廉売要求に応じさせるためのほのめかしであり「米などの略奪の例はきわめて少ない」そうだ。へえ~そうなのか。これは、集団の圧力で適正価格(徳義=モラル)を実行させるという、東西共通の民衆の実力行使パターン「モラル・エコノミー」の最後の発動だった、と著者は考える。
本書には「大正デモクラシー」と呼ばれる政治の動きは、ほとんど記述されていない。この点について、著者は最後に「総体として『大正デモクラシー』と表現できるだけの内実を伴っていたのか」「(もしそうであれば)なぜあんなにもろくファシズムに屈してしまったのか」と厳しく問いかける。重たい問いであると思う。「これまでの『歴史』が、あまりにも政治史や経済史中心、そして男性中心的でありすぎた」という反省のもとに書かれた、異色の日本近代史である。歴史学者としての著者の誠実さが、読む者の襟を正させる。
タイトルを見てドキリとした。ずいぶん正面切ったタイトルを付けたものだ。歴史とは人の記録であり、生命(いのち)の記録に他ならない。けれども、普通、私たちは、歴史を学ぶとき、そこで消えていった無数の「いのち」のひとつひとつには気を配らない。そんなことを気にしていては、大局的な政治や制度の変遷を把握することができないと思うからだ。本書のタイトルは、そんな常識に抵抗する意思を表していると思った。
本書が扱うのは、1894年(明治27)の日清戦争から、1904年(明治37)の日露戦争を経て、1920年代まで。この時期、近代国家権力の本質ともいうべき「いのち」の序列化が行われた。著者は序列化の尺度として、(1)文明、(2)民族、(3)国益、(4)ジェンダー、(5)健康、の5つを挙げる。十分に文明化(近代化・西洋化)されていない人々(アイヌ民族や台湾の先住民族)、植民地・アジアの人々、市場原理に基づく国益・公益の邪魔になる人々(公害問題)、そして、女性、病者・障害者の「いのち」が、どのように軽んじられ、虐げられたかを、多くの実例に即して、具体的に明らかにしていく。
「旧土人」と呼ばれ、同化を強制されたアイヌ民族。「民族浄化」政策に曝されたハンセン病患者。長時間労働と搾取に加えて、夜這いなどの性的被害も受けていた女工たち(ただし、それでも農村よりはいい暮らしができると考えて、自らの意志で女工になるケースも多かった)。華やかな夜の顔とは裏腹に、冷えたご飯で昼食をとる娼妓の日常。関東大震災下の朝鮮人虐殺や、台湾における抗日霧社蜂起も詳述されている。要所要所に挟まれた小さな写真、包帯の巻き直し作業をするハンセン病患者たちや、惨殺された朝鮮人の死体の山には、沈思を迫るものがある。
いのちと暮らしを守るための民衆運動として、著者が高く評価するのが、足尾鉱毒事件と米騒動である。米騒動(1918=大正7年)の基本は、「集団の圧力による廉売強制」だった。民衆は、1升50銭まで急騰していた米を25銭前後まで値下げさせ、その価格で買い取った。門戸や障子を破るという打ちこわしは、廉売要求に応じさせるためのほのめかしであり「米などの略奪の例はきわめて少ない」そうだ。へえ~そうなのか。これは、集団の圧力で適正価格(徳義=モラル)を実行させるという、東西共通の民衆の実力行使パターン「モラル・エコノミー」の最後の発動だった、と著者は考える。
本書には「大正デモクラシー」と呼ばれる政治の動きは、ほとんど記述されていない。この点について、著者は最後に「総体として『大正デモクラシー』と表現できるだけの内実を伴っていたのか」「(もしそうであれば)なぜあんなにもろくファシズムに屈してしまったのか」と厳しく問いかける。重たい問いであると思う。「これまでの『歴史』が、あまりにも政治史や経済史中心、そして男性中心的でありすぎた」という反省のもとに書かれた、異色の日本近代史である。歴史学者としての著者の誠実さが、読む者の襟を正させる。