○岡本綺堂『綺堂随筆・江戸のことば』(河出文庫) 河出書房新社 2003.6
買いだめしていた新刊書が切れると、ふだんは行かない文庫本のコーナーで、読むものを探す。じめじめと蒸し暑い長梅雨を忘れるには、平明で格調の高い綺堂の文章なんぞがいいかもしれない、と思って買ってみた。本書は、綺堂が折々に発表した随筆を、編集して再録したものらしい。「江戸のことば」について書いたもの、創作に近い「怪談奇譚」、「明治の寄席と芝居」などから成る。
綺堂は好きな作家だが、読むのは久しぶりだ。1980年代には、今は無き旺文社文庫に入っていた作品は全部読んでいた。ただし、当時の私は、綺堂作品の持つ時代背景が全く分かっていなかったと思う。最近、幕末から明治にかけての歴史を勉強してみると、江戸を舞台に岡っ引として活躍した半七老人の回顧談を、明治になってから、新聞記者である「わたし」が聞き出す、という趣向の妙――語られる「江戸」と語る「明治」の、近いようで遠い距離感が、少し実感できるようになったように感ずる。
本書では、さまざまな場面に、この「江戸と東京の距離感」が顔を出している。江戸の武士である勝海舟や榎本式揚は、平生は驚くほどぞんざいな口調だったが、いざとなれば「べらぼうめ」を取り払って「左様でござる」に早変わりをしたとか。明治初年、英国大使館書記官のアストン氏が「東京の町は汚い。しかし、人々は皆チヤーフルな顔をしている。将来、東京がきれいな大都会に生まれ変わったときも、そこを歩く人はこんな顔をしているだろうか」と語ったとか。これらは、著者の体験に基づく記憶である。
また、本書には、熱のこもった河竹黙阿弥論が収載されている。私は歌舞伎をあまり見ないので、ピンとこない点もあるが、著者の言わんとするところは痛いほど分かった。黙阿弥は江戸の作者であって、江戸を離れては生きられないように出来ていた(この点、元禄を離れても生きられる近松翁とは異なる)。しかし、江戸の町、江戸の文化は翁を遺して消滅し、芝居を全く知らない高官や学者が、演劇改良運動の名のもとに、狂言作者に迫害と圧迫を加える時代になった。黙阿弥は、ただ黙って耐えて生涯を終わった。「思えば実に涙である」と著者は評する。
しかし、今日、河竹黙阿弥の名は教科書にも載っている(たぶん)が、明治15、6年から24、5年にかけて、演劇改良運動なるものがあったことを知る人は少ないだろう。無理な急カーブを曲がるような、江戸から明治への変化の間に、我々が忘れたり失ったりしたものは、まだまだたくさんあるのだと思う。
買いだめしていた新刊書が切れると、ふだんは行かない文庫本のコーナーで、読むものを探す。じめじめと蒸し暑い長梅雨を忘れるには、平明で格調の高い綺堂の文章なんぞがいいかもしれない、と思って買ってみた。本書は、綺堂が折々に発表した随筆を、編集して再録したものらしい。「江戸のことば」について書いたもの、創作に近い「怪談奇譚」、「明治の寄席と芝居」などから成る。
綺堂は好きな作家だが、読むのは久しぶりだ。1980年代には、今は無き旺文社文庫に入っていた作品は全部読んでいた。ただし、当時の私は、綺堂作品の持つ時代背景が全く分かっていなかったと思う。最近、幕末から明治にかけての歴史を勉強してみると、江戸を舞台に岡っ引として活躍した半七老人の回顧談を、明治になってから、新聞記者である「わたし」が聞き出す、という趣向の妙――語られる「江戸」と語る「明治」の、近いようで遠い距離感が、少し実感できるようになったように感ずる。
本書では、さまざまな場面に、この「江戸と東京の距離感」が顔を出している。江戸の武士である勝海舟や榎本式揚は、平生は驚くほどぞんざいな口調だったが、いざとなれば「べらぼうめ」を取り払って「左様でござる」に早変わりをしたとか。明治初年、英国大使館書記官のアストン氏が「東京の町は汚い。しかし、人々は皆チヤーフルな顔をしている。将来、東京がきれいな大都会に生まれ変わったときも、そこを歩く人はこんな顔をしているだろうか」と語ったとか。これらは、著者の体験に基づく記憶である。
また、本書には、熱のこもった河竹黙阿弥論が収載されている。私は歌舞伎をあまり見ないので、ピンとこない点もあるが、著者の言わんとするところは痛いほど分かった。黙阿弥は江戸の作者であって、江戸を離れては生きられないように出来ていた(この点、元禄を離れても生きられる近松翁とは異なる)。しかし、江戸の町、江戸の文化は翁を遺して消滅し、芝居を全く知らない高官や学者が、演劇改良運動の名のもとに、狂言作者に迫害と圧迫を加える時代になった。黙阿弥は、ただ黙って耐えて生涯を終わった。「思えば実に涙である」と著者は評する。
しかし、今日、河竹黙阿弥の名は教科書にも載っている(たぶん)が、明治15、6年から24、5年にかけて、演劇改良運動なるものがあったことを知る人は少ないだろう。無理な急カーブを曲がるような、江戸から明治への変化の間に、我々が忘れたり失ったりしたものは、まだまだたくさんあるのだと思う。