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見もの・読みもの日記

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科学者と軍人/三体0:球状閃電(劉慈欣)

2023-02-24 16:58:12 | 読んだもの(書籍)

〇劉慈欣;大森望、光吉さくら、ワン・チャイ訳『三体0(ゼロ):球状閃電』 早川書房 2022.12

 中国ドラマ『三体』の熱がなかなか冷めないので、昨年12月に刊行された『三体』シリーズの新刊を読んでしまった。原作は『三体』に先行する2004年の刊行。『三体』三部作の前日譚という触れ込みだが、全く別作品と思って読むほうがいいと思う。

 主人公のぼく=陳(チェン)は、14歳の誕生日の夜、壁を通り抜けて室内に入ってきた球状の雷が、一瞬にして両親を白い灰にしてしまうのを目撃する。両親の体は跡形も残らず、公けには失踪として処理された。陳は球電(ball lightning)の謎を解くことを志して大学に進学する。大気電気学担当の張彬(ジャン・ビン)副教授は球電を研究テーマとすることに反対するが、陳は初志を貫く。のちに陳は、張彬がかつて妻の女性研究者とともに球電研究に携わっていたこと、球電に撃たれた妻を失ったことを知る。

 あるとき、陳は泰山の玉皇頂で、球電の目撃者から話を聞くとともに、謎めいた女性・林雲(リン・ユン)に出会う。博士課程を卒業した陳は雷研究所に就職し、国防大学の新概念兵器開発センターに勤務する林雲少佐に再会する。林雲は球電を応用した雷撃兵器を構想していた。数理モデルの解析資源の確保に苦労していた彼らのもとにロシアから「俺のところに来い」というメッセージが届く。シベリアで二人が見たのは、ソビエト時代の球電研究基地の残骸だった。ロシア人ゲーモフは、球電研究が成果を生み出せなかった(発生条件に規則性を見出せなかった)顛末を語る。

 球電研究を忘れようとした陳だが、新しい可能性に気づく。球電はつねに自然界に存在しており、雷によって励起されるという仮説である。仮説に基づき、ついに球電の捕獲に成功した陳と林雲は、天才物理学者の丁儀(ディン・イー)に協力を求め、丁儀は球電の正体がマクロ電子であることを見抜く。マクロ電子には標的を精密に選択し、波動化する特性があった。林雲は対人兵器になるタイプのマクロ電子を収集・貯蔵していった。

 あるとき、国際テロリスト集団が原子力発電所に立てこもる事件が起きた。林雲は迷わず球電兵器によってテロリストを灰にするが、人質の子供たちも犠牲になってしまった。陳は林雲から距離を置き、竜巻研究に没頭し、米国で名誉市民の称号を得るに至る。

 その後、某国との間で戦争が勃発し、近海に侵入をはかる敵空母群を攻撃するために球電兵器が用いられることになった。ICチップを選択的に破壊するマクロ電子がすでに集められていた。しかし敵国は磁場シールドによる防御システムを構築しており、作戦は失敗に終わる。

 球電兵器プロジェクトは縮小を迫られるが、丁儀はマクロ原子核(弦)を発見し、新たな活路を見出す。マクロ原子核どうしを臨界速度で衝突させればマクロ核融合が起きる。マクロ原子核もエネルギー放出対象を選択する特性を持っており、きわめて希少だが集積回路を対象とするものが見られた。

 林雲の期待も空しく、軍の上層部は、最終的にマクロ核融合実験の停止を決定した。しかし林雲は仲間たちとともに実験を強行しようとする。林雲の父親である林将軍は、核融合地点に向けてミサイルの発射を命じた。その結果、半径百キロメートル以内に存在した電子チップは全て灰になり、国土の三分の一は農耕時代に引き戻された。しかし敵国も強力な兵器の存在に驚愕し、戦争は終わった。核融合地点にやってきた林将軍は、娘である林雲の姿を見つけて会話する。話し終えた林雲は量子状態になって消失した。

 登場人物がほぼ全て「科学者」か「軍人」であることは『三体』と共通している。作者から見ると、科学者と軍人は、相容れないようで似たものどうしなのかもしれない。『三体』の汪淼と史強が最終的にベストパートナーになるのに比べると、本作の陳と丁儀は、林雲に憧れながらも彼女の内面に踏み込めずに終わっているのが、歯がゆく、切ない。

 私は根っから文系だが、高校生の頃、量子物理学の面白さにハマった経験がある。丁儀は、球電に触れて量子化した人間や動物の行く末を以下のように解説する。観察者がいない状態では、彼らは一定の確率分布として存在できるが、観察者が現れた瞬間に死んだ状態に収縮する。そう、シュレディンガーの猫なのだ! なお、最後に林雲が生きた姿で出現し得たのは、意識を持つ量子状態の個体は、自分で自分を観察できるからだという。ちょっと苦しい説明かな、と思うが、そこは目をつぶっておきたい。存在の不確定性という点で、量子物理学は詩や哲学に似ている、と思ったむかしを思い出した。

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外交担当者と国内世論/近代日本外交史(佐々木雄一)

2023-02-14 23:45:02 | 読んだもの(書籍)

〇佐々木雄一『近代日本外交史:幕末の開国から太平洋戦争まで』(中公新書) 中央公論新社 2022.10

 本書は、サブタイトルのとおり、幕末の開国から太平洋戦争まで(巻末の年表では、1792年の露・ラクスマン来航から1945年の終戦まで)の日本外交の軌跡を通観したものである。特別に新しい発見があるわけではないが、雑に「共通理解」となっていることが、丁寧に見直されていて、歴史の解像度が上がる。

 たとえば、幕末の日本は西洋諸国から「不平等条約」を押し付けられ、明治政府はその改正に苦心する。やがて東アジアの緊張が高まり、日清戦争が勃発する。日本はこの戦争に勝利するが、三国干渉によって遼東半島の領有の放棄を求められ、国際社会でものを言うのは力だと学んだ、というのは、よく語られるストーリーだ。

 本書は以下のように解説する。まず、日本は戦争に負けて条約を押し付けられたわけではないので、比較的穏当な条件で西洋諸国と関係を結んだ。とは言え、明治政府は条件改善のため、文明国化を推進し、政治・法制度を整備することで、漸進的に日本の地位を高めようとした。ところが外交担当者が妥当と判断する内容では、国内の対外強硬論を抑えることができず、条約改正事業は何度も頓挫してしまう。対外強硬論というのは、近代日本の宿痾みたいなものかな。

 それでも最終的に日本は法権回復を果たした。この経験は日本の外交担当者たちに、国際秩序にはある種の公正さがあり、そこに積極的に適合していくことで日本は発展できる、という思考様式を与えた。この認識は、伊藤博文、西園寺公望、原敬、幣原喜重郎らに引き継がれていく。三国干渉を経験しても特に変わりはなく、力がものを言うのは自明だが、ルールや規範も確かに存在する世界として、日本の政治指導者や外交担当者は、国際社会を理解していた。ただし彼らと標準的な日本人の対外観には大きな差があった。

 日露戦争の勝利により、日本は大国の一角に参入する。外交担当者たちは、大国間で認められる正当性や公平性を強く意識して行動し、韓国併合でもイギリスやロシアの賛同を得ることに注意を払った。列強が公平に勢力を拡張することは、従属する側にとっては公平でも正当でもなかったが、これが帝国主義外交の規範意識だったのである。

 1910年代には、辛亥革命と第一次世界大戦が起きる。大戦争を遂行中のヨーロッパ諸国が中国方面に注意を向けられない状況で、日本は「標準的な帝国主義外交から逸脱した、突出した対外膨張政策」に足を踏み入れることになる。

 第一次世界大戦後の国際環境は大きく変わった。国際連盟が設立され、民族自決が唱えられ、帝国主義が批判された。規範の変容に伴い、現実が全て変わったわけではないが、列強は新たな対外膨張や軍事行動には慎重になり、より確かな口実・名分を探った。日本も例外ではなく、従来の帝国主義外交が批判の対象になってきたがために、かえって「満蒙は日本の生命線」という強い主張がひねり出される。ええー現実は逆説的に進行するのだな。

 このころ、日本移民の差別・排斥問題など、日本(人)は世界で不当な扱いを受けているのではないかという不満・不信感が強まる。国際秩序には公正さがあり、その中で日本は発展できると考えてきた、明治中期以来の外交担当者の認識に代わり、既存の国際秩序は不公正であり、日本にとって不利であるから、秩序を作り替えなければならないと主張して、世論の支持を集めたのが近衛文麿である。1930年代、日本国内の風潮は対外強硬論に振れ、日本は軍拡の時代を歩んでいくことになる。

 結局、近代日本の外交は、国外の因子よりも、国内世論に動かされてきた面が強いように思った。外交当局者(インサイダー)たちは部外者(アウトサイダー)との感覚のずれを認識していたが、当惑、軽蔑、諦めにとどまり、ずれを埋める方向には動かなかった。著者は歴史を振り返り、日本外交と国際社会に対する理解と信頼を国内に根付かせることは、より真剣に取り組まれてしかるべき課題だった、と総括しているけれど、これは今こそ必要な取り組みではないか。陰謀論やポピュリズムに流されて、再びこの国が道を誤らないために。

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王朝から近代まで/隅田川の文学(久保田淳)

2023-02-05 22:56:32 | 読んだもの(書籍)

〇久保田淳『隅田川の文学』(岩波新書) 岩波書店 1996.9

 「アンコール復刊」の帯をつけて書店に並んでいた1冊である。私はいま、縁あって隅田川の近くに住んでいるので題名に目が留まった。中を開けたら、近代俳句に始まり、芥川龍之介や川端康成に言及がある。著者名を確かめて、え?と驚いた。久保田淳先生といえば、中世和歌の大家という認識だったので。本書は、著者が1年間西ドイツに出て、日頃の研究テーマを離れてみた経験から生まれたことが「あとがきに代えて」に述べられている。

 はじめに登場するのは石田波郷(高校の国語の教科書で習った)で、東京大空襲から1年ほど後、江東区北砂町に移り住んだという。「百万の焼けて年逝く小名木川」などの句があることを初めて知った。神田生まれの水原秋櫻子(やっぱり教科書で習った)は「夕東風(ごち)や海の船ゐる隅田川」など近世の美意識に連なる隅田川を詠んでいる。そして川端康成の『浅草紅団』は、関東大震災後の浅草界隈にたむろする不良少年少女たちを描いた。この作品は未読なのだが、梗概が的確にまとめられていてありがたく、かなり通俗小説的なおもしろさを感じた。

 築地に生まれ、本所で育った芥川龍之介にとって、大川端が原風景であることは、大学時代、近代日本文学の講義で習った(浅井清先生から)。日本橋蛎殻町生まれの谷崎潤一郎にとっても隅田川は親しい存在だったが、谷崎が後年、関西に移住すると、東京の文化や東京人に批判的な目を向けるのに対して、芥川は、そのようなしたたかさに欠けていた、という対比に納得した。

 隅田川とのゆかりを全く知らなかったのは、木下杢太郎とパンの会。パンの会の会合には、永代橋のほとりの永代亭という西洋料理屋が使われた(※ネットで情報を見つけた)。杢太郎には「往き暮れしろまんちっくのわかうどは永代橋の欄干に凭る」という歌もある。吉井勇は紅燈の巷としての大川端を詠み、高村光太郎は男性的な隅田川を詩に歌った。

 永井荷風の『夢の女』には深川洲崎の遊郭が登場する。最近、木場駅の東の大門通りで飲む機会があったが、あれは洲崎遊郭の大門の跡なのだな。もとは本郷の根津にあり、帝国大学のそばにあっては風教上よろしくないという理由で移転してきた遊郭である。泉鏡花も洲崎遊郭付近の深川を一種のアジールとして描いている。

 近世は、歌舞伎の河竹黙阿弥と鶴屋南北。どちらも江戸っ子。伊賀上野生まれの松尾芭蕉は上京して隅田川のほとりに三回住んだ。山国生まれの芭蕉にとって大川のほとりは、異郷にあるという自覚を抱かせたに違いない、という著者の指摘は鋭いと思う。

 中世は、後世に大きな影響を与えた能「隅田川」を論ずる。それよりも、著者自身が、ある年の4月14日に矢来能楽堂で「隅田川」を見て、そのまま地下鉄に乗って、隅田川のほとり木母寺の梅若塚へ向かったという一段が印象的だった。文学研究者は、こうであってほしい。『太平記』や『吾妻鏡』に登場する戦場としての隅田川、『とはずがたり』の後深草院二条が見た隅田川も紹介されている。

 そして最後の王朝時代は、紙数こそ少ないが、さすが著者の本領発揮で興味深い。順徳天皇が企画した「建保内裏名所百景」を題材に、中世歌学における「すみだ河」の所在国の問題を考える。のちに順徳院が完成させた『八雲御抄』には、すみだ河を「下総」としながら「駿河とも。いほさきも」と注しているという。駿河というのは、万葉集に「まつち山夕越え行きていほさきの角太河原に独りかも宿む」という歌があるためだ。

 もうひとつ、あっと思ったのは、崇徳院に仕えた藤原教長(法名・観蓮)が、保元の乱の後、常陸国へ流罪となり、隅田川を渡っていたことだ。「教長集」には長い詞書とともに「すみだ河今も流れはありながらまた都鳥跡だにもなし」という歌が残されているという。知らなかった。能書家としても知られ、私はこのひとの書跡がとても好きなのだ。教長は、後に許されて高野山に入っているが、彼が東国で詠んだ和歌は、讃岐で生涯を終えた崇徳院の目に触れただろうか。触れなかっただろうか。

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共生の未来を描く/「移民国家」としての日本(宮島喬)

2023-01-22 23:01:33 | 読んだもの(書籍)

〇宮島喬『「移民国家」としての日本:共生への展望』(岩波新書) 岩波書店 2022.11

 移民に関する本を読むのは、望月優大『ふたつの日本』(講談社現代新書、2019)以来だと思う。望月さんも本書の著者も、外国人労働者を「人」として受入れ、共生社会を目指そうという方向性は同じで、共感できるものだった。

 はじめに、コロナ禍を除く過去5年間(2014-2019年)の日本の新規外国人入国者数(観光などの短期滞在者を除く)は年平均で約43万人に上ることが示される。推計によれば、在留外国人は300万人を超えており、(1998年の資格要件緩和を受けて)「永住者」資格を持つ外国人も百数十万人に達している。ちなみに現在、一般永住者の数は特別永住者(在日コリアン)の倍以上になっているという。日本は、生産人口の減少に伴う労働力不足を大きな要因として、もはや実質上の「移民受入れ国」になっているのだ。

 外国人労働者の受入れは、1989年の改正入管法によって90年代に急激に増大した。しかしこのとき、日本政府の方針は曖昧で「単純労働者は受け入れない」と言いながら、技能実習生を実質的な単純労働者として、法的な保護もきちんとした日本語教育プログラムもなく、斡旋業者を介して受入れるなど、「フェア」と言えない点が目立った。

 「研修」「技能実習」などの在留資格者は家族を呼び寄せることが認められていない(短期滞在を想定した資格だから、という理由である)。その他の在留資格の場合でも、経済能力が証明できないと家族帯同は認められない。呼び寄せた妻子に働いてもらえばよさそうなものだが、「家族滞在」の在留資格だと十分に働くことができない(就労時間に制限がある)のだそうだ。短期の低コスト労働力は欲しいが、外国人の定住はなんとしても阻止したいという(日本政府の?財界の?)鉄の意思を感じる。

 ヨーロッパでは、キリスト教的な背景から、結婚を誓った男女(夫婦)が一体で生きることは神聖な義務かつ権利とされ、家族が一体で生活することは基本的な人権だとする見方があるそうだ。ただしこの「家族」は夫婦と子供が基本単位である。日本の入管行政でも、在留資格の「家族滞在」は配偶者と子供に限られているため、年取った親を呼び寄せたいという希望が、なかなか叶わないという。アジア的な家族観に基づく配慮があってもいいのではないかと思った。

 入管当局(≒日本政府)の基本的な考え方は、日本における外国人の権利は、入管法で定められた在留資格の範囲内で認められるとするものだ。この影響を受けて、入管法に違反した外国人は、どのように扱われても文句をいうべきでない、と考える日本人は多い。私も、心情的には不法滞在や不法就労の外国人に同情しつつも、やっぱり法律違反だし…と考えることはあった。しかし、入管法を最上位に置くことで、労働法、社会保障諸法、地方自治法などを停止させ、基本的人権(たとえば労働の権利、教育を受ける権利、家族で生きる権利)を剥奪することが本当に正しいか?という問い直しが、あってよいということを本書から学んだ。

 難民についても同様である。日本では難民申請者の認定審査は出入国在留管理庁が行うが、難民条約の諸規定を固守し「難民」の定義の狭い解釈になりがちだという。アメリカ、フランス、ドイツなどは、自国の憲法や前文に「自由のために活動し迫害を受けた者に庇護を与える」等の理念をうたっており、条約に狭くとらわれない難民の解釈を示すという。ああ、もし日本国憲法を改正するなら、こういう文言を入れてほしい。あと、「友好国」の国民に対しては、政治的判断から難民認定しにくいというのは、分かるけれどなんとかならないものか。

 2015-16年に、ドイツは100万人を超える大量のシリア難民を受け入れたことで社会的混乱を招き、当時のメルケル首相に対する批判が高まったが、数年後には経済界や地方自治体から、受け入れた難民が欠かせない人材、労働力になっているという声が聞かれるようになったという。もちろん言語教育や職業訓練などの支援あっての賜物だろうけれど、日本もこのくらい大胆な移民受入れと統合の努力をしないと、国力の衰退は回避できないのではないかと思う。

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華南というフロンティア/越境の中国史(菊池秀明)

2023-01-16 23:17:58 | 読んだもの(書籍)

〇菊池秀明『越境の中国史:南からみた衝突と融合の三〇〇年』(講談社選書メチエ) 講談社 2022.12

 中国と呼ばれる地域は、とにかく広大で多様である。本書は、多くの日本人にとって、あまり馴染みのない地域「華南」(福建省、広東省とその周辺)の17~19世紀について叙述する。華南における中華世界の拡大と、その結果生まれたさまざまな衝突と融合の過程を読み解くことは、いま、中国周辺地域(香港、台湾、国内の少数民族および近隣諸国)が直面している問題を理解するのに役立つと著者が考えるためである。

 中国が多様な民族の衝突と融合によって形成されてきたことは、いろいろな文献を読んで徐々にイメージできるようになった。だが、古い時代については、いわゆる北方騎馬民族と漢民族との衝突・融合が主である。宋代以降、華北と江南がそれぞれ特色ある文化圏として成立するに従い、華南が江南に代わるフロンティアとなっていく。しかし清朝末期の太平天国の乱で否応なく華南に目が向くまで、この地域で何が起きてきたかは、知らないことばかりだった。

 福建には4~6世紀から、広東は10~13世紀から漢人の移住が始まり、閩南人、潮州人、広東人、客家人などの言語集団が形成された。18世紀、爆発的な人口増が起きると、華南の人々は広西と台湾に向かった。広西にやってきた漢人移民は、チワン族やヤオ族などの先住民を雇って開墾を推し進め、広西は広東の内地コロニーの様相を呈した。台湾の漢人は閩南人(福建系)が多かったが、移民の流入の繰り返しによって、現在では複雑な他民族社会となっている。移民たちは、様々な生業に並行して取り組む行動様式(搵食=ワンセック)で危機を回避し、成功のチャンスをつかもうとした。ある程度生活が安定すると、科挙合格者を出したり、官職を購入(公的な売官制度があった)して、移民の中から地域のリーダーとなる有力宗族(客籍)が育っていく。

 一方、先住の土着民(土人)にも、漢人の上昇戦略を学び、科挙エリートを目指したり、公共事業に積極的に取り組む人々が出てくる。そして階層上昇に挫折すると、もともと漢人移民の相互扶助組織であった天地会などの異姓結拝組織に加わる者が増えた。いろいろ省略しているけれど、このへんの混沌とした社会、武器による実力行使(械闘=かいとう)の風潮を背景として、清末には太平天国の動乱が始まるのである。

 ページ数は少ないが、本書は台湾の械闘についても触れている。著者いわく、日本人は現在の台湾について、穏やかで親切な人々が暮らす成熟した市民社会というイメージを持っているが、当時(19世紀前半)の台湾は違った。巨大な資本を有する閩南人の商業移民とその労働力となった下層移民、あるいは閩南人と客家、閩南人と原住民などが、複雑で激烈な衝突を繰り返している。

 結論を急いでしまえば、中国というのは、つねに熾烈な競争をかかえた社会なのだ。人々はふつうに生きるために、不断に移動し、変化し、越境し続けなければならない。国家が膨張を望むというよりは、そういうメカニズムが埋め込まれた社会なのだと思う。日本にとっては全く心やすまらない話であるが。そして18世紀の人口爆発が、移動と越境のプッシュ要因であるとしたら、これから人口減によって中国社会は少し変わるのだろうか。

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古代路、街道、高速道路/道路の日本史(武部健一)

2023-01-07 23:35:56 | 読んだもの(書籍)

〇武部健一『道路の日本史:古代駅路から高速道路へ』(中公新書) 中央公論新社 2015.5

 少し古い本だが、たまたま目に留まって、読んでみたら面白かった。工学部出身で建設省・日本道路公団で高速道路の計画・建設に従事した著者が、古代から今日までの日本列島の道路の歴史を具体的に描き出したものである。

 はじめに世界の道路の歴史に少しだけ触れる。ほぼ2000年前、中心から樹状に伸びる道路交通網が、イタリア半島(ローマ帝国)と東アジア(秦帝国)で同時に出現した。東西の道路が、それぞれトンネル技術を伴っていたことも興味深い。ナポリ郊外にはポリシポ・トンネルがあり、中国は褒斜道(!)に石門というトンネルがつくられた。

 さて日本である。『魏志倭人伝』には魏使が見た日本(対馬)の「道路」についての感想が記されている。『日本書紀』応神紀には「厩道」をつくったという記載がある。さらに仁徳紀によれば、高津宮から多比邑(たじひむら)に至る直線道路がつくられた。そして大化の改新を経て律令制国家が誕生すると、全国的に駅制(駅道・駅馬・駅家のシステム)が整備されるようになった。

 本書には、著者が実地に踏査したという平安時代の「七道駅路全図」も掲載されている。九州地方は非常に密で、ハシゴ状に迂回路を設けているのに対して、本州は、京都を中心に放射状に駅路が伸びているが、迂回路は考えられていないように見えるなど、興味深い。奈良時代の道路は、私の想像よりずっと広くて幅12メートルの遺構が見つかっているが、平安時代には9~6メートルに縮小されたという。

 面白いことに、現代の高速道路は古代路と同じ場所を通ることがしばしばあるという。両者とも「遠くの目的地に狙いを定めて、計画的に結んでいく」という思想が共通するためだ。それゆえ、高速道路の計画ルートは古代遺跡とぶつかってしまうことが多いのだという。一方、中世~江戸期の街道とそれを踏襲した近現代の国道は、地域の細かい集落を結んでいくので、古代路(および現代の高速道路)とは別ルートになる。

 経路の変遷の実例として、長野県の伊那谷を通る中央自動車道が古代の東山道と一致するのに対して、江戸期の街道および国道20号が木曽谷を通ることなどが挙げられている。私は車の運転をしないので、高速道路網には全く不案内なのだが、とても面白かった。東名高速の「日本坂」も古代路で、まだ国字の「峠」が使われる前なので「坂」と呼ばれた、というのも初めて知った。

 鎌倉時代、源頼朝や北条泰時による道路整備のエピソードも興味深いものばかりだが省略する(朝比奈切通、ちゃんと歩いてみたいな)。著者によれば、中世後半期には、道路や交通に対する施策はほとんど見るべきものがないという。

 近世に入ると、徳川家康は江戸を中心とする五街道を定め、宿駅制度を布いた。各宿場は、幕府御用のために人馬を提供する見返りとして、一般客のために宿場を経営する権利を得たが、負担の方が大きく、抜本的な対策のないままに幕末を迎えた。「宿駅制度が幕府崩壊の一因でもある」という説もあるのだな。地域限定だが、静岡県の井川刎橋(はねばし)と代官・近山六左衛門のエピソードや、日光街道の杉並木と松平正綱のエピソードも感慨深かった。

 明治政府の交通政策は鉄道に傾斜していたため、明治は道路にとっては冬の時代だったという。道路整備が人々の関心事となるのは大正時代。折しも関東大震災を契機として道路・橋梁技術が発展し、昭和に入ると、ドイツのアウトバーンの刺激を受けて、自動車専用の国道建設の議論が始まる。しかし戦争の激化によって計画は中止されてしまう。

 そして戦後、二人の田中(田中精一、田中角栄)の先導によって、全国的な高速道路網の整備が開始される。技術的に大きな貢献を果たしたのは、ドイツ人技師のクサヘル・ドルシェだった。実際に指導を受けた著者は、明治のお雇い外国人を引き合いにして「道路の世界もようやくお雇い外国人の恩恵に浴した」と述べている。

 今後のあるべき日本の道路について、災害の多い我が国では、リダンダンシー(冗長性)を備えた道路網の整備・維持が必要であるという主張には同意できる。その一方、高速道路や古代路のような「直達性」を備えた道路網の需要は徐々に減って、中世~近世的な、近隣の集落を結ぶ「街道」のほうが復権していくのではないか、ということもぼんやり考えた。

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曹操注で読む/孫子(渡邉義浩)

2022-12-27 23:38:48 | 読んだもの(書籍)

〇渡邉義浩『孫子-「兵法の真髄」を読む』(中公新書) 中央公論新社 2022.11.25

 中国古典が好きで10代の頃から読んできたが、『孫子』はきちんと読んだ記憶がない。どうせ軍事マニアが喜ぶようなことが書いてあるのだろう、と軽く見てきたためだ。

 はじめに『孫子』の成立事情に関する解説がある。そもそも孫子とは何者か。『史記』は、春秋時代の孫武(前6世紀頃)と戦国時代の孫臏(前4世紀頃)の二人の伝記を収めている。歴代の『孫子』研究では、現行の『孫子』は孫臏の著作とされてきたが、1972年「銀雀山漢簡」の発見と分析により、現行『孫子』の中核的な執筆者は孫武と考えられるようになった。

 孫武には黄老思想との共通性が見られる。孫武の次の時代に活躍した呉起の著作『呉子』は、儒家を根拠として軍事思想を展開した。さらに次の時代の孫臏は、打ち続く戦乱を背景に、儒家に対抗し、戦争こそが天下を支配するために最も重要な手段であると主張した。漢帝国が成立し、儒教が国教化すると反儒教的な『孫臏兵法』は読まれなくなっていく。しかし後漢末の戦乱の中で『孫子』は再び脚光を浴びる。以上の整理は分かりやすく、納得できた。銀雀山漢簡は湯浅邦弘さんの『諸子百家』にも出てきたが、実に世紀の大発見だったのだな。

 後漢末に『孫子』の諸本を比較して底本を定め、個性的な注を付けたのは魏の武帝・曹操である。現行『孫子』とは、魏武注『孫子』13編をいう。そこで本書では、『孫子』テキストの主要部分を曹操の解釈である魏武注とともに読んでいく。

 魏武注は、ふつうに訓詁学的な解説もあるが、自らの戦いの経験に基づいて、抽象的な本文を具体的に展開してみせたり、時には本文の趣旨に反する見解を述べたりしていて、とても面白い。孫子を読むというより、曹操の前に座って、講釈を聞いているような気分になる。思い浮かぶイメージは、個人的な趣味で、中国ドラマ『軍師聯盟(軍師連盟)』の曹操だった。

 『孫子』の本文も、あらためて興味深く読んだ。印象的だったのは、戦争が社会や経済に大きな負荷をかけることを強く意識している点である。遠征には輜重・兵站が要る。徴兵された者は、従軍の間、耕作にかかわれない。さらに戦功への報償も必要である。百戦百勝しても戦争は国力を弱める。だから、なるべく戦端を開かずに敵を屈服させることが望ましく、戦う場合は速やかに決着をつける。

 戦わずに敵を屈服させるために重要なのは情報戦、間諜(スパイ)である。特に重要なのは「反間」(敵の間諜を寝返らせて用いること)だというあたり、ドラマ『風起隴西』を思い出した。敵の間諜を自軍に引き入れるためにも、自軍の間諜を敵の反間にしないためにも、将は間諜を厚遇しなければならない、という主張は納得できる。人間の心理を、非常にドライに観察していると思う。

 戦いに速やかに勝利するには、あらかじめ敵と味方の実情を的確に把握しておくこと、地形に合わせて軍を動かすこと、敵の「虚」(準備が整っていないところ)を衝くこと、「勢」を利用すること、などの条件がある。ここで感じ入ったのは、自軍の能力を最大限に引き出すには、兵士を死地に追い込むことだという、極めつけにドライな指摘である。追いつめられた兵は、教えられなくても警戒し、命じられなくても必死で戦う。それはそうだろう。

 一方、将軍論においては、必死の覚悟をした将は(柔軟に対処することができないので)殺すことができると軽んじられている。必ず生きようとする将は捕虜にすることができる。清廉潔白な将は辱めておびき出すことができ、民草を愛する将は民を痛めつけて煩わすことができる、と続く。これらは全て将たる者の弱点として語られているのだ。

 将と君主の関係も興味深かった。「君命に受けざるところあり」は有名な言葉だが、君主は軍事に関して将に全権を委任し、口を出してはいけない。国政と軍政は原理・原則が異なるという主張である。しかしこれは、実際の中国の歴史では、どのくらい実現されてきたのだろう。

 なお、「あとがき」には、ロシアによるウクライナ侵攻が始まり、ロシア政府の戦術に『孫子』にそぐわない部分が多いことに気づいたという著者の所感が述べられている。もちろん、はるか古代の兵法書がそのまま現代に役立つわけではない。しかし私も、近日、ニュースになっている日本政府の「反撃能力」問題が、『孫子』に照らし合わせて正しいかを、何度も考えてしまった。

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世界のアイドル/中国パンダ外交史(家永真幸)

2022-12-18 22:07:29 | 読んだもの(書籍)

〇家永真幸『中国パンダ外交史』(講談社選書メチエ) 講談社 2022.3

 中国四川省と、陝西省周辺の山岳地帯にしか生息していない稀少動物のパンダ。本書は、パンダが発見されて以来、長い時間をかけて中国が鍛えてきたパンダ外交の歴史をひもとく。

 パンダ発見の歴史は、知らないことばかりだった。1869年3月、フランスの宣教師で四川省に動物採集に訪れていたダヴィド神父は、穆坪鎮の地主から白と黒の毛皮を見せられ、謎の動物の存在を知る。その約10日後、ダヴィド神父は1体のパンダの死体を入手し、その毛皮と骨をフランスの国立自然史博物館に送った。動物学界は、この動物がレッサーパンダ(1820年代に発見)に近い種と判断し、大きい方のパンダ=ジャイアント・パンダという一般名が定着していく。ちなみに「パンダ」の語源はよく分からないそうだ。

 1929年にはアメリカのローズベルト探検隊がパンダを射止めることに成功する(写真あり)。その後も5~6頭のパンダが欧米のハンターに射殺された。19~20世紀初頭の「大物動物狩り」の流行は、急速な文明化や工業化に対する白人男性の危機感に基づく「マスキュラ―・クリスチャニティー(男らしいキリスト教)運動」が関係してるという説明も面白かった。

 1936年にはアメリカ人女性ルース・ハークネスが、子パンダ「スーリン」を生きたままアメリカへ持ち帰ることに成功し、スーリンはシカゴのブルックフィールド動物園の人気者になる。ここまで、中国側はパンダに関する認識が全くなく、欧米社会が勝手にパンダブームに火をつけている。

 1937年の盧溝橋事件に始まる日中戦争の中、国民政府はパンダを国際政治に利用していく。1941年には2頭のパンダがニューヨークのブロンクス動物園に贈られた。贈呈に立ち会ったのは宋慶齢、宋美齢姉妹。これはアメリカの民意をつかむため、国民党政府の「中央宣伝部国際宣伝処」が計画した対米宣伝活動であったことが、公開された公文書から分かっているという。

 戦後、パンダ外交は中国共産党に引き継がれる。国内の愛国主義教育にパンダが使われ始めるのも戦後のことだ。1955年、北京動物園で3頭のパンダの公開が始まる。ちなみに北京動物園の前身が清朝の農事試験場「万牲園」であることも初めて知った。やがてパンダの飼育は、上海、南京、昆明、成都などの動物園にも広がっていく。

 1950年代、中国はソ連のモスクワ動物園にパンダ2頭を贈った(2頭の名前はピンピンとアンアン。『飛狐外伝』の双子の名前じゃないか! そして雑誌「anan」もここから)。それとは別に、中国側が希望する多様な交換動物を示したことでオーストリアの動物商が獲得したパンダのチチはロンドン動物園に落ち着く。この時期、海外に出たパンダの数が少ないので、1頭1頭のエピソードが詳しく残っていて興味深い。1946年に国民党からロンドン動物園に贈られたリェンホー(連合)は気性が荒く、人に懐かず、憂鬱そうだったので人気が出なかったという。動物にも展示飼育に合う性格と合わない性格があるのだろうな。逆に自然動物の展示に対する人々の反省を呼び覚ました、というのは不幸中の幸いかもしれない。

 1970年代には、中国とアメリカの関係改善をきっかけに、中国と国交を樹立する国が増え、中国は友好の証として積極的にパンダを贈呈するようになる。1972年、初めて日本にパンダがやってきたのもそうした文脈である。当時、東京の小学生だった私は、もちろん上野動物園に見に行ったが、ガラス張りのパンダ舎では白黒の毛皮が寝ているのをチラリと見ただけだった気がする。

 その後、日本の動物園のパンダは増えたり減ったりしたが、私はあまり関心を持たなかった。白浜のパンダは、一度見に行きたいと思っているが実現していない。80年代に初めて中国旅行に行ったときは、ふつうの檻の中を歩き回ってるパンダの自然な姿を見たことが印象に残っている。

 1980年代以降、国際社会では野生動物保護のルール整備が大きく進み、中国のパンダ外交もその影響を受けることになった。中国政府はパンダの密猟規制に本腰を入れ、捕獲、殺害、売買を全面的に禁じた。それでも世界の動物園からパンダ展示の希望は止まず、90年代には10年程度の長期レンタル方式が提案され、WWFもこの考えに理解を示した。中国にとっては、パンダ・レンタルは安定的に巨額の外資をもたらすビジネスになった。政治的には、パンダを自由に移動できる「国内」はどこまでかという指標の問題がある。台北動物園には、中国から受入れたパンダがいるそうだが「台湾は中国の一部」と認めたわけではなく、そこは巧妙にうやむやにしているという。

 今年2022年の北京冬季五輪で「未来から来た宇宙パンダ」設定のビン・ドゥンドゥンが人気を博したのは記憶に新しいところ。確かにビン・ドゥンドゥンは可愛かったと思う。でも、ああいうずん胴で丸顔で垂れ目(に見える)幼いキャラクターに極端に熱狂してしまうのは、何か日本人の独特の嗜好のような気もする。幸か不幸か。

人民中国:四川省夾金山 四川ジャイアントパンダの生息地①(2010/11)

Yahoo!Japanニュース:パンダの「団団」が死ぬ 18歳2カ月/台湾・台北市立動物園(2022/11/19)

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引き裂かれる自己認識/アメリカとは何か(渡辺靖)

2022-11-15 22:11:39 | 読んだもの(書籍)

〇渡辺靖『アメリカとは何か:自画像と世界観をめぐる相克』(岩波新書) 岩波書店 2022.8

 アメリカといえば、リベラルな民主党と保守的な共和党が交代を繰り返す二大政党制で、比較的分かりやすい政治形態だと思っていた。それが最近いろいろと混沌としてきたのを、あらためて整理し直すのに役立つ本だった。

 まず「リベラル」や「保守」の意味は国や地域によって異なる、という注釈に目を開かれる。米国の独立宣言や憲法の基本にあるのは近代啓蒙思想、すなわちヨーロッパ流の「自由主義」で、近代そのものに懐疑的なヨーロッパ流の「保守主義」は希薄である。また強大な中央集権体制を通して社会全体の組織化を目指すヨーロッパ流の「社会主義」も受け入れられていない。ヨーロッパ政治が、社会主義・自由主義・保守主義の三すくみ構造であるのに対して、米国には、自由な市民による統治を肯定する自由主義しか存在せず、その左派を「リベラル」、右派を「保守」と呼んでいるに過ぎない。なるほど、なるほど。

 現在の米国の政治的イデオロギーを整理する際によく用いられるのは「ノーラン・チャート」で、個人の自由(社会的自由)と経済的自由を指標とし、以下の四象限に分類する。

個人の自由 経済的自由 イデオロギー
重視 重視 リバタリアン
重視 軽視 リベラル(左派)
軽視 軽視 権威主義
軽視 重視 保守主義(右派)

 共和党におけるトランプの台頭は、「権威主義」(民族、国家などの集合的アイデンティティを重視する)が「保守」の象限を侵食しつつあることを意味している。かたや「リベラル」の側のサンダース旋風を支えるのは若者たちである。冷戦時代を直接経験していない若い世代にとって「社会主義」への拒否感は少なく、資本主義こそ「強欲」や「不正義」の権化とみなされているという。ええ、なぜ日本にはこれと同調する動きが少ないのだろう。ともかく民主・共和両党とも主流派の求心力が低下しており、超党派の協力は一層困難になっている。左右のポピュリズムが、実はグローバリズムへの不信を共有しているのに対して、グローバルなヒト・モノ・カネの流れを肯定的に捉えるのがリバタリアニズム(自由至上主義)で、デジタル・ネイティブ世代との親和性を強めている。

 イデオロギーの対立は民主主義の健全な姿とも言える。しかし今日の米国は、政治的なトライバリズム(部族主義)に陥っている。「対立や分断がここまで深化した民主主義国家が協調メカニズムを回復した事例はなかなか思い浮かばない」という著者の予言がしみじみと怖い。

 具体的には、コロナ禍の下で先鋭化する陰謀論、「Qアノン」現象、BLM運動をめぐる攻防、キャンセル文化とウォーク文化、増加する国内テロ、等々。これがあの、幼い頃(父親の影響もあって)まぶしく見えたアメリカの現状かと思うと愕然とする。

 次に国際秩序の中の米国を考える。第二次世界大戦後、米国は、普遍的・協調的な「リベラル国際秩序」の構築を主導したと考えられている。私も教科書でそのように習った。しかし、それは本当に「リベラル」で「国際」的だったのか、そもそも「秩序」だったのかという批判が、欧米内部からも上がっているという。要するに「リベラル国際秩序」とは、米国の国益や覇権を正当化するための方便に過ぎなかったのではないか、という厳しい批判である。

 米国の自己認識(リベラル)の揺らぎを横目に、権威主義国家・中国は自信を深めている。なんというかこの構図、アテネとスパルタだな、と思った。米国国内が「リベラル疲れ」でぐだぐだになっている状況も、アテネ民主制の末期を思わせる。著者は米国の将来に関して「楽観的なシナリオ」と「悲観的なシナリオ」を示して本書を終える。どちらが妥当か、私にはよく分からない。むしろ本書を参考にして、私たちが真剣に考えなければいけないのは、「リベラル」が負け続ける日本の将来だと思う。

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迷妄を乗り越える/レイシズム(ベネディクト)

2022-11-14 22:30:54 | 読んだもの(書籍)

〇ルース・ベネディクト;阿部大樹訳『レイシズム』(講談社学術文庫) 講談社 2020.4

 書店で平積みにされていたので、思わず手に取ってしまった。原著は1942年の出版で、日本語翻訳は何度か出ているが、本書は学術文庫のための新訳である。原題「Race and Racism」に従い、第1部では人種(Race)について解説する。人種とは「遺伝する形質に基づく分類法の一種」である。この定義は明確だ。しかし、人はしばしば生物学的に遺伝するものと、社会的に学習されるものの区別を曖昧にする。たとえば「言語」は後天的な学習の結果である。「アーリア」は言語学上の概念で、遺伝的形質とは何の関係もないが、奇妙な誤用がはびこっている。

 学者たちは、皮膚の色、眼の色、鼻の形など、人種を決定的に分ける生物的な基準を打ち立てようと努力してきたが、うまくいっていない。また、ある人種や国籍グループが別のグループより優秀であることを証明しようとした比較研究にも疑義がある。インディアンは完全に自信と根拠をもっているのでない限り軽々しく質問に回答しないように躾けられるとか、ダコタ州の先住民族は「答えを知らないものがその場にいるときには答えをいわない」ことが伝統なのだという。いや面白い。結局、知能テストは学習成果を測るには有効でも、グループ間の先天的な能力差を測ることはできないことが合意となりつつある。

 優秀さは遺伝的に受け渡されるものではない。あるグループに大きな発展が生まれるのは、経済的な余裕と、活動の自由と、そしてこの2つを生かすための好機が揃ったときである。ここは赤線を引いておこうかと思った。国民の自由を抑えつけたり、富の再分配を怠って、格差を放置しているようなコミュニティに発展の余地はないのだ。

 第2部はレイシズムについて。著者はいったん、内分泌系や代謝機能の「平均値」が他と異なるという意味での人種が存在することを認める。しかしレイシズム、つまりエスニック・グループに劣っているものと優れているものがあるというのは迷信であると断言する。レイシズムは「ぼく」が最優秀民族(ベスト・ピープル)の一員であると主張するための大言壮語でしかない。

 以下、著者はこの「選ばれし人間」認識がどのような歴史をたどってきたかを、多少の推測も交えて描き出す。近代のはじめ、ヨーロッパ人は未知の大陸や島々を発見するが、先住民は人間外のものとされていた。なぜなら彼らがキリスト教徒ではなかったからだ。市民革命の時代が訪れると、貴族と平民の対立を人種の違いに求め、貴族の優等性を主張する言説が流行する。19世紀末にはナショナリズムの高まりにより、階級ではなく国家間の優劣に関心が集まった。ヒューストン・チェンバレン『十九世紀の墓標』は、顔の形も髪色も関係なく、絶対の忠誠心をもつ者はすべて「チュートン人」(ドイツ人の祖先)であると説いた。「ドイツ人にふさわしい行動をとる者は、だれでもあれ皆ドイツ人である」という。馬鹿馬鹿しくて笑ってしまった。これは寛容そうに見えて、自分たちの敵に対しても「〇〇に見える行動をとるものは〇〇」という判断を押し付け得るところが怖い。ヒトラーの第三帝国では、時々の政治情勢・利害関係にあわせて、レイシズムが利用された。「レイシズムは政治家の飛び道具である」という言葉も覚えておきたい。

 人種に対する迫害を理解するためには「人種」ではなく「迫害」の歴史を研究すべきことを著者は提唱する。少数者に対する迫害は、ずっと繰り返されてきた。かつて主戦場は宗教だったが、現在(本書の執筆当時)は人種となったように見える。しかし大事なのは、人種差別として表面化したものの根本に何があるのかを知ることだ、と著者はいう。社会の不公正や不平等をなくしていくこと、マイノリティの安全・市民権の保障を進めていくこと、それ以外に人種差別をなくす方法はない、という著者の提言に同意する。80年前の著作とは思われず、著者がまさに21世紀の世界を見て書いているのではないかという錯覚を誘うような1冊だった。この新訳で、あらためて日本の全世代に広く読まれてほしい。

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