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見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。
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木場でうどん屋呑み

2022-11-13 09:24:09 | 読んだもの(書籍)

門前仲町の角打ち呑み屋で、ときどき一緒になるおじさんから、木場に日本酒の呑めるうどん屋があるという話を聞いたので、友人と行ってきた。「饂飩乃風 楽翔(らくと)」というお店である。

「ちょい飲みセット」の天ぷらともつ煮。どちらも注文を受けてから、その場で調理してくれるのでアツアツ、新鮮。

お酒は、プレミア感のある銘柄3種の飲み比べセットのあと、長野の「彗(シャア)」と滋賀の「三連星」をグラスでいただく。三重の「作(ザク)」は知っていたけど、これは初めて。

最後は〆めのざるうどん。

大満足~ごちそうさまでした!

2021年8月オープンのお店とのこと。機会があったらランチにも来てみたい(最近忙しくて、在宅勤務でもゆっくりランチの時間が取れないのが悲しい)。

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韓国史の内側から見る/韓国併合(森万佑子)

2022-10-17 22:15:46 | 読んだもの(書籍)

〇森万佑子『韓国併合:大韓帝国の成立から崩壊まで』(中公新書) 中央公論新社 2022.8

 本書は、19世紀の東アジアの国際関係の概観から始まる。19世紀の東アジアは中国(清)を中心とする「朝貢体制」にあった。朝鮮は中国の「属国」であったが、内政外交の自主は保たれていた。また、儒教国家・朝鮮にとって、清は崇拝する明を倒した野蛮人の国で、朝鮮こそが明朝中華を継承すると自負する「小中華思想」を強く抱いていた。そんな古い話、と思いがちだが、この経験と認識が、その後の朝鮮(韓国)の運命に大きくかかわっていく。

 19世紀後半には、西洋列強が持ち込んだ「条約体制」が東アジアに浸透していく。日本の近代化に学んだ官僚・知識人たちは、朝鮮の自主独立を志向するが、清との関係を基軸と考える政権中枢の支持は得られなかった。しかし、日清戦争に日本が勝利したことで清に気兼ねなく政治が行えるようになると、国王高宗は「明朝中華の系譜を継ぐ朝鮮中華主義」の実現のため、皇帝に即位する(1897年、大韓帝国の成立)。日本の明治維新では、天皇はほぼお飾りで、明治天皇の国家構想など誰も気にしないのだが、韓国の近代化は違うみたいだ。各種勢力を調整しながらも、基本的に儒教宗主としての専制君主を目指した高宗。近代的な国家と国民の創出を求める知識人たちの独立協会。そこに介入する外国勢力、ロシアと日本。

 やがて大韓帝国をめぐる日露の対立が決定的となり、開戦必至の状況で、日韓密約交渉が行われ、1904年2月、日本がロシアへの軍事行動を開始した直後に「日韓議定書」が結ばれ、同年8月に「第一次日韓協約」が結ばれる。そして日本が日露戦争に勝利した後、1905年11月に「第二次日韓協約」(乙巳保護条約)が結ばれ、日本は大韓帝国の外交・内政全般を支配することになった。この保護条約を高宗に強要したのが伊藤博文かあ…。著者によれば、高宗は、中華帝国のなかで中国の「属国」であっても外交内政の自由を保ってきた経験から、日本に対し、大韓帝国の独立国家としての形式だけは残してほしいと強く希望した。しかし伊藤は譲歩しなかった。

 伊藤は、万機すべて皇帝が決するという大韓帝国の制度を逆手にとって高宗に決断を迫った。見方によっては、この政治力、交渉力は大したものである。しかし韓国民衆の恨みを買っても仕方ないなあと思う。高宗は、日本の暴挙を国際社会に訴えて、大韓帝国に対する諸外国の支援を得ようとしたが、目的は果たせなかった(ハーグ密使事件)。日本は、かえってこの機に韓国内政に関する全権を掌握することを目指し、1907年7月、高宗を強制的に譲位させた(純宗即位)。「第三次日韓協約」の締結により、日本の支配はさらに強化されていく。

 統監の伊藤博文は、司法改革、地方行政改革、教育の普及などに取り組み、民心を懐柔するため、純宗皇帝の南北巡幸をおこなった。同行した伊藤は、各地で抗日運動を目の当たりにする。日本政府は統監府統治の失敗を認識し、韓国併合を実行することとし、伊藤もこれを容認した。感謝されると思った政策が、かえって民衆の不満や抵抗を掻き立てたことへの困惑。伊藤博文のこの点、少し袁世凱に重なるところがある。伊藤の暗殺を経て、1910年8月、「韓国併合条約」が調印される。

 これに先立ち、首相の李完用は、国号に「韓国」を残し、皇帝には「王」の尊号を与えることを願い出ている。かつて「清国に隷属」していた時代にも国王の称号はあったというのがその理由だ。結局、日本政府は、大韓帝国の皇族を日本の皇族に入れることはせず、「王公族」という身分を創出し、純宗は「李王」として日本の天皇より冊封された。冊封! 前例として、1872年に天皇が琉球国王を冊封し、7年後に琉球藩を廃して沖縄県を設置した事例があるという。琉球処分にしろ、韓国併合にしろ、その過程で古代以来の「冊封」が行われていたなんて、思いもよらなかった。もちろん「冊封」の実態は古代や中世とは大きく異なる。朝鮮国王は中国皇帝に冊封されていても、内政外交の「自主」は保たれてきた。しかし帝国主義の時代、大日本帝国の支配は一切の自由を許さないものとなる。

 本書を読んで感じたのは、近代化の初期、朝鮮の王族や官僚が、古い「属国自主」や「小中華」の思想に囚われていて、全く適切な対応ができていないことだ。だから日本が、保護国化するという理屈は成り立たないだろう。しかし、韓国に内在した混乱・停滞の種もきちんと見ておくことが必要だと思う。

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上空からの眼差し/空爆論(吉見俊哉)

2022-10-03 22:21:17 | 読んだもの(書籍)

〇吉見俊哉『空爆論:メディアと戦争』(クリティーク社会学) 岩波書店 2022.8

 本書は、第一次世界大戦期に始まり、今日まで続く空爆の歴史を、メディアの歴史として捉えたものである。副題「メディアと戦争」が意味するのは「メディア技術としての戦争」であり、その核心は「空爆する眼差し」という言葉で表される。この問題設定は、メディア論の門外漢には、なかなか分かりにくい。しかし分からなくても、とにかく飛び込んで読み進めてみる価値のある本だと思う。

 歴史的には18世紀末、熱気球が「上空からの眼差し」を人々にもたらした。それは19世紀の博覧会ブームおよび「帝国の眼差し」と並行して増殖していく。1910年代にはバルカン半島と北アフリカで起きた植民地戦争で、歴史上最初の「空爆」が行われた。その背後には、西欧「文明」の、植民地「野蛮」に対する人種的偏見が介在していた。第一次大戦前後に刊行されたドゥーエの『空の支配』は、飛行機の登場によって戦争における前線と後方の区別が消失したことを主張し、市民の殺戮を含む無差別爆撃を正当化する。

 ドゥーエの空爆論は、勃興期の空軍に広く浸透していった。もちろん、中国諸都市への空爆を行った日本軍も例外ではない。しかし、本書に詳述されている、米軍による日本空爆の巨大な規模、科学技術を総動員した精度と効率の徹底に比べれば、おそろしく未熟な模倣にすぎないと感じられる(だから日本軍の罪が軽いという意味でない)。

 本書を読んで初めて知ったのは、米軍が日米戦争のなかで攻撃型ドローンの開発に取り組んでいたことだ。日本軍は「カミカゼ」特攻隊を生み出し、兵士に爆弾を誘導する「眼」となることを強いた。つまり、技術力で歯が立たない相手に対して、メディア技術を発達させるのでなく、人間そのものをメディア技術に代替していった。一方、米軍のドローンは、安全なコントロールセンターに身を置く兵士が、自在に相手を殺戮することを目指した。この圧倒的な非対称性には言葉もない。

 米軍の日本空爆は、その後、朝鮮半島と北ベトナムで再現される。朝鮮戦争では、日本空爆を上回る空爆が集中的に行われた。しかも「アメリカは朝鮮戦争が休戦状態になってしばらくすると、自分たちが半島でしたことをさっさと忘れた」というのが酷い。しかしベトナムでは、対日戦で効果を発揮した航空写真や都市地図が、絶えず動きまわるゲリラには全く役に立たなかった。大量の爆弾は、ベトナム人の戦意を喪失させるどころか、反米意識を強固にする手助けをしただけだった。この失敗に学んだ米軍は、つねに上空から地上を監視し続けるドローンと、さらに上空からドローンを制御する人工衛星のネットワークの整備を本格化させる。そして訪れる湾岸戦争。

 では、「上空からの眼差し」に狙われた側にできることは何か。ベトナムでも中東でも、多くの人々が地下に逃れ、カモフラージュを重ね、時には(比喩的な意味で)自爆攻撃を仕掛けてきた。3月10日の東京大空襲後の路上の風景を数多く撮影し、「地上の眼差し」を後世に残したカメラマン石川光陽もそのひとりである。あるいは、「ゴジラ」をはじめとする初期の怪獣映画、水木しげるから大友克洋までのマンガ・アニメにも、戦争末期の空爆や無意味な戦闘の記憶が反映している。「1945年の日本列島で生じた無差別大量殺戮が、アメリカによるきわめて意図的で計算し尽くされた作戦の実現であったことをあからさまに糾弾することを避けてきた戦後日本社会は、その屈折した記憶の政治を、数々の大衆文化作品に創造的に昇華させていったのだ」という。この屈折は、十分ではないが、なんとなく分かる。

 私は、もし今の日本に「戦後レジームからの脱却」なるものが求められるとしたら、アメリカが人種的偏見に基づいておこなってきた大量殺戮を糾弾するところから始めるべきではないかと思う。それは過去だけの問題ではない。今も「上空からの眼差し」に命がけで抵抗している人たちがいるのだから。

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2022年9月関西旅行:中央アジア(MIHOミュージアム)他

2022-10-01 22:41:31 | 読んだもの(書籍)

東寺宝物館 『鎌倉時代の東寺-弘法大師信仰の成立-』(2022年9月20日〜11月25日)

 鎌倉時代の東寺は、後白河法皇や源頼朝の支援によって伽藍や仏像の大修理が行われ、新たな法会や行事が定められた。その経緯を主に文書資料によって紹介する。伽藍の修理工事だけでなく、その後の維持運営のために、多くの庄園(東寺ではこの表記)が寄進されたり(財源)、供僧が増員されたり(人員)しているのに感心した。『鎌倉殿の13人』視聴者をねらって(?)北条泰時と時房(トキューサ)が連署した六波羅施行状が出ていたのには笑ってしまった。

龍谷ミュージアム 秋季特別展『博覧-近代京都の集め見せる力-』(2022年9月17日~ 11月23日)

 明治時代から昭和戦前期にかけて、京都で開催・開設された博覧会や博物館の中から、「京都博覧会」「西本願寺蒐覧会」「仏教児童博物館」「平瀬貝類博物館」を取り上げ、主催者側の展示に込めた強い思いを探る。面白かった! 特に当時の古写真(残っているんだなあ)を大きく引き伸ばしてタペストリーにした展示が興味深かった。明治の博覧会、観客にはあまり若い女性がいない気がする。今より早く老けた格好をする習慣だったからだろうか。昭和戦前期の小学生は、意外と戦後(昭和30年代くらい)と変わらない服装・髪型だなあとか、いろいろなことに気づく。

 京都の博覧会といえば、岡崎で開催された「内国勧業博覧会」のイメージが強かったが、もっと早く、明治4年(1871)に西本願寺を会場として開催されているのだな。京都女子大図書館から、多数の関係資料が出陳されているのが目を引いた。「西本願寺蒐覧会」は、江戸時代から行われてきた法宝物拝観を発展させたもの。地方の浄土真宗寺院の寺宝に、この蒐集会に出陳したことを示す文書などが付属して残っているもの面白かった。

 「仏教児童博物館」は、昭和3年(1928)、龍谷大学図書館長であった中井玄道(1878-1945)が図書館内に事務局を置くかたちで開設したもので、のち、円山公園内の三井家別邸を譲り受けて展示の場とし、アメリカに範をとった社会教育の施設として50年以上にわたって活動を継続した。日米親善の証としてアメリカから贈られたリアルな人形(リンカーン大統領、インディアン酋長など)が珍しかった。「平瀬貝類博物館」は、民間の貝類研究者だった平瀬與一郎(1859-1925)が岡崎に開設したもの。皇太子時代の昭和天皇も訪れたという。不思議な情熱の行方を垣間見る展覧会である。

MIHOミュージアム 秋季特別展『文明をつなぐもの 中央アジア』(2022年9月3日~12月11日)

 最後の訪問がコロナ禍前の2019年なので、久しぶりにMIHOミュージアムを訪ねた。本展は「中央アジア」を冠しているが、中心テーマは、ユーラシアの東西交流を支えたイラン系の交易の民、ソグド人である。はじめに彼らの精神世界の源流となる、中央アジア・東イランの古代文明の遺物に着目する。紀元前3000年~2000年に遡る装飾性豊かな壺や杯(石器か?)、銀器や女神坐像など。牡牛や猛獣・猛禽、聖樹が目立つ。やがて、馬、山羊、獅子なども登場し、古代中国の鳳凰・辟邪などと交錯する。

 『石床屏風』(北周時代)は、埋葬用の寝台の周囲を取り囲む大理石板のセットである。中央アジアの風俗を描いた浮彫が施されており、被葬者は中国で没したソグド人ではないかと考えられている。これはMIHOミュージアムの所蔵品で、いつでも常設展示で見られるものだが、近年、同様に中央アジアの文化を反映した石床が、ほかにも中国で発見されているそうだ。本展には、深圳市金石芸術博物館所蔵の『翟門生石床』(東魏)の拓本や実物大模型が展示されていた。

 併設の特別陳列『中華世界の誕生-新石器時代から漢-』(2022年7月9日~8月14日/9月3日~12月11日)も、彩陶から青銅器、鉄器に至る時系列が分かりやすく、名品が多くて楽しめた。

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COVIDワクチン物語/変異ウイルスとの闘い(黒木登志夫)

2022-09-20 20:23:08 | 読んだもの(書籍)

〇黒木登志夫『変異ウイルスとの闘い:コロナ治療楽とワクチン』(中公新書) 中央公論新社 2022.5

 2020年にコロナ禍が始まって以降、さまざまな医者や学者がメディアに登場し、彼らの著作もずいぶん出版された。だが、どこまで信用できるか分からない本を読むことを私は意識的に避けてきた。ふと目についた本書を手に取ったのは、著者が『研究不正』や『落下傘学長奮闘記』『科学者のための英文手紙の書き方』で古なじみの名前だったためである。

 著者は「感染症に伝統のある研究所で長年研究をしてきたが、専門はがん細胞の研究である」と自己紹介している。このため、COVIDの本を書くに当たっては、多くの人に教えを請い、原稿を読んでもらったり、メール討論してもらったりした。この、対象との程よい距離感が、素人にも分かりやすい本書を生み出したのではないかと思う。

 はじめに、ウイルスと変異の基礎知識が示される。感染が波状攻撃を繰り返すのは、ウイルスが変異するためだ。第1波~第6波の中心となった変異株にはそれぞれの特徴がある。次にワクチンと治療薬の歴史と現状について語り、医療逼迫が起きる理由(日本の医療制度の根本的な問題点)を論じ、最後に今後のシナリオを提示する。

 最も興味深かったのはワクチン開発物語で、著者は「病原体ワクチン」「遺伝子産物ワクチン」「遺伝子情報ワクチン」という新しい分類を提唱する。三番目の遺伝子情報ワクチン(DNAワクチンとmRNAワクチン)はコロナ以前には使われていなかったが、COVIDワクチン開発の中で一気に実用化した。ハンガリー生まれで米国に渡った女性研究者カリコーは、mRNAワクチンの研究を根気強く続け、免疫学者のワイスマンとの共同研究によって、2008年、ついに安定化に成功する。

 カリコーの発見を受け継いでmRNAワクチンを実現したのが、二つのベンチャー企業、米国モデルナ社とドイツのビオンテック社である。ビオンテック社は、シャヒンとテュレジ夫妻(ともにトルコ移民二世)によって2008年に創設された。2020年1月、中国武漢で新しい感染症が発生したというニュースを聞いたシャヒンは、これはパンデミックになると直感し、直ちに社内に「光速プロジェクト」を立ち上げ、9か月でmRNAワクチンの設計図を完成させた。

 シャヒンはファイザー社のワクチン開発責任者ジャンセン(東ドイツ出身、ファーストネームから見て女性)にCOVIDワクチンの開発を提案する。大企業ファイザー社のCEOブーラ(本書にはギリシャ移民と記載、Wikiでは市民権はギリシャ)はシャヒンを知らなかったが、電話会談で信頼関係を築き、開発スピードを最優先して、50:50の契約に合意した。

 モデルナ社は2010年にアフェヤン(アルメニア人、ベイルート生まれ)によって創設された。2020年1月、CEOのパンセルから緊急連絡を受けたアフェヤンはCov-2に対するmRNAワクチンの開発を開始し、2日間で設計を終え、41日後には最初のワクチンをNIH(アメリカ国立衛生研究所)に送ったという。

 この一段は、人類にとっての「画期」がどのように起きるかを追体験できて、本当に面白かった。登場人物が移民ばかりであることに感銘を受けながら読んできたら、著者も「ここまでに登場した人物のほとんどは移民である」という総括を挟んでいた。ワクチン開発に関わった人たちの国籍は60ヵ国、男女は同数で、まさに「移民の高いモチベーション、多様性が生み出すエネルギーが、この画期的なワクチンの背後にあったのだ」という。そのあとに付け加えられた「日本が、ワクチンだけでなく、あらゆる分野で先端を切り開けないでいる理由が分かったような気がする」という一文が苦い。

 本書には「日本がワクチンを開発できなかった理由」が5つに整理されている。(1)スピードがあまりにも遅かった (2)予算があまりにも少なすぎた (3)政府もワクチン開発から逃げていた (4)感染者の少ない日本では臨床試験は困難 (5)実社会の効果と安全性検討にはデジタル化が必須 (6)長い目で見た基礎研究をおろそかにした。なんともはや…である。東大医科研の石井健教授は、mRNAワクチンの開発に取り組み、2015年時点で世界のトップレベルにあった。しかし第1相試験の段階で、予算が獲得できずに挫折した。AMEDは「日本で流行していない病気に予算はつけられない」と断ったという。単なる傍観者の私がこれを読んで歯噛みする思いなのだから、当事者の悔しさはどれほどだったろう。

 医療逼迫について、日本の国民皆保険は非常に優れた制度であるが、超高齢化社会による医療費の上昇と経済の停滞による財政の圧迫のもと、医療制度の基盤は脆弱になりつつあり、加えて、医療資源に余裕がなく、かろうじて危ういバランスを保っているという指摘に身が凍りつくような感じがした。パンデミックへの備えを含めて、医療体制を基本から考え直す必要があるという。

 コロナ対応「ベスト・プラクティス7」「ワースト・プラクティス7」には、おおむね同意できた。ワースト(1)はGO TOキャンペーン、(3)はPCR検査(の軽視)、(7)には政府と官僚の縦割り行政と無謬性神話が入ってる。

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通史のつもりで/悪党たちの中華帝国(岡本隆司)

2022-09-09 21:50:13 | 読んだもの(書籍)

〇岡本隆司『悪党たちの中華帝国』(新潮選書) 新潮社 2022.8

 「悪党たちの~」には先達があって、君塚直隆先生の『悪党たちの大英帝国』(新潮選書 2020.8)は、大英帝国を築いた個性的な悪党(≒アウトサイダー)7人の評伝だった。だから当然、本書も評伝スタイルで行くのだろうと思っていた。選ばれた12人は、唐太宗、安禄山、馮道、後周の世宗(柴栄)、王安石、朱子、永楽帝、万暦帝、王陽明、李卓吾、康有為、梁啓超である。

 ところが、冒頭の唐太宗の段から何かが違う。そもそも唐の前の王朝である隋を建国した楊堅の紹介に始まり、稀代の暴君と呼ばれる煬帝の治世、唐太祖李淵の挙兵と即位、そして唐太宗李世民による皇位簒奪を語る。主人公であるはずの唐太宗に関する記述は、本当に申し訳程度しかない。しかも最も「悪党」らしい印象を残すのは間違いなく煬帝である。実は唐太宗の事蹟は、ほぼ煬帝のそれをなぞっていて、「太宗の陰画(ネガ)が煬帝、煬帝を陽画(ポジ)にしたら太宗」というのが著者の主張なのだ。書かれた歴史(≒権力者がつくった歴史)とはそういうものなのだ、ということが、まず読者に示される。

 唐太宗の後には、高宗、中宗、則天武后が続き、クーデタに成功して即位した玄宗の晩年、安史の乱が起こる。ここでも安禄山個人に関する情報は多くない。以下、ずっとこんな調子で、標題に〇〇という人名が掲げられていても、誰の話を読んでいるのか、忘れてしまいがちだった。そのかわり、各回の橋渡しは絶妙で、隋から中華民国までの歴史が、流れるように語られていく。気がつけば、列伝体で書かれた「中国通史」を読んでしまった感がある。

 いや、本書の本当の主人公は「中華帝国」そのものと考えるのが正しいのだろう。唐太宗によってつくられた大唐帝国という第一次「中華帝国」は安禄山によって解体される。短命政権が乱立したカオスの五代において天下統一プランを立てたのが後周の世宗、しかしその実現は、宋太祖と弟の太宗を俟たねばならなかった。この三人を、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に譬えているのは面白い。宋は周辺諸国との関係に悩まされ続け、中国の統一王朝としては最小・最弱の王朝と見くびられてきた。しかし文化的には、数ある分野で当時「世界一」、最強の「中華帝国」だったともいえる。

 「中国」並びに「天下」の統一は、草原に起こったモンゴル帝国(大元国)によって実現した。しかし14世紀半ばには、気候の寒冷化と疫病(ペスト)の流行によって、生産の縮小・交通の途絶・商業の萎縮・金融の破綻が起きる。もともと多元的だったシルクロード周辺は、相互のつながりを喪失し、ユーラシアの東西はおよそ隔たった地域になってしまった。そして漢人が「中国」とみなす地域を大元国から奪って成立したのが明である。明の国是は「中華」の回復だったが、明太祖朱元璋がデザインした体制はモンゴルを継いだ側面もあった。

 明の草創期、明太祖や永楽帝の時代は、朝廷が社会と向き合って格闘した。しかし15世紀半ば以降、民間の経済・社会的な力量が増大し、一方、政治権力(皇帝)は著しく矮小化していく。経済と政治が分離し、社会と権力が対立関係に立つのが、以後の「中華帝国」の基本パターンであるという。なるほど、これは現代の中国社会にもつながる伝統かもしれない。

 清はいきなり王朝の末年に跳ぶ。康有為を取り上げてくれたのは嬉しかったが、このひと、やっぱりダメな奴だな。思想家としては「第一級」でも、政治家・実務家としては、およそ適性がなかったと著者の評価は厳しい。最後の梁啓超は、「中華帝国」を葬り去り、祖国を立憲制・共和制の「国民国家」に変革しようとした人物である。しかし「帝国」の亡霊は、いまもあの国を(否、世界各地を)さまよっているように思う。

 それから著者が、王安石や李卓吾を通して、この国の合理主義や近代思惟がなぜ挫折したのか(なぜ西洋的近代が来なかったのか)を、繰り返し問うていることも考えさせられた。こうした圧倒的な歴史の力と比較すると、皇帝も宰相もちっぽけなものである。12人の登場人物の印象はほとんど残らないので、オビの「『闇落ち』した男たち」は、内容を読まずにつけたキャッチコピーとしか思えない。

 蛇足だが、私は各時代で好きな中国ドラマを思い出していた。隋唐は『隋唐演義』『風起洛陽』『長安十二時辰』、宋は『開封府』『知否』『夢華録』および金庸の『射鵰』三部作ほか、明は『大明帝国』『月河山明』など、最後は懐かしい『走向共和』。近年は、宋と明のドラマを見ることが増えた気がする。

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作品に語らせる/森鴎外(中島国彦)

2022-08-31 22:48:30 | 読んだもの(書籍)

〇中島国彦『森鴎外:学芸の散歩者』(岩波新書) 岩波書店 2022.7

 2022年に生誕160年と没後100年を迎えた森鴎外の、読みやすくて堅実な評伝である。偉大な文豪として遥かに仰ぎ見るのではなく、ジャーナリスティックな関心で悪事や欠点をほじくり返すのでもなく、ひとりの明治人の生涯を淡々と追っていく。

 私は、まあ普通程度には日本の近代文学に親しんで育った。夏目漱石は大好きで高校時代には小説作品をほぼ読み尽くしていた。樋口一葉、泉鏡花、永井荷風、志賀直哉、芥川龍之介など、少なくとも好きな作品のひとつやふたつはあったのだが、鴎外は全くダメだった。定番の「雁」「舞姫」「青年」などを読んでみたものの、どこがおもしろいのかサッパリ分からなかった。ところが、かなり大人になってから、仕事の延長で鴎外に親しまざるを得ないことになり、津和野の生家まで行ってみたり、千駄木の鴎外記念館をときどき訪ねたりしている。

 なので、鴎外の基本的な閲歴について特に新しい知識の追加はなかった。しかし本書がとても楽しかったのは、鴎外の文章(小説・随筆・日記等)の引用が多いことである。たとえば随筆「サフラン」には、本を読み耽った少年時代、蘭医の父親にオランダ語を習った思い出が、無駄のない文体で描かれている。「独逸日記」で原田直次郎と愛妾マリイについて触れた部分、小説「細木香以」で「わたくしの家」すなわち観潮楼について述べた記述もある。日露戦争中に妻の志げに送った有名な書簡も引用されている。

 慣れ親しんだ「舞姫」や「青年」の一節には、本書の著者の読み方をなぞって、ああ、なるほどこう読むのかと得心するところがあった。ほとんど記憶の残っていない「半日」「杯(さかずき)」などは、あらためて読んでみたくなった。晩年の歴史小説は、長めの引用が多くて、小説そのものを読むようにわくわくした。

 また、鴎外と交流のあった文学者たちについても、極力、その文章に語らせている。たびたび登場するのは永井荷風で、回想記「書かでもの記」に残された、たまたま劇場で鴎外に遭遇し、友人(小栗風葉)の紹介で初めて挨拶するシーンは、これ自体が小説か芝居のように鮮やかだ。荷風先生、初々しい。「日和下駄」では、観潮楼に荷風が訪ねた鴎外は、白いシャツに軍服ズボンで「日曜貸間の二階か何かでごろごろしてゐる兵隊さんのやうに見えた」という。日露戦争に従軍した田山花袋が戦地で見た鴎外は、蠅を逐う払子を持ちながら外国語の小説を読んでいたというし、威儀を正すことにこだわらない鴎外の姿が浮かぶ。あの髭なので、もっと厳格な性質かと思ったら。

 石川啄木が鴎外に送った長文の手紙、漱石による短い鴎外作品評も採録されている。鴎外が二葉亭四迷を追悼した文章は、真情が感じられて印象深かった。追悼文なのに「つひつひ少し小説を書いてしまった」という。あと、芥川龍之介にも「文芸的な、あまりに文芸的な」に鴎外への言及があるのだな。知らなかった。意識的な執筆方針なのかもしれないが、本書を読むと、明治大正のさまざまな文学・文学者が、鴎外とつながっていることが見えてくる。

 もうひとつ気になったのは、10歳で上京した鴎外は、その後一度も故郷に戻ったことがなく、津和野を正面から描いた文章もないのだという。その生涯の最後が「石見人森林太郎」の遺書であることに、想像がふくらんで感慨深いものがある。

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軍を率いた文官/曽国藩(岡本隆司)

2022-08-28 23:58:18 | 読んだもの(書籍)

〇岡本隆司『曽国藩:「英雄」と中国史』(岩波新書) 岩波書店 2022.7

 曽国藩(1811-1872)の名前は、たぶん高校の世界史で習ったと思う。また、大学の一般教養で選択した「歴史学」の講義が、たまたま太平天国をテーマにしていたので、曽国藩の事蹟はかなり詳しく聴いたはずだ(あのときの女性講師はどなただったんだろう?講義は面白かったのに先生の名前を覚えていない)。

 私は、その後、小説やドラマを通して中国近代史に接するようになったが、弟子の李鴻章に比べると、師匠の曽国藩の登場作品は少なく、あまり形象化されていないように思う。それもそのはず、著者によれば、曽国藩は「位はほぼ人臣を極め」「とびっきりの秀才・傑物ではある」が、「容姿風采、物腰性格もごく地味」で「気後れしつつコツコツ・マジメに努め、たえず反省を怠らない」「およそ田舎者に共通するタイプ」だという。ひどい人物評(笑)。まあ、これでは小説やドラマで印象深い役柄にはならないだろう。

 はじめに著者は、18世紀の中国が繁栄と人口爆発の時代であったこと、しかし清朝の統治機構は時代の変化に対応する拡大・改編をしなかったこと、その結果、19世紀初めの中国は、治安悪化と武装化が進み、「匪賊の国」となっていたことを述べる。曽国藩が生まれた湖南省は、後進的で貧しい地域だったため、湖南人といえば不屈の「命がけ」が人口に膾炙していた。

 曽国藩は、30歳(数え)で科挙に合格し、以後、中央官僚として順調に出世を重ねていく。一方、南方では洪秀全率いる上帝会(のちの太平天国)が1851年に武装蜂起し、清朝政府と交戦状態に入る。1852年、42歳の曽国藩は郷試の主任試験官として江西省へ向かう途中、母の訃報を受け、湖南省の実家に直行する。本来なら三年の喪に服すべきところ、咸豊帝から、湖南の「団練」を編成指揮し、匪賊を捜査するよう勅命が下る。

 そこで曽国藩は、湖南全域の紳士(郷紳)に丁寧な呼びかけを行う。いちいち自著した書翰を送ったというのがポイント。岳飛の言葉を原典にした「不要銭、不怕死」のスローガンも巧い。そして湘軍を組織し、「粤匪」すなわち太平天国と激突することになる。しかし曽国藩は文官である。アジテーションの文才はあっても、実戦の経験や用兵の才は全くない。緒戦で大敗し、逃げ出す兵卒に激怒し、絶望のあまり湘江に飛び込んで自殺未遂事件を起こしてしまう。のちに天子に宛てて、自分の不甲斐なさを切々とつづり、謝罪する上奏文も残っているという。専門外の仕事に借り出された不幸とはいえ、こんなに情けないおじさんだったとは…。

 その後も敗戦が相次いだが、なぜか湘軍は瓦解しなかった。困苦欠乏に耐えうる湖南人の気質に加え、曽国藩が徹底して私的な縁故関係で組み上げた組織なので、上下の信頼感が強かったからだろうと著者は推測する。湘軍は、既成の官軍やほかの団練・郷勇よりも、信仰でまとまった太平天国軍に似ていたという指摘が興味深い。

 清軍と太平天国軍の戦闘は14年に及んだ。精鋭をうたわれた湘軍も、次第に人的資源の枯渇と弛緩・劣化が目立つようになり、曽国藩は幕僚の李鴻章(1823-1901)に命じて新たな軍隊「淮軍」を結成させる。李鴻章・左宗棠の活躍により孤立化した天京(南京)は、1864年、曽国藩の弟・曽国荃の軍の猛攻(略奪・殺戮を含む)によって陥落し、ついに太平天国は滅亡した。

 清朝政府は、戦災からの国土復興に加え、新たな反乱「捻軍」の鎮圧、列強との外交、「洋務」の導入、教会襲撃事件(教案)の処理など、数々の課題に取り組まなければならなかった。この過程で、曽国藩と李鴻章の立場が逆転していく。この二人は12歳差だが、ちょうど時代が大きく動く転換点のためか、または持って生まれた性質のためか、年齢差以上に曽国藩は旧時代の人、李鴻章は新時代の人、という感じがある。

 曽国藩の死後、李鴻章は師の顕彰に尽力した。もちろん亡き師への尊崇・追慕の念に発する行為と思われるが、曽国藩の正しい後継者として自らを位置づける政治的アピールだったとも解しうる、という著者の見方は、なかなか穿っている。蒋介石や梁啓超が曽国藩に傾倒したというのは、著者の説明を読むと腑に落ちる(蒋介石は李鴻章には批判的だった)。人の評価は、棺を蓋いて定まるというけれど、全然そうではなくて、時代とともに二転三転するのが、政治的人物の面白さである。

 岡本先生、これで「李鴻章」「袁世凱」「曽国藩」の三部作をものされたわけだが、ええと、康有為とかどうですかね。梁啓超はちょっと違うかなあ…。西太后も読みたいなあ。

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豊かさと抑圧/新彊ウイグル自治区(熊倉潤)

2022-08-08 16:57:34 | 読んだもの(書籍)

〇熊倉潤『新彊ウイグル自治区:共産党支配の70年』(中公新書) 中央公論新社 2022.6

 近年、中国共産党による人権侵害の象徴として語られることの多いこの地域の近現代史を丁寧にたどる。客観的・抑制的な記述で読みやすかった。序章では、新彊が中国の支配下に入った経緯を確認する。民国時代の新彊については初めて知ることが多く、隣国ロシア革命の波及、盛世才の統治、ソ連と蒋介石政権の勢力争い、東トルキスタン共和国の建国と消滅など、非常に興味深く読んだ。

 1949年、王震率いる人民解放軍が迪化(現・ウルムチ)に入り、中国共産党による新彊統治が始まる。初期の解放軍は、統治の正当性を得るため、積極的に地元住民の歓心を買おうとした。新彊省人民政府の要職には現地ムスリムが起用され、毛沢東は少数民族幹部の養成を重視した。しかし共産党に対する抵抗運動は止まず、急進派の王震を批判し、穏健路線を主導したのが習仲勲(習近平の父親)である。へえー。

 この時期、中国共産党にとって脅威となったのは、新彊ムスリムの「親ソ」傾向だった。中国は、ソ連の連邦制とは異なる民族区域自治制度として、1955年に「新彊ウイグル自治区」を誕生させる。この名称にも、いろいろ議論があったことを知る。同じ頃、新彊生産建設兵団が設けられ、漢人移民が急増し、新彊の中国化が急ピッチで進行する。移民政策の原点が、スターリンの助言だったというのは興味深い。というか、中国とソ連の関係は素人には難しくて、よく分からない。

 1950年代後半から70年代、中国は、大躍進運動、文化大革命の荒波に揉まれる。新彊では、東トルキスタン共和国の生き残りであり、毛沢東、周恩来らにも重用されたセイフディンが第一書記となるが、「四人組」への加担を批判され、解任されてしまう。

 1980年代初頭、中国政府は胡耀邦を中心に、民族政策を緩和し、少数民族の自治を保障する方向に動いていた。新彊では、漢人の第一書記・王恩茂→宋漢良の下、制約はあったが、ウイグル人の民族文化の振興が見られた。しかし、民族自治の理想と現実の落差、止まらない漢人の流入、そして核実験と産児制限に抗議する学生デモが、1985年、ウルムチで発生する。中国政府は「改革開放」を加速し、経済発展と貧困対策によって統治の安定を実現しようとした。

 1995年、新彊政府のトップに就任した王楽泉は、ソ連解体(1991年)を教訓とし「分離主義者」の苛烈な取り締まりを断行した。しかし抗議は止まず、各地で爆破事件、暗殺事件などが頻発する。江沢民は、分離主義者の行動に「テロ」を冠し、2001年の9.11事件以後「テロとの戦い」でアメリカと協調する。新彊では抑圧と開発が同時進行したが、中国政府による経済開発は現地ムスリム社会の反発を生む傾向が強まった。

 そして習近平の時代へ。新彊では張春賢書記の下、経済の比重は後退し「反テロ」が重点政策となった。2016年にはチベット安定化を「成功」させた陳全国が着任。テクノロジー(監視カメラ、スマホアプリ)と人海戦術(親戚制度)で住民の監視を強めた。「職業技能教育センター」で悪名高い陳全国だが、設置の素地は前任者の張春賢時代に整えられたものだという。2021年、陳全国に代わって馬興瑞が新書記に就任した。新彊政策の軸足が再び「反テロ」から経済発展に移る可能性も考えられるが、見通しは明らかでない。

 著者は最後に「新彊政策はジェノサイドなのか」という章を設け、見解を述べている。著者は、問題を矮小化するつもりはないことを言明しつつ、新彊のウイグル人やムスリムに向けられた抑圧が、20世紀の「ジェノサイド」という概念で括れるのか、という問題を提起する。少数民族は、殺害・殲滅されようとしているわけではない。しかし彼らは中華民族の一員として教育され、改造されて生きていくしかない。この「一見すると善意のような政権側の認識が、有無をいわさぬ強制的な措置を生み出している」構図は、確かに一面では「ジェノサイド」以上にグロテスクだが、中国史ではおなじみの光景のような気もする。

 私は、1996年(たぶん)の夏に新彊ウイグル自治区をめぐるツアーに参加したことがある。北京からカシュガルに飛び、旅行社の用意したバスで、ホータン、アクス、ウルムチ、トルファンなどを2週間かけて回った。豊かな自然の中で営まれていた、ウイグル農家の暮らしを思い出すと、そもそも「貧困人口」であることの定義も「脱貧困」のための動員も、上から与えられたもの、という本書の指摘が腑に落ちる。また、旅の街角で、私のカタコト中国語(漢語)が通じる場面もあり、全く通じなかった場面もあったことを、いま本書を読み終えて考えている。

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近代の光と影/世界史の考え方(小川幸司、成田龍一)

2022-07-21 21:59:47 | 読んだもの(書籍)

〇小川幸司、成田龍一編『世界史の考え方』(シリーズ歴史総合を学ぶ 1)(岩波新書) 岩波書店 2022.3

 2022年4月から高等学校の新しい科目「歴史総合」が始まることを機会として、あらためて歴史学と歴史教育の架橋をはかり、「歴史叙述」がどのような「問い」と「作法」によって提供されるかを、歴史家との対話によって紹介する。読み応えがありすぎて苦労したが、ようやく読了した。

 本書は時系列にあわせたテーマを扱う5つの章を設け、3冊の課題テキストを編者二人が紹介したあと、テーマに関連する歴史学者をゲストに迎えて対話を行う。5章×3冊の課題テキストは、岩波ジュニア新書や山川の世界史リブレットなど、比較的読みやすいものもあれば、江口朴郎や丸山真男など、かなり「古典」的なものもあった。各章の最後には20冊くらいのブックリストも付いている。歴史を学ぶには、先人の著作を精力的に読み抜くことが不可欠であることを感じる(体力勝負)。

 ゲストの歴史学者は、地域バランスをよく考えて選ばれている。第1章「近世から近代への移行」のゲストが、中国を専門とする岸本美緒さんなのが意外だったが、中国史(東アジア)から見ることで、今の我々が「近代」の典型と考えている「ヨーロッパモデル」の輪郭が明らかになる。中国は、前近代から流動性が高くリスクの大きい自由競争社会だが、それは権利として保障された自由ではなく、放任された自由である。したがって、国家が介入したいときは無制限に介入できる、という分析、とてもおもしろかった。

 第2章「近代の構造・近代の展開」は、イギリス史の長谷川貴彦さんをゲストに、フランス革命、産業革命、そして1848年革命を考える。ヨーロッパは、フランス革命(市民革命)にも産業革命にも成功したように見えるが、そこには同時に「人類が背負う大きな課題」が発生しており、歴史は「成功したか失敗したか」で単純に色分けできるものでないことが示される。1948年革命(ウィーン体制の崩壊)は全然忘れていた。

 第3章「帝国主義の展開」は、アメリカ史の貴堂嘉之さんをがゲスト。デモクラシー発展の歴史として描かれてきたアメリカ史を、誰を国民として統合し、誰を排除するかの選別の歴史として問い直す。このとき、国民の境界となったのが「人種」である。「近代化」というものを、資本主義と国民国家のサクセス・ストーリーに単純化することなく、その構造や影響を多面的に見つめる必要がある。 

 第4章「20世紀と二つの大戦」のゲストはアフリカ史の永原陽子さんで、これもやや意外な人選に感じられられたが、課題図書の荒井信一『空爆の歴史』をめぐって、空からの無差別殺戮の背後には、「帝国」にとって掌握しがたい「野蛮」な人々に対する人種主義があるという指摘を読んで、深く納得した。「20世紀の戦争」の起源は、1900年前後に遡る「帝国主義時代」の植民地戦争にあるという。

 第5章「現代世界と私たち」のゲストは、中東史の臼杵陽さん。確かにイスラエル・パレスチナ問題に目をつぶっては、現代の「グローバル社会」の理解も、未来を語ることもできないだろう。けれども、自分が高校生のとき(もう40年以上前)中東問題をきちんと習った記憶がないし、結局、基本的な知識不足のままになっている。今後は、私のような大人が減りますように。

 私が習った世界史の先生は、かなり教科書を踏み越えて、いろいろなことを教えてくれたので、今でも感謝している。しかし「市民革命」「国民国家の誕生」を、歴史の喜ばしい到達点と捉えているフシがあった。時代の制約か、あるいは高校生相手だから、事象を単純化していたのかもしれないが。本書を読むと「近代」の光と影が双方向から迫ってくる。これを学ぶ高校生も、教える教師も大変だと思うが、頑張ってほしい。

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