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見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。
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古墳、治水から現代の再開発まで/大阪がすごい(歯黒猛夫)

2024-04-24 22:28:40 | 読んだもの(書籍)

〇歯黒猛夫『大坂がすごい:歩いて集めたなにわの底力』(ちくま新書) 筑摩書房 2024.4

 私は東京生まれで箱根の西には暮らしたことがないが、ときどき大阪の本が読みたくなる。著者は大阪南部、岸和田市育ちで、大阪に拠点を置くライター。60年以上、ずっと大阪で暮らしてきたという自己紹介を読んで、ああ、こういう人もいるんだなあ(むしろ、こういう人生が標準的?)と感慨深く思った。

 はじめに「水の都の高低差」では、7万年前の氷河期から、約7000年前の「縄文海進」を振り返り、生駒山地・大阪平野・上町台地・大阪湾など地形の成り立ちを確認する。上町台地の高低差を実感できる「天王寺七坂」は、今年の正月、生國魂神社そばの真言坂を歩いたことを思い出した。大阪平野を生み出した淀川は、古来、洪水で人々を悩ませてもきた。仁徳紀には「茨田堤(まんだのつつみ)」の記事があり、豊臣秀吉は「文禄堤」を築き、江戸時代には河村瑞賢が安治川(あじがわ)を開削した。なるほど~私は治水の話が大好きなのだが、大阪についてはあまりよく知らなかった。これはもっと知りたい。

 「なにわヒストリア」では巨大な古墳がつくられた古墳時代から、太閤秀吉に整えられた近世の大阪までを通観。高槻市の今城塚古墳公園の「埴輪祭祀場」はちょっと行ってみたい。「『商都・大阪』興亡史」は今につながる近現代だが、ここでも治水の話題があり、淀川に蒸気船を通すために行われた「粗朶沈床」という工法は、中国ドラマ『天下長河』で見た黄河の治水方法に似ている気がする。旭区の淀川河畔に「城北(しろきた)ワンド」という遺構が残っているとのこと。ぜひ見たい。

 「私鉄の王国」では、著者が考える大阪と東京の鉄道の違いがいろいろ挙げられているが、関東に「新快速」がないことに驚かれてもなあ…。大阪圏は、京都、大阪、神戸という拠点を高速運転で連結することに利便性があるけれど、東京は「中心圏」が巨大すぎ、横浜も千葉もさいたまも、全く釣り合わない。都市圏の構造が全く違うのである。

 「キタとミナミ、そしてディープサウス」は、大阪の町(地域)ごとの特徴と歴史を語る。西成、釜ヶ崎と呼ばれる地域にはさすがに行ったことがない。大阪の「五大色町」も興味深く読んだ。飛田は名前だけ知っていたが、ほかに松島、今里、信太山、滝井。すべて「新地」がつくところに歴史を感じる。大正区の「リトル沖縄」は、観光で訪ねるのに比較的ハードルが低いかもしれない。いつか行ってみたい。

 「未来都市・大阪」では、あえて「負の遺産」となった過去の再開発事業と、現在進行中の再開発エリアを歩く。「うめきた」で大規模再開発が進行中であることは、年に数回大阪に行くだけの私も認識している。阿倍野も大きく変貌した。変わり過ぎた風景を見て、大阪育ちの著者は「ここまですんのか?」という言葉が口をついて出たという。東京育ちの私が、いまの渋谷駅前に感じる気持ちみたいなものかな。関西空港に直結する「りんくうタウン」は、企業誘致が伸び悩み、負の遺産になりかけたが、最近、活気が戻ってきているという。頑張ってほしい。

 私が仕事や観光で大阪府を訪れるのは、大阪市でなければ、茨木、箕面、池田など北部地域が圧倒的に多いが、実は、堺、河内長野、貝塚など、南部が好きなのである。最近、久しぶりに訪ねて気になっているのは泉佐野市。著者が私鉄沿線の住民気質を論ずる中で、南海本線の通る泉州地方の海岸側は、江戸時代から商工業で栄えており、明治になると紡績業や海運業で繁栄したので、地方からの移住者も多く、他者を排斥する意識が低い、というのをおもしろいと思った。

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現地調査から見えるもの/中国農村の現在(田原史起)

2024-04-21 22:38:58 | 読んだもの(書籍)

〇田原史起『中国農村の現在:「14億分の10億」のリアル』(中公新書) 中央公論新社 2024.2

 著者の専門は農村社会学。20年にわたり、中国各地の農村に入り込んでフィールドワークを実践してきた経験をもとに本書は書かれている。

 中国の農民とは、どういう思考様式を有する人々なのか。はじめに著者は、歴史的経緯を振り返って言う。欧州では13世紀頃まで、日本は150年前まで封建制が存在していた。ところが中国は紀元前3世紀で「封建制」は終焉を迎え、皇帝が直接、民に向き合う「一君万民」的な政治体制が形成された。皇帝の意思を代行するのは官吏である(建前としては実力があれば=科挙に合格すれば、誰でも「官」になれる)。官僚が派遣される最末端単位は「県城」で、周辺の農村を統括した。農民は県より上の政府に直に接する必要はない。ここから「専制君主を戴きながらも、中国農民には思いのほか『自由』な一面が生まれた」というのは、とても共感できる。

 ある程度自由で、流動性が高い社会であることの反面として、最後に頼れる血縁が重視され、強い家族主義が生まれた。1990~2000年代に多くの農民工(出稼ぎ)が出現したのも、家庭内労働力を遊ばせず、家族全体で豊かになろうという「家族経済戦略」から説明がつくという。これも分かる。また、農民は豊かな都市住民に出会っても、彼我を引き比べようというメンタリティはなく、むしろ隣近所の農民どうしの格差・優劣を気にするという。これも分かる気がした。中国農民には、都市住民が自分と同じ「中国人」だという意識は希薄なんじゃないかなあ。

 ところで中国農村には、村幹部(村民委員会)という特異な集団が存在し、もしかすると国政よりは民主的(?)な選挙が行われている。この段で、なぜ中国は(国政レベルで)競争的な代議員選挙が根付かないかについて、著者が紹介している章炳麟の説が興味深かった。議会制はむしろ封建制や身分制と相性がよい。身分というものが中間集団として働き、「自分たちの(集団の)代表を議会に送り込みたい」と考えるからである。しかし中国には、少なくとも章炳麟の時代には、家族主義を超えるような中間集団は存在しなかった。一方、「世界最大の民主主義国」インドでは、「カースト」が政治的利益の分配における中間集団の役割を果たしてる、という著者の指摘も、たいへん腑に落ちた。

 そんなわけだが、本書に登場する農村基層幹部の人々(男性も女性もいる)は、逞しく、有能である。村民のことを知り尽くし、公共的な問題解決のため、知恵を絞り、全人格的な感覚を動員し、臨機応変に立ち回る。私は『大江大河』とか『県委大院』とか、中国ドラマで見て来た基層幹部のあれこれを思い出していた。中央政府は、少しずつ農村に対する財政支出を増やしているというけれど、開放以後の中国農村が「発展」を続けてきたのは、個々の家族の競争的な経済戦略と、「縁の下の力持ち」である基層幹部の努力の賜物なのだろう。

 気になるのは、習近平政権が「県城の都市化」すなわち、県城の農村部に居住してきた農民を、最終的には小都市である県城の市民として吸収していく政策を打ち出しているという情報である。実は、今、2022年制作の『警察栄誉』というドラマを見ているのだが、ここでも同じような社会状況が描かれていた。社会の再編成に向けて、当然、さまざまな軋轢が起きるだろうなあと思う。

 外国人による中国農村調査がなぜ「失敗」するか、「飲酒」や「宴席」の意味など、著者の実体験に即したコラムも面白い。コラムだけ立ち読みしてもいいんじゃないかと思う。

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静養と密談の空間/戦後政治と温泉(原武史)

2024-04-07 23:50:46 | 読んだもの(書籍)

〇原武史『戦後政治と温泉:箱根、伊豆に出現した濃密な政治空間』 中央公論新社 2024.1

 扱われている時代は終戦の1945年から1960年代半ばまで、主な登場人物は、吉田茂、鳩山一郎、石橋湛山、岸信介、池田勇人などで、そんなに古い話ではないのだが、なんだかとても奇妙な物語を読んだ気がした。この時代、首相たちは、箱根や伊豆などの温泉で、重要な政治的決断を下していたというのだ。想像したこともなかった。

 戦後、吉田茂は、大磯にあった養父・吉田健三の別荘を本邸とするとともに、御殿場の樺山愛輔別邸「瑞雲荘」を第二の本邸とし、マスコミを嫌って東京に戻らず、野党からも批判された。その後、吉田は箱根を気に入り、新町三井家の小涌谷別邸に滞在するようになる。三井別邸での面会を許されたのは、限られた政治家や学者、官僚、親しい女性だけだった。政界引退後も吉田は小涌谷に通い続け、保守政治家たちには「奥の院」として意識された。

 吉田と政権を争った鳩山一郎は、戦後、公職追放処分を受け、GHQに東京の本邸を接収されたため、熱海の石橋正二郎別邸「海幸荘」に移住した。これにより、反吉田派の熱海詣でが活発になる。鳩山は、1951年に脳溢血で倒れて以降は、韮山(現・伊豆の国市)の温泉旅館「水宝閣」で療養につとめるようになる。ここは北条時政・義時ら、源頼朝の挙兵を助けた北条氏の館があったところだという。また鳩山は伊東市の「川奈ホテル」や箱根の「富士屋ホテル」も利用している。

 岸信介は箱根宮ノ下の「奈良屋」を愛用した。ただし奈良屋の女将の回想によれば、社会党の浅沼稲次郎や河上丈太郎も常連客だったという。岸は、日豪通商協定の調印を奈良屋でおこなったり、インドのネール首相を富士屋ホテルで歓待するなど、箱根で首脳外交を展開した。岸の後任を(岸の望む佐藤栄作ではなく)池田勇人にすることを決めた、岸・吉田(+堤康次郎)会談も箱根の「湯の花ホテル」で行われた。

 池田勇人は吉田内閣の蔵相時代から、週末は箱根仙石原で休養することを習慣にしていた。はじめは五高の先輩である井上重喜の別荘を借りていたが、のち、近藤商事の近藤荒樹の別荘に移った。池田は、訪米準備の閣僚会合も箱根で開催し、米国の経済閣僚を招いた国際会議も箱根で開催した。池田に代わって首相となった佐藤栄作は、首相になる前から、毎年夏は軽井沢に通っていた。軽井沢は温泉が出ない。佐藤はもっぱらゴルフによって体調を維持した。こうして「温泉政治」の時代は終わりを告げたのである。

 こうした戦後政治の経緯を知ると、最近の首相が、首相公邸に入居しなかったり、高級料亭で会食していたりで非難はされるものの、ほぼ常時東京にいるようになったのは時代の変化なのだなと思う。あと、G7会合に観光地・保養地が選ばれるのも、安倍晋三がロシアのプーチン大統領を長門市の温泉に招いて友好を演出しようとしたのも、こういう「温泉政治」の記憶が背景にあるのかもしれない(何か特別よい結果を生んだとは思えないが)。

 私は、本書に登場する首相たちの中では、池田勇人が、週末は箱根で「オフ」を過ごすことにこだわったというのを好ましく思った。政治家には俗世間をよく知っていてもらいたいが、俗世間との関わりを断つ時間も大事だと思う。静養中は秘書官以外と会わないことを原則とし、例外は松永耳庵と大徳寺の和尚・立花大亀くらいだったという。おお、ここで松永耳庵の名前が出てくるとは。

 1949年、鳩山一郎、石橋湛山が熱海に滞在中、世界救世教の岡本茂吉が検挙懿される事件が起きた。鳩山は何も記していないが、石橋は日記に「嘗て大本教の弾圧をした当時の日本を思ひ起す」と記した。岡本は戦前に大本から分かれて新たな宗派を立てたという本書の注釈に驚く。岡本は熱海のMOA美術館の創立者であり、最近ときどき行く東京黎明アートルームにも深く関わっているのだ。

 この感想では省略してしまったが、戦後政治家たちの「温泉」に対して、戦後の皇室が選んだのは「軽井沢」だった。しかし佐藤栄作以降、保守政治家たちは軽井沢に回帰した。佐藤の別荘の周りには、田中角栄、中曽根康弘らの別荘が並んでいたという。なんだか気持ち悪い空間であるなあ。

 逆に平成天皇・美智子妃は、皇太子夫妻であった当時、地方の温泉旅館やホテルを積極的に利用し、地域住民(特に若い世代の男女)との対話型集会を開催しているという。これも初めて知る話で、たいへん興味深かった。

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私にも作れます/あたらしい家中華(酒徒)

2024-03-27 21:12:23 | 読んだもの(書籍)

〇酒徒『手軽 あっさり 毎日食べたい あたらしい家中華』 マガジンハウス 2023.10

 中華料理愛好家の酒徒(しゅと)さんの名前は、ときどきネットで拝見していた。特に印象深いのは、本書にも掲載されている「肉末粉絲」(豚ひき肉と春雨の炒め煮)の紹介を見つけたとき。醤油味でひき肉と春雨を炒めるだけの料理だが、これは食べたい!今すぐ食べたい!と思って、すぐにひき肉と春雨を買ってきた。できあがった味が「正解」なのかどうかはよく分からないが、美味しかったので満足した。

 本書には「塩の中華」「醤油の中華」「野菜の中華」「煮る中華」「茹でる中華」の5章に分けて、78種類の料理が紹介されている。どれも本当にシンプルで、食材は1~2種類。特別な調味料は要らない。一時期は毎年出かけていた中国旅行で食べた記憶がよみがえる料理もある。「西紅柿炒蛋」(トマトの卵炒め)はその代表格。日本の中華料理店で見たことはないが、中国ではどの地方へ行ってもほぼ必ず食べた。千切りじゃがいもを使った「涼拌土豆絲」(冷菜)や「酢溜土豆絲」(酢炒め)も食べた。これは作りたいけど、千切りスライサーを持っていないのである。

 本書の第1番に掲載されているのが「肉末蒸蛋」(豚ひき肉の中華茶碗蒸し)で、このあとに、具材をシラスや干し貝柱に入れ替えたバージョンも紹介されている。中華茶碗蒸し(多人数分を大きな深皿でつくる)、好きだったなあ、と思い出がよみがえって、作ってみたくなった。蒸し器がないので躊躇していたのだが、先日、ネットで蒸し鍋を購入してしまった。そして作ってみた結果は、う~ん、いまいち。「スが入っても気にしない(どのみち、旨いのでおおらかに行こう」とアドバイスが書いてあるのだが、次はもう少しきれいに仕上げたい。

 豆腐料理の種類が多いのは作者の好みなのか、中国の一般家庭ではよく食べるのかな(レストランの食事では、こんなに多くなかったと思う)。「白油豆腐」(四川式・豚ひき肉と豆腐の炒め煮)は、最近知ってハマっている、インスタント調味料の白マーボー豆腐と同じなのかな? いずれ作ってみたい。大豆や枝豆もよく使われていて、肉か青菜と合わせれば、立派な一品料理になる。あと、小ねぎの登場頻度も多い。小ねぎがあれば、何でも食べられるようになるので、最近、冷蔵庫には小ねぎを常備するようになった。

 「西安のムスリム食堂で出会った」とか「安徽省出身のおばちゃんに教わった」などの一口メモも楽しかった。そろそろ、また中国に行ってみたい。

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旅の仲間とその終わり/両京十五日(馬伯庸)

2024-03-24 23:55:51 | 読んだもの(書籍)

〇馬伯庸;齊藤正高、泊功訳『両京十五日』(HAYAKAWA POCKET MYSTERY BOOKS) 早川書房 2023.2-3

 馬伯庸の名前は、中国ドラマ好きにはすっかりおなじみであるが、彼の長編歴史小説が日本語に翻訳されるのは初めてのことらしい。遅いよ!全く!しかし待たされただけのことはあった。これまでドラマ化されたどの作品と比べても遜色なく、実に面白かった。

 物語は、大明洪煕元年(1425)5月18日に始まる。ほぼ1年前、洪煕帝(仁宗)が即位し、息子の朱瞻基(のちの宣徳帝)が太子に定められた。洪煕帝は国都を南京に戻そうと考えており、その露払いを命じられた朱瞻基の宝船は、まもなく南京に到着しようとしていた。

 太子歓迎の警備を指揮する呉不平は、息子の呉定縁を埠頭の向かいの扇骨台に派遣した。ところが埠頭に現れた巨大な宝船は、呉定縁の目の前で大爆発を起こす。爆発の直前に船上であやしい動きをしていた男を呉定縁は助け上げ、捕縛して錦衣衛に連行した。たまたま出会った于謙という若い小行人(下級の官員)は、呉定縁の捕縛した容疑者が、まさに太子・朱瞻基であることを認めて驚愕する。

 ようやく南京の内城に落ち着いた朱瞻基。しかし彼の命を狙う勢力は、次々に魔の手を伸ばしてきた。さらに母である張皇后から、皇帝不予の急を知らせる密詔が届く。朱瞻基は内城を脱出し、呉定縁と于謙、そして女医の蘇荊渓とともに京城(北京)を目指すことにする。もし何らかの陰謀が絡んでいるとすれば、皇位簒奪者は、天徳の日にあたる6月3日に即位を挙行するだろう。残された日数は15日。

 【ややネタバレ】四人は運河を使って、南京→瓜洲(楊州)→淮安→兗州と進む。途中、白蓮教の一味に呉定縁を略奪された朱瞻基は、「朋友」呉定縁を救出するため、済南に寄り道する。一方、呉定縁は白蓮教の掌教である仏母・唐賽児に会い、自分の真の父親が、靖難の変で建文帝に従った鉄鉉であることを知る。朱瞻基と再会した呉定縁だが、父親の仇が、朱瞻基の祖父・永楽帝であることは黙していた。天寿を全うした唐賽児は掌教の座を呉定縁に託し、以後、護法と呼ばれる白蓮教の重鎮、昨葉何(女性)と梁興甫は呉定縁を助ける。

 連絡のついた張泉(張皇后の弟、朱瞻基の叔父)の助言もあって、呉定縁は北京に先発し、水害の真っただ中、洪煕帝の葬儀が行われようとしている紫禁城に潜入する。葬儀には「皇位継承者」だけに許された役割があり、それを巡って、皇位簒奪を企てる漢王・朱高煦の一派と張皇后の間では睨み合いが続いていた。そこに乱入した呉定縁は、肉弾戦を戦い抜いて、朱瞻基の帰還を迎える。漢王一族は捕えられ、皇位は朱瞻基に帰した。

 【本格的ネタバレ】朱瞻基は、苦労を共にした朋友・呉定縁に報いようとするが、皇家に実の父親を殺された呉定縁はそれを受けることができない。そして旅の仲間のひとりであった蘇荊渓は、真の目的のための行動に出る。彼女の親友だった女性は永楽帝の後宮に入れられ、殉死を命じられたのだった。蘇荊渓は、親友の死にかかわった者全てに復讐するつもりだった。張泉や朱瞻基を招き入れた永楽帝の陵墓に火が放たれ、間一髪、朱瞻基は于謙の機転で救出されたが、呉定縁は自ら望んで、蘇荊渓とともに炎の中に姿を消した。

 だいぶ無理をしてまとめてみたが、主人公たちは次々に絶体絶命のピンチに陥り、そこを智謀や幸運や助け合いで切り抜けて進んでいく(いちばん笑ったのは洪煕帝の葬儀の場で呉定縁が身を守った奇策。蘇荊渓の助言による)。見事な疾走感でぐいぐい読ませる。旅の風景として語られる、運河に関する土木技術史的・社会経済史的な解説も面白かった。宮廷育ちの朱瞻基は、旅の様々な局面で、宮廷の政策が必ずしも民衆の生活に役立っていなかったり、宮廷が恐れる宗教が民衆の生活に欠かせないものであることを学ぶ。朱瞻基、旅の終わりにはずいぶん賢くなっていた。

 権力争いに骨まで魅入られた皇族たちがいるかと思えば、上官への忠誠が全ての武官もいるし、建築や土木にしか興味のない技術官僚も登場する。みんな面白い。私は登場人物に中国ドラマで覚えた俳優さんを当てて楽しんでいたのだが、呉定縁は陳暁、于謙は張昊唯でどうだろう。朱瞻基、蘇荊渓は、物語の最初と最後でだいぶ印象が変わったので再考中。まあ遠からずドラマ化されるのではないかと思って楽しみにしている。

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信用調査に見る近世大坂の社会/三井大坂両替店(萬代悠)

2024-03-07 23:26:20 | 読んだもの(書籍)

〇萬代悠『三井大坂両替店(みついおおさかりょうがえだな):銀行業の先駆け、その技術と挑戦』(中公新書) 中央公論新社 2024.2

 三井高利が元禄4年(1691)に営業を開始した三井大坂両替店は、両替店を名乗りながら両替業務にはほとんど従事せず、基本的に民間相手の金貸し業を主軸とした、大型民間銀行の源流である。本書は、三井に残る膨大な史料群を読み解くことで、江戸時代の銀行業の基本業務がどのように行われていたかを解明する。

 本書は、はじめに三井大坂両替店の店舗の立地や組織・人事の概要を示す。おもしろかったのは、奉公人の年齢構成・昇進・報酬などの分析である。少し前に読んだ、戸森麻衣子氏の『仕事と江戸時代』にも書かれていたが、奉公人は住み込みで独身の共同生活を強いられた。そこを辛抱すれば、退職金(元手銀)を得て、家庭を持ち、自ら商売を営むことができた。住み込み生活は10~13歳の子供時代から始まるが、共同生活に合わない者は、早々に脱落して辞めていく。あまり辞められても困るので、店側は昇給や報酬制度によって、真面目に長く勤務したほうが得になることを示す。さらに熟練の奉公人を引き留めるため、勤続24年目前後(役職つき、30代後半)には退職金が大きく上昇する仕組みをつくっていた。やっぱり勤労意欲を引き出すのは、抽象的なスローガンではなく、こういう賃金モデルだよなあ、と感心した。

 家庭を持てない男たちは、遊所通いで憂さを晴らした。三井の大坂呉服店と大坂両替店は、道頓堀の芝居茶屋を出入り茶屋として指定していたことが分かっている。京都呉服店では遊興人数に応じて定額を茶屋に支払っており、奉公人にとっては、通勤・家賃補助ならぬ遊興補助だったという。この話は、2020年の歴博『性差(ジェンダー)の日本史』でも取り上げられていたと記憶するが、現代日本人の労働スタイルのよくない原型を見るようで、うんざりもし、悲しくも思った。

 次に金貸し業には必須の、顧客の信用調査について説明する。大坂両替店には「日用留(にちようどめ)」「聴合帳(ききあわせちょう)」などと記された、享保年間(1730年代)から明治に至る信用調査書13冊が残っているという。借入希望の顧客が現れると、平の手代たちが情報を聞き込みに行って、その人柄・身上柄(家計状態)・担保物件の実態などを書面で上司に報告するのである。人柄は「実体(じってい)」「篤実」「質素」などが好まれ、「不身持」「派手」「山師」「我儘」などが嫌われるのは納得できる。

 家庭内のゴタゴタが詳細に記録された報告書もあり、その中に、隠居した母親が、不品行の当代家長から財布(金遣いの権限)を取り上げてしまった家族の例があった。著者の説明によれば、近世の家長は「家」の一時的な代表者に過ぎず、先祖から譲り受けた財産を子孫につないでいく義務があった。その義務を果たせない、不適格な家長の場合、親族たちは「家」の代表権限を取り上げ、強制的に隠居させることができた。「男性家長の権限が強くなり、強制隠居の執行などが公認されなくなったのは、家長個人に家産の所有権を認めた明治民法(1898年施行)以降のことである」という記述を読んで、なるほどと腑に落ちた。いわゆる「家父長制」って、実は近代の産物なんだな。

 担保の不動産に関する報告書は、家屋敷の評価基準が分かって、おもしろかった。もちろん老朽(築古)物件よりは新築(築浅)物件のほうがよい。しかし新築でも粗雑で出来栄えの劣る建物はよくない。土蔵の有無と状態はとても重要(へええ)。角屋敷や橋筋、あるいは繁華な地域に位置した家屋敷は、商売が始めやすく、すぐに買い手がつくので好ましい。遊郭に近いことも、夜の商いができる好条件と見られた。徹底して商いの都なのだ。

 このような信用調査は、大坂両替店だけでなく、他の金貸し業者(御為替組)でも行われていた。大坂商人たちは、厳しい信用調査に通らなければ、御為替組の低利融資を受けれられないので、日頃から誠実かつ品行方正である必要があった。いわば巨大な「防犯カメラ」のある監視社会のようなものである。一部で唱えられる「江戸時代、日本人の多くは誠実であった」という言説に対して、本書は、なぜ人々は、周囲から誠実な人柄と見られなければならなかったかを明らかにする。最後は意外な着地点だが、おもしろかった。

 2023年の三井記念美術館『三井高利と越後屋』展には、契約文書や帳簿が山ほど出ていて、見た目は地味だけど、三井のアーカイブすごい!と心ときめいたものである。まだまだ研究が進めば、江戸時代の社会風俗について、分かることがたくさんあるんじゃないかと思う。楽しみである。

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コロナ・パンデミックを振り返る/感染症の歴史学(飯島渉)

2024-03-05 23:31:05 | 読んだもの(書籍)

〇飯島渉『感染症の歴史学』(岩波新書) 岩波書店 2024.1

 コロナ下で読んだ『感染症の中国史』(刊行はもっと前)の著者の新刊が出たので読んでみた。はじめに新型コロナウイルス感染症のパンデミック(世界的な流行)の「起承転結」を振り返り、この経験を感染症の歴史学に位置づける。2019年に中国武漢で発生した新興感染症COVID-19は、2020年初頭から世界に拡大し、3月、WHOが「パンデミック」を宣言した。「これほど長く、大きなパンデミックになるとは、ほとんどの人が予想できませんでした」と著者は書いているが、もっと短く終わると考えていたかといえば、私はそうでもなかった。この先どうなるかは全く予想できなかったけれど、マスクをして、人との接触を減らせば、命の危険は少ないというのは、そんなに受け入れがたい状況ではなかった。

 本書を読むと、わずか4年間のできごとなのに、すでに忘れていることがあるのに驚く。それから、さまざまな政策や議論を振り返ると、まさにその渦中にあったときとは、少し違った感慨を抱くものもある。全国民を対象とした一律給付(10万円×2回)は、まあ悪くない施策と思っていたが、本当に効果的だったのか。膨大な赤字を国債で補うことになり、国債発行への警戒感を大幅に緩めてしまったというのは、おそろしい。東京五輪の開催を強行するため、ワクチン接種を急ぎ、大きなお金が動いたことも見逃せない。海外各社から高額なワクチンを買い付けたが、相当数(約8000万回分)が廃棄されたという。そもそも2018年にmRNAワクチンの開発研究を凍結したこと(厚生労働省が研究資金の交付を不認可)から、国の責任を検証してほしい。

 著者は「感染症が世界(歴史)を変えた」という「疫病史観」には否定的で、新型コロナは、もともとあった問題を可視化させたと考える。日本社会への問題提起として挙げられているのは3つ。第一に日本の福祉国家としての持続性。財政収入に合わない社会保障を提供していくことはできないというのは正論だが厳しいなあ。では、どこを削減するのが公平か、という難問が待ち構えている。第二に外国人問題。すでに日本は、外国人労働者やインバウンド消費抜きには立ちゆかない国になっている。第三に国家の役割が肥大化したにもかかわらず、その救済対象から漏れてしまう人々の存在。国の役割を補完するコミュニティの不在が明らかになってしまった。

 本書後半では、天然痘、ペスト、マラリアの歴史を取り上げる。天然痘の克服はジェンナーの「牛痘」の発見によるが、中国では「人痘」が試みられており、その方法は琉球王国にも伝えられていた。順治帝が天然痘で早世したため、免疫を持っていた康熙帝が兄をさしおいて帝位についたという説は初めて聞いた。近代に至ると、健康な兵士と労働者を必要とする国家によって種痘が強力に推進された(むろん植民地経営のためにも)。

 ペストについて「黒死病がペストだったかどうかについては長い間さまざまな議論がありました」という記述に驚いた。中世の人骨のDNA分析によって、黒死病=ペストであることが確かめられたが、起源や伝播をめぐっては、なお議論があるそうだ。人骨から採取されたDNAの分析が可能になったことで、新石器時代にもペストの流行があったことが分かったという。ヨーロッパのペスト体験(隔離、都市化、階級分化)には新型コロナとどこか似通った印象がある。

 マラリアは、蚊が媒介する感染症のひとつで、20世紀後半、殺虫剤であるDDTを利用した根絶計画が世界各地で展開された。DDTの毒性を告発したのがレイチェル・カールソンの『沈黙の春』で(そうだったのか!)以後、DDTによる感染症対策にストップがかかる。1997年、橋本龍太郎首相は国際的な寄生虫対策をリードする「橋本イニシアティブ」を立ち上げ(初めて聞いた)、東南アジアやアフリカに人材派遣・技術協力を行った。ある意味、感染症対策を政治化したということもでき、今日の中国の対アフリカ施策にも受け継がれた。

 短いスパンで見る限り、本書の中にも引かれている「感染症対策に勝者はいない」という表現は正しいだろう。しかし人類が長い歳月をかけて克服した感染症もあるので、そこに到達するためには、記録と記憶をきちんと残す作業が必要だと思う。ドイツに例があるという公衆衛生博物館、ぜひ日本にも欲しい。もちろん学芸員を置いて。

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古くて若い大国/インド(近藤正規)

2024-02-26 22:32:12 | 読んだもの(書籍)

〇近藤正規『インド:グローバル・サウスの超大国』(中公新書) 中央公論新社 2023.9

 最近、政治や経済でも、エンタメでも名前を聞くことの多いインド。しかし私がこの国について思い浮かぶことといえば、堀田善衞の名著『インドで考えたこと』(1957年刊、高校の国語の教科書に載っていた)くらいである。さすがに少し認識をアップデートしようと思い、本書を読んでみた。本書は政治、経済、外交、社会などの切り口で、現在のインドの姿を分かりやすく解説している。知らないことが多すぎて、ファンタジー小説に登場する架空の国家の設定書を読むような面白さがあった。

 はじめに社会の多様性。インド人は「出身地、言語、宗教、カースト」という4つのアイデンティティで規定される。インドは世界最大の民主主義国家で、IT大国らしく、総選挙では9億人の有権者が電子投票を行うという。すごい。現在の首相はインド人民党(BJP)のモディ首相。欧米メディアでは批判も多いが、国内では圧倒的な人気を誇る。最大の要因は高い経済成長率の持続である。そうか、もはや名目GDPは世界第5位、購買力平価は日本より上なんだ…。ただし、巨大な中間層という強みを持つ一方、内需主導なので、中国やASEAN諸国のような輸出主導型のダイナミックな経済成長を遂げることは難しいという。また、製造業が弱くサービス業が主体であるとか、インフラ整備の遅れ、電力供給不足、近代的な工業部門で働くスキルのない未熟練労働者が多いなど、IT大国の意外な一面も知った。

 もちろん、インドのIT産業は順調に成長を続けている。成功の要因はいくつかあるが、米国のバックエンドオフィス業務委託の分野では、英語を話せる優秀な人材を安価で大量に供給できたことが大きい。また、いたずらにハイテク技術を追うのではなく、安い労賃を活かしてローエンドの顧客向けソフト開発を行うという戦略も正しかったという。

 インドは「人口ボーナス期」の真っ只中にあり、優秀な理系人材を豊富に有する点が大きな強みである。しかし、国内の需要に対して満足のいく水準の理工系学生が不足気味であること、世界の大学ランキングではインドの大学が低評価であること、インドの地場産業は最先端の研究開発に前向きでなく産学協同が不足しているなどの課題も指摘されている。このへんは、日本や韓国、中国の状況を想像したり、比較したりしながら読んだ。女性の社会進出の遅れ、深刻な男女間格差はとても気になる。私がインドにいまひとつ魅力を感じない最大の理由はこれかもしれない。

 インドの外交戦略を論じた章は、本書の中でいちばん面白かった。1947年の独立以来、非同盟中立を掲げてきたインドだが、政権の交代と国際情勢の変遷ともに「強調するところ」は微妙に変化している。目下の最大の問題は対中関係の悪化で、初代首相ネルーに始まる代々の親中政権のツケを払っている状態ともいえる。2020年6月には国境地帯で中国と軍事衝突が起きたが、非同盟中立国のインドには、こういうときに助けてくれる国がいない。なるほどねえ、「非同盟中立」というのは大変なんだ。このとき、日本と米国はインドをサポートするコメントを出して大いに感謝された。

 しかしインドはロシアを「特別で特権的な戦略パートナー」と位置付けている。1971年の第3次印パ戦争の折、米英はパキスタンを重視したが、戦艦を派遣してインドを守ったのはソ連だった。ロシアは1998年のインド核実験も黙認するなど、さまざまな場でインドをサポートしており、インドは「ロシアへの恩」を忘れていない。それが、ロシアのウクライナ侵攻に対する国連の非難決議への棄権という態度につながっている。逆に米国への信頼は高くなく、プライドの高いインドは、米国の「格下パートナー」にはなりたくないという考えが根深いという。ちょっと日本を省みてしまう。2023年、モディ首相の訪米など、米印の接近を感じさせるイベントはあったものの、インドが米国陣営に加わる可能性は低く、米国から取れるものを取ろうという算段だろうと本書は解説する。

 米国や日本など西側諸国は「グローバル・サウス」の盟主が中国になることは避けたいので、インドを重視せざるを得ない。しかし一方、「グローバル・サウス」(新興国や途上国)の国々が、インドを「自分たちのリーダー」と見ているかというと、その意識は薄い、という指摘には苦笑してしまった。大義名分はさておき、どの国も本心では自分の利益しか考えていないようだ。しかし世話になった恩義は忘れがたい。国際関係って、意外と人間くさいものだなと感じた。

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説話と史料から/地方豪族の世界(森公章)

2024-02-04 22:16:04 | 読んだもの(書籍)

〇森公章『地方豪族の世界:古代日本をつくった30人』(筑摩選書) 筑摩書房 2023.10

 先日、久しぶりに神保町に行って、三省堂の仮店舗をのぞいた。ふだんと違う書店に入ると、ふだんと違う本が目につくもので、本書が気になって手に取ってみた。そうしたら、読みかけの『謎の平安前期』に出て来た春澄善縄の名前に出会ってしまったので、運命を感じて買って帰った。

 本書は、著者の専門である地方支配・地方豪族の様相の探究をふまえて「これまでの名言・名場面や人の動向ではほとんど取り上げられていない人物」30人を紹介したものである。神話・伝承の時代から奈良時代末までが15人、平安時代末までが15人、地方豪族が主題なので、坂東武士のような中央からの土着者は除く。著者は、女性の事例が少ないことを遺憾としているが、思ったよりも女性が混じっていた。1人あたり6~8ページの記述で、関連地図や図表(古墳の分布図・木簡の写真など)が多いことが本書の特色となっている。

 はじめ、目次で30人の名前を見たとき、奈良時代編ですぐに分かったのは、野見宿禰、筑紫君磐井くらいだった。しかし読んでいったら、『常陸国風土記』に出てくる箭括氏麻多智(やはずのうじ またち)とか『日本霊異記』に出てくる田中真人広虫女(たなかのまひと ひろむしめ)など、あ、知ってる知ってる!と思い出した例がいくつかあった。平安時代編の相撲人・真髪成村(まかみのなりむら)が登場する『今昔物語』も本朝世俗部だけは読んだ。私はこうした説話を、ほぼフィクションとして読んできたが、たとえば成村やその息子の事跡が『中右記部類』や『小右記』に載っているなど、「歴史」として確認できることに新鮮な驚きを感じた。

 麻多智は常陸国行方(なめかた)郡の小首長で、新田を開発しようとして、角のある蛇「夜刀神(やとのかみ)」の妨害に遭う。麻多智は甲鎧を着装して夜刀神を駆逐し、神の地と人の田の境界を定め、神を祀ることを約束する。これについて著者は「6世紀初頭の同時期、同じく東国の上毛野地域で発生した榛名山の大規模噴火によって壊滅した村々の首長を想起させる」と書く。群馬県渋川市の金井東裏遺跡からは、甲を着装した成人男性が、頭を火砕流が向かってくる方向に向け、両腕・両脚を折り曲げて、あたかも火山の神に対峙する姿勢で発見されたという。いや、死んでしまっては無益かもしれないが、「自然と対決し、家族や配下の人々を守ろうとする首長の気概を看取することができる」という記述に深く同感した。

※参考:よろいを着た古墳人、正体は村の長? 火山の下から覚醒(朝日新聞デジタル 2020/6/13)

 私は『水鏡』は読んでいないのだが、光仁天皇が井上皇后と戯れに博奕をして「私が負けたらいい男を奉りましょう」と約束し、皇后に責められたので、山部親王(のちの桓武天皇)を奉ったという話、まあとんでもないんだけど、こうした「歴史物語」が書かれていたというのは興味深い。

 「中央からの土着者は除く」という選択の結果、東北関連の人物は相対的に多くなっている気がする。大墓公阿弖流為(たものきみ あてるい)、安倍頼時(あべのよりとき)、そして伊治公呰麻呂(これはりのきみ あさまろ)。呰麻呂の乱は、昨年、久しぶりに東北歴史博物館を訪ねたとき、ビデオ等で詳しく紹介されていた「多賀城炎上」のエピソードだ、と気づいた。

 地方豪族出身で僧侶として名を残した空海、円仁も取り上げられている。空海の関連で、讃岐国の出身者には訴訟好きが多く、奈良時代以降、著名な明法家を輩出したほか、宗教界にも讃岐人脈が広がっていた、という指摘はおもしろかった。大安寺の戒明、天台宗の円珍も讃岐の人。円珍は空海の姻戚でもあったが、教義上の論争は別で、空海の著作を厳しく批判しているという。人となりが分かるようで、苦笑してしまった。

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桓武王朝の試行錯誤/謎の平安前期(榎村寛之)

2024-02-03 23:27:19 | 読んだもの(書籍)

〇榎村寛之『謎の平安前期:桓武天皇から『源氏物語』誕生までの200年』(中公新書) 中央公論新社 2023.12

 今年の大河ドラマ『光る君へ』が紫式部を取り上げていることもあって、平安時代に関する書籍がけっこう注目を集めているように思う。平安時代は平安京遷都の794年から12世紀末期まで約400年間、我々がイメージする、なよやかで上品な貴族たちの時代は、だいたい後半の200年間であるが、本書はそこに至るまで、奈良時代に導入された律令制がこの国の実体に合わなくなり、いろいろ試行錯誤を繰り返して、ひとまずの安定したシステムを作りあげるまでの200年間を論じている。

 制度的な要点は、序章に挙げられた「徴兵制による軍団の廃止」「私有地開発の公認」「地方官の自由裁量権の拡大」になるだろう。大きな政府(律令国家)から小さな政府へ。中央政権の権限や徴税機能は弱まったのに、国家経営の合理化と民間活力の利用によって、国全体は豊かになっていった。

 本書は、具体的に何人かの人物に即して記述を展開する。最初はもちろん桓武天皇。桓武は「聖武系王権」から徹底して離脱するため、平城京を離れ、渡来系氏族を重用し、著者の表現によれば「天皇を『皇帝』に近づけ」ようとした。桓武、交野郡で郊天上帝祭祀(郊祀)をおこなっているのか(交野天神社というのがあるらしい)! 女系天皇の可能性を封じたというのも興味深いところ。また伊勢神宮も桓武新王権において、その権威を公認されるとともに、王権の監視下におかれるようになり、伊勢斎宮にも新たな意味付けがなされた。

 平安前期においては、寒門の出身でも学識を認められれば政治の中枢に参画することができ、門閥貴族と文人はライバル関係にあった。中国の宮廷みたいである。平安前期は、基本的に、中国起源の律令制から遠ざかる過程だと思うが、「この時代らしさ」には、かえって奈良時代より、中国の伝統文化に接近したところが見られる。ここで名前が挙がっていたのは、郡司の孫が貴族(参議)にまで昇った春澄善縄。おや?聞いたことのある名前だと思ったのは、春澄善縄朝臣女(むすめ)が勅撰歌人であるためのようだ(私は国文学専攻だったので)。

 歴代の天皇ではもうひとり、9世紀の文徳天皇を論じた段もおもしろかった。文徳も、桓武以来久々に郊祀をおこなっているのだな。また、郊祀の直前には、春澄善縄に勅して『晋書』を講義させたという。晋が「最初の、禅譲により成立した統一国家である」点に興味を示したのではないかと著者はいうが、本当にそうなのかな。「桓武天皇を司馬氏に擬して」というのを読んで、ドラマ『軍師聯盟(軍師連盟)』のすさまじい権力抗争と簒奪の歴史を思い浮かべてしまったのだが。『文徳実録』には怪異の記録が多いというのも記憶に留めておきたい。

 また本書は、女性についての記述も豊富である。奈良時代の宮廷女官は男官に伍して活躍しており、名前を歴史に残した女官も多く、職場結婚の例もあり、天皇のお手付きとなって後宮に入ることもあった。ところが、次第に女官の採用年齢が高齢化し、天皇の性生活はキサキ(女御・更衣を含む)を出す氏族に限定されるようになり、女官にかわってキサキに仕える若い女房たちが「天皇を引き付ける甘い蜜」として用意されるようになる。10世紀後半の紫式部や清少納言の時代は、女流文学が隆盛をきわめたと言われるが、彼女たちが実名を残せなかったことを見ても、前時代に比べて、女性の地位が低下した状況だったのではないか。これは私も(奈良時代びいきのせいもあって)むかしからそう思っている。

 再び天皇制について。「律令体制下で天皇が名実ともに最高権力者であった時期は意外に長くない」というのは、ちょっと目からウロコの指摘だった。奈良時代から平安前期にかけて、天皇と上皇が同時に存在した時期は意外に長いのだ。そして嵯峨院以降は、藤原良房をはじめとして、藤原摂関家氏が天皇の「護送船団」をつとめていく。平安末期の「院政」が特異な政治体制ではなく、奈良時代からつながっているのだなと感じた(そういえば、橋本治『双調平家物語』も奈良時代から始まるのである)。

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