goo blog サービス終了のお知らせ 

見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。
【はてなブログサービスへ移行準備中】

歴史を掘り、人に会う/京博深掘りさんぽ(グレゴリ横山)

2024-01-26 21:27:56 | 読んだもの(書籍)

〇グレゴリ横山『京博深掘り散歩』(小学館文庫) 小学館 2023.11

 お正月に京博に行ったら、ミュージアムショップに本書が積まれていた。京博のウェブサイトに2021年4月から2023年3月まで「グレゴリ青山の深掘り!京博さんぽ」のタイトルで連載されていた漫画エッセイに加筆・改稿したものだという。京博のサイトにはさんざんお世話になっているのに、この連載の存在を全く知らなかったので驚いた。刊行は2023年11月12日とあるが、私が昨年最後に京博に行ったのは、ちょうどその頃で、タッチの差で陳列を見逃したのではないかと思う。ちなみに東京の書店では、全く見かけた記憶がない。地域差?

 ウェブサイト公開時の順番はよく分からないが、本書の内容は「敷地と建物」「京博で働く人々」「文化財を守る人々」の三部構成に整理されている。京博の敷地がもとは方広寺の敷地で、豊臣秀吉が建立した大仏があったことは知っていたが、文禄4年(1595)に大仏殿がほぼ完成した後、大地震で大仏が瓦解してしまい、信濃善光寺のご本尊(秘仏の?)を運ばせてきて大仏の台座に祀らせた、という話は知らなかった。秀吉の死後、地震に強い金銅仏を建立しようとしたが鋳造中に出火して大仏殿炎上、その後、再建されたが、寛文2年(1662)地震で破損、木造仏に造り替えるが寛政年間に落雷で全焼、天保年間に半身像と仮堂が再建されるが、昭和48年(1973)火災で焼失したという。いやほんと「めっちゃ呪われてますやん」と言いたくなるこの歴史を知っただけでも本書を読んだ甲斐があった。閉鎖されて久しい明治古都館では、床下の発掘調査が行われており、江戸時代に方広寺が全焼した後、瓦の捨て場になっていたと考えられているそうだ。おもしろい!早く成果を見せてほしい。

 「京博で働く人々」には、我々が接することの多い受付・看視スタッフだけでなく、電気・機械設備担当や情報システム担当、衛士(警備担当)や写真師、多言語翻訳担当のみなさんなども登場。けっこう容赦ない(?)似顔絵がたのしい。副館長の栗原裕司さんは栗に似せたキャラに描かれていて、たびたび登場する(ネットで顔写真を探したら、いまは科博にいらっしゃるのかな)。私の大好きな、京博PR大使のトラりんも取り上げられている。2015年にトラりんが登場してから来館者がぐっと若返り、20~30代の来館者が増えたのだそうだ。そんな目に見える効果があったとは!

 「文化財を守る人々」では、京博の文化財保存修理所に入っている民間工房の方々を紹介する。そうか全てを博物館の組織と人員でまかなっているわけではないのだな。松鶴堂とか岡墨光堂とか名前は知っているが、実際に働いている方々を知るのは初めてで興味深い。100年前、1000年前の作者と身体で対話するような職人芸の世界であると同時に、最先端の技術を活用した科学調査室とも連携を取っている。ここの降旗室長、理系女子でかわいい。振り返ると、全体に女性の多い職場だなと感じた。

 京博には、作品を収めるまでの事務書類や文書をまとめた「列品録」という書類がある(東博にもあるのかな?)。これを作るように指示したのは帝室博物館長だった森鴎外らしいという。おお、さすが! この列品録の調査から生まれた展覧会が、2008年の『憧れのヨーロッパ陶磁』展だという。ああ、覚えている~。京博にドイツの工芸品を寄贈してくれたホッホベルク伯爵の名前にまた出会うとは思わなかった。京博の館蔵品台帳は、デジタルでも記録しているが「デジタルは何かの事故で消える危険もあるので」冊子でも保管しているという話には感銘を受けた。

 あと平成知新館のグランドロビーにキツネの正面顔のような文様が浮き出てきたという話、その北側には豊国神社の境内の槙本稲荷神社という小さなお社があり、まっすぐ南に行くと伏見稲荷があるという。作者のグレゴリ青山さんが妙にワクワクしながら描いているけど、私もワクワクした。

 京博周辺の案内地図がついているのもうれしい。河井寛次郎記念館はむかし一度行ったけれど、藤平伸記念館は知らなかったなあ(春秋のみ公開)。大仏餅の甘春堂も訪ねてみようかしら。

・京博ミュージアムショップに飾られていた色紙。

・正月のトラりん。頭に龍を載せている。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

雇用労働の多様な発展/仕事と江戸時代(戸森麻衣子)

2024-01-23 22:55:10 | 読んだもの(書籍)

〇戸森麻衣子『仕事と江戸時代:武士・町人・百姓はどう働いたか』(ちくま新書) 筑摩書房 2023.12

 歴史的に見れば、絶えず変化してきた人々の働き方。本書は、現代日本人の働き方の源流を江戸時代に求める。その前提として、中世においては、人々が自ら選んだ仕事に従事し、その労働に対して報酬を受け取るという働き方は一般的ではなかった。ある程度の裁量権を持つ自立的な商人・職人・農民は生まれていたが、給金や現物による報酬を介することなく、力による支配を受けて種々の労働に従事する人々が多かった。江戸時代には、人身売買や隷属関係が縮小し、貨幣制度の発展によって、本格的な雇用労働の時代が始まる。

 以下、本書は諸身分における「働き方」を順番に紹介していく。はじめに武士階級の旗本・御家人の場合。旗本の上層部は知行取で領地を与えられたが、それ以外は年俸を米で受け取る蔵米取で(米を現金化して生活する)、御家人の最下層はすべて現金で受け取る給金取だったとか、蔵米の受取方法、換金方法、多様な副業(傘張り・版木彫り・植木作り・金魚の養殖)や役得(職場の消耗品を持ち帰る!)など、細やかで具体的な説明がある。

 次に足軽・中間・小者などの武家奉公人。江戸での武家奉公人需要の高まりを受けて、人宿(ひとやど)という斡旋業者が成立する。人宿に登録して仕事を求めたのは貧困都市住民や出稼ぎ百姓だった。しかし奉公人の欠落(かけおち≒逃亡)などのトラブルに悩んだ大名屋敷側は、大事な仕事を任せる奉公人には、江戸からさほど遠国でなく大きな藩の存在しない土地(信濃・上総・下総など)で実直な百姓を採用するようになった。逆に短期の軽い仕事には、パート・アルバイトと割り切って人宿を使うようになったというのが面白い。

 武士身分は、家格に応じた役職をつとめることが基本だった。しかし江戸時代中期になると、幕府でも藩でも経済的な政策を立案できる人材が必要となってくる。このほか、医学・農学・土木など専門知を極めた町人や百姓が、一時的に、または一代限りの「非正規」の者として武士集団に組み入れられた。しかし幕政改革も19世紀以降の急激な対外危機の高まりには対応できず、武家官僚制は終焉を迎える。

 武士役人の働き方については、勤務時間、出勤の管理方法、手当と賞与、採用と退職など、詳細な記述があり、今の裁量労働制に近いという説明は理解しやすかった。在宅勤務もあったみたいだし。袴代・筆墨代・夜食代など、意外と諸手当が行き届いていてうらやましい。通勤は徒歩か馬なので、高齢になると働き続けにくい、というのは納得。

 次に町人について。江戸の町人の就業形態で最も多いのは自営業主(職人・振売)、次いでパート・アルバイト(奉公人・召仕など)で、現代のような正規雇用の労働者はごく一部しかいなかった。大店の奉公人は安定した身分だったが、店に住み込むことが原則なので、家族を持つことができず、ほとんどが独身男性だった。逆に、特殊な技術を持たない者が店に通勤する「日雇」は、給金は低いが家族と暮らすことができた。経済的な豊かさと家族との暮らしを両立させるには、自分で店を開くか職人の親方層になることが必要だったという。なかなか厳しい社会である。

 最後に百姓。「百姓」とは「村」に住民登録された居住者全てを指すが、本書は農村を中心に述べる。農村地域の労働形態を把握するには、租税制度に対する理解が不可欠で、特に建前と実態の乖離をよく理解する必要がある。たとえば五公五民というけれど、一面に稲を植えるのでなく、より商品価値の高い作物を植えて収穫した場合、あるいは、あぜ道や空き地など検地帳に掌握されていない場所で作物を育てた場合、その収入は百姓のもうけとなるので、実質的な徴収率は50%より下ることが多いのだという。知らなかった! 商品作物(紅花、藍、綿花、茶など)は収穫時期・時間に制限のあるものが多く、規模が大きくなると家族労働では対応できないので、「手間取り」などの日雇労働が必要になる。零細な水呑百姓は、豪農の下で日雇稼ぎをすることで生活を成り立たせた。また農業以外の副業(農間余業)には、草履草鞋小売渡世・糸繰渡世・水車渡世(粉ひき)・大工渡世など、さまざまな業態があった。私は、歌舞伎や文楽の登場人物を思い浮かべて、ああ、あれは〇〇渡世だな、と納得した。

 このほか、女性(奥女中、乳母、遊女屋)、輸送・土木分野、漁業・鉱山業についても記述がある。とにかく情報が豊富で、江戸時代の暮らしについての解像度が上がることは間違いない。最後に著者は、江戸時代の働き方が、明治以降どのように変わったかにも注意を促している。「家」と「個」が切り離され、働き方に「個」の要素が強まったことは、プラスの面だけでなくマイナスの面もあるという、ありきたりの結論だが、本当のところ、何が変わって何が変わらなかったかは、ゆっくり考えてみたいと思った。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日本人と日本文化の起源/縄文人と弥生人(坂野徹)

2023-12-29 22:29:35 | 読んだもの(書籍)

〇坂野徹『縄文人と弥生人:「日本人の起源」論争』(中公新書) 中央公論新社 2022.7

 本書のオビの表面には、縄文人と弥生人の復元模型の顔写真を並べて、大きな赤字で「日本人とは何者か?」と書かれていた。裏面には「縄文人と弥生人はいかなる人びとであったのか?」とも。私はこの種の疑問には関心がなかったので、本書をスルーしていた。しかし著者の関心は、より正確には「日本人(縄文人と弥生人)はいかなる人びとと考えられてきたのか?」という論争史にあると分かって、俄然、興味が湧いて読んでみた。

 日本における近代的な人類学・考古学はモースの大森貝塚発掘(1877年)に始まるというから、150年足らずの歴史しかないが、研究は大きな進展を遂げてきた。そもそも当初は、縄文式土器と弥生式土器の先後関係も明らかではなく、異なる集団の文化のように考えられていたことには驚いた。明治期の人類学者・考古学者は、かつて日本列島に暮らしていた先住民族に、後来の日本人の祖先が置き換わったと考えた(人種交替モデル)。これは、当時の欧米の歴史観の反映であるとともに、記紀神話(神武東征伝説)の影響も大きい。渡瀬庄三郎は日本列島の先住民族はコロボックルだと考え、小金井良精はアイヌ説を唱えた。20世紀に入ると、弥生土器が縄文土器より新しいという認識が広がる。鳥居龍蔵は、アイヌが縄文土器を残し、日本人の祖先が弥生土器を残したと主張した。

 しかし次世代の研究者からは、先史時代の土器や石器を残したのは日本人の祖先であり、現代まで日本列島の住民は連続していると考える者が出て来た(人種連続モデル)。清野謙次は、古人骨の計測データをもとに、現代日本人もアイヌも、日本石器時代人がそれぞれ隣接人種との混血が進んだ結果であると主張した。一方、縄文土器を残した人々と弥生土器を残した人々は別の集団(民族)で、彼らが混血して日本人になったと考える考古学者もいた(縄文/弥生人モデル)。

 戦時中、考古学者の間では、縄文/弥生人モデルの支持者が増えていく。記紀神話(皇国史観)の影響が強まったこの時期、日本人の祖先が海外から渡来した説は語られず、日本人の混血性や他民族との闘争は否定された。敗戦後も人類学者の日本起源論は混血を否定する理論が支配的だったが、1950年代、金関丈夫は、日本石器時代人より高身長の新しい種族が、弥生文化とともに渡来したと主張し、次第に渡来説に有利な証拠が蓄積されていく。埴原和郎は、この延長上に、日本人の成立における縄文人と弥生人の「二重構造モデル」を唱えた。

 埴原と近い関係にいたのが、日文研の初代所長の梅原猛と京大系の研究者たち(新京都学派)で、彼らこそが、現在、ブームになっている「縄文=日本の基層(深層)文化」という発想の起源だと思われる、と著者は注釈している。分かる分かる。1970~80年代、私はリアルタイムにこういう言説に触れていたので。

 日本文化起源論は、何を「日本文化」の特徴と見做すかで変わってくる、というのは本当にそのとおりだ。登呂遺跡の発掘に日本中が湧いた時代は、水田耕作=弥生文化こそ日本文化の起源であり、キラキラした理想郷だった。その雰囲気を、60年代生まれの私は微かに記憶している。後世の人間なんて勝手なものである。同様に日本人起源論も「日本人」という集団の定義に左右される。歴史を振り返ると、その時代の「日本人」の定義に合わせて、最も望ましい「起源」が語られてきたように思った。そして今日、日本に暮らす人々のエスニックな多様性は確実に増大しており、この傾向が続けば、起源(ルーツ)探しとしての日本人起源論の意義は失われていくだろう。「原生人類の拡散過程のなかに日本人起源論を位置づける」というのは期待したい方向性だ。「日本という枠にとらわれた従来の人類学・考古学研究の乗り越え」を見届けてみたいと思う。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

中国の多元性/物語 江南の歴史(岡本隆司)

2023-12-18 21:27:12 | 読んだもの(書籍)

〇岡本隆司『物語 江南の歴史:もうひとつの中国史』(中公新書) 中央公論新社 2023.11

 「江南」は、一般的には長江下流部の南方を指す用語だが、本書ではもう少し広く、中国語の「南方」の意味で使っている。北方=中原がまさに「中国」であるのに対して、南方=長江流域と沿海部は、中国を成り立たせると同時に「一つの中国」を否定し、中国の多元性を体現してきた地域なのである。

 春秋時代、中原の諸侯が連合して「中国」を名乗ると同時に、長江流域には楚・呉・越の諸国が起こり、北方と不可分にかかわる「江南」の歩みが始まる。以下、本書は「江南」を「長江上流(四川・重慶)」「長江下流(江蘇・浙江・安徽・江西)」「沿岸・海域(福建・広東)」「長江中流(湖南・湖北)」に分けて紹介していく。これらの地域が歴史に立ち現れるのが、この順序なのである。

 はじめに巴蜀(四川盆地)は、三国志の物語で有名だが、険阻な地形に囲まれながら、肥沃な耕地に恵まれ、引きこもるにはうってつけの場所だった。ただし一時的には自立できても、結局は自立を保てないという歴史は、その後もずっと繰り返されている。

 次に長江下流域の呉・越・楚は、中原列国から「夷狄」扱いされながら、その争覇に深入りし、最後には苦杯を嘗めるのが常だった。三国の孫呉政権は、先住民の同化編入、東南アジアや朝鮮半島との海上交易、仏教の振興など、のちの江南政権の先駆となった。東晋・南朝の間に江南の開発は大きく進展する。天下を統一したのは北朝の隋だったが、隋の煬帝は、むしろ南朝の後継者として滅びた。続く唐は、北朝の伝統に忠実な武力本位の政権だったが、安史の乱を経て「財政国家」化すると、再び江南のプレゼンスが上昇する。南北は、経済文化と政治軍事を分業する関係に転換する。宋代には、土木技術の向上により、江南デルタの低湿地の開発が進むとともに、占城稲(チャンパーとう)が導入され、「蘇湖熟すれば天下足る」と言われるようになった。生産と人口の増加によって、商業が発展する。

 ところが、明代、15世紀に入ると、水利条件の変化(呉淞江の涸浅)によって江南デルタは水不足に陥る。農民は作付を転換し、副業であった製糸・紡績が盛んになり、高度な産業化(工業化)が進む。新たな穀倉となったのは未開発の長江中流域で「湖広熟すれば天下足る」と言われた。

 視点を転じてシナ海沿海部は、住地が狭隘で独自の勢力を形成しにくく、中原や江南と大きく異なる生態環境のため、往来や移住の難度も高かった。瘴癘の地、流刑の地、宦官の供給地という「異形」の地域にも、10世紀(五代十国)には、閩と南漢という独立国家が生まれる。宋代以降は王朝政権の一辺境となるが、海外貿易の窓口として、発展・繁栄を続ける。いや、この地域、おもしろいなあ。倭寇、洪秀全、孫文、そして現代の香港まで、海外と結んだ「革新」と、それを待ち受ける弾圧の運命を繰り返している。

 最後に長江中流域。三国志では荊州として登場する。その後も政治的自立を果たすことはなかったが、12~13世紀の人口増に伴い、長江下流域で溢れた人々が中流域に入植してくる。未開地が多かったため、17世紀以降も移民の受入れと開拓が続く。18世紀には有数の米穀産出地域となるものの、それ以上のペースで人口が増加したため、湖南人はいつも貧しく「拼命(いのちがけ)」が性分とされた。ここから20世紀の中国革命のリーダーたちが誕生するのだが、新旧価値観の同居、定まらない順逆が、湖南人士に共通の特色に思われる。岩波新書『曽国藩』を書いた著者の評なので、味わい深い。

 はじめは、中原/江南の対立軸で語る中国論か(知ってる)と思って読み進んでいたが、その対立軸にさえ収まらない「沿海部」「長江中流域」の存在が強く印象に残った。一般の日本人には、ほとんど中国として意識されない「異形」の中国だと思うが、知れば知るほどおもしろい。内実がこれほど多元的であるから、北京政府は「一つの中国」を声高に唱えなければならないと言えるかもしれない。特に沿海部、大好きなので、また現地に行ってみたい。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

覇者の交代/都会の鳥の生態学(唐沢孝一)

2023-12-02 22:50:56 | 読んだもの(書籍)

〇唐沢孝一『都会の鳥の生態学:カラス、ツバメ、スズメ、水鳥、猛禽の栄枯盛衰』(中公新書) 中央公論新社 2023.6

 千葉県市川市に住み、都立高校に勤める著者が、半世紀以上にわたって「都市鳥」を観察してきた経験をまとめたもの。都市鳥とは、都会に生息する鳥をいう。都市環境に最初に適応したのは、すでに農村で人に適応していたスズメやツバメ、カラスで、その後、さまざまな野鳥が進出してきた。日本では、1960~70年代に、キジバト、ヒヨドリ、ハクセキレイ、イワツバメ、ユリカモメが進出し、80年代には、チョウゲンボウ、コゲラ、カルガモが見られ、いったん姿を消したカワセミが東京23区に戻ってきた。2000年代には猛禽類のオオタカやハヤブサが都市で繁殖するようになった。一方、中国大陸や東南アジアから持ち込まれた外来鳥類の野生化も観察されているという。

 本書は、副題にもあるとおり、ツバメ、スズメ、カラス等々、種類ごとに章を立て、都会における「栄枯盛衰」を記述しているのがおもしろい。ツバメは「人との親密な関係」を利用し、銀座や丸の内のビル街で繁殖してきたが、都心のビルが超高層化するにつれて姿を消し、郊外へ移動しているという。スズメはツバメほど人に近づかないが、それでいて離れすぎない距離を選び、人に追い払われながらも人と共存してきた。スズメには、集団ねぐらで夜を過ごす個体と単独ねぐらを持つ個体がいる。街中で繁殖するスズメは、屋根の隙間、電柱の腕金(中空のパイプ材)などを単独ねぐらにする。しかしビルが高層化し、電柱の撤去が進む都心は、やはり営巣しにくくなっているようだ。それでも身体の小さなスズメは、さまざまな建造物や銅像(!)のちょっとした隙間で繁殖しているという。

 カラスは「都市生態系の頂点」に立つ鳥と見られていたが、2000年をピークに激減しているという。これは東京都民感覚としても同意できる。カラス減少の最大の要因は生ゴミの減量である。2005年以降は、ゴミの量は横ばいだが、カラス対策のネットや生ゴミの深夜回収が功を奏したと見られる。コロナ禍に伴う飲食店の休業やテイクアウトの普及など、都会人の生活スタイルの変化も影響を与えた。そして第二の要因は、猛禽類の進出である。これは実感したことがなかったので驚いたが、新宿副都心や六本木ヒルズでハヤブサが観察されているという。まあ岩場も高層ビルも同じようなものか。

 猛禽類でも樹洞で営巣するフクロウは、都心進出は難しいと考えられていたが、都心の緑地で生息が確認されているという。いいなあ、ハヤブサやフクロウの住む大都会。この状態を維持するためにも、あまり都心の樹木を伐らないでほしい。

 水鳥について。上野不忍池の優占種が、コガモ→オシドリ→オナガガモ→ヒドリガモ、キンクロジハジロと変遷していることは初めて知った。不忍池にはカワウのコロニー(池の小島)があるが、巨大都市の真ん中で、カワウのような大型水鳥が繁殖しているのは世界的にも珍しいという。皇居外苑のコブハクチョウ(たぶん見たことがある)は、1953年にドイツから移入され、飼育されているもので、羽の一部が切られているのでお濠からは飛び出せない。コブハクチョウの寿命は50~100歳と言われている(私と同じで、昭和、平成、令和を生きているのだな)。縄張り意識が強いので、1つの濠では1つがいが繁殖しているという。

 湾岸近くに暮らす身として、なじみが深いのはウミネコ。もともと上野動物園で保護していたウミネコを不忍池に放したのが、池の畔で繁殖するようになり、墨田区、江東区、中央区などに広がり、隅田川に近いビルの屋上で繁殖するようになったという。今や都会のウミネコは「カラスと互角」だというが、私の生活圏では、もはやカラスを駆逐して都市鳥の頂点に立っているように思える。しかし、カラスの栄枯盛衰を見て来た身には、ウミネコの覇権もいつまで続くか、と疑われる。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

絶望、たまにハッピーエンド/円(劉慈欣)

2023-12-01 18:55:16 | 読んだもの(書籍)

〇劉慈欣;大森望、泊功、齊藤正高訳『円:劉慈欣短編集』(ハヤカワ文庫) 早川書房 2023.3

 『三体』の劉慈欣の短編集。1997年に発表されたデビュー作『鯨歌』から2014年の『円』まで13編を発表順に収録する。豪華なクルーズ船に乗った謎の西洋人たちが登場する『鯨歌』は、普通の短編SFという感じ。1999年の『地火(じか)』、2000年の『郷村教師』は、舞台が近現代中国の辺境に設定されていて、劉慈欣らしさが濃厚である。典型的(≒通俗的)なSFらしさ(科学的・進歩的・未来的)から最も遠い、永遠に続く貧困と停滞の世界にSFが接続するところが、このひとの小説の魅力の一つではないかと思う。

 『栄光と夢』は、アメリカ合衆国とシーア共和国の戦争の代替手段として、両国のみが参加するオリンピックが開催されるという皮肉な物語。この競技大会は、ビル・ゲイツの発想に由来する「ピース・ウィンドウズ・プログラム」と国連により挙行される(ビル・ゲイツが、国家間の戦争をデジタル・シュミレーションに置き換えことで、リアルな戦争を撲滅するプログラムを開発しようとした、というのは、さすがにフィクションだよな、と思いながら調べてしまった)。しかし、シーア共和国の選手たちは、長い経済封鎖がもたらした飢餓と病気で、すでにアスリートとして最低限の肉体さえも失っており、連戦連敗を重ねる。女子マラソンに出場した少女シニは、憧れだったアメリカ選手のエマに、命を削って肉薄するが、最後は敗北してゴールと同時に息絶える。IOC会長はアメリカ選手団の勝利を宣言するが、同時に、両国の軍事戦争の火蓋が切られたことが告げられた。敗北すると分かっていても、シーア共和国は「最後まで走ろう」と決めたのである。

 本作は、2003年のイラク戦争(第二次湾岸戦争)勃発の直前に書かれたというが、読んでいると2023年現在のリアルな国際情勢がちらついて、胃が痛くなるような物語だった。劉慈欣は女性を描けない作家と言われているが、本作の主人公シニは可憐で印象的だった。まあ女性でなくて少女だからかもしれない。

 『円円のシャボン玉』の主人公・円円(ユエンユエン)も変わり者だが魅力的な女の子(結末では中年女性?)だと思う。円円の両親は、大西北の緑化を志して砂漠地帯に移住した科学者夫婦。しかしママは研究中の飛行機事故で亡くなってしまう。パパは絲路市の市長となって市民のために尽力する。成長した円円は、ナノテクノロジーで博士号を取得し、起業にも成功して巨万の富を得るが、シャボン玉の研究に没頭し、絲路市に投資してほしいというパパの頼みには耳を貸さない。「あたしは自分の人生を生きたいの」という円円だったが、その子供のような夢から生まれた巨大シャボン玉が、海上の湿った空気を大西北に輸送する「空中給水システム」の実現に寄与することが判明する。

 これは珍しくハッピーエンドな作品でほっこりした。課題解決のイノベーションは、往々にして、軽はずみで自分勝手な研究から生まれるというのはうなずける気がする。また、『天下長河』とか『山海情』などのドラマにも描かれた、中国人と自然環境の長い闘いの歴史を思い出した。

 『円』は小説『三体』で有名になった、始皇帝の人海戦術コンピュータが登場する作品で、私は『三体』より先にSFアンソロジー『折りたたみ北京』でも本作を読んでいる。初読のときは、単純にその発想を面白がったが、今回は冷え冷えした読後感を持った。【ネタバレ】すると、始皇帝と刺客の荊軻は燕王によって一緒に処刑されるのである。太陽と月がともに輝く空の下で。

 私は1970~80年代には、英米の古典的なSFをそれなりに読んでいたが、今はすっかり離れてしまった。陰に陽に現れるマチズモが好きでなかったのが一因のような気がするが、劉慈欣の作品にはあまりそれがないのが好ましい(むしろ敗北する男たちばかりである)。あと、大森望さんをはじめとする翻訳者グループの日本語が、私の好みに合うのかもしれない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

強がりと気苦労/王朝貴族と外交(渡邊誠)

2023-11-19 18:14:06 | 読んだもの(書籍)

〇渡邊誠『王朝貴族と外交:国際社会のなかの平安日本』(歴史文化ライブラリー) 吉川弘文館 2023.3

 中国史に関する本を読んでいると、当時、日本の状況はどうだったんだけ?というのが気になる。たまたまSNSに情報が流れてきた本書が面白そうだったので読んでみた。冒頭には「北宋期の日本と東アジア」の地図が掲げられていて、朝鮮半島には高麗、その北方には女真、さらに契丹(遼)、西夏、吐蕃、大理、大越が、ぐるりと宋を取り巻いている。

 本書は、いくつかのトピックを取り上げながら進むが、最初は「刀伊の入寇」(1019年)である。博多に上陸した賊船は、武士の活躍によって撃退された後、朝鮮半島東岸方面に逃れ、高麗の船兵に拿捕された。高麗は日本人の拉致被害者を保護して、対馬へ送還した。この知らせを受けた中央政府(道長・頼道・実資・公任・源俊賢ら)は対応を協議するが、異賊の正体が刀伊(女真)と知れたあとも、高麗を「敵国」扱いして疑いの目を向け、冷たくあしらっている。

 高麗に対する強い警戒心は何に由来するのか。神功皇后の三韓征伐伝説であるという。新羅の後身である高麗は、虎視眈々と日本の隙をうかがう「敵国」と考えられていた。その一方、平安貴族は自分の祖国を、天皇の威勢も衰え、国家的な軍備にも乏しい(平安初期に律令軍団制が解体され、武士身分が武力を占有するようになる)「末代」と認識している。いつ高麗に侵略されてもおかしくないが、そうならないのは、日本が神に守られた「神国」であるためだという。自慢なのか卑下なのか、非常にまわりくどい対外認識を彼らは持っていたようだ。

 「刀伊の入寇」に先立つ10世紀、唐の滅亡(907年)によって、朝鮮半島の情勢も動揺する。新羅の力が衰え、甄萱が後百済、王建が高麗を建国する。百済王・甄萱は日本に使者を派遣し「朝貢」の意志を示してきたが、日本は通交を拒否する。936年に半島を統一した高麗は、その翌年から日本に使者を派遣したが、やはり日本は「朝貢」を拒絶した。どうしてなのかなあ…と言っても仕方ないのだが、平安時代の日本は国際的な政治外交の場から完全に離脱することを選ぶ。大陸・朝鮮半島から海を隔てた島国であることが、この選択を可能にした。

 中国大陸については、10世紀以降、まず呉越国と交流があった。国家としての通交は拒否しつつ、中国商人を介して、大臣による私交というかたちで、仏教の典籍や文物が贈答された。978年には宋が中国を統一する。宋太宗は、983年に入宋した奝然を召見して、日本の風俗等を尋ね、大変厚遇したという。へえ!宋は987年に日本への商人の渡航を解禁。契丹と軍事的緊張を抱える宋にとって、日本産の硫黄の獲得は重要な意味を持っていた。しかし仁宗の頃になると、契丹との緊張緩和によって、日本への関心が低下する。仁宗は『清平楽(孤城閉)』の皇帝だな、などと中国ドラマを思い出しながら読むのも楽しい。11世紀後半、哲宗・徽宗期になると、再び軍事的緊張の高まりとともに、宋から日本へ積極的なアプローチが行われる。

 平安貴族の対外認識を考える上でとても面白かったのは、高麗への医師派遣問題への対応である。1080年、高麗国王文宗の病気(風疾=中風)を治療するため、日本の優れた医師を派遣してほしいという依頼の牒状が太宰府に届いた。第一報を源俊房に知らせたのは藤原通俊。通俊!!『後拾遺和歌集』の撰者じゃないか(私は大学で文学を専攻したので、歌人の名前がこういうところに出ると驚いてしまう)。源俊房・源経信(このひとも歌人だ)ら公卿たちの議論は分かれたが、最終的に関白師実は白河天皇とともに「派遣しない」決定を下し、大江匡房が返牒を作成した。その返牒(『本朝文粋』に収録)は、高麗の牒状の形式上の不備をとがめるなど、けっこう尊大な印象を受ける。しかし俊房や経信の日記によれば、医師の派遣を見送った根本的な理由は、もし治療に失敗し、日本の医師の技術が劣っていることが知られると「日本の恥」になるから、というものであった。うーん、分かりにくい心理だが…外向きの外交文書では強がりつつ、内実は小心翼々というのは、現代の国際関係でもありそうな話だと思った。

 なお「牒」というのは、上下関係がはっきりしない役所間でやり取りされる文書の形式で、東アジアの国どうしでも、これを便利に使っていたという。ちょうど正倉院展で見た文書にも「牒」「故牒(ことさらに牒す)」の文字がたくさん使われていた。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

二人の天才皇帝/隋-「流星王朝」の光芒(平田陽一郎)

2023-11-09 23:23:56 | 読んだもの(書籍)

〇平田陽一郎『隋-「流星王朝」の光芒』(中公新書) 中央公論新社 2023.9

 581年の建国から618年の滅亡まで、約40年、実質的にはわずか二代という短命王朝の隋を中国歴史学界では「流星王朝」と評することがあるそうだ。なかなか洒落た命名である。私は隋の皇帝家の人々も、この時代の文化(彫刻・工芸)も好きなので、本書の刊行を楽しみにしていたが、そもそも新書1冊分も書くことがあるのか?というのを心配していた。しかしその心配は無用で、本書は、隋の建国に先立つ南北朝後期の動乱から説き起こす。しかも、東魏・西魏・梁から北斉・北周・陳へという「中国」内部の政権交代とともに、「中国」の外=草原地帯では柔然が衰退し、突厥が勃興してきたことに注意を喚起する。

 その後、北周の重臣だった楊堅が帝位の簒奪に成功して隋の文帝となる際にも、二代皇帝・煬帝の治世後半に起きた大乱にも、突厥は大きな影響を与えている。突厥内部にも対立・抗争があるので、どの集団と提携してどの集団を牽制するかは、「中国」の王朝の存亡を左右する重要な決断だった。同時に突厥の側も「中国」内部の勢力対立に付け込み、うまく利用するように立ち回っているように思われる。本書を読んだことで、少し突厥可汗の系図に親しみができた。中国古装ドラマにときどき登場する「阿史那」って突厥の姓(?)なのだな。突厥史についての簡単な本はないかなと思って探したが、手ごろなものはなさそうである。

 隋の皇帝一家のうち、楊堅・楊広(煬帝)のことはまあまあ知っているのだが、その先代・楊忠、および楊忠の兄貴分であった独孤信とその娘たちのことは初めて詳しく知った。長女は北周明帝に嫁ぎ、四女は李昞に嫁いで李淵を生み、七女は楊堅に嫁いで楊広を生む。これはドラマにしたくなるシチュエーションであるなあ。私は『鋼鉄紅女』の独孤伽羅を思い出しながら読んでいたけれど。

 ドラマ作品では、煬帝のキャラが立ちすぎているので、凡庸な皇帝に扱われがちな文帝だが、外交力も政治構想力も史上に抜きん出た人物だったのではないかと思う。突厥からは「天可汗」の称号を得、仏教を保護することで「海西の菩薩天子」(聖徳太子の国書)と尊称された。つまり儒教に基づく一元的な支配体制だけではカバーしきれない、多元的な統治のあり方を具体化したのである。隋こそは、北方に広がる草原世界、華北中心の中華世界、東南海域に連なる江南世界に発する三つのストリームを、はじめて束ねた帝国だったという。

 しかし、やっぱり私は煬帝が好きだ。新洛陽城の造営、大運河の開削、大規模な穀倉の建設。民に負担を強いた暴挙と批判されるが、目的は間違っておらず、またその先見性は図抜けていたという著者の評価は嬉しい。もう少しお遊び寄りの造営では、一度に数千人が着席できる大テント「大帳」とか、移動・組立式の宮殿「観風行殿」とか、移動式要塞「六合城」なんてのもある。楽しい。そして、親征の連続でどこか首都なのか分からない状態だったのは、運河と街道のネットワークによって、どこにいても常時執務を執ることが可能なシステムを構築しようとしたのではないかというのも面白い。

 この煬帝に「煬帝」という廟号を与えて、暴君のレッテルを貼ったのが唐太宗・李世民で、このおかげで唐はしばらく平和と安定を享受することができたというのは納得できる。まあ楊広と李世民、どちらもワルだし、あの世で並んで笑っているんはないかと思う。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

我が名は武則天/鋼鉄紅女(シーラン・ジェイ・ジャオ)

2023-10-05 22:14:54 | 読んだもの(書籍)

〇シーラン・ジェイ・ジャオ;中原尚哉訳『鋼鉄紅女』(ハヤカワ文庫) 早川書房 2023.5

 人類の遠い未来の物語。華夏の人々は長城の中で暮らしていた。長城の外に広がる荒野からは、しばしば渾沌の群れが攻め寄せてきた。迎え撃つ人類解放軍の主力は霊蛹機。7、8階建てのビルほどもある巨大な戦闘機械である。パイロットは座席にしこまれた鍼を通じて気を送り込み、機体を操縦する。ただしひとりで操縦することはできない。陽座に座る男性パイロットとともに、陰座に座る妾女パイロットが必要である。しかし妾女パイロットは、男性パイロットに気を吸い上げられて、一度の出撃で命を落とすことが常だった。

 辺境の村娘・武則天の姉も、九尾狐のパイロット・楊広の妾女パイロットとなって死んでしまった。主人公の「あたし」=武則天は、姉の仇をとるため、妾女パイロットに志願し、逆に霊圧で楊広を圧倒して彼を死に至らしめる。諸葛亮軍師、司馬懿謀士は、尋常でなく高い霊圧を発揮した武則天を、朱雀のパイロット・李世民と組ませることにする。霊蛹機では妾女パイロットは使い捨てだったが、例外的に「匹偶」と認められた、霊圧の高い男女のパイロットがいた。白虎に乗る楊堅と独孤伽羅、玄武に乗る朱元璋と馬秀英などである。

 武則天には高易之という思い人もあり、アルコール依存症で父親殺しの李世民には、なかなか心を許さなかった。しかし李世民の不幸な前歴を知り、その傷つきやすい優しさに次第に惹かれていく。李世民は文徳という女性パイロットを失ったことをずっと悔いていた。やがて武則天は奇妙な事実に気づく。女子の霊圧は男子より強く感知されることがあるのだ。男子より霊圧の高い女子は実際に存在するのではないか。霊蛹機の操縦システムが女子に不利になるように設定されているのではないか。そして安禄山謀士の告白によって、彼女の推測が正しいことが判明する。

 多くの人々を不幸にしてきたシステムを破壊し、世界を変えるために、武則天と李世民、そして易之は立ち上がる。李世民は易之にも惹かれていた。男女が1対1のペアでなければならないという思い込みを笑うように、3人は最強の関係を作り上げた。

 けれども武則天の敵は人類解放軍の中にいた。渾沌たちとの戦闘の中、朱雀を飛び出した武則天は、荒野に眠る伝説の皇帝将軍・秦政を目覚めさせ、彼の霊蛹機・黄龍に乗って戦場に舞い戻る。黄龍の前に世界中がひれ伏そうとしたとき、易之が、信じられてきたこの星の歴史をくつがえす発見を告げる。さらに「天庭」からの指令によって、物語は幕引きとなる。いや、なんで!? ここから真の大冒険が始まると思ったのに。秦政(始皇帝)と武則天がペアになって黄龍に乗るという構図だけで、ぞくぞくするほど期待が高まったのに、残念。

 本作には、中国の歴史上の著名人の名前がキラ星のごとく敷きつめられている。むろん名前を借りただけではあるけれど、著者が「この本の則天はまったく異なる世界のまったく異なる環境で生きる人間として描きなおされている。でもその精神や考えが史実の人に反しないことを願っている」と述べているとおり、どこかに歴史や伝承のイメージが漂っているのが楽しい。個人的には司馬懿謀士のキャラが、怒りっぽくて情に厚く、人間味のあるところ、いかにも司馬懿らしくてツボだった。李世民は、こういう繊細な青年として思い浮かべたことはなかった。文徳は李世民(唐太宗)の皇后の名前だったかな?と調べたら、文徳皇后は賢后として名高く、彼女の死後、太宗は皇后を立てず、その陵墓を眺め暮らしたという逸話が出て来た。本作は、こういう史実/伝承の使い方が絶妙に巧い。あと、司馬懿の指導で、武則天と李世民がパートナーとして気持ちを合わせるための修行のメニューの中に、当然のようにアイスダンスが入っているのが面白かった。確かに中国文化の文脈的にはフィギュアスケートのカップル競技って、二人の「気」を合わせているように見えることがある。

 しかし『三体』を生んだ中国SF(著者は中国出身、幼少期にカナダへ移住)、あんな作品もあれば、こんな作品もあるという豊かさが、とてもよい。2021年発表の本作が速やかに日本語で読めるのも幸せなことだと思う。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

自警団の実像/関東大震災と民衆犯罪(佐藤冬樹)

2023-10-02 22:35:10 | 読んだもの(書籍)

〇佐藤冬樹『関東大震災と民衆犯罪:立件された114件の記録から』(筑摩選書) 筑摩書房 2023.8

 私は人生の大半を東京で過ごしてきたので、関東大震災は、昔のできごとではあるけれど、具体的な被災地の地名にはなじみがあって、子供の頃から比較的身近な歴史だと思ってきた。しかし天災とは別の悲惨な事件について、詳しく知るようになったのは、ずっと大人になってから、たぶん2000年以降ではないかと思う。

 本書「はじめに」によれば、自警団を結成した人々は、多くの朝鮮人、中国人を殺し、時には日本人をも巻き添えにした。検察は114件を立件し、640人が起訴され、ほとんどが有罪になった。「ふつうの住民が400人以上を殺害した、近代日本史上類例のない刑事事件であった」が、犯人すべてが検挙されたわけではなく、「検挙されずに済んだ者とその被害者は永遠の謎になってしまった」という。それでも著者は、検察が起訴した事件の資料を丹念に読むことにより、民衆犯罪の実態を明らかにしていく。

 その前段として興味深いのは「自警団」の実態である。自警団類似の団体(保安組合、自衛組合など)は、震災の数年前から、警察の肝いりで各地に結成されていた。警察幹部はこれを「民衆の警察化」と呼び、「自警自衛」意識の高揚に基づく民衆の組織化に余念がなかった。その主力となったのが消防組員である。1894年の消防組規則では、各地の消防組は警察の統制と指揮下に置かれていた。これまで自警団の犯罪については、在郷軍人や青年団の主導性が強調されてきたが、警察の公式な下部組織であった消防組のプレゼンスが大きかったことを著者は検証している。

 また、震災直前は、朝鮮人労働者が増え続け、日本人労働者との間に多くの軋轢を生んでいた。労働争議だけでなく、死者や重軽傷者を出す「争闘」「格闘」あるいは住民による一方的な「襲撃」事件も多数起きている。この物騒な世情に迫られて、警察は「民衆の警察化」を急いだとも言える。つまり、朝鮮人襲撃事件は、震災という異常事態が生んだものではなく、起こるべくして起きたのだと思う。

 あらためて怖いのは、自警団には「善良な朝鮮人」と「不逞鮮人」を区別する意思がハナからなかったという指摘である。いちおう官憲のタテマエとしては、前者を保護する指示が出ていたが、自警団は受け付けなかった。彼らは朝鮮人こそ震災に伴うあらゆる災厄の源であると見なし、「原始的な復讐心」に囚われて、全ての朝鮮人に「報復」を加えた。いつの時代にも、こういう歪んだ理屈を唱える人はいるが、それが普通の人々に蔓延した状態というのが恐ろしいし、悲しい。

 著者は日本人襲撃の実態も調査している。東北出身者、ろう者の襲撃事件は確かに存在したが、1、2件に過ぎず、朝鮮人の被害を相対的に小さく見せようという当局のねらいから生じた側面は否めないという。これは重要な指摘である。確かに本書を読むと、自警団や群衆がわざわざ「発話不明瞭なもの」を区別して襲撃したというのが疑わしくなる。沖縄出身者についても襲撃の実態は不明だが、沖縄では、1940年前後の標準語強制教育の中で「沖縄出身者襲撃伝承」が、小学校の教室において教師の口から広まった可能性があるという。幾重にも悲しい話だが、なるほどと思わせる推論である。著者は、そもそも沖縄からの出稼ぎ労働者の歴史を調べる中で、副産物として本書が生まれたそうだ。あとがきでは「いまだかつて歴史学の手ほどきを受けたことはなく」と自己紹介しているが、考察は手堅い史料調査に基づいている。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする