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見もの・読みもの日記

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ファンダムの可能性/実験の民主主義(宇野重規)

2024-09-08 21:23:51 | 読んだもの(書籍)

〇宇野重規;聞き手・若林恵『実験の民主主義:トクヴィルの思想からデジタル、ファンダムへ』(中公新書) 中央公論新社 2023.10

 宇野先生の著書は『〈私〉時代のデモクラシー』『民主主義とは何か』などを読んできたので、だいたいどのような内容が展開するか、想像ができた。本書は、まず19世紀の大転換期を生きたフランスの貴族トクヴィルが、1831年にアメリカに旅行し、まさに民主主義がゼロから作られていく様子を目にして考えたことの検証から始まる。旧著『民主主義とは何か』でも紹介されていた論点である。

 トクヴィルは「平等化」が世界を覆うことになる趨勢にいちはやく気づいた。平等化は必然的に個人主義をもたらし、人々は孤立化する。そこで社会を解体から救う、もう一つのベクトルが「結社=アソシエーション」である。トクヴィルの見たアメリカの人々は、困ったことがあれば、個人が協力し合って解決する習慣を持っていた。このアソシエーションの習慣があれば、個人主義の負の趨勢には対抗できる。

 宇野先生はトクヴィルの結社論を「デモクラシーのなかにデモクラシーとは異質の原理を保持する要素を埋め込むことにあった」と解説する。これは理論としては魅力的だが、国や地域によって結社の伝統が異なるのでなかなか難しい。また、現代は、暴力的で人種差別的なアソシエーションが勢力を伸ばしているようにも感じられる。

 ここで聞き手の若林恵さんが、アニメやアイドルの「ファンダム」にも可能性と危険性が観察されることを挙げていて、面白かった。若林さんの名前は本書で初めて知ったのだが、編集者・音楽ジャーナリストであり、GDX(行政デジタル・トランスフォーメーション)にも関わっている方だという。宇野先生が歴史の側から読み解いた事項を、若林さんが現代のデジタル技術やゲーム・アニメの趨勢から解釈していく。この異文化交流が本書の醍醐味になっている。

 よい意味での「ファンダム」は、参加者が互いに助け合いながら学び合う空間であり、「政治=選挙=動員」ではない、民主主義の新たな実践を生み出す可能性がある。若林さんは、台湾のIT担当大臣オードリー・タンの言葉を紹介して、我々は「リテラシー」の時代から「コンピテンシー」の時代に移行しているのではないかと問う。「リテラシー」が思考・意志を中心とする「ルソー型の民主主義」であるとすれば、「コンピテンシー」は行動・実行を重視する「プラグマティズムの民主主義」である。

 この「プラグマティズム」の意味も、本書では何度も問い直され、彫琢される。デジタルコミュニティでは、旧来の「DIY: Do it yourself」ではなく「DIWO: Do it with Others」(他人と一緒にやる)が、すでに日常化している。アートの世界でも「天才的な個人に基づく芸術」というロマン主義的な神話が退潮し、「コラボレーション」に価値が見出されるようになっている。リテラシー重視の政治運動では、いちいち参加資格が問われたが、コンピテンシーに基づくデジタル民主主義は「何ができる?」から始まる。応援するだけでも、人の話を聞くだけもいいので「何もできない人はいない」。もちろん「それぞれ好きなことをやってみよう」を紡ぎ合わせていくのは難しいことで、多くの人が「面白い」と思うことは、数の暴力にさらわれる危険性もある。それでも、オンラインゲームやファンダムは、コラボレーションの練習装置になるのではないか、という指摘には、とても魅力を感じた。

 余談になるが、政党の話も面白かった。ヨーロッパの政党はクラブ的なもの(趣味的なつながり)から始まり、次第にイデオロギー化した。日本の場合は、イデオロギー的な政党が先に生まれ、むしろそれを中和するかたちでクラブ的な政党(政友会など)が生まれた。今でも保守政治家にはそういう文化が強いのではないか、と宇野先生。安倍晋三は、保守のボーイズクラブ的な感覚をポピュリスト的な手法にうまくつなげることのできた最後の政治家ではないか、とも。私が日本の保守政党に感じる不快感の源泉が分かったような気もした。

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歴史物語としての魅力/吾妻鏡(藪本勝治)

2024-08-19 00:17:55 | 読んだもの(書籍)

〇藪本勝治『吾妻鏡-鎌倉幕府「正史」の虚実』(中公新書) 中央公論新社 2024.7

 『吾妻鏡』は、鎌倉幕府の公式記録として1300年頃に編纂された史書で、治承4年(1180)に源頼朝が伊豆で挙兵してから、文永3年(1266)に第6代将軍宗尊親王が京都に送還されるまでを各将軍ごとに漢文編年体で記している。鎌倉幕府の草創から中期までの事蹟を記した、ほぼ唯一のまとまった文献であり、現在一般にイメージされる鎌倉時代の歴史像は『吾妻鏡』によって形成されてきた。私はこの時代にそれほど詳しくないけれど、一昨年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』を熱心に見ていたので、『吾妻鏡』にはこう記載されている、という解説には、けっこう気を配っていた。

 ところが、近年の研究によれば、『吾妻鏡』の本質は、多くのフィクションをまじえて構築された虚構のストーリーであることが分かってきたという。本書はこれを「頼朝挙兵」「平家追討」「奥州合戦」「比企氏の乱」「和田合戦」「実朝暗殺」「承久の乱」「宝治合戦」に焦点を当てて読み解いていく。

 たとえば「頼朝挙兵」について、『平家物語』では後白河の院宣と以仁王の令旨という二つの端緒が描かれるのに対して、『吾妻鏡』は令旨のみである。これは頼朝の挙兵を、頼政の宿意に端を発する源家再興の事業と位置づけるためと、令旨拝受の場に北条時政を介在させ、北条氏と源氏の結びつきを強調するためと考えられている。北条氏が自家の優越性を主張するために源氏将軍の権威を利用しているとも読める。ちなみに頼朝と時政の関係は、頼義(東国に源氏の地盤を確立)と平直方(助力者となった地元の豪族)の関係を想起させるように記述されている。

 もちろん『吾妻鏡』には、北条氏以外の忠臣の活躍も書き込まれている。こうした記事は、各家が頼朝と結びつこうとした家伝や、合戦の論功行賞のために提出した資料をそのまま取り込んだと見られている。その結果、複数の家の物語の相克が明らかになったり、敗者の声が紛れ込んだりしているのは、頼朝の支配の正統性を描くという構想の「ほころび」なのだが、そこにこの史書の魅力があるとも言える。

 頼朝の死後、頼家は徹底した悪王として描かれ、これと対比的に、北条泰時こそ頼朝の政道を継承する者として描かれる(このへん完全に『鎌倉殿』の配役でイメージ)。続いて登場する実朝は「文」(文芸、文書)の力を持ち、神仏と交信する存在であるのに対し、泰時は「武」と仁徳で武士たちを率いるという分業が意識されている。これは『吾妻鏡』編纂当時の、親王将軍と得宗家の分掌体制を反映してるという論も面白かった。

 しかし実朝は徐々に悪王化し(武を軽んじ、華美を好む)、神仏の加護を失い、暗殺される。この「悪王化」の一例として、唐船建造(失敗)説話が語られているが「これは虚構である可能性が高い」とのこと。「東大寺の大仏を再建した技術者である陳和卿が、海岸に船体が浮かぶかどうかという基本的な構造設計・地形調査を怠るはずもない」って、まあそうだよね。

 そして「承久の乱」を経て、頼朝以来の正統を受け継ぎ、神仏に庇護された英雄・泰時によって、得宗執権体制が確立される。なお京都では、その後の三浦義村の頓死、北条時房の急死、さらに泰時の死も後鳥羽院の怨霊の所為と考えられたが、『吾妻鏡』に後鳥羽院の怨霊に関する記事はない(泰時死去の年は欠巻)。編纂の同時代に近づく『吾妻鏡』後半の筆致が、前半の「文学的」魅力を失っていくのは、まあ仕方がないことかもしれない。

 本書は、京都の貴族の日記など、できるだけ同時代の史料を参照して『吾妻鏡』の曲筆、虚構を指摘しているのだが、参照資料のひとつとして、何度か定家の『明月記』が登場する。たとえば「和田合戦」について、鎌倉で起きた大事件だし、後世の編纂と言っても幕府の公的な史書なのだから『吾妻鏡』のほうが信用できるだろうと思ったら、実は『明月記』の記事の切り貼りで、しかも三浦義村の働きを省筆して、北条義時の美化が追加されているという検証には笑ってしまった。『明月記』、身近な京都の出来事だけを記録しているのではないのだな。あなどれない。

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関東大震災に先立つ経験/災害の日本近代史(土田宏成)

2024-07-28 22:23:35 | 読んだもの(書籍)

〇土田宏成『災害の日本近代史:大凶作、風水害、噴火、関東大震災と国際関係』(中公新書) 中央公論新社 2023.7

 20世紀初頭は、世界的に大規模な自然災害が相次いだ時期だった。災害は他国にも報道され、国境を超えた義援、救援、調査研究などが整備されていった。本書は、まず序章で1902年のプレー山噴火(カリブ海フランス領)を簡単に紹介する。約3万人の死者を出した大災害で、フランス公使の本野一郎から、主要国はフランス政府に弔辞と義援金を送っているので我が国も送るべき、という連絡が入り、外相の小村寿太郎は天皇に意見を具申した。こうやって日本は文明国の外交を実地に一歩ずつ学んでいったわけである。

 本書に取り上げられている国内外の災害は以下のとおり(◆=日本)
◆1905年秋、日本の東北地方で大凶作
◇1906年4月、アメリカのサンフランシスコ地震
◇1906~07年、中国の中部で水害と飢饉
◇1908年、中国の広東地方で水害
◇1908年12月、イタリアのメッシーナ地震
◇1910年1月、フランスのパリで大洪水
◆1910年8月、日本の関東地方で大水害
◆1914年1月、日本の桜島大噴火
◆1917年9~10月、日本の東京湾岸を中心に高潮被害
◆1923年9月、日本で関東大震災

 日本人と日本政府は、他国に義援を行ったり、義援を受け入れたりする経験を積んでいく。中国への義援金は、日本製品ボイコットを鎮静化するための「人心緩和剤」でもあったが、期待した効果は得られなかった。一方、パリの大洪水では、天皇の義援金が当地の各新聞に掲載され、良好な感動をフランスの人々に与えたと評価された。

 国内の災害に関して、私が特に興味深く読んだのは、東京下町を襲った、1910年の水害と、1917年の高潮災害である。1910年8月、東京は8日から豪雨が続き、10日から河川の氾濫や土砂被害が起きた。錦糸町駅付近で搾乳業(牛飼い)を営んでいた伊藤佐千夫の文章、亀戸付近の写真が惨禍の凄まじさを伝える。このとき、閣僚は夏季休暇中で東京を離れている者も多く、初動の遅れにつながったという。災害対応の軽視は、日本政府の伝統なのかね。

 それでも桂太郎首相は、この水害を契機として、近代日本初の治水長期計画を立案し、1911年から荒川放水路の開削事業をスタートさせる。放水路が1930年に完成し、荒川の本流となることで、東京東部の水害リスクは大幅に低減された。江戸川区生まれで、今は江東区に住む者としては本当に感慨深い。

 また関東大水害では、応急復旧工事費を調達するための地方債を、郵便貯金を原資とする大蔵省預金部が引き受ける仕組みが作られ、その後の災害にも適用された。こういう仕組み、いまの制度ではどうなっているのか、よく分かっていないので気になる。

 1917年9月30日から10月1日の東京湾台風では、防風と高潮によって、現在の江東区・江戸川区などに大きな被害が出た。東京府知事の井上友一は、救援・復旧につとめた。まずは被災者の収容、物資の無料配布、落ち着いてきたら、生活必需品の廉価販売と職業の紹介、資金の貸付けなど。また、災害時には軍隊が出動し、食料の配給や各種工事・作業に従事していたこと、青年団や在郷軍人会に協力が呼び掛けられている点は、関東大震災との関連でも興味深い。

 そして1923年9月1日の関東大震災。東大地震学教室の今村明恒助教授は、大学に出勤していて地震に遭うが、なんだかのんびりした対応が手記に綴られている。天井の抜けた(落ちた)東大図書館の写真は初めて見た。著者は「戒厳令」の適用が、かえって人々に不安と混乱を引き起こしたのではないかと推測する。この是非はよく分からない。

 国内外からは多くの義援金が寄せられた。民間で義援活動の中心になったひとりが渋沢栄一である。実は、関東大震災以前も、東京で何か災害があると、必ず登場するのは渋沢で、毀誉褒貶はあるけど、この点ではやっぱりえらい人だなと再認識した。

 日本のように自然災害の多い国では、災害の記憶は「上書き」されてしまうという。戦前の日本については、関東大震災の存在が大き過ぎて、それ以外の災害について語られる機会は非常に少ない。けれども、少なくとも自分の居住する地域については、小規模・中規模の災害の記憶も気にかけていきたいと思う。

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掘れば化石の宝庫/恐竜大国 中国(安田峰俊)

2024-07-25 22:41:15 | 読んだもの(書籍)

〇安田峰俊著;田中康平監修『恐竜大国 中国』(角川新書) 角川書店 2024.6

 まるで縁のなかった分野の著書だが面白かった。現在、世界で最も多くの恐竜が見つかっているのは中国なのだという。中国国内で骨格の化石が見つかり、2020年12月までに学名がついた恐竜は合計322種、近年はおおむね10種の新種が毎年報告されている。私は、そもそも恐竜学という学問の対象が、ある程度、固定化した段階にあると思っていたので、中国に限らず、毎年、そんなに多くの新発見が相次いでいるということが新鮮な驚きだった。

 私が頻繁に中国旅行に出かけていたのは、1990年代から2000年代なのだが、あるとき、ツアー参加者の中に「私は恐竜のタマゴに興味があって、中国ツアーに申し込みました」というおじさん(おじいちゃん?)がいた記憶がある。変わったおじさんだと思ったが、実は最先端の情報通だったのかもしれない。本書によれば、中国が恐竜大国であることは、一般の日本人には知られていないが、研究者の間では「常識」なのだという。また、ドラえもんの長編映画第1作『のび太の恐竜』(1980年)には、竜脚類のマメンチザウルスをはじめ、中国の恐竜たちが多数登場しているのだという。知らなかった。2019年に江南ツアーに参加したときは、常州のサービスエリアがジュラシックパーク仕様でびっくりした。江蘇省の常州市は、全く恐竜化石が出ていないが、温泉とショッピングモールが併設された娯楽施設「中華恐竜圏」が人気を博しているという。本書の「おわりに」に紹介されている。

 全体としては、どこから読んでもかまわない作りになっており、世紀の大発見(羽毛恐竜、「巨人」恐竜、琥珀の中の軟組織)、化石発見者や恐竜研究者のエピソード、中国恐竜の命名ルールと珍名恐竜、中国全土(+香港、台湾)の恐竜事情など、どれも面白かった。

 近年の恐竜図鑑では、小型獣脚類の仲間はほぼ例外なく身体に羽毛が生えた状態で描かれているという情報には、知識をアップデートできていない私はびっくりした。ちなみに映画「ジュラシック・パーク」が公開された1993年には、恐竜が羽毛を持つことはまだ「仮説」だった。ところが、1996年、中国遼寧省でシノサウロス・プリマ(原始中華龍鳥)の化石が発見されたのを皮切りに、多様な種類の羽毛恐竜が相次いで発見された。遼寧省は、やっぱり寒冷地だったのだろうか。

 中国ではかつて化石が「龍骨」と信じられ、中国医学の薬として用いられてきたことはよく知られているが、そのほかにも仙人の歩いた跡(雲南省)とか、巨大なニワトリ(=「述異記」にいう天鶏)の爪痕(四川省、陝西省)と伝えられてきたのが恐竜の足跡だったという話にはロマンを感じる。恐竜には、足跡化石やタマゴ化石というものがあるのだな。

 2016年にミャンマー東北部で掘り出された琥珀の中から、小型獣脚類の尾の化石が生前の軟組織を残したままで見つかったというのは、ロマンの極北のようなニュース。ミャンマー東北部は、もともとカチン人の反政府ゲリラの支配地だったが、2017年6月からミャンマー中央政府軍に制圧され、欧米世論から琥珀研究に厳しい批判が向けられる。これに対して筆者が、ミャンマー東北部は単なる無法地帯ではなく、一種の秩序らしきものが存在すること、この「秩序」は、日本人や欧米人の人権概念からは理解が難しいが、中国人は「肌感覚の理解が可能」と述べているのは興味深かった。

 中国で発見された恐竜には、地名や人名が使われることが多いが、ピンインベースの表記がラテン語読みの学名では、全く違った発音になってしまう。本書では、中国名(漢字表記)を見て、なるほどと思ったものも多かった。ファンへティタン(黄河巨龍)、ケイチョウサウルス(貴州龍、貴州=guizhou)など。マメンチサウルスは馬鳴溪で発見されたのだが、発見した博士の発音が訛っていたので「建設馬門溪龍」と呼ばれるようになってしまったという(ほっこり)。しかし日本語圏で「帝龍」を「ディロング」と読ませるのはどうなの? 筆者は、重々しくて強そうで気に入っているというが。

 新世代の恐竜研究者、邢立達(1982年生まれ)の話もおもしろかった。こういう中国の恐竜研究者や恐竜ファンが自由に活動できるフィールドが守られてほしいと切に願う。中国の自然科学系の博物館にも行ってみたくなった。

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政治的分断の構造/ネットはなぜいつも揉めているのか(津田正太郎)

2024-07-08 23:25:31 | 読んだもの(書籍)

〇津田正太郎『ネットはなぜいつも揉めているのか』(ちくまプリマ―新書) 筑摩書房 2024.5

 著者は、2020年9月、アニメ『銀河英雄伝説』のリメイクについて「男女役割分業の描き方は変更せざるをえない気がする」云々とツイートしたところ、批判的なリプライが次々に押し寄せる事態になってしまった。しかし、2、3日もすると次第に鎮静化した。

 この「炎上」体験談をマクラに、アニメや漫画の表現に対する批判と「表現の自由」をめぐる対立について、著者はメディア論の立場から考察する。広告などのメディアがそれを見た人にどのような影響をもたらすかは分からないし、誰か(たとえば女性、マイノリティ)が不安を引き起こす表現はないほうがよいとしても、万人が納得できるラインは存在しない。だが、これだけソーシャルメディアが普及した時代に「表現の自由」なのだから不快であっても我慢しなさい、でよいのか。自由の尊重が、かえって民主主義を危機に陥れる可能性がある、という問題提起には賛同する。

 実は、もう少し先まで読んだところで本書を放置していたのだが、昨日、2024年東京都知事選挙の結果を知ったあとで、米国の政治的分極化を扱った第3章を読み始めたら、いろいろ考えさせられてしまった。米国では、近年、二大政党の分極化が進んでいる。かつてはそれぞれの党が、多様な政治的立場の人を抱え込んでいたが、価値観やアイデンティティに基づく棲み分けが進み、政党のカラーが鮮明になってきた。要因の一つがメディアの変化で、規制緩和によって、一つの局がバランスのとれた報道を行う必要がなくなったことで、明確な党派性に訴えて特定層にアピールするメディアが増えたのである(アメリカの影響を受けた台湾の状況と同じ)。

 また、政治の分極化とともに「被害者政治」が進行している。これは、マイノリティの告発に対抗して、マジョリティが「我々こそ本当の被害者だ」と主張する動きをいう。米国では、民主党と共和党の双方が強い被害者感情を持ち、対立を深めている。ただし実態としては、双方の政党の支持者が、自分たちと相手側の違いを過大に見積もっている傾向がある。この認識ギャップの調査結果はとても興味深かった。結局、相手側が過激な意見を支持していると双方が「イメージすること」から「偽りの分極化」が生まれている。

 偽りの分極化は、怒りを増幅させ、「感情的分極化」に至る。感情的分極化は、ある政党や候補者を支持することよりも、嫌いな党派への「逆張り」「嫌がらせ」に向かう。著者は「日本社会の問題は、政治的分極化ではなく、むしろ政治的無関心の広がりだ」と書いているけれど、これはけっこう日本の状況にもあてはまるのではないかと思った。

 こうした分断を生み出すものとして、ネット上の「エコーチェンバー」や「フィルターバブル」という概念が語られてきた。しかし近年の研究は、こうした仮説を覆している。むしろマスメディアの時代には、人は自分の好みに合わせて新聞やラジオ番組を選択し、緩やかなエコーチェンバーを形成することができた。しかしメディアが多様化すると、自分とは異なる意見との接触機会が増加する。自らの価値観に反し、感情を逆なでする情報が入ってくる言論空間に身を置いた人は、もとの立場に執着するようになることが、実験的に確かめられているという。困った話だが、自分を含めて人間とはそういうものだと知っておくことは大事だと思う。

 かつてソーシャルメディアが民主主義を牽引すると考えられた時代があった。しかし今日、ソーシャルメディアに見られる「悪ふざけ」「シニシズム」によって、「代議制民主主義にとってきわめて重要な選挙をないがしろにする態度」が広がっている。まさに都知事選の日にこの下りを読みながら、胸が騒いだ。それでも著者は、ツイッターの可能性に希望を託す。ソーシャルメディアとは、世界をより単純にしようとする力と、より複雑な側面を見せようとする力がせめぎ合う場所だという。そう、この、世界の複雑さを垣間見る喜びは、説話文学に通じるところがあって、私もソーシャルメディアから離れられないのである。

 ちなみに私は、けっこう前から著者のツイッターをフォローしている。実は何者かを全く存じ上げずに「時々、おもしろい意見をいう人(大学の先生らしい)」程度の認識でフォローしていたのだが、初めて著書を読ませていただいた。こういう関係もソーシャルメディアの楽しさではある。

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アメリカ式に学ぶ/台湾のデモクラシー(渡辺将人)

2024-07-06 23:50:59 | 読んだもの(書籍)

〇渡辺将人『台湾のデモクラシー:メディア、選挙、アメリカ』(中公新書) 中央公論新社 2024.5

 1996年に総統の直接選挙が始まり、2000年には国民党から民進党への政権交代を実現させた台湾は、英国エコノミスト誌の調査部門が主催する「民主主義指数(Democracy Index)」の2022年度版では、アジア首位の評価を得ているという。最近の台湾を見る限り、この評価に全く異論はない。しかしこの国では、戦後長きにわたって国民党統治による権威主義体制が続いていた。

 台湾の民主化の歩みは序章に簡単にまとめられているが、まず地方政治において非国民党の政治勢力が勃興し、野党・民進党が誕生し、国民党非主流派の李登輝がレールを敷いた民主的な選挙によって政権交代が起きた。民主化勢力が選挙キャンペーンに工夫を凝らすことで、国民党も有権者と向き合うようになる。選挙でリーダーが変わる体験をすることで、国民は政治や自由を深く考えるようになる。もっとも「同じことが他国で必ず起こるわけではない」と著者は書いている。台湾デモクラシーを考える上で外せない要因が「アメリカ」である。

 台湾にとって「アメリカ」の存在は特別で、学者も官僚も政治家(国民党、民進党問わず)も、英米特にアメリカの大学の博士号持ちが必須だという。これは台湾を「親日国」と考えている日本人には見えにくいところかもしれない。台湾の選挙文化には、日本由来と台湾オリジナルとアメリカ式が混在しているが、アメリカの大統領選挙を台湾に移植したのは許信良という人物である。また李濤は、台湾のテレビ界にアメリカ式放送ジャーナリズムを持ち込み、視聴者参加(コールイン)型ライブショーで人気を博した。

 このへんまでは、アメリカに学んだ台湾のデモクラシーうらやましい、という気持ちで読んでいたが、いいことばかりではない、という状況もよく分かった。台湾のテレビは国民党(藍)寄りか民進党(緑)寄りか旗幟を鮮明にしている(これもアメリカ式)。ただしこれは市場経済の競争原理に依るもので、視聴率獲得のため、差別化を図る傾向が強くなった。視聴者は中立を嫌うので、理知的・客観的な結論を説明する番組は(視聴率的に)「負け」なのだという。政党側は「政論番組」を世論誘導の場と割り切っており、優秀な「名嘴」(コメンテーター)にお金を払って政党が伝えたいことを喋らせる。あるいは政治家自身がテレビ局にお金を払って出演することもある。その仕組みが公けにされているのは、台湾なりのフェアネスではないかという著者の指摘には一理あるかもしれない。

 台湾アイデンティティと言語の問題も難しい。近年の台湾が多様性重視の政策を取っていることは感じているが、原住民(部族)にしても客家にしても、その下位分類はさらに多様なのだ。さらに現在は、タイ、ベトナム、ミャンマー等からの新移民も増えている。危機をはらんだ「むきだしの多様性」が台湾の現在であることを記憶しておきたい。

 台湾アイデンティティの問題は、在外タイワニーズについては、さらにややこしい。台湾では一度も暮らしたことのない「中華民国」生まれの移民とか。外省人と台湾人が結婚し、両親のルーツが半々の場合もある。2021年に初のアジア系ボストン市長となったミッシェル・ウーは父方が北京出身の外省人の移民二世とのこと。一方、2020年の大統領予備選で民主党候補だったアンドリュー・ヤンは「アジア系らしさの不足」を嫌われて失速した。また、中国政府が、インターネットメディアの「ソフトパワー」を積極的に駆使して、在外華人を囲い込もうとしている指摘にも考えさせられた。

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「面白い」を追いかける/老後は上機嫌(池田清彦、南伸坊)

2024-06-16 22:35:20 | 読んだもの(書籍)

〇池田清彦、南伸坊『老後は上機嫌』(ちくま新書) 筑摩書房 2024.6

 生物学者の池田清彦先生とイラストレーターの南伸坊氏の語り下ろし(おそらく)の対談。私は南伸坊さんの著作は、もう30年以上愛読しているが、池田清彦さんのことは初めて知った。生物学だけでなく、進化論、科学論、環境問題、脳科学などを論じた著作が多数あり、昆虫採集マニアでもあるという。お二人は1947年生まれの同学年で、今年76歳になる。老人どうしの対談だが、若い者や最近の世相にあまり怒っていないのがいい。他人と違っても、自分の好きなもの、「面白い」と思うものを追い続けていると、こうなるのかもしれない。

 実は、書店で試し読みをしているとき、南伸坊氏が澁澤龍彦について語っている箇所に行きあたって、本書を買うことに決めた。南さんは、高校生の頃、印象派の絵画のどこが面白いのか分からず、当たり前のように褒めそやす美術評論家に反感があった。たまたま図書館で読んだ美術雑誌に澁澤龍彦が「私は印象派には全く興味がない」と書いているのを読んだときは、年上の人たちでそういうことを言ってくれる人がいなかったので、すごくうれしかったという。「自分が好きなものは面白い、自分が面白いと感じなければ、世の中でどんなに有難がられてるものに鼻も引っかけない、というのが澁澤さんのスタンスだったと思う」という言葉、「澁澤さんのものを読んでいれば、きっともっと面白いもんに出会えるって思うようになりました」っていう言葉、分かる分かる。私も南さんに10年か20年くらい遅れて、同じような体験をした。南さんが、やがて自分の好みが、澁澤さんと全て重なるわけではないことに気づいたというのも分かる。そしてこの、世間の評価とは無関係に「自分が好きなものは面白い」というのは、70年代から80年代はじめの、最初期の「オタク」(まだその言葉はなかったが)の基本的な心性だったと思う。

 絵画については、脳の使い方の話が面白かった。脳の発達はトレードオフなので、知的障害で言葉が全く喋れなかった少女が大人顔負けの絵を描けた事例は、言語を司る脳の部分を絵を描くことに使っていたのではないかという。しかし言葉訓練を受けて言葉を覚えるとともに、絵の才能は失われていった。いみじくも南さんが「混沌の話みたいですよね」と言ってた。

 それから、AIには似顔絵(人間が描くような)が描けないのではないかという話。人間が「似てる」と思って「面白がる」のは、モデルについての自分の認識と作者の認識が一致した喜びがあるのだろう、と南さんはいう。これを受けた池田さんが、似顔絵専用のパソコンを作れたら、いくらでも似顔絵を描けるだろうけど、最初に決めたルールどおりの似顔絵しか描けないだろうという。途中でルールが変わる「面白さ」は生物の力である。そもそも「似てる」という感覚をコンピュータに理解させるのは難しいという話に納得。

 「変わる」ことも重要で、偉い先生ほど意見を変える柔軟性があるという話が出てくる。池田先生、「なにか新しいものを生み出すのは、偶有性が必要」「首尾一貫はバカのやること」と厳しい。ただ、無理に環境に適応しようとする努力は無駄なので「頑張るんじゃなくて、頑張らなくてもできることをやれ」というのは面白い。確かに部下や後輩の育て方として、不得意なことを頑張らせるよりは、長所を伸ばすことに集中させるほうが、お互いハッピーである。

 「役に立つ」かどうかを考えない、というのにも共感した。人の役に立たなきゃいけないという感性は、最終的には国家の役に立てという話になるから、てめえが生きてりゃいい、てめえが楽しければいい、という基本線は忘れないようにしたい。

 池田先生、「南さんも俺も95歳ぐらいまで生きるかな」とおっしゃっている。あとがきでは「老人は切腹しろというやつがいても長生きする気満々なのだ」と笑い飛ばす。私もお二人の後に続いて、このくらい堂々とした態度で老後を生きていきたい。

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解体される民主主義/「モディ化」するインド(湊一樹)

2024-06-15 23:08:12 | 読んだもの(書籍)

〇湊一樹『「モディ化」するインド:大国幻想が生み出した権威主義』(中公選書) 中央公論新社 2024.5

 インドについては、ほとんど何も知らない自覚があったので、最近、近藤正規さんの『インド:グローバル・サウスの超大国』(中公新書、2023.9)を読んでみたばかりである。同書は、現在のインドの強み・急成長の理由を解き明かしつつ、山積する政治・社会問題の数々も指摘していた。ちょっとインドに(怖いもの見たさの)興味が湧いたところで、本書の存在がネットで話題になっていたので読んでみた。

 タイトルからも分かるとおり、本書はインドの「問題局面」に焦点を絞っている。「世界最大の民主主義国」と呼ばれてきたインドは、モディ政権のもとで、急速に権威主義化している。スウェーデンの民主主義の多様性(V-Dem)研究所は、2020年3月の年次報告において、世界的な傾向として権威主義化が進行しているとの見方を示すとともに「インドは民主主義のカテゴリーから脱落する寸前にある」と指摘しており、インド政治や比較政治を専門とする研究者の間では「インドを民主主義国と分類することはもはや不可能であるという認識」が共有されているという。

 本書は、モディの「生い立ち」(の語られ方)に始まり、彼が権力を掌握してきた過程を振り返る。90年代から続く不安定な連合政治を背景に「強いリーダー」を求める意識が国民にあったこと、モディの地盤であるグジャラート州の経済発展が喧伝されたこと(実態はともかく)、不都合な事実は隠蔽し、イメージ作りを重視する姿勢などが指摘されているが、日本の政治状況にも共通することが多すぎて、暗い気持ちになった。

 2014年の総選挙で会議派(インド国民会議派)に勝利したBJP(インド人民党)は、2019年の総選挙でも圧勝した。ここではメディアへの監視と抑圧、大規模かつ組織的な情報操作(SNS上に100万人の実働部隊がいるとも)が行われ、映画や映画俳優もモディの「ワンマンショー」政治を盛り上げるために動員された。選挙に勝つためには手段を選ばないモディ政治を、本書は「選挙至上主義」と呼んでいるが、これも日本について思い当たるところが多い。民主主義の伝統が浅いと、民主主義イコール選挙という短絡の図式ができてしまうのだろうか。

 本書の第5章は、インドの新型コロナ対策のの顚末を詳述しており、たいへん興味深かった。権威主義的な体制であるにもかかわらず、インドのコロナ対策は「失敗」している。不十分な保健医療体制、貧困層の多さなど、途上国共通の問題があったことは確かだが、秘密主義と事前調整の欠如、計画性のない場当たり的対応、責任を回避しようとする姿勢などが事態の悪化に拍車をかけたという。特に経済対策では、直接現金給付など貧困層の生存と最低限の生活水準を確保するための政策が軽視されていた。インド憲法には、貧困層を含む全ての国民の生存を国家が保障する「生存権」の規定があるが、ヒンドゥー至上主義のモディ政権にはその観念が薄い。全ての国民が享受すべき権利を「善意」や「思いやり」「施し」の問題にすり替えることで、政府の不作為を正当化しようとしている。モディは「義務」については頻繁に語る一方、「権利」に言及することはきわめて少ないという。

 また現政権の「専門知の軽視」は、コロナ対策以外でも見られるもので、「エビデンスに基づく政策づくり」と言いながら、実態は「政策に基づくエビデンスづくり」が行われているというのも、笑えない笑い話である。このへんも日本の話のようで頭が痛い。しかし、コロナ禍での日本政府による一律現金給付は、今となっては評判が悪いが、やらないよりはよかったんじゃないかという気がしてきた。

 このように問題山積のインドだが、中国を意識した安全保障分野での協力や、経済分野での関係強化を重視する西側諸国は、インド国内の人権侵害(特にイスラーム教徒への暴力)に目をつぶっており、モディ政権は、国際舞台での脚光を国内政治の支持拡大に利用している。日本の外交・メディアは「民主主義国家・インド」への願望を投影しすぎて、インドの実像が見えなくなっている。これは然りだが、一方で、民主主義の解体と衰退は、もはや世界史的な潮流かもしれないという諦念が頭に浮かぶ。アメリカも日本も、いつまで「民主主義国家」を名乗れるかは危うい感じがする。

 なお、ちょうど本書を読み進んでいる最中に、証券会社のお姉さんから「インド株を買ってみませんか?」と勧められた。ニコニコして「私、インド映画も大好きなんですよ!」とおっしゃっていたが、「今は止めておく」と回答した。

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21世紀に続く戦後処理/日ソ戦争(麻田雅文)

2024-06-03 22:56:03 | 読んだもの(書籍)

〇麻田雅文『日ソ戦争:帝国日本最後の戦い』(中公新書) 中央公論新社 2024.4

 日ソ戦争とは、1945年8月8日から9月上旬まで満州・朝鮮半島・南樺太・千島列島で行われた第二次世界大戦最後の全面戦争である。日本の敗戦を決定づけただけでなく、東アジアの戦後に大きな影響を与えた戦争であるにもかかわらず、実は正式な名称すらない。確かに「日ソ戦争」という名前は初めて聞いたような気がする。

 はじめに日ソ開戦までの各国の思惑を概観する。アメリカはソ連の参戦を強く望んでいた。スターリンは、ドイツを倒したら対日戦線に加わるとほのめかすことで、米英を対独戦に集中させた。そして、いよいよドイツ軍の主力が壊滅すると、ヤルタ会談においてソ連の参戦が確約される。ローズヴェルトがスターリンの参戦条件(戦後の利権)を認めたのは、ソ連の参戦によってアメリカ兵の犠牲を極力抑えるためだった。その結果、戦後の東アジアには長く大きな混乱を残ったわけだが、「アメリカ合衆国大統領」としては正当な判断だったと言わざるを得ないだろうか。

 だがアメリカが原爆を手に入れたことで事態は変わり、米ソの政治的立場の隔たりが露わになる。ソ連はアメリカへの不信を強め、日本が降伏する前に、予定を早めて参戦する。ヤルタ会談で約束された利権を自力で手に入れるためである。日本政府は、ソ連を講和の仲介者として最後まで期待していたというのが悲しい。

 次いで、満洲(満州)、南樺太、千島列島での戦闘が語られる。満洲国の国防を担っていたのは関東軍だが、最盛期の強勢はどこへやら、多数の部隊が太平洋方面に転用されて兵力は激減し、満洲だけで生産できる兵器はほとんどなかったため、兵士に配る武器も足りていなかった。しかも東京の大本営は、関東軍が積極的な攻勢に出ることを望まず、本土防衛のため、ソ連軍を大陸に足止めすることだけが期待された。「関東軍は自らが作った満洲国を犠牲にしてでも、大本営の求める持久戦の方針に従った」という一文を目にして、しみじみ、関東軍に同情を禁じえなかった。またこのときのソ連軍の侵攻が凄まじいのだ(無謀すぎて犠牲も大きかった)。戦車軍で内モンゴルの砂漠地帯を横断し、大興安嶺をも突破している。一方、日本軍が、爆弾を抱えた兵士に戦車に体当たりさせる「陸の特攻」(当然、戦果は乏しい)を繰り返したというのもつらい。

 私は短期間だが北海道に暮らしたことがあるので、北方に親近感を持っている。それにしても、樺太の北部国境地帯で激戦が始まっても、札幌に本部を置く第五方面軍(北海道・樺太・千島列島の防衛を担当)は、援軍も送らず、南樺太の主力軍が北上して応援に行くことも許さなかったというのが衝撃だった。彼らは、ソ連軍あるいは米軍の北海道侵攻を警戒していたのである。結局、辺境は中央のために見捨てられる、平和な時代でもそうだが、特に戦争においては容赦がない、ということを感じた。

 千島列島のほぼ最北端、占守島(しゅむしゅとう)の戦いについては初めて知った。日本軍の激しい抵抗の結果、ソ連軍も強攻は愚策と悟り、千島列島のほかの島での戦闘は回避された。それはいいのだが、ソ連軍は、桟橋もない遠浅の海岸に上陸しようとして溺れる者が出るなど、ぼろぼろの上陸作戦だったようだ。

 戦後、ソ連軍は、日本を連合国で分割統治し、ソ連には北海道を割り当てることを画策したが、スターリンは軍部の野心を抑え込み、トルーマンへの返書では、北海道の北半分を要求するに留めた。しかしトルーマンはこれを拒絶し「クリル諸島(千島列島)」の占領のみを認める。アメリカ軍部はこの決定に怒り心頭だったという。千島列島はアメリカを狙うミサイル基地として最適だったからだ。こういう軍事戦略的な「土地の価値」は、兵器の性能が向上すると変わっていくのだろうか。それとも意外と変わらないものなのだろうか。

 戦後、ソ連は多くの日本人(朝鮮人、樺太の先住民、女性も含む)をシベリアに抑留した。私の大学の恩師(軍事とは何の関係もない日本文学の専門家である)はシベリア抑留の体験者だった。満洲国の文化遺産や文書も持ち去られた。中国からは鉄道や港の利権をもぎ取り、戦利品の武器は中国共産党に引き渡して恩を売った。こうしてスターリンは、剛腕で独り勝ちを収めたように見えるが、その成功は短かったことを我々は知っている。けれども、いまだに「スターリンの呪縛」に苦しむ日露関係を、どうしたらいいのだろう。

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訴訟社会の伝統/訟師の中国史(夫馬進)

2024-06-01 23:22:55 | 読んだもの(書籍)

〇夫馬進『訟師の中国史:国家の鬼子と健訟』(筑摩選書) 筑摩書房 2024.4

 訟師とは、近代以前の中国で人々が訴訟しようとするとき、訴状の作成などを助けた者たちである。大半の読者にとって「訟師」とは初めて聞く言葉であろう、と著者は冒頭に述べている。確かに私も聞いた記憶がない。ただ、2023年公開の中国ドラマ『顕微鏡下的大明之絲絹案』(天地に問う)で程仁清という人物が「状師」を名乗っていたので、中国語のサイトで調べたら「状師。又称訟師」と出て来たことは記憶にあった。なので、実は本書を読みながら、ずっと脳内で訟師には程仁清(を演じた王陽)のイメージを当てていた。

 訟師の評判はよくない。真実を嘘とすり替え、無実の人に濡れ衣を着せ、必要のない訴訟を起こして大儲けをする社会のダニで、訴訟ゴロツキ(訟棍)とも呼ばれていた。しかし例外的だが、庶民の訴訟を助ける訟師を評価する者もいた。

 中国は伝統的に「健訟(さかんに訴訟する)社会」で、歴代政府(宋代以降)は訴訟の多発に悩み、訟師を排撃し続けてきた。本書には明清時代の訴訟と裁判制度の詳しい解説もあり、ドラマ視聴で得たぼんやりした認識を整理できて、ありがたかった。司法の統括は、中央政府-省(総督、巡撫-按察使)-道(分巡道)-府)(知府)-州(知州)-県(知県)となり、各級に衙門が置かれた。日本(江戸時代)は原則一回しか裁判を受けることができなかったのに対して、中国では各級どこでも訴状を受け付けた。下級官庁が訴状を受理してくれないとき、あるいは判決に不満なときは、さらに上級官庁に訴え出ることができた。ただし訴訟を受け付けてもらうには、さまざまな名目の手数料を支払う必要があった。地方衙門は健訟に悩みつつ、訴訟に依存する構造も持っていたのである。

 衙門に訴状を取り上げてもらうには、デタラメをまじえても事件を「盛る」必要があった。そこで訟師の出番である。国家がこれを放置していたわけでなく、雍正7年には官代書の制度が定められる。衙門に提出できる訴状は官代書が書いたものだけとし、もぐりの代書である訟師の断絶を図った。しかし実効は上がらなかった。

 中国の伝統的な司法制度は国家権力に泣きつく側面があったので、訴訟では、相手がいかに悪辣かを訴える必要があった。儒教の伝統的な理念では、皇帝およびその代理人である地方衙門は「民の父母」として、人民の争いや無念の思いをすべて受け付けることが求められた(この「理念」は、少なくともドラマの中では現代の民事警察にも受け継がれているようだ)。しかし現実には訴訟件数が多すぎて、些細な争いでは裁判をしてもらえなかったので、民事を傷害や殺人事件に偽装することがしばしば行われた。

 乾隆年間には私代書の取り締まりが一段と厳しくなり、「積慣の訟棍」(訴訟幇助の常習犯)を重罪に処することが定められる。ところが嘉慶帝は、親政を始めた直後、全国で冤罪に苦しんでいる者は誰でも京控(北京の衙門に訴え=皇帝に直訴)してよい、いかなる訴状も拒絶してはならない、という上諭を発する。現場の事務処理能力を度外視した、こういう理想主義者の上司は困ったものだ。しかしその結果、地方都市と北京の間に京控のルートとネットワークが形成されたり、現在、北京の中国第一歴史檔案館には大量の訴状が残っているというのはおもしろい。

 その後、清末から近代的な訴訟制度が採用されると、ヨーロッパ起源の法律家は、上海では律師(状師)と呼ばれるようになる。新しい訴訟制度では、訴状は簡単な条件さえ満たしていれば受理されることになり、訟師は存在意義を失ってしまう。

 しかし中国社会の「健訟」ぶりは変わっていない。特に2005年前後から「訴訟爆発」と「案多人少」が言われるようになった。対策として「先行調解」(調停)に誘導する措置が取られているそうだが、それでも訴訟は激増しているという。中国人の裁判好き(弁論好き?)の長い伝統は、なんとなく納得できるところがある。

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