〇『東京人』2021年10月号「特集・上野の杜の記憶」 都市出版 2021.10
ときどき気になる特集を企画する雑誌だが、久しぶりに購入して、舐めるように読み尽くした。上野は、幕末、彰義隊と新政府軍の血戦の場となり、その後「徳川の世」の記憶を消し去るかのように、様々な文化施設を備えた西洋式公園が整備されて、今日に至る。「日本の近代化とは何であったのか」という問いとともに、上野の歴史を掘り返す特集となっている。
問題提起の役割を担うのが、吉見俊哉氏と中島京子氏の対談。吉見氏は、近年『東京裏返し』などの著作で、歴史を踏まえた東京の新たな街づくりを構想し、特に上野の重要性について発信している。 中島氏の小説『夢見る帝国図書館』は「図書館を主人公にした小説」だという。ほとんど小説を読まない私だが、ちょっと読んでみたくなった。上野は、混ざり合う街、居場所を失った人が集まる街であり、過去の記憶(死者や敗者の記憶)と対話できる場所であるということで、二人の認識は一致する。
近藤剛司氏は、不忍池の景観の歴史を概説する。江戸初期の不忍池は、現在の三倍近い面積があったというのは知らなかった。昭和50年代までは池の水が凍り、子供が上に乗って遊んでいたというのも知らなかったなあ。私、東京育ちだけど。
寛永寺貫主・浦井正明氏と東博の皿井舞氏は、寛永寺について語る。東叡山寛永寺は、寛永2(1625)年、天海僧正が創建した天台宗の別格大本山。皿井氏が担当し、この秋、東博で開催される、伝教大師1200年大遠忌記念特別展『最澄と天台宗のすべて』に絡めて紹介されているので、兵庫・一乗寺の『聖徳太子及び天台高僧像』10幅が揃うのは11/2~10のみ、という貴重な情報もゲットした。
上野は京都・滋賀の「見立て」として整備された。東叡山寛永寺は比叡山延暦寺、不忍池は琵琶湖の見立てで、池の中に島を造り、わざわざ竹生島の弁財天を勧請した。上野の山には清水観音堂を建立し、現存しないが、祇園堂や大仏殿もあったとのこと。さらに吉野の桜を植え、琵琶湖の紅白の蓮を移し、アカマツ林をつくるなどして、江戸の庶民を引き付ける工夫が凝らされた。幕府の官僚たちは、将軍家の祈祷所を観光地にすることに反対したが、天海は「人が来ないと寺じゃない」という信念に従い、幕府の援助がなくなると、自分で資金集めをして環境整備を続けたという。天海、おもしろいなあ。こんなにおもしろい人とは思わなかった。
安藤優一郎氏は、彰義隊の戦いについて詳述。 今年の大河ドラマ『青天を衝け』でも描かれたとおり、渋沢栄一の従兄の成一郎が彰義隊の初代頭取だったことが紹介されている。これ、私は昨年、吉見俊哉先生の『東京裏返し』で初めて知った話である。
フリート横田氏は、アメ横の歴史を語る。終戦直後、満鉄や朝鮮鉄道など旧植民地の鉄道関係者が、古巣である旧国鉄とのコネクションを使い、ガード下を優先的に借り受けて露店を出したのが始まり。その後、外国人、特に在日コリアンたちの存在が、一帯の大規模開発を難しくし、結果的にアメ横らしさが守られたという。
昭和24(1949)年、GHQから露店撤廃令が出され、昭和26年までに東京都内の常設露店は、全て廃止を迫られることになった。この対策を担ったのが、建設局長の石川栄耀である。吉見先生の『東京復興ならず』に登場した人物だ! 石川は、路上から追われる露天商たちの境遇を思い、西郷会館と上野広小路会館という建物をつくり、露店商たちの共同ビルとした。どちらも現存していないが、西郷会館は比較的最近まであったので、ネットで検索すると、あずき色の外装に「聚楽」(縦書き)の大きな文字が特徴的な外観写真を見ることができる(しかし全然忘れていた)。現在、2012年に開業した「UENO3153」が建つ場所である。都内から全露店が消えた昭和26(1951)年の大晦日、石川が街へ出て露店最後の夜を見てまわったというのも、いいエピソードだと思った。
老舗の店主インタビューのうち、中華レストラン「東天紅」上野店総支配人の話によれば、東天紅の経営主体は「赤札堂」で、大正期に深川で衣料品を営んでいた創業者の母が、昭和20年、上野広小路に店舗を新築して再興した赤札堂(現・ABAB)がルーツだという。で、流通業の赤札堂から飲食業に参入したのか。門前仲町のスーパー赤札堂にいつもお世話になっているので、興味深かった。
表紙と特集の扉絵は山口晃画伯。細部をよく見ると、D坂(団子坂)があって、その近くの二階にいるのは森鴎外?とか、浅草通りの上野寄りで柔道着の二人が向き合っているのは講道館発祥の地?など、隠しキャラがたくさんいて見飽きない。