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見もの・読みもの日記

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視聴中:『長安十二時辰』で唐代長安を思う

2019-07-15 23:55:43 | 見たもの(Webサイト・TV)

 6月27日に優酷(Youku)で配信が始まったドラマ『長安十二時辰』が面白い。制作中から噂は聞いていて、予告編も見ていたので、始まったら必ず見ようと思っていたのだが、期待を三倍くらい上回ってすごい。私はいつものように楓林網に流れてくる動画を見ているのだが、Amazon Prime等で正式な日本配信も予定されているらしい。ただし日本語字幕が用意されるには、もう少し時間がかかることだろう。ドラマそのものについては、全編視聴を終えてからゆっくり書くつもりなので、周辺の情報について少し書いておく。

 このドラマには同名の原作がある。作者の馬伯庸(1980-)は、2000年代後半から歴史、SF小説を発表している若い作家で、2018年にドラマ化された『三国機密之潜龍在淵』の原作者でもある。『三国機密』は、後漢のラストエンペラー献帝に双子の弟がいたという設定で描く「熱血沸騰的虚構歴史大作」だった。今回の『長安十二時辰』は、唐の玄宗皇帝年間、長安全市を爆破し焼き尽くそうとする犯罪集団の陰謀と、これに立ち向かう人々の24時間を描く。いま48集中の20集まで見たところだが、むちゃくちゃ面白い。どこかに原作の日本語翻訳版を出してくれる出版社はないものか。中国では、村上春樹や東野圭吾など、日本の現代作家の作品がどんどん翻訳されて、多数の読者に享受されているというのに、すごく残念である。

 ドラマ版の監督・曹盾は「長安城の一日を忠実に再現したい」という理念を掲げて制作に臨んだ。その結果、墳墓の壁画や三彩俑でしか見たことのなかった大唐長安城の人々が、まさにそのまま、画面の中を生き生きと動き回っていることに私は単純に感動している。衣装や髪型、女性の化粧、甲冑などに一切手抜きがないのがすごい。もちろん画面を美しく見せるためのつくりごともあるのだが(靖安司の内部など)雰囲気の統一感は厳格に守られている。

 私が非常に気に入っているのは、優酷が配信している「這就是長安(This is Chang’an)」という、5分位の短編動画シリーズである。司会者の張騰岳と原作者の馬伯庸がドラマ『長安十二時辰』と唐代長安について気楽に語り合う。長安城の規模と構造、食べもの、酒と酒杯、武器、移動手段としての動物、時刻の計り方、皇帝の呼称など。そして、実に些細なことまで調べ尽くして頭に入っている作者・馬伯庸の博識ぶりに驚いている。

 歴史のリアリティを尊重するための、創作上の苦心談も随所で聞けて面白い。檳榔を噛む描写を入れようとしたが唐代長安には無かったので薄荷にしたとか。作者の馬伯庸はアメリカのドラマ『24(トゥエンティフォー)』を参考にしたが、現代の携帯電話が果たしている役割を、どうやって唐代長安に置き換えるか考えた末、坊城ごとに建てられた望楼を利用して太鼓や旗で通信することにした。さらにドラマでは、曹盾監督の発案により、望楼に取り付けられた12の小窓の色の組み合わせで、精密な暗号通信が行われていることになった。これは歴史上の根拠を持たないが、視覚的な効果は抜群だったと作者は嬉しそうに語っている。悪の組織に立ち向かう武闘派・張小敬の武器「弩」を携帯に便利で折り畳み式の「小弩」にしたのもドラマでの改変。このドラマは、歴史のリアリティと虚構の楽しさの、実に絶妙なバランスを生み出していると思う。

 馬伯庸が余談で語っていた、漢代には皇帝を皇上でも陛下でもなく「県官」と呼んだ、という話は初めて知った。当時は中国(天下)全体を「赤県神州」と謂ったので、その支配者たる皇帝は「県官」だったという。また、最近の古装劇はやたら「大人」を使うが、あれは清代から流行したもの、という指摘も面白かった。日本の時代劇でもあるなあ、こういう「時代劇用語」。

 なお「這就是長安」以外にも、ドラマの甲冑担当や衣装担当やアクション担当のインタビューがYoutubeで公開されているので、ドラマと合わせての視聴をおすすめする。いずれも制作チームの強い本物志向が分かる映像である。

※あらためて見返すと予告編も興味深い。

YouTube:長安十二時辰・予告編

YouTube:長安十二時辰・人物特集

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家族、厄介なもの/中華ドラマ『都挺好』

2019-06-30 17:58:18 | 見たもの(Webサイト・TV)

〇『都挺好』(2019年、東陽正午陽光影視有限公司)

 古装ドラマ好きの私だが、評判を聞いて、久しぶりに現代劇を見てみた。舞台は2017年の蘇州。めざましい経済発展を背景に、高層ビルと古い家並み、豊かな自然が併存する都市。蘇州の古い集合住宅に、定年後の蘇大強(倪大紅)は妻の趙美蘭と暮らしていた。アメリカに暮らす長男・蘇明哲は、父からの電話で母の急死を告げられ、急遽帰国する。母の葬式に集まった兄妹三人。

 長男の明哲(高鑫)は子供の頃から成績が良く、一家の期待を担って米国に留学し、現地で就職、結婚して、いまは一児の父となっている。気弱で心優しいが、長男の面子にこだわり、自分の経済力も顧みず、妻の菲菲に相談もせず、父に豪華なマンションを買ってやろうとして、妻から激しい叱責を浴びる。

 次男の明成(郭京飛)は妻の朱麗と共稼ぎの二人暮らし。幼い頃から母親のお気に入りで、欲しいものは何でも買ってもらい、甘やかされて育ったため、子供っぽさが抜けない。幼稚で粗暴。しかし妻と母親への愛情は本物で、妻や母親を侮辱されることは断じて許せない。そのため、とんでもない事件を引き起こす。

 末の妹の明玉(姚晨)は、母親が明成ばかりをひいきにして、自分を大事にしてくれないことに不公平感を抱いて育った。大学受験を前に家出して、全く家に寄りついていない。アルバイトで学費と生活費を稼いで大学を卒業し、その後は「師父」と慕う敏腕経営者・蒙志遠(張晨光)の下で腕を磨き、蒙志遠が理事長をつとめる衆誠集団(グループ企業)の経営の一端を任され、豊かな財産も手に入れたが、ライバル会社との戦いで心の休まらない日々を送っている。あるとき、小さなレストラン「食葷者」の経営者兼料理人の石天冬に出会い、その素朴で暖かい人柄に惹かれる。

 この三人兄妹とその配偶者・恋人の間で、老いた父親の面倒を誰がどのように見るかをめぐって、いざこざが起こり、それが次々に波及していく。父親・蘇大強も弱気なわりに頑固で、子供たちが考える「これが最善」という提案に載らない。言い放題のわがままを言い(特に長男の明哲に対して)、各種の詐欺にコロリと引っかかって、明玉たちに何度も尻ぬぐいをさせる。ちなみに一人っ子政策世代の彼らが三人兄妹であることには、明玉の出生によって、蘇家が莫大な罰金を支払ったという描写がある。

 とにかく蘇家の人々は誰も彼も性格が悪い。しかし、その性格の悪さが、だんだん愛おしくなってくるのだから不思議なドラマだ。あるとき、蘇大強の身勝手な行動で怒りに火のついた明玉は、毒々しい呪いの言葉を父親に浴びせる。蘇大強は青ざめて「お前は趙美蘭だ」と叫んで昏倒してしまう。あれほど憎んでいた母親にそっくりの言動を自分がしていると知って、困惑と絶望に打ちひしがれる明玉。石天冬は明玉を抱きしめて、鄭の荘公の話を語ってきかせる(母を憎んで黄泉の世界=死後でなければ二度と会わないと誓ったが、後悔して改める話)。中国のドラマって、現代劇であっても、こういう古典の挿入があって好きだ。自分の欠点、不完全さを受け入れたとき、人は他人の欠点にも優しくなれるのかもしれない。

 明成は、暴力沙汰で警察の世話になるわ、投資に失敗して全財産を失い、愛妻・朱麗と離婚に至るわ、クズ同然だったが、最後に明玉に謝罪し、自分の成長と再起のため、アフリカへ旅立っていく。泣けた。

 さて妻の死から約1年。蘇大強は次第に物忘れが激しくなり、アルツハイマー症と診断される。明玉は衆誠集団を離職し(いつでも戻ってこいという蒙志遠の男気)、石天冬のレストランを手伝いながら、父を見守り続けた。日常生活にはまだ支障がなさそうに見えた蘇大強だったが、旧正月の大晦日、二人が目を離した隙に姿を消してしまう。明玉が、かつての住まいの近くで父親を見つけたとき、彼は明玉のことを「お嬢さん(姑娘)」と呼び、誰だか分からなくなっていたのだが、娘への愛情は健在だった。この最終話のエピソード(敢えて詳細は書かない)は、冒頭で蘇家の人間関係を説明するのに使われたエピソードと照応していて、見事だった。

 その晩、蘇州の明玉、蘇大強、石天冬とアメリカの明哲一家、アフリカの明成は、スマホの画面三分割でチャットしながら、新年好、過年好を楽しげに言い合う。痴呆の始まった父に寄り添いながら、明玉はしみじみ「こんな幸せな新年は初めて」という。都挺好(All is well)だ。その少し前の場面で明玉は「有家好」ともつぶやいていた。家があることは、家族がいることはいい。単純だが、この言葉に胸を打たれる現代中国人が多いのだろう。たぶん日本でも放映されたら話題になると思う。私自身も高齢の両親と離れて暮らしているので、身につまされ、考えることが多かった。

 また、ドラマの登場人物たちの未来についてもいろいろ想像した。明成が帰国するまで朱麗は待っていてくれるか。蘇大強が大往生したら、明玉は再び経営の仕事に戻るのか。そのとき石天冬との関係は?など。続編は望まないが、みんな幸せになってほしい。

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愛と許しの物語/中華ドラマ『倚天屠龍記』(2019年版)

2019-05-13 23:32:30 | 見たもの(Webサイト・TV)

〇『倚天屠龍記』全50集(2019年、騰訊視頻)

 金庸作『倚天屠龍記』の映像化は、2009年の張紀中プロデュース版以来、10年ぶりらしい。2009年版は2012年くらいにネットで見た。世界遺産の武当山ロケをはじめ、映像は美しかったが、物語は分かりにくかった。その後に原作の翻訳も読んだが、やっぱり腑に落ちなかった。題名の影響で、天下の権力の帰趨を決める、倚天剣と屠龍刀の争奪戦が主題だと誤解してしまうのがいけないのだ。それは物語をまわすための仕掛けに過ぎず、実際のメインテーマは「愛」なのである。今回は、そう思って視聴を始めたので、違和感なく視聴を続けられた。

 本作の物語世界には、正派と邪教という厳格な対立があるように見えて、それを愛によって乗り超えるカップルが次々に登場する。正派・武当七侠のひとり張翠山は、邪教と恐れられる明教(マニ教)の一派・天鷹教の教主の娘・殷素素を愛し、明教の「金毛獅王」謝遜とともに氷火島に流れつく。そこで張翠山と殷素素の子として生まれた張無忌は、謝遜を義父と慕って育ち、本土に帰ったあとは、武当派の師父たちにも、天鷹教の祖父や伯父さんにも可愛がられる。

 また、武当派の殷梨亭は、峨眉派の女侠・紀曉芙と婚約していたが、紀曉芙は、邪教・明教の光明左使こと楊逍を愛し、姿を消す。紀曉芙がひとりで生み育てた女子には「不悔」という名前を付けていた。不悔は張無忌に探し出され、父・楊逍に引き取られる。その不悔が愛したのは、なんと父の恋敵だった殷梨亭。金花婆婆(紫衫龍王)と韓千葉(銀葉先生)の関係、悪の道に踏み込んだ周芷若を気遣い続ける宋青書にも「愛こそ全て」の形象が感じ取れる。そして、明教の教主として武林各派を糾合し、元に対する反乱軍を指揮する張無忌が、同志たちの疑惑や反対を押し切って、元(モンゴル)の郡主・趙敏を選ぶのは、物語の展開上、必然と言える。

 本作で私が一番好きな女性キャラは周芷若。師父の滅絶師太から「峨眉派の栄光を輝かせよ」という呪いをかけられ、手段を選ばない悪行に手を染める。しかし、謝遜に教えられて、最後は悔悟する。謝遜自身も、かつて暴虐と殺戮を繰り返し、多くの敵をつくった前非を悔い、仏門に入って安心を得る。周芷若を演じた祝緒丹という女優さんは、大きな目がチャームポイントで、可愛いだけかと思ったら、邪悪化した後がとても魅力的だった。滅絶師太(周海媚)がギスギスしたおばさんでなく、色っぽい中年美人なのも逆に現実味があってよかった。

 主役・張無忌の曾舜晞(ジョゼフ・ゼン)は、物分かりがよく真面目な好青年ぶりを好演。だが、2009年版の張無忌はもっとチャランポランだった気がする。本作は、お前がいいひと過ぎるから、いろいろ面倒なことが起きるんだよ!と叱りつけたくなることもあった。

 しかし何と言っても本作の収穫は、林雨申が演じた楊逍のイケメンぶり。髭なしの若い頃もいいし、髭ありの中年楊逍もよい。古装劇は初めての俳優さんだそうで、ぜひまた出てほしい。楊逍人気の影に隠れてしまったけど、光明右使・范遥を演じた宗峰岩も、いつもより若々しい役でよかった。他にもこの作品で新たに知った俳優さんが多数。また違う作品で会うのを楽しみにしている。

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慰安婦問題をめぐる人々の声/映画・主戦場

2019-05-11 23:10:26 | 見たもの(Webサイト・TV)

〇ミキ・デザキ監督『主戦場』(2019年)

 連休中に、評判の映画を見てきた。日系アメリカ人ミキ・デザキ監督が、旧日本軍の「慰安婦問題」論争をテーマに制作したドキュメンタリー映画。渋谷のイメージ・フォーラム1館のみで上映が始まり、完全予約制のチケットは売り切れ続出で、立ち見も出る盛況だった。その後、上映館は徐々に広がりつつある状況だ。

 映画には、慰安婦問題を否定する人々――存在したのはただの売春婦で、韓国人は日本を妬み、誹謗中傷するために戦時性暴力の問題を捏造した、と主張する「右派」の論客たちが登場し、滔々と自説を開陳する。杉田水脈、藤岡信勝、ケント・ギルバートなど。彼らがそうした主張の持ち主であることは、断片的に知っていたけれど、こんなに時間をかけて彼らの喋りを聞いたことはなかったので、恐ろしいやら気持ち悪いやら、馬鹿馬鹿しいやら、変な汗が出る気分だった。

 慰安婦問題の否定論者に存分に語らせていることから、この映画は、右派/左派の見解を「公平」に扱って、ジャッジを観客に任せたものだという見方も一部に流布している。しかし、そのような期待を抱いて本作を見に行けば、必ず失望すると思う。

 ミキ・デザキ監督の立場は明確である。映画は慰安婦否定論者たちを「歴史修正主義者(リビジョニスト)」と呼ぶ。そこには明らかに「真実の歴史を歪曲する人々」という冷ややかな非難が込められている。けれども映画は、彼らにあからさまな非難をぶつけることはしない。むしろ、リビジョニストたちに好きなように喋らせる。一部にインタビューアーの声が入っているが、若くてたどたどしい感じの女性の声だった。だから、彼らは図に乗って、無知なインタビューアーに教え諭すように喋りまくる。慰安婦たちはただの売春婦だ。日本軍の関与はなかった、と。映画は、そこでズバリと画面を切り替え、歴史学者や政治学者による論理的な反論を見せる。実に巧妙で、小気味よい演出だ。

 巧妙すぎて、あざといと感じる向きもあるかもしれない。しかし、どう考えても、この逆パターンで「一般向け」の映画はつくれないと思う(ネットにはリビジョニストのための動画がたくさんあるようだが)。

 リビジョニストたち(特に男性)の語りを聞いて感じたのは、彼らは慰安婦が、普遍的な人権問題の一部だという認識を露ほども持っていないということだ。「何かポルノ的な、覗き見的な興味」で騒がれるのは不愉快だという。不体裁を取り繕うために敢えてする反論かと思っていたが、本気でその程度の認識だと分かって、しみじみ溝の深さを感じた。

 本作は(日本の)いわゆる右派/左派の対立を主軸にしながら、それだけでない多様な人々の声を取り込んでいる。冒頭では、慰安婦問題に関する日韓合意を報告に来た韓国政府の高官に、元慰安婦の老婦人が「なぜ私たちに相談もしない」と烈火のごとく怒るシーンがあって印象的だった。『帝国の慰安婦』の著者・朴裕河(パク・ユハ)氏も登場する。同氏の著作を私は興味深く、好意的に読んだが、同氏が韓国内で厳しい批判(というかほぼ無視)に晒されている状況もよく分かった。あと、アメリカ国民の視点らしく、アメリカ政府が歴史的に日韓関係にどのように関与(介入)してきたかも折り込まれていた。

 一番スリリングだったのは、ケネディ日砂恵さんという「転向者」へのインタビューである。慰安婦否定論を信じていたが、証拠を調べていくうちに否定できなくなった、という趣旨のことを述べていて、ああ、論理的思考能力がしっかり身についていると、最後はそれを裏切れないんだな、と思った。

 多くの人々、特に若者に見て欲しい映画である。しかし、もはやテレビは、こうしたドキュメンタリーを制作・放映する力はなくなっているのだろうか。

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視聴中:朝ドラと『倚天屠龍記』(2019年版)

2019-04-02 23:16:08 | 見たもの(Webサイト・TV)

 年度末と異動準備の慌ただしさの中、それでも帰宅すると、毎日必ずNHKオンデマンドで『まんぷく』を見ていた。朝ドラを完走したのは、2015年の『あさが来た』以来、久しぶりのこと。モデルとなった安藤百福氏の「インスタントラーメンの発明者」という看板に対して、いろいろ疑義があるのは承知の上、視聴者を明るく前向きな気分にさせる、いいドラマだったと思う。今週から始まった『なつぞら』は、また趣きが違うが、私は大森寿美男さんの脚本が好きなので、腰を落ち着けてじっくり見ようと思う。

 帰宅して、少し時間のあるときは、ネットで中華ドラマを見てから寝た。3月初めに『九州・海上牧雲記』を見終わって、そのあとは少し悩んだ末、大陸でも2月27日から始まったばかりの最新版『倚天屠龍記』(騰訊視頻)にした。監督は2017年版『射雕英雄伝』と同じ蒋家駿氏。中国各地の美しい風景を次々に見せてくれるし、出演者は美男美女揃い、アクション演出にはキレがある(スローモーション多すぎという批判はあるが)。仕事の疲れとストレスを忘れて、スカッと気分爽快になって眠りにつくことができ、大変ありがたい作品である。いま、全50集の第23集まで見た。四大ヒロインの最後のひとり、趙敏がようやく登場したところである。

 私は、2009年版の張紀中プロデュース『倚天屠龍記』を2012年くらいにネットで見ている。中国語字幕でドラマを見ることを始めたばかりの頃で、これはけっこう難しかった。あまりにも設定や人物造型が日本のドラマの常識と違い過ぎて、想像で補えないのだ。確か、前後して小説も読んで、やっと大筋を理解したのだったと思う。それに比べると、2019年版は、今のところ、あまり常識外れの行動をとる人物がいない。張無忌くんは大変いい子だ。婚約者を棄てて魔教の愛人のもとに走った紀曉芙も、道を踏み外した愛弟子に死を与える滅絶師太も理解できる。あれ?こんなに分かりやすい話だったかと、ちょっと拍子抜けする感じである。

 2009年版は、実際の武当山でロケが行われていて、坂道に沿って曲線の赤い壁が続く、古さびた道教寺院の風情がとてもよかった。私は2011年の夏に実際に現地を訪れているので印象深い。本作では、残念ながら武当山ロケは行われていない。さすがにもう、ユネスコ世界遺産での撮影はできなくなってしまったのかな。

 2019年版のオープニングタイトルには「金庸の同名小説に基づく改編」という注記が添えられている。実は原作も2009年版も、細かいところは覚えていないので、今のところ、どこが改編なのかよく分かっていない。ただひとつ、本作では明教の光明左使・楊逍(峨嵋派の紀暁芙と相思相愛になる)の存在が目立っていて、大陸でも日本の武侠ファンの間でも話題になっている。私も非常に気に入っている。2009年版ではそんなに目立つ存在ではなかったと思うのだけど。

 主題歌『刀剣如夢』は、1994年(台湾電視)版で使われたものだという。私は初めて聞いて、大好きになってしまった。ネットで視聴しているので、主題歌は飛ばすこともできるのだが、毎回聴いてしまう。アップテンポでポップな曲調なのだが、歌詞は古典的で、冒頭の「我剣、何去何従」という一句、どこかで見覚えがあると思ったら、「何去何従」(どちらを捨て去り、どちらに従えばよいのか)は「楚辞」にあるのだった。「匆々」も漢詩や漢籍で覚えて言葉だが、日本語の「そうそう」とちがって、中国語音の「ツォンツォン」の繰り返しは、強く急き立てられる感じがする。こういう、長い文学の伝統を取り込んだ現代作品に出会うのは嬉しい。

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愛と嫉妬に生きる人々/中華ドラマ『九州・海上牧雲記』

2019-03-07 23:14:19 | 見たもの(Webサイト・TV)
〇『九州・海上牧雲記』全75集(2017年、九州夢工廠国際文化伝播有限公司)

 このところ中華圏ドラマにハズレなしという感じだったが、これはちょっと微妙。しかし駄作というわけではない。理由はゆっくり説明する。

 本作はジャンルでいうと「玄幻ドラマ」(ファンタジー)に属する。「九州」は7人の作家が共同創作した架空世界で、内海を囲む3つの大陸には、緑地も草原も雪と氷の大地もあり、人族、羽族、鮫族、河洛、夸父、魅族が暮らしている。人族はいくつかの集団に分かれ、皇帝を戴き、古代中国ふうの文化・生活様式(ただし日本・韓国のテイストが少し混じる)を持つ華族のほか、北の草原地帯には蛮族(遊牧民)の小集団が割拠している。もちろん、こうした予備知識がなくてもドラマは十分楽しめる。

 主人公は三人の少年ということになるのだろう。北の草原に暮らす蛮族の少年・碩風和葉は、華族・穆如氏の鉄騎兵によって両親を殺害され、捕らえられて中州に送られる。いつか復讐を遂げ「鉄沁」すなわち天下の王となることを誓う碩風和葉を打奴(剣闘士)として買ったのは、公主にして男勝りの少女戦士・牧雲厳霜だった。

 中州の皇都・天啓城では、折しも皇太子に仕える秀女の選抜が行われており、田舎娘の蘇語凝(スーイーニン)を占った星読みの国師は、彼女が皇后となる運命であることを告げる。とまどう蘇語凝は、二人の少年と知り合う。ひとりは風来坊の穆如寒江。実は瑞朝の大将軍・穆如槊の三男だったが、この子は皇帝になるという予言を受けたことから、皇帝・牧雲氏に忠義を誓う父は、予言の成就を恐れて我が子を棄てた。しかし、少年・寒江の前に謎の男が現われ、出生の秘密を教える。もうひとりは、皇帝・牧雲勤の第六皇子である牧雲笙。母の銀容は魅族(精霊)で、皇帝に深く愛されたが、周囲の嫉妬と讒言によって死を賜り、牧雲笙自身も、天下大乱をもたらす宿命の子として父に避けられていた。

 こうして孤独な運命を背負った少年少女たちが出会い、また別れていく。牧雲笙・蘇語凝・寒江は、基本的に中州の貴族社会をベースに活動するのだけど、故郷に戻った碩風和葉は蛮族が割拠する草原地帯で独特の人生を歩んでいく。血腥い殺戮が繰りひろげられる蛮族の世界と、陰謀うずまく貴族社会は、どちらも気が許せない。

 牧雲笙は、魅族の女性・盼兮(パンシー)に出会い、惹かれ合う。悪の企みによって盼兮を奪われた牧雲笙は、怒りのあまり、自分の中に秘めた恐ろしい力を解き放ちかける。寒江は、蘇語凝を守ろうとした結果、母を失い、一族に多大な災厄をもたらし、そのことを悔いて蘇語凝に冷たい態度を取ろうとする。碩風和葉は戦場で再び牧雲厳霜と巡り合うが、敵どうしとなった二人は結ばれることができない。ほかにも多くの登場人物の、男女、家族、朋友、あるいは主従の愛と嫉妬が、途切れることのない織物の文様のように描かれている。

 私は男性主人公の中では、竇驍(ショーン・ドウ)の寒江が好きだった。正統派イケメンではないが、純朴さと繊細さが混じり合い、悪ガキっぽい可愛らしさもある。孤独な牧雲笙(黄軒)のただ一人の友人となって(少なくとも本編の)最後まで裏切らないところもよい。

 女性は個性的な美人揃いだったが、やっぱり南枯月漓が好きだ。どんな逆境にもくじけず、天下一の女人(皇后)を目指して、権力欲のままに生き抜く。『三国機密之潜龍在淵』で好きになった万茜ねえさんが演じていて、華奢な体に似合わないパワフルな演技が、今回も素晴らしかった。牧雲厳霜役の張佳寧は、気位の高い女将軍から、敵を愛したことに苦悩する女性へと、別人のように変わっていく表情が魅力的。

 75集という長丁場の中で登場人物たちは、逆境、絶望、ひとときの幸せ、後悔などを重ねて、ゆっくり変わっていく。もちろん途中で消えていくキャラもいるが、前半ではどうせチョイ役だろうと思っていた人物が、思わぬ変貌や復活を遂げることもあって感慨深かった。牧雲笙の侍女の蘭鈺児(何杜娟)や武将の虞心忌(馮嘉怡)、寒江の兄である穆如寒山(曲高位)、九州客桟の掌柜(番頭)の秦玉豊(林鹏)もよかった。このドラマの登場人物たちの多くは、どこか歪んだ、満たされない愛情(愛着)を抱えていて、それゆえ奇行や非行に走るのだが、そこに人間の本質が感じ取れて、私の琴線に触れた。

 しかし、70集を過ぎて終盤になっても、物語が全く収束に向かう気配がない。これどうするんだろう?と思っていたら、最後はまるでぶった切るように終わってしまった。主人公たちを苦しめた予言の成就がどうなったのか、ひとつとして分からない。ええ~どういうこと?と思って調べたら、実は原作の三分の一くらいしか映像化されていないらしい。そして続編の製作は未定なのだ。そうそう、中国のドラマってこういうことを平気でするんだった。

 日本だったら、原作とは別に、無理やりドラマのオチをつけると思うのだが、中国はそれをしない。あとは続編を待つしかないのか。ドラマのクオリティが高いだけに、このやり場のない不満というか脱力感をどうしたらいいものか、途方にくれている。
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過ぎ行く時を愛しむ/中華ドラマ『那年花開月正圓』

2018-12-06 22:03:42 | 見たもの(Webサイト・TV)
〇『那年花開月正圓』全74集(2017年、華娯楽投資集団股份有限公司)

 中華圏での高評価を聞いていたところに、今年8月からチャンネル銀河が放映を始め(邦題:月に咲く花の如く)、日本の視聴者の間でも話題になっていることが分かった。これは見たほうがいいなと思ってネットで原版の視聴を始め、日本放映の最終回に少し遅れて、完走することができた。

 時代は清朝末期。陝西省涇陽(現在の咸陽市)に実在した呉氏のファミリー・ヒストリーを基にしている。孤児の周瑩は、養父の周老四とともに大道芸と詐欺で気ままに各地を渡り歩いていた。涇陽に至った周老四は、周瑩を商家の沈家に下働きとして売り、時期が来たら二人で逃げ出す計画を立てる。ところが沈家の次男・星移は周瑩を見初めてしまう。全くその気のない周瑩は、沈家を逃げ出し、呉家東院の若旦那・呉聘に助けられる。

 呉家は沈家のライバルでもある大商家。呉家東院では商人を志す若者たちのために私塾を開いていた。講義を立ち聞きして、商売に興味を抱く周瑩。その溌剌とした姿に呉聘は惹かれていく。呉家東院の当主・呉蔚文は周瑩の才能を認めつつ、商売には「誠信」が必要であることを厳しく教え込む。この序盤では「あさが来た」みたいな女商人の成功物語になるのかなと思っていたら、もっとどす黒い陰謀が渦巻き、善人も悪人もどんどん死に、推理・復讐・冒険活劇、剣撃あり、ビジネスバトルあり、波乱万丈の展開が待っていた。もちろん笑いとロマンスも。

 あるとき、軍に納品した薬材の偽造疑惑に端を発し、呉聘が暴漢に襲われ、意識不明となる。占いによれば、酉の刻に婚礼を挙げれば助かるというので、呉聘の許嫁・胡詠梅に使者が差し向けられるが、父の胡志存は呉家の将来に不安を感じて娘の嫁入りを許さない。花嫁が来ないと分かって落胆する呉家の人々。思わず周瑩が「我来!」と名乗りをあげてしまう。そして奇跡的に意識を取り戻した呉聘。周瑩は呉家東院の「少奶奶」(若奥様)になるが、礼儀も教養も知らないため、呉家の人々とさまざまな軋轢を起こす。沈星移は周瑩の奪還を諦めず、沈星移の父・沈四海は、貝勒爺(実在の皇族・載漪)に仕える杜明礼によって次第に悪の道に落ちていく。

 やがて呉聘の急死(毒殺)、呉蔚文の逮捕と獄死という不幸が呉家を襲う。災いをもたらす「災星」呼ばわりをされる周瑩。お腹にやどっていた呉聘の遺児を流産し、命も奪われかけるが、養父・周老四と沈星移に救われ、呉家の再建に乗り出す。以後、時には販路を求めて迪化(ウルムチ)まで旅をし、機械式の織布局を立ち上げ、上海で西洋人との取引を勝ち取り、呉家の繁栄を確かなものにする。さらに夫・呉聘を殺害し、義父・呉蔚文を誣告した真犯人も突き止める。一方、沈家のわがまま次男坊だった星移も少しずつ成長していく。上海に出て商売を覚え、新しい文明を知り、「変法」と「革命」に関心を抱く。変わらないのは周瑩への思い。周瑩もそんな星移に惹かれているのに、なかなか二人は一緒になれない。敢えて書かないが、最後の最後まで結末が読めず、わくわくハラハラし続けた。

 登場する男性が次々に周瑩に惚れてしまうのだが、それをご都合主義に感じさせない魅力が周瑩(孫儷)の造形にあった。最初の夫・呉聘(何潤東)は、いかにも大家の若旦那らしい、おおらかでまっすぐで温かな人柄。呉家の人々に殺されかけた周瑩が、思い出の呉家を離れることができず、その再建に奮闘する気持ちは分かる。沈星移(陳曉)は、変化していくキャラクターが面白い。そのほかにも、ウルムチで出会った西域人の大富豪・図爾丹(トゥーアルダン)(高聖遠)は真正面から周瑩にプロポーズする。呉家東院の管家(番頭)となる王世均(李沢鋒)は、思慕の情を抑えて周瑩に忠誠を尽くす。涇陽の県令として登場し、陝西巡撫まで出世する趙白石(任重)も、万事型破りの周瑩に次第に惹かれていく。はじめはみんな子供のように好き嫌いの感情に動かされるのだが、ストーリーの進展とともに、それぞれが自立した大人として、相手を思いやれる関係に変わっていくのが味わい深かった。

 もうひとり、印象的だった男性キャラは、杜明礼(俞灝明)。沈四海に悪どい商売をさせて利益の上前をはね、ボスの貝勒爺に献上して、地位の保全に腐心している。小心で貪欲。その一方、呉聘の許嫁だった胡詠梅に、純な恋心を抱き続ける。人並みの幸せを望めない境遇であるがゆえに、ひたすら金銭に執着する姿は、心を許した相棒の査坤(李藝科)とともに哀れを誘った。

 以上には、私の知っている俳優さんがひとりもいないのだが、周老四役の劉佩琦さんは、どこかで見たことがあると思ったら、映画『北京ヴァイオリン』(原題:和你在一起)のお父さんだった。本作でも、大ぼら吹きで手癖も悪いが、どこか憎めない父親を演じている。ウルムチで西域人に化けて、あやしい中国語をあやつる姿には大爆笑。沈四海役の謝君豪さんが『三国機密』の曹操だったことも、調べるまで気づかなかった。

 終盤、義和団事件の影響で北京から西安に落ちのびた西太后と光緒帝が、涇陽の呉家東院に滞在するエピソードがある。御前に召された周瑩は「父祖の伝統も大切だが、西洋の文物も悪くない」と述べて不興を買ってしまうが、涇陽からの去り際、西太后は周瑩に暖かい言葉をかける。確か、その後の西太后は、積極的に西洋文明を取り入れるようになったはずで、うまい史実の取り入れ方だなと思った。

 なお、中国語の原題はストレートに訳しにくいが、英文の副題「Nothing Gold Can Stay」はきれいな訳だと思う。アメリカの詩人ロバート・フロストの詩の一節で、美しいもの(善きもの)は儚い、という意味らしい。大切な人に何度も先立たれながら、短い生涯を生きた周瑩を見事に象徴している。
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義兄弟たちのゆくえ/中華ドラマ『少林問道』

2018-09-10 22:17:31 | 見たもの(Webサイト・TV)

〇『少林問道』全38集(2016年、上海新文化伝媒集団他)(※全42集版もあり)

 2016年の作品だが、私が知ったのはごく最近である。9月17日からCS「衛星劇場」で日本初放映が決まったことに伴い、ファンの声を目にして興味を持った。どうせCSは見られないので、ネットで視聴してみることにした。時代は明の嘉靖帝の治世(1521-1566)、朝廷は厳嵩・厳世蕃父子とその取り巻き(厳党)に牛耳られていた(※これは史実)。厳党の権臣・明徳は、敵対勢力の程粛を一族もろとも殺害し、李王爺を自殺に追い込む。程粛の次男・聞道は少林寺に逃げ込んで生き延び、李王家の郡主・蓁蓁は官妓に身を落とす。程聞道と李蓁蓁、二人に同情する書生の楊秀、明徳の甥で武人の高剣雄の四人はおさななじみで、程聞道、楊秀、高剣雄の三人は義兄弟を誓った仲でもあった。しかし、運命は彼らを波乱の中に投げ込む。

 聞道は少林寺にあっても明徳への復讐を諦めきれない。少林寺には「十八銅人」という武術の達人がいたことを知り、彼らを探して復讐に協力してもらおうとする。しかし、次第に自分の身勝手さを思い知り、出家して無想という法名を得、医学と薬学に精進するようになる。蓁蓁は洛陽の妓楼・梅艶楼で十一娘と呼ばれ、明徳への復讐だけを望みに生きていく。再びめぐり合った聞道(無想)と結ばれることは叶わず、高剣雄に身を委ねる。それを自分への愛情と勘違いした高剣雄もまた、運命を狂わされていく。

 ここからネタバレ。梅艶楼の女主人・梅姑は、明徳のかつての愛人であり、二人の間に生まれた嬰児を、梅姑の兄である少林寺僧・敗火が程粛に預けたことが明らかになる。つまり、聞道が父の仇と思っていた明徳こそ、聞道の実の父親だったのだ(ここまでは中国語版の予告編でも明かされているので…)。さらに明徳には、程粛を恨むに十分な理由があったことも語られる。明徳は死病を患っており、それを治療してもらうために少林寺にやってきた。梅姑は命を捨てて父と息子の仲を取り持ち、聞道は明徳に治療を施して命を助ける。しかし、父親として受け入れることは拒む。

 月日が流れて三年後。高剣雄は明徳の目を掠め、倭寇と結託して大金を稼ぎ、旱魃で苦しむ百姓に対して糧倉を開くこともなかった。高剣雄の悪行を知り、朝廷の高官・徐階(※このひとも実在)が査察に遣わされると聞いて、慌てる明徳。証拠隠滅を図るも、徐階の門弟となった楊秀は、厳党糾弾の好機と見て、命を賭して皇帝に真実を奏上しようとする。しかし、不敬の誹りを受けて捉えられ、罰杖を受ける。身を挺して楊秀を庇おうとする聞道。肉親の情から、うろたえる明徳。そこに皇帝の勅使が到着し、聞道を少林寺の方丈に任じ、楊秀と高剣雄に倭寇の掃討が命じられる。倭寇の根城に決死の攻撃をかけると決めた前夜、李蓁蓁、聞道、楊秀、高剣雄の四人は、昔のよしみを取り戻したように酒を酌み交わし、静かに語り合う。

 明徳は、序盤こそ冷酷な悪役ぶりを見せるのだが、後半、より高位の厳世蕃や徐階の前に出ると、なすすべもなく平身低頭するばかり。中国の巨大官僚社会の怖さを思い知らされる。そして最後は、序盤では予想もつかなかった人間味を見せる。もっとも「予想もつかなかった」のはこちらの見方が甘いからで、序盤の極悪非道な振舞いの間にも、微かな心の揺れが表現されているという指摘がある。そうなのか~。もう一回、序盤を見直してみたい。『人民的名義』の高書記を演じた張志堅が演じている。

 主人公・程聞道(無想和尚)を演じたのは周一囲。前半は、いつも目を剥いてわめき散らしているような粗野な青年でうんざりするのだが、後半、苦悩を乗り越え、医術と武術を身に着けてからは、別人のように美しいたたずまいを見せる。武術アクションも見事。楊秀、高剣雄、李蓁蓁は、正直、ほぼ最後まで身勝手で迷惑な奴らだと思っていた。しかし本作は、主人公の聞道を含め、妄執や欲心など困ったところを抱えた人間が、不完全ながら「悟道」あるいは「慈悲」に辿り着くまでを描いているのかもしれない。少林寺の僧侶たちも、それぞれ葛藤や後悔を抱え、人間味ある姿に描かれていてよかった。聞道を導く敗火師父は少林寺の薬局首座という設定。禅寺が、さまざまな技術と学術のセンターだった雰囲気がよく出ていた。

 私が一番好きだったのは、明徳に従う道士の梁五。明徳に命じられれば、脅迫・殺人・強盗、どんな暴虐も辞さない、狂暴な忠犬である。しかし、かつて命を救ってもらった(らしい)明徳への献身は純粋で、どこか愛すべきところがある。共感してくれる人は少ないと思うが、ネットで探していたら、中国人女性の個人ブログに同じような感想を見つけて嬉しかった。

 倭寇の描き方も興味深く、頭目の岡田という日本人はすっかり漢人に化けている。一方、漢人の江龍は、今は倭寇の一味となり、月代を剃り、陣羽織のようなものを着て、日本刀を使う。後期倭寇のカオスな状況をうまく物語に取り込んでいると思った。なお、嘉靖年間に少林寺の武僧が倭寇と戦ったことは『日知録』などにあり、これまでもいくつかのドラマの題材になっているが、本作は虚実の組み合わせ方が出色だと思う。ただ、本作は禅の教えにちなんだセリフが多くて、私には難しかった。できるなら、原作の日本語訳を歴史小説として読めたらいいのに。

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武侠とロマンスの上海/中華ドラマ『遠大前程』

2018-07-31 22:57:26 | 見たもの(Webサイト・TV)

〇『遠大前程』全56集(2018年、芒果影視文化有限公司他)

 武侠や古装劇が好みなので、このドラマ、果たしてハマるかな?と迷いながら見てみたら、面白かった。舞台は1920年代の上海。租界の賭場やキャバレーには華やかな洋装の男女が行き交い、裏社会では秘密結社のボスたちが死闘を繰り広げ、労働者は団結して新しい社会を目指す。アクション、コメディ、ロマンス、冒険、人情、武侠などの諸要素が、てんこもりに盛り込まれた連続ドラマである。「遠大前程」は「前途洋々」くらいの意味らしい。

 主人公の洪三元(洪三)は、蘇州の芸妓・紅葵花(自称・美人)に育てられた捨て子である。成長して、養母の美人と弟分の斉林を伴い、一旗揚げようと志して上海にやってきた。上海の最大勢力・永鑫公司に入り込み、舌先三寸と強運で数々の危機をくぐり抜け、出世街道を駆け上がっていく。永鑫公司の三大亨(三大ボス)のうち、老大・霍天洪は悠揚として小さなことにこだわらず、普段はかわいいおじさんだが、怒ると怖い。演じるのは倪大紅(私は見ていないが『三国』の司馬懿)。老二・張萬霖は最も凶悪、短気で陰険。斉林を悪の道に誘い込み、洪三の宿敵となる。演じるのは劉奕君(『琅琊榜』の謝玉を演じた方だが、謝玉の悲哀や人のよさを全く感じさせない、振り切れた悪役ぶり)。老三・陸昱晟は穏やかなインテリやくざ。演じるのは趙立新(2017年版『射雕英雄伝』の洪七公)。陸昱晟は洪三の才能を愛し、かばい続けるのだが、最後に洪三が知略を振り絞って永鑫公司に戦いを挑んだとき、それを跳ね返したのも彼である。三大亨は性格づけもビジュアルも個性的で魅力的だったが、何よりも声がそれぞれのキャラに合っているのが、すごくよかった。

 洪三は永鑫公司の計らいで小さな賭場を任され、そこで「一爺」と名乗る男勝りの女性とその仲間たちと知り合う。彼らは、幼いころ張萬霖に家を焼かれ、家族を殺されており、復讐の機会を狙っていた。一爺こと林依依は次第に洪三に惹かれていく。一方、洪三は、民族資本家で大富豪の于杭興のひとり娘・夢竹に夢中になり、斉林と恋の鞘当ての末、夢竹との結婚を勝ち取る。しかし、結婚式当日、洪三は自分が間違っていたことを悟り、林依依と駆け落ちする。ここまでが、だいたい前半で、コメディ七分、シリアス三分くらいで進む。

 洪三夫婦は山村で平和に暮らしていたが、張萬霖が差し向けた刺客によって、依依は殺されてしまう。ひとりになった洪三が、張萬霖への復讐の誓いを胸に上海に戻ってきてからが後半。オープニングとエンディングの曲が哀調を帯びたものに変わる。後半はシリアス度が増すが、コメディ成分が全くなくなるわけでもない。喜劇と悲劇が同時進行するのは中国ドラマの得意とするところ。

 上海の空気は風雲急を告げていた。埠頭で働く労働者たちは組合を結成してストライキを決行。その中心にいたのは、共産党に希望を託す知識人の梁興義と、彼の思想に共鳴する厳華。厳華は、やはり美人に育てられた洪三と斉林の兄貴分である。資本家の于杭興は組合と対立する立場にありながら、ひそかに労働者たちを支援し、女学生の于夢竹は路上に出て反政府デモに参加していた。外国人たちも暗躍する。イギリス領事のホートン(霍頓)は中国の古美術品マニアで、利権を貪り、文物を集めて私蔵していたが、洪三は、誘拐された娘のイーシャ(伊莎)を救ったことから知遇を得る。永鑫公司のライバル・八股党の沈青山、軍閥の領袖・李宝章、共産党の影響力を恐れる国民党の徐世昭(別名・徐可均)など、多士済々。しかし一番悪いのは日本人勢力である(笑)。

 共産党は武装起義(蜂起)を決行するが、永鑫公司の援助を得た軍閥政府はこれを撃破。共産党は壊滅に追い込まれる。洪三は、華哥(厳華)の遺志を受け継ぎ、梁興義を上海の外に逃がそうとする。しかし奇想天外な脱出作戦も三大亨によって阻止され、最後は、決死の正面突破しかない、と腹を括る。ここで洪三を助けに馳せ参じるのが、ドラマの中で友情をはぐくんだ武侠高手たち。

 この物語世界には「上海十三太保」と呼ばれる十三人の武侠高手が存在し、「乞丐、教頭、納三少、車夫、師爺、小阿俏、瞎子、酒鬼、黑白無常、龍虎豹」と数えられている。この中には、永鑫公司の師爺(夏俊林)や、かつて沈青山に仕え、今は永鑫公司に従う黑白無常という二人組など強敵もいる。一方、教頭(沈達)、車夫(余立奎)らは洪三の仲間。秦氏の龍虎豹三兄弟のひとり秦虎は、はじめ洪三の命を狙っていたが、次第に友情を感じ、梁興義を送り出す壮挙に参加する。

 このくらいにしておくが、ドラマはもっと波乱に富んでいて、もっと面白い。また、実力派俳優(特に男優)が総集結しているので、知っている顔を見つけるのも楽しい。厳華役の富大龍とか徐世昭役の許亜軍はすぐに分かった。坊主頭に丸眼鏡の梁興義は、いかにもこの時代の知識人という雰囲気だったが、ずいぶん終盤になって、演じている成泰燊は『風起長林』の墨淄侯じゃないか!と気づいた。斉林役の袁弘は、胡歌版『射雕英雄伝』の楊康で、やっぱりイケメンなのにクズが似合う。洪三を演じた陳思誠と林依依を演じた佟麗婭が実生活でも夫婦であることは途中で知った。主演の陳思誠は、本作の監制と総編(screenwriter and producer)もこなす才人である。

 毎回、冒頭に「本故事純属虚構(この物語はフィクションです)」という注意書が表示されていたが、三大亨のモデルが「上海青幇」の黄金栄、張嘯林、杜月笙であることは、中国史好きならすぐ分かるのだろう(私は初めて知った)。中国語サイトをまわってみると、共産党の梁興義は誰で、国民党の徐世昭は誰か、軍閥の李宝章は誰か等々、興味深いモデル探しが行われている。ドラマとして唯一の欠点は、日本人の扱いだろうか。別に悪役でもいいのだが、中国人俳優に日本語のセリフを喋らせているので片言すぎて失笑ものなのだ。しかし、あれは中国人であるにもかかわらず日本人勢力に加担した「漢奸」であると考えれば、カタコトでもいいのかもしれない。

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竜(ドラゴン)の記憶/映画・ジュラシック・ワールド炎の王国

2018-07-17 23:23:16 | 見たもの(Webサイト・TV)
○J.A.バヨナ監督『ジュラシック・ワールド 炎の王国』(109シネマズ木場)

 私はこのシリーズ、そんなに熱心なファンではないのだが、2015年に見た『ジュラシック・ワールド』が面白かったので、本作も劇場で見ようと思って、楽しみに待っていた。

 設定は前作から4年後。イスラ・ヌブラル島では火山活動が活発になり、島の恐竜たちは存亡の危機にさらされていた。恐竜保護団体を設立し、島の恐竜たちの救出を訴えていたクレアは、故ハモンドのビジネスパートナーだったベンジャミン・ロックウッドを訪ね、彼の支援を取り付ける。財団の実質的経営者であるミルズは、島に恐竜の救出部隊を派遣することを約束し、クレアは恐竜保護団体の若者ジアとフランクリン、さらに旧知のオーウェンを誘って、部隊に同行する。しかし、ミルズの目的は、高い売値のつく恐竜を捕獲することだった。ラプトルのブルー、Tレックスも、捕らえられて船に乗せられる。クレア、オーウェンたちも密かに積荷に紛れ、米国カリフォルニア州の深い森の中にあるロックウッド邸へ到着する。

 ロックウッド邸には多くの秘密があった。老いたベンジャミン・ロックウッドは、家政婦アイリスと、恐竜好きの少女メイジーと暮らしていた。メイジーは孫娘として扱われているが、実はベンジャミンが亡き娘のDNAをもとに作り出したクローンだった。財団の実権を握るミルズは、兵器としての恐竜の売買価値に関心を持ち、ヘンリー・ウー博士を招いて、より凶暴なハイブリット種を生み出す実験にも手を染めていた。ロックウッド邸の地下室には、海底に沈んだインドミナス・レックスの骨からDNAを採取し、新たに作り出されたハイブリッド種「インドラプトル」が飼育されていた。あるとき、メイジーはミルズの秘密を知ってベンジャミンに告げるが、ミルズはベンジャミンを殺害し、メイジーを監禁してしまう。

 島から運ばれてきた恐竜をめぐって、闇の商人たちの競売が始まり、ミルズは瞬く間に巨万の富を手に入れる。しかし、当然のように恐竜が檻を破って人を襲い、大混乱となる。メイジーに迫るインドラプトル。クレアとオーウェンは彼女を守ろうとする。嵐の夜、石造の古風な屋敷の屋根の上でくりひろげられる死闘。新キャラクターの「インドラプトル」は、体が柔軟で(大型恐竜にしては)前足が長くて、トカゲに似ている。いや、竜(ドラゴン)だ。これまでのシリーズに出てきたどの恐竜よりもドラゴンに似ている、と思った。

 「ジュラシック・パーク/ワールド」のシリーズは、神話・伝説でなじんだ、悪魔の象徴としてのドラゴンではなく、実在の古生物である恐竜の怖さを感じさせてくれる点が新鮮だったのだが、「ハイブリッド種」という仕掛けを強調することによって、実在の恐竜が、再び神話のドラゴンに引き付けられている感じがする。恐竜が、生物でない「怪物(モンスター)」になってしまった感じ。私は怪物映画も嫌いじゃないが、このシリーズは別物で踏みとどまってほしかった。そして、ラプトルのブルーは、当たり前のように主人公たちを助けにくる。前作では、期待も予想もしていないところに現れるから感動があったのだが、本作では感動が薄い。彼女は、騎士を守る聖獣になったようだ。

 最終的にインドラプトルは倒されたものの、ロックウッド邸には島の恐竜たちがたくさん残されていた。混乱の中で火災が発生し、次第に火がまわり始める。クレアは、彼らを逃がそうとするが、オーウェンに諭されて思いとどまる。しかし、メイジーは柵を開け、恐竜たちを森に逃がしてやる(Tレックスも!)。「私も同じクローンだから」と。その頃、米国議会に参考人として呼ばれたマルコム博士は「ようこそ、新しい世界、ジュラシック・ワールドへ」と述べる。ええ~この続きは「ジュラシック・ワールド3」を待てということか。一話完結しない映画は好きじゃないが、仕方ない。

 ちなみに本編終了後、長いエンドロールをぼんやり見ていたら、まるで次回作の予告のような短い映像が流れた。席を立たなくてよかった!
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