先日、月遅れの「芸術新潮」を読んでいたら、あの解剖学者「養老孟司」さんの特集がしてあった。
いわば「日本の良識」みたいな方なので、己の「考え方」とマッチしているかどうか・・と、目を通していたら次のような記述があった。(63頁)
「人生にはいろんなありようがあるから、私は他人のことには口出しなどしたくありません。ただ若い人たちには簡単に諦めて欲しくない。好きなことをとことんやってみてほしい。虫なんて見ていたら、あまりにも沢山いすぎて、時間が一生じゃ足りません。三生は欲しいくらいなんですよ」
おいらも「音楽&オーディオ」をとことんやっているが、あまりにも奥が深すぎて「三生」じゃ足りないくらいですぞ~(笑)。
読者の皆様は好きなことをとことんやってますか?
「とことんやるというよりも好きなことを見つける方が先だっ!」という方も、もしかしておられるかもしれませんね・・。
物事に凝る「きっかけ」っていったい何だろう?
で、僭越ながら我が「音楽&オーディオ」の「原点」というとちょっと大げさなので「きっかけ」を述べてみよう。
結論からいえば、それはモーツァルトのオペラ「魔笛」だった・・。
あれは丁度働き盛りの35歳くらいのときだったかなあ~。
定期異動で辺鄙な田舎町に飛ばされたときのこと。傷心のまま、片道1時間半の道のりをクルマで2年間通勤したが、1時間半もの退屈な時間をどうやって過ごすかというのも切実な問題。
丁度その当時コリン・デービス指揮の「魔笛」が発売されクラシック好きの知人がカセットテープに録音してくれたので「まあ、聴いてみるか」と軽い気持ちで通勤の行き帰りにカーオーディオで聴くことにした。
ご承知のようにこの2時間半もの長大なオペラは一度聴いて簡単に良さがわかるような代物ではない。
最初のうちは何も感銘を受けないままに、それこそ何回も何回も通勤の都度クセのようになって何気なく聴いているうち、あるメロディが頭の中にこびりついて離れないようになった。
それは「第二幕」の終盤、タミーノ(王子)とパミーナ(王女)との和解のシーンで言葉では表現できないほどの、それは、それは美しいメロディ。この部分を聴いていると後頭部の一部がジーンと痺れるような感覚がしてきた。
そう、初めて音楽の麻薬に酔い痴れた瞬間だった。こういう感覚を覚えたのは後にも先にも魔笛が初めて~。
ベートーヴェンの音楽もたしかにいいが、強い人間の意思力を感じる反面、ちょっと作為的なものを感じるのだが、モーツァルトの音楽は天衣無縫かつ俗世間を超越したところがあって生身の人間の痕跡が感じられないところがある。
魔笛という作品はその中でも最たるものだという気がするが、文豪ゲーテが晩年になってモーツァルトの音楽を称し「人間どもをからかうために悪魔が発明した音楽だ」と語ったのは実に興味深いこと。
それからはもう「魔笛」の道をひた走り、病が嵩じて「指揮者と演奏」が違えばもっと感動できる「魔笛」に出会えるかもしれないと、とうとう50セット近い魔笛を収集してしまった。
これも一種の病気だね(笑)。ちなみに、我が家のすべての魔笛を引っ張り出して撮ってみました。
左からCD盤、DVD盤、CD(ライブ)盤です。
ただし、あれからもう30年以上経つが、あの「ジーン」と頭が痺れるような感覚はもう二度と蘇ってこないのが極めて残念~。おそらく感性が瑞々しい時代特有の出来事だったのだろう。
しかも、冴えない音質の「カーラジオ」でそういう感覚を味わったのだからもうまったく皮肉極まる~(笑)。
あっ、そうそう、「芸術新潮」といえば「五味康佑」さんの名著「西方の音」が連載されていたのでも有名ですね。
で、当該誌には浮世絵の大家「喜多川歌麿」の新出「春画」が掲載されていた。江戸時代は「性」がおおらかだったとみえる。
なにせ天下の「芸術新潮」に堂々と掲載されるくらいだから「春画も芸術」なんだろう。
というわけで、・・。
階段の途中で・・、実に器用なことをしますねえ(笑)。
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