「音楽&オーディオ」の小部屋

クラシック・オーディオ歴40年以上・・身の回りの出来事を織り交ぜて書き記したブログです。

バッハ、ベートーヴェン、モーツァルト以外の作曲家の存在意義とは

2022年02月16日 | 音楽談義

つい先日のブログ「生きててよかった!・・」で紹介した次の言葉。

「20世紀前半に名を馳せた著名な数学者「リトルウッド」(イギリス)は、たいへんな音楽好きでも知られたが、「バッハ、ベ-トーヴェン、モーツァルトの音楽が大好きで、それ以外の作曲家の曲を聴いて時間を無駄にするには、人生は短すぎると考えていた。」

さっそく、メル友の「K」さん(横浜)から反応があって「この言葉を聞いて、現状のままでよいのだと安心しました」という趣旨のメールが届いた。

で、「もう60歳を過ぎると自分のスタイルを無理やり変えてむやみに手を広げることもないでしょう」と返信しておいた。

もちろん「オーディオ」とは別の話ですよ~(笑)。

こういう事例は実は音楽の分野だけに留まらないようですよ。

たとえば「文学の世界」でも同様の話があって、

「村上春樹インタビュー集」~夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです~という本があって、1997年から2011年にかけて、19本のインタビューが紹介されている。

               

185頁に音楽ファンにとっては実に興味のある問答が収録されている。

「20世紀の偉大な文学作品の後にまだ書くべきテーマがあるでしょうか?文学にはもはや書くべきテーマも、言うべきものごともない、という意見に同意されますか?」と、一人の外国の愛読者が発する実に厳しい問いに対して村上さんはこう答えている。

「バッハとモーツァルトとベートーヴェンを持ったあとで、我々がそれ以上音楽を作曲する意味があったのか?彼らの時代以降、彼らの創り出した音楽を超えた音楽があっただろうか?それは大いなる疑問であり、ある意味では正当な疑問です。そこにはいろんな解答があることでしょう。」

とあり、以下長くなるので要約すると

「音楽を作曲したり物語を書いたりするのは”意味があるからやる、ないからしない”という種類のことではありません。選択の余地がなく、何があろうと人がやむにやまれずやってしまうことなのです。」とある。

文学的には、村上さんが理想とする書いてみたい小説の筆頭は「カラマーゾフの兄弟」(ドストエフスキー)で、小説に必要なすべての要素が詰まっているそうで、そのことを念頭に置いて解答しているわけだが、興味を引かれるのは冒頭の話との関連性。

ぴったりと符合しますね!


「バッハ、モーツァルト、ベートーヴェンの3人組に対して、はたして他の作曲家の存在意義とは?」

これはクラシック音楽における永遠のテーマでしょうよ。

「ほかにもブラームス、ワーグナー、マーラー、ブルックナーなどが居るぞ」と、いかに声高に叫んでみても前述した三人組の質と量による重量感にはまったく抗しようがないのも、なんだか虚しくなる事実である。

しかし、村上さんの言葉を借りれば、存在意義があるとかないとか、そんなことを考えること自体が無意味だということになる。

作曲家・作家の創造者側の視点と鑑賞者側の視点がすれ違っている印象を受けるのだが、そこをどういう風に折り合いをつけたらいいのか、皆様はどう考えられますか。




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