「音楽&オーディオ」の小部屋

クラシック・オーディオ歴40年以上・・身の回りの出来事を織り交ぜて書き記したブログです。

生きててよかった!地位も名誉もお金も何にも要らない

2022年02月12日 | 音楽談義

「神秘に満ちた数、素数。 何というその美しさ。 世紀をまたぐ最後の超難問”リーマン予想”の謎に迫る天才数学者たちの挑戦、人間味あふれる姿」と、背表紙に書いてあったのが「素数の音楽」(マーカス・デュ・ソートイ著)。

               

「素数と音楽」に、どういう関係があるのかと興味を引かれて読み始めたところ、数学については素人なのに、実に分かりやすく書かれている。

おっと「素数」ってのはお判りでしょうが「2,3,5,7,11、13,17・・」と、これ以上素因数分解が出来ない数を指す。

ちょっと、しつこいようだが桁数が多くなればなるほど突然に「素数」が出てきたりするが、平たくいえば、この数値の並びの規則性を探求するのが数学界最大の難問とされる「リーマン予想」だ。

本書によるとどうやら「素数」と「音楽」は「美」という共通項で深く結ばれているようだが、それはさておき188頁に次のような箇所があった。


「20世紀前半に名を馳せた著名な数学者「リトルウッド」(イギリス)は、たいへんな音楽好きでも知られたが、「バッハ、ベ-トーヴェン、モーツァルトの音楽が大好きで、それ以外の作曲家の曲を聴いて時間を無駄にするには、人生は短すぎると考えていた。」

ウ~ン、これはクラシック音楽愛好家にとっては大なり小なり思い当たる人があるかもしれないですね。

自分などはもっとラディカルに「モーツァルト以外の作曲家の曲を聴いて時間を無駄にするには、人生は短すぎる。」と、思うことがときどきある(笑)。

10年ほど前に購入した「モーツァルト全集」(CD55枚組)は今でも愛聴盤だが、モーツァルトを聴いていると、あの「天真爛漫」で「天馬空を駆ける」ような世界にどっぷり浸かってしまい、楽聖ベートーヴェンの曲目でさえも、何だか作為的で不自然に思えてくるから不思議。

最晩年の傑作、オペラ「魔笛」にトチ狂ってしまってからおよそ40年が経つが、モーツァルトは「モー卒業した」どころか、次から次に新しい発見が続いてまだ山の頂にはほど遠い気がしている。

改めて、そう認識させられたのが「踊れ、喜べ、汝幸いなる魂よ」(K.165)。わずか16分ほどの小曲だが中身は濃い。



音楽ソースは「ザルツブルグ音楽祭」での録音画像で「HDD」に収録したもの。指揮者は大好きな「トン・コープマン」。  

「アレグロ~アンダンテ~アレグロ」の構成だが、特にアンダンテがこの世のものとは思えないほど美しい。

こんな音楽を聴かされると「生きててよかったなあ!地位も名誉もお金も、な~んにも要らない」という心境になる。もちろん一時的にだが(笑)。

ケッヘル番号が100番台だから、おそらく初期の作品だと思ってググってみると、何と17歳のときの作品だった。

そんなに若いときからこんなに美しい曲を作るんだからまったく脱帽である。

ほかにもケッヘル100番台は「ディベルティメントK.136」(これもコープマン指揮がいい)という名曲もあるし、名画家にしても名作家にしても「”若描き”にとてもいいものがある」という言葉が見事に当てはまる。

そういえば、つい先日亡くなられた「石原慎太郎」さんにしても「功なり名を遂げた」晩年の奇妙に落ち着いた作品に比べて学生時代のデヴュー作「太陽の季節」の「新鮮な息吹の迸り」に優る作品はとうとう出てこなかった。

さて、この「K165」は宗教音楽だが、音楽家にとって「神への思い」は様々のようで、有名なバッハの「マタイ受難曲」は何度チャレンジしてもどうしても馴染めないものの、それでも心から神への信仰の厚さと敬虔な祈りが全編を通して伺われる。

しかしベートーヴェンでは「ミサ・ソレムニス」などを聴いていると、神への敬虔な祈りは聞こえてこない。どうも彼は神の言葉よりも自分の音楽の方がさらに高い啓示だと思っている節がある、と、いつも感じる。

そして、肝心のモーツァルトの宗教音楽「K165」についてだがバッハのような「神への敬虔な祈り」が前面に出てこないのが特徴で、むしろ「神」と「人間」が混然一体となった「人間賛歌」のような趣を呈している。うまく表現できないけど・・。

本来、宗教的声楽曲だった「モテット」をこれほど瑞々しい生命の躍動感に満ち溢れた音楽へと昇華するモーツァルトの才能には、もうただただ「ひれ伏す」しかありませぬ~(笑)。



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