2~3日に1度は図書館に出かけているが、あの館内の独特の「本の香り」を嗅ぐと不思議に気持ちが落ち着く。
まず「新刊コーナー」に行って興味のある本を漁るのだが、無いときも当然ある。クルマでわずか20分ほどの道のりだが、せっかく来たんだから手ぶらで帰るのはもったいない。
そこで、(新刊コーナーの)後ろを振り向くとそのコーナーは「随筆集」になっていて「ム」から始まる名前の作家がズラリ。
頭文字が「ム」といえば、やはり「村上春樹」さんですよねえ(笑)。
大作家に対して恐れ多いが、自分ごとき人間でも共感できる文章が多い。
たとえば、次のとおり。
「僕はジムで身体を動かすのが好きで、しょっちゅう行くんだけど、ここにあるエネルギーを発電に有効利用できないものだろうかと、いつも考えてしまう。
たとえば固定式のバイク・マシーンが10台くらい並んでいて、人々が一生懸命ペダルを漕いでいる。それを見るたびにこれを発電に利用出来たらなあと思う。
もちろん原子力発電なんかに比べたら微々たる熱量だけど、それでもたくさんのマシーンをみんなで交代で必死に漕いだら街角の信号機の電力くらいはまかなえるんじゃないか。だってエジプトのピラミッドだってほとんど全部人力で作ったわけです。人の力もいっぱい集まれば決して馬鹿にしたものではない。~以下、略~。
以上のとおりだが、運動ジムで「バイク」を漕いでいるとほとんど同じことを考えるので波長が合っているといえそう。
そのうち、テクノロジーが進化して個人ごとにバイクやウォーキングなどの運動エネルギーを蓄えられる「携帯用蓄電器」が発明され、それを携帯電話に充電できたりする時代がやってきそうな気がする。
そうなると、国民全体が運動に熱心になり健康になって医療費の節約に繋がり政府も大喜びという図式はちょっと甘いかな・・(笑)。
なお、最新科学で分かったことだが「脳を鍛えるには運動しかない」んだから、恐怖の認知症もきっと減少するに違いない。
もう一つ、「余白のある音楽は聴き飽きない」の表題のもと、以下のような文章があった。
「僕にとって音楽というものの最大の素晴らしさは何か?
それは、いいものと悪いものの差がはっきり分かる、というところじゃないかな。大きな差もわかるし、中くらいの差もわかるし、場合によってはものすごく微妙な小さな差も識別できる。
もちろんそれは自分にとってのいいもの、悪いもの、ということであって、ただの個人的な基準に過ぎないわけだけど、その差がわかるのとわからないのとでは、人生の質みたいなのは大きく違ってきますよね。
価値判断の絶え間ない堆積が僕らの人生をつくっていく。
それは人によって絵画であったり、ワインであったり、料理であったりするわけだけど、僕の場合は音楽です。
それだけに本当にいい音楽に巡り合ったときの喜びというのは、文句なく素晴らしいです。極端な話、生きてて良かったなあと思います。」
以上のとおりだが、文中の「音楽」を「いい音」と同義語として置き換えても差し支えないだろう。
毎日のようにオーディオ機器の組み合わせを変えながら、ああでもない、こうでもないと微妙な音質の差について価値判断を続けていると、「所詮は50歩百歩なんだけどなあ」と、ときどき自虐的になることがある。
しかし、そういう価値判断の絶え間ない堆積によって「人生の質」が違ってくるとなると話が違ってくる。
「微妙な差がわかる」ことはとても素敵なことなんだ!
ここで村上さんがいう人生の質とは「社会的な名誉」を得たり「お金持ちになる」ことでないのは明白ですよね。
いや、けっして「負け惜しみ」じゃなくて~(笑)。
よし、これからも徹底的に微妙な差に拘る「音楽&オーディオ」人生を送っていくこととしようと決意を新たにした次第。
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