作家「藤沢周平」氏の「周平独言」を読んでいたら次のような一節があった(132頁)。
「47年2月号の「歴史と人物」に河野多恵子氏が「人物と音声」という文章を書いている。
与謝野晶子が、低く、小さく静かな声で話す人だったといわれることに触れ、歴史上有名な人物でも、性格、容姿、趣味教養は伝わっていても「音声についてほとんど伝えられていないことを残念がっておられる文章である。
あの「芥川龍之介」にしても、繊細な感覚の作品や、面長、長髪の写真などから私は迂闊にも芥川という人は細い静かな声音で喋る人だろうと思っていたら「太い声」だったそうで目が覚めるような感じがした」、とある。
与謝野晶子といえば当時の日露戦争で出征した弟に対し「君死にたまふことなかれ」と、当時の世相に反するような激越な歌を詠んだ歌人だが「小さな声だった」との対比が面白い。
私たちにも思い当たる節がある。たとえば、瘦身の神経質そうな方から「野太い声」が発せられると、「線の細い人だ」との印象がいっきに覆ってしまった経験をお持ちの方が少なからずいるに違いない。
ずっと以前に「任侠映画」の傑作とされる「仁義なき戦い」を観たときに登場人物たちの腹の底から迸るような「野太い声」に、これこそ命を張った任侠の世界にふさわしい声だと妙に圧倒されたことを思い出す。
したがって、人の印象は「外見」に加えて「音声」も欠かせない要素だといつも思っているが、関連してずっと以前に「声を読む」というタイトルで投稿したことがあるので少し手直しして再掲しよう。
「私たちが普段コミュニケーションの道具として何気なく使っている「声」。声と同時に発せられる言葉については強く意識されるものの、トーンというか「声音」(こわね)についてはあまり注意を引くことがないように思うが今回はその「声」が持つ役割、真価について話題にしてみよう。
<「声」の秘密>(2008.10.1、アン・カーブ著)という本がある。
本書の”あとがき”に次のようなことが書いてあった。(要旨)
「声は人間の社会で大きな役割を果たしているのに驚くほど顧みられていない。そのもどかしさが本書を書くきっかけとなった。言語やボディーランゲージについては詳しく調べられ、その重要性が高く評価されている。一方、声は(少なくとも学問以外の世界では)なおざりにされ、称えられることはほとんどない。
声は文字にとって代わられ、画像にその地位を追われて<目が耳に勝った>といわれているがそれは間違い。人は家庭や職場で、あるいは友人知人との交流において、”声を読む”という優れた能力を利用している。声を正しく理解するためには、鋭い感性を身につけなければならない。<深く聴く>ことが必要だ。」
といった内容だが、「声を読む」というのは実に”言いえて妙”でいろんな情報が声から得られるのは事実である。
自分の場合に例をとると、人と接するときに話の内容よりもむしろその人の表情とか声音でいろいろと判断していることが意外と多いことに気付く。
たとえば、心の動揺が思わず声に表れてしまい普段と違う声になったり語尾が小さくかすれたりすると「あっ、この人は”話す内容に自信を持っていない”とか、”本心をしゃべってないかもしれない”」といった具合。
また、「オーディオ愛好家」の立場からすると目と耳との機能の違いにも凄く興味が湧く。いわば「視覚と聴覚」の対決だが、自分は「目が耳に勝つ」なんてあまり思いたくないほどの圧倒的な耳擁護派である(笑)。
たとえばモーツァルトのオペラ「魔笛」を鑑賞するときにDVDで画像を観ながら聴くのとCDで音楽だけ聴くのとでは受ける感銘度がまるで違う。自分の場合、後者の方が圧倒的にいい。
その理由を端的にいえば第一に画像が目に入るとそちらに注意力がいってしまって”聴く”ことに集中できない。第二に音楽を聴いて沸き起こるイマジネーションが、既に与えられた画像の枠内に留まってしまってそれ以上には拡がらない。
結局、現実の情報量を得るには目が勝っているものの、豊富なイマジネーションの糧(かて)となると耳の方が勝っていると勝手に思っているのだが、これは聴覚をひたすら大切にするオーディオ愛好家の勝手な“身びいき”なのかもしれない。
ただし、養老孟司さん(解剖学者)の著書「耳で考える~脳は名曲を欲する~」には次のような一節があって科学的な根拠が示されている。
「耳の三半規管は身体の運動に直接つながっているので退化せずに残っており、情動に強く影響する<大脳辺縁系>と密接なつながりを持っている。そしてこれと一番遠いのが<目>。だから、目で見て感動するよりも耳で聴いて感動する方が多い。」
そういえば、下世話な話だが「女性は耳で恋をする」といった話を聞いたことがある。
女性は男性に対して“見かけ”よりもむしろ“口説き文句”の方に弱いという意味だが、とんでもない美女にお世辞にもカッコイイとは思えない男性がくっつく例をよく見かけるが、おそらくこの類だろうか(笑)。
おっと、近年ではそれほど魅力があるとも思えない「IT長者」が美女と一緒になるケースも散見されるが、これは「口説き文句」よりも「お金」の誘惑の方が優ったのかもしれないですね(笑)。
さて、遅くなったが本書「声の秘密」の構成は次のとおりとなっている。
第Ⅰ部 声の生態
生物学と言語学の見地から人間の声の能力と役割を詳しく見ていく。
第Ⅱ部 声を支配するもの
どのようにして個人の感情の起伏が声に表れるのか医学や心理学などを動員して分析しているところ(153頁)が非常に面白い。たとえば、発声にかかわる筋肉組織は実に複雑な仕組みになっているので、感情によって引き起こされた筋肉の緊張や呼吸のパターンなどが声の音の変化に密接に影響を及ぼすことを豊富な事例で紹介。
第Ⅲ部 声の温故知新
「百聞は一見にしかず」の諺どおり「見る道具」の発達により「現代は視覚文化」となっている感があるが、声の重要性は高まりこそすれ決して低下していないことを縷々証明していく。さらに、「音声合成システム」の発達に伴い「声は誰のものか」(288頁)という問いかけが興味深かった。たとえば誰もが身近に使っている「カーナビ」の音声は合成だが結構うまくできているのはご存知のとおり。
いずれ、実在する人物の声を合成できる時代が来るという。この技術が完成すれば「窃盗」など新種の犯罪が起きる可能性がある。現在も衰えを知らない「振り込め詐欺」などへの悪用は最たるものだろう。
さらに懐かしの映画スターに新しい台詞を言わせるのは造作もないことだそうで、そうすると「声は一体誰のものだろうか」というわけ。
「声」の著作権についてこれから物議を醸す時代がやってくるそうですよ。
以上のとおりだが、ふと思い出したことがある。
かって、ジャズマンの「エリック・ドルフィー」は最後の録音終了後にこうつぶやいた。とても有名な言葉なのでご存知の方も多いと思う。
「When you hear music, after it’s over, it’s gone in the air. You can never capture it again. ”
「音楽を聴き終った後、それは空中に消えてしまい、二度と捕まえることはできない」
同じ音が二度と聴けないというのも「一期一会」の情が湧いてきていいものだと思うが、これも録音技術の進展によって夢物語に等しくなるのかもしれないですね(笑)。
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