「音楽&オーディオ」の小部屋

クラシック・オーディオ歴40年以上・・身の回りの出来事を織り交ぜて書き記したブログです。

女流ヴァイオリニスト

2020年07月05日 | 音楽談義

ときどき、”オッ”と気をそそられる写真というのがある。

ずっと以前に契約していたクラシック専門番組「クラシカジャパン」(CS放送)の月刊誌を整理していたら、たまたま視野に入ってきたのが2014年8月号の表紙だった。

                 

裏に「パトリツィア・コパチンスカヤ」とあり1977年モルドヴァ生まれというから、当年とって43歳?

パッと見た瞬間に20歳前後だと思った。残念!(笑)。

初めて聞く名前だが「美しき次世代アーティストたち」とあるから、新進気鋭のヴァイオリストなのだろう。


モルドヴァといえば聞きなれない国名でいったいどこだろうとググってみたら、ルーマニアとウクライナの間に位置する国だった。旧ロシア領というから画像でもおよそお分かりのとおり、さぞや透きとおるような白い肌の持ち主なのだろう。

ピアノと並んで楽器の中で双璧とされるヴァイオリンはその優雅な曲線美から女性が持つと絵になる楽器だと思っていたが、この写真を観て改めてそう思った。

鬱陶しい梅雨の真っ只中、一服の清涼剤として目の保養にされてはいかがでしょう(笑)。

さて、数ある女流ヴァイオリニストのうち「見てくれ」を別にして、いの一番にくるのが「ジネット・ヌヴー」だ。

1950年代前後に活躍したヴァイオリニストだが惜しくも飛行機事故で亡くなった。

五味康祐さんの「西方の音」によると「ジネット・ヌヴーの急逝以来ぼくらは第一級のヴァイオリニストを持たない」(248頁)とある。

彼女の「ブラームスのヴァイオリン協奏曲」(イッセルシュテット指揮:ライブ)は絶品で、録音は悪いが大の愛聴盤としてずっと身近に置いてきた。


         

以前、オーディオ仲間のお宅で聴かせてもらっていたところ、感動のあまり涙が溢れ出て困ったことがあった。人前で涙を流すのはみっともないですねえ(笑)。

もともと大のヴァイオリン好きだがブラームスのヴァイオリン協奏曲は格別で随分と収集したものだった。



現在手元にあるのは、画像上段の左から順にシェリング、オイストラフ、マルツィ(女流)、ハイフェッツ、グリュミオー、ヴィトー(女流)、オークレール(女流)、コーガン、比較的新しいところでムター(女流)、レーピン、ハーン(女流)で次から次に聴きまくったが、結局ヌヴーほどの感動を呼び起こす演奏にはとうとう出会わなかった。

これからどれほどのアーチストが出てこようとも、あの熱狂的な1948年3月5日(於ハンブルク)の運命の一夜の再現は不可能だろう。

何よりも当時と比べて現代では社会におけるクラシック音楽の位置づけが様変わりしている。


聴衆を前にしてその場限りを命として燃え尽きる燃焼型のアーチストが時代とともに消えていくのは実に淋しい限り~。

さて、最後に男性のヴァイオリニストには「男流」という言葉を使わないのに、女性ヴァイオリニストの場合には「女流」という言葉をなぜ使うのかについて、皆様は一考されたことがありますか?

この件について、ずっと以前のブログでご紹介したことがあるので、以下のとおり再掲させてもらおう。

「女流作家」に使われている「流」は稀少ゆえの褒め言葉かと思っていたが全部が全部そうともいえないようだ。一流とか二流とか、社会的評価を示しているとは思えないし、お花やお茶のナントカ流とかの独自性を誇る流派的な意味が女流にあるとも思えない。

これはまた、不思議な使い方の「流」もあるもんであるな、と長いこと思っていた。と、先日、夏目漱石の初期の漢文紀行「木屑録」(ぼくせつろく)を読んでいて、フッと納得するところがあった。

この中で若き日の漱石は「漢学者流」という使い方をしていて、前後の脈絡から明らかに「漢文センセイ」として“冷やかし”ととられる意味のようなのだ。どうやら「流」には冷笑的、軽蔑的な意味が込められているらしい。~中略~

つまり、女流作家とは、その昔は男の世界に土足で踏み入れてきた余計なことをする女の意があったとみるべきなのか。

世は一変して、女ならでは・・・の今の小説の世界。そのうち「男流作家」という言い方が登場するやもしれぬ。

そういえば音楽の世界でも「女流ヴァイオリニスト」「女流ピアニスト」という言い方をするが、「女流作家」と同様に冷やかしの意味があるのかな(笑)。


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