先日投稿した「五味康祐」さんのクラシックベスト20」だが、バッハの作品がやたらに多かったことにお気づきだろうか。
たとえば「平均率クラヴィーア曲集」をはじめ「無伴奏チェロソナタ」「3つのピアノのためのコンツェルト」「パルティータ」などがそうで、しかも大半が上位に食い込んでいる。
実を言うと、クラシック歴およそ50年になろうかというのにバッハの音楽にはいまだに馴染めないままでいる。モーツァルトやベートーヴェンの音楽はスッと胸に入ってくるのに、バッハだけは手こずっているというか、もう縁がないと諦めの境地に入っている。
自分だけかもしれないがバッハの音楽には同じクラシックの中でも孤高というのか、ひときわ高い山を感じる。したがって「バッハが好きです」という音楽愛好家には始めから一目も二目も置いてしまう(笑)。
こう書いてきて何の脈絡もなしにふっと思ったのが、「バッハ」と「ドストエフスキー」は似たような存在ではなかろうか。
ドストエフスキーの文学も容易に人を寄せ付けない。「カラマーゾフの兄弟」「罪と罰」「白痴」などやたらに長編だし、とっかかるだけでも億劫さが先に立つ。
「音楽界のバッハ=文学界のドストエフスキー」。
両者ともにその分野で絶対的な存在感を誇り、何回もの試聴、精読に耐えうる内容とともに、後世に与えた影響も測り知れない。
バッハは周知のとおり「音楽の父」と称されているし、ドストエフスキーに至っては「20世紀以降の文学はすべてドストエフスキーの肩に乗っている」(加賀乙彦氏)と称されているほどだし、「世の中には二種類の人間がいます。カラマーゾフの兄弟を読んだことのある人と読んだことのない人です。」と、宣うたのは村上春樹さんだ。
ただし、ドストエフスキーはその気になれば何とか付いていけそうな気もするが、バッハだけはどうも苦手意識が先に立つ。つまり「線香臭い」のがそもそも嫌!(笑)。
こういう”ややっこしい”バッハの音楽についてモーツァルトの音楽と比較することで分かりやすく解説してくれた本がある。
著者の磯山雅氏(1946~)はバッハ研究を第一とし、モーツァルトの音楽を愛される学識経験者。
本書の第9章「モーツァルトとバッハ」で、イメージ的な私見とわざわざことわった上で両者の音楽の本質的な違いについて、独自の考察が展開されている。
以下、要約。
☆ モーツァルトのダンディズム
バッハは真面目かつ常に正攻法で誠実に問題に対処する。一方、モーツァルトは深刻さが嫌いで茶化すのが大好き。
問題をシリアスに捉えてはいるのだがそう見られるのを好まないダンディズムがある。
※ 私見だが、モーツァルトの音楽にはひとしきり悲しげでシリアスな旋律が続いたと思ったら突然転調して軽快な音楽に変化することが度々あって、たしかエッセイイストにしてピアニストの「青柳いずみ子」さんだったか「な~んちゃって音楽」と言ってたのを思い出す。ただしオペラは例外。
☆ 神と対峙するバッハ
バッハの音楽には厳然たる存在の神が確立されており、音楽を通じて問いかけ、呼びかけ、懺悔し、帰依している。「マタイ受難曲」には神の慈愛が流れ出てくるような錯覚を抱く。
モーツァルトにはこうした形での神の観念が確立していない。その音楽の本質は飛翔であり、疾走である。神的というより霊的と呼んだ方がよく、善の霊、悪の霊が倫理的規範を超えて戯れ迅速に入れ替わるのがモーツァルトの世界。
以上、「ごもっとも」という以外の言葉を持ち合わせないほどの的確なご指摘だと思うが、バッハの音楽はどちらかといえば精神的に”タフ”な人向きといえそうで、これはドストエフスキーの文学にしてもしかり。
道理で、両者ともに自分のような”ヤワ”な人間を簡単に受け付けてくれないはずだとイヤでも納得させられてしまう(笑)。
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