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「音楽&オーディオ」の小部屋

クラシック・オーディオ歴40年以上・・身の回りの出来事を織り交ぜて書き記したブログです。

読書コーナー~部下を定時に帰す仕事術~

2018年06月28日 | 復刻シリーズ

「猫の額」ほどの我が家の庭に咲いていたピンクの百合の花。

   

日頃から殺風景なオーディオ機器の画像が多いのでたまにはイメチェンのつもりで載せてみた。

さて、このたび7月1日付の異動で娘が福岡から他県に転勤することになった。

異動は組織人としての宿命なので何もしてやれないが、以前から「どこに替わっても日経新聞だけは毎日読んでおくように」とアドバイスしているが、実はもう一つ内心ひそかに望んでいることがあってそれは「部下を定時に帰す」よう心がけること。

これには有名な本がある。


              

読まれた方も多いかもしれない。著者は東レ経営研究所社長(当時)の「佐々木常夫」さん。

本書の内容を要約すると、「肝硬変のため入退院を繰り返し「うつ病」を併発した奥さんと自閉症の長男を含む3人の子供を育てるために、毎日夕方6時に退社して家事の一切をやる必要に迫られたことからくる合理的な仕事術」を述べた本。

何といっても題名がいい。

「部下を定時に帰す」なんて、いかにも立場の弱い者を大切にする思想が感じられる。

業績を上げるために人を目一杯こき使おうとするのが普通の企業である。中には超過勤務手当てを支払わないで済むように名前だけの店長(管理職)にして過重労働を強いる”けしからん”会社があったりする。


「企業は人なり」で、こういう「人を大切にしない、育てようとしない会社」は早くつぶれてしまったほうが世の中のためにはむしろいい。

ふと自分の現役時代のことを想い出した。

勤務する部署によってマチマチだったが、毎日、夜の9時ぐらいまで残業が当たり前の職場がいくつもあった。早く家に帰って「オーディオ」をいじりたいのはヤマヤマだけど忙しくてそうもいかない。薄給なりとも当時は何せ両肩に妻子が乗っているからね~(笑)。

一番、感性が瑞々しくて豊かな若年時代がこんな調子で、加齢とともに感性が鈍り高音域が段々と聴こえづらくなった今の時期になって時間がたっぷりあるとは、世の中皮肉なもので「人生そうそううまくは運ばない」ことを思い知らされる。


それはともかく、今は「働き方改革」真っ盛りの状況で何とも「いい時代」になった。「ワーク・ライフ・バランス」つまり「仕事と生活の両立」なんて、当時はそういう生易しい時代ではなかった。

しかし、中には明らかに上司の指示がまずいために無駄な残業があったのも事実で、「残業の量は上司の出来具合に左右される」のは明らかだし、昔も今も原則として「上司の指示は絶対」なのはやはりキツイ。

「部下は上司を択べない」悲哀をそこかしこに味わったが、これは組織に勤める以上誰もが痛感し、経験することだろう。

こういう中、「部下を定時に帰そう」という姿勢をもち、努力してくれる上司に巡り会えるのは稀だしホントにありがたいことだと思う。

ただし、自分の経験からすると残業する側にもいろんなタイプがあって「十把ひとからげ」とはいかないのも事実。たとえば意地の悪い見方かもしれないが次のような例もある。

 「超過勤務手当て」を目当てに残業したがる人間

 家庭での居心地が悪いので出来るだけ会社に残って残業し「家では寝るだけ」にしている人間

 残業をこなすことで「仕事をした」という自己満足に浸りたがる人間

本書の場合、著者が課長になって新しい職場に赴任したときに部下が目一杯残業をしていたので無駄を無くそうと具体的に取り組んだ話である。

通常、部下が残業をしているときの上司の対応としては

 一緒に残業をする

 管理職には「超過勤務手当て」が支給されないので見て見ぬ振りをして早めに帰る

3 部下の残業を無くそうと努力する

の3つに絞られるが、1は著者の家庭の事情があって到底ムリ、そこで2か3の選択になるのだが安易な選択の2に走らないのが、なかなかご立派。しかも通常、家庭がそういう事情ならアッサリ「出世」を諦めるところだが、この方は後々「社長」にまで上りつめる粘り腰がすごい。

とにかく、本書はそういった視点に基づいているので「精神論」ではなくて、現場で鍛え上げられた「実践論」に終始しているので分かりやすい。

「会議を半分に減らす」「会議の時間を半分に短縮」「資料は事前配布」「簡潔な資料」「重要ではない業務の切捨て」など当たり前の対策が緻密な現状分析のもとにきめ細かに綴られている。

組織で働く人にとって管理職はもちろんだが、これから昇進という方にも参考になりそうな本である。



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美男美女はほんとうに得か?

2018年06月21日 | 復刻シリーズ

「経済学的思考のセンス」(2005.12.20、中公新書刊)いう本がある。

                  

著者は大竹文雄氏(大阪大学社会経済研究所教授)だが、序文の終わりに身近に
ある”さまざまな格差”を経済学で考えてみることで、経済学的思考のセンスを体得していただければ幸い」だとある。 

さて、その身近にある格差にもいろんなものがあるが、日常で一番意識に上るのは「所得の格差」、つまり「お金持ちか、貧乏人か」という区別だろう。

ただ、これは運、不運もたしかにあるが個人の「才能」や「心がけ」、「努力」などもまったく無視するわけにもいかず、多分に因果応報の面もあって
「まあ、しょうがないか」と思うこと無しとしない。

ところが、人間の努力とは一切関係がない単なる生まれついての
「容姿」
による格差がどの程度人生に得失を生じさせるかというのは不条理な面があってなかなか興味深いテーマである。

ということで、本書の14頁に次の小節があった。

☆ 美男美女は本当に得か?」

これの正確な解答を得るためには、昔「美男美女」だった該当者に人生の終末になって、「あなたは美男美女だったおかげで人生を得したと思いますか?」と沢山のアンケートをとって、集計するのがいいような気もするが、本書では経済学的な視点から
労働市場において「いい就職機会を得るのか」「より高い賃金を受け取るのか」「昇進が早いのか」といったことに焦点を絞って考察している。

以下、要約してみると、

残念なことに「美男美女は得か」の
実証研究は日本ではまだなされていないが、
アメリカではこのテーマでの事例がある。(テキサス大学ハマメシュ教授)

それによると「美男美女」は「不器量」な人よりも高い賃金を得ていることが明らかになっており、さらに重役の美男美女度が高いほど企業の実績がいいとあって、むしろ業績がいいからその会社に美男美女の重役がいるという逆の因果関係も確認されている。

ここで一つの疑問が出される
「美人」の定義
である。

「たで食う虫も好き好き」という言葉にもあるように、人によって美の尺度はさまざまなのでそのような主観的なものが、厳密な実証分析に耐えられるものだろうかということと、さらに、そもそも
「美人の経済学的研究」意味があることなのだろうか、ということなのだが、実際には、

 美人が労働市場で得をしているかどうか


〇 得をしているとしたらどういう理由なのか

この2点を明らかにすることは「労働経済学的」にきわめて重要なことだという。

なぜなら、公平かつ機会均等の観点から、生まれつきの容姿の差による所得格差を解消するとしたら、ハーバード大学のバロー教授が提案する「美男美女に税金を課す」「不器量な人間に補助金を交付する」が経済学的に正しい政策となるからだ。

まり、美男美女は努力なしに生まれつき得をしているので税金を納める必要があるし、不器量な人はもらった補助金で「リクルート整形」をするのも自由だし、うっぷん晴らしに娯楽に使うのも自由となることで社会的な調和が保てるというわけ。

ただし、これは具体的な手段が難しい。たとえば自己申告制にした場合
「美男美女税」「不器量補助金」の申請者数がどの程度になるのか皆目分からないのが難点。「美男美女税負担者証明書」を発行することにすれば大幅税収アップを見込めるかもしれない

かいつまむと以上のような内容で、バロー教授が提案する「美男美女税」には思わず笑ってしまったが、結局「美男美女は本当に得か?」
正しい考察には経済学的視点以外にも遺伝学、社会学、哲学、心理学、芸術などいろんな分野を総動員することが必要ではないかという気がする。

たとえば、ベートーヴェンは醜男だったそうで生涯にわたって女性にまったくモテずずっと独身を通して子供もいなかったが、それが逆にエネルギーとなって内面的に深~い進化を遂げ、跡継ぎになる子供の存在なんかとは比較にならない程の偉大な作品を次々に後世に遺していった。

現代のクラシック音楽界は彼の作品抜きには考えられないので、ベートーヴェンがもし美男だったとしたら私たちは音楽芸術を今のようには享受できなかったかもしれず、音楽産業にしても随分と縮小したことだろう。これは人類にとって大きな損失ではなかろうか。

また、古典「徒然草」(兼好法師)では「素性とか容貌は生まれついてのものだからしようがないけれど、それ以上に大切なのは賢いことであって、学才がないとかえって素性の劣った憎々しい顔の人にやり込められる」という「段」がある。

というわけで、このテーマは大上段に振りかぶってはみたものの「外見よりも内面が大切」という「ありきたりの結論」で終わりにするのが無難のようだ。

アッ、最後になって色男 金と力は 無かりけり」いう句を思い出した!(笑)


  


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音楽好きが理系人間に多いのはなぜ?~最終回~

2018年06月08日 | 復刻シリーズ

前回からの続きです。

「音楽好きが理系人間に多い」理由の手がかりを求めて「音楽と数学の交差」という本を読んでみたが、なにぶん自分の読解力では荷が重すぎたようで完全に理解するにはほど遠かったが、概ね理解したエキスを記して恰好だけつけておこう。

「古代ギリシャでは数論(算術)、音楽、幾何学、天文学が数学の4大科目とされていた。そのうち音楽は数の比を扱う分野とされ、美しい音楽は調和のとれた音の比によって成り立っており、それこそが美の原点と考えられた。

もっともよく協和する二つの高さの音は1対2の関係(つまり1オクターブ)により作られているというように、ここでは常に音は数と対応して考えられ、また美しい数の比は美しい音楽を表すとも考えられた。

そもそも音楽は数学とは切っても切れない関係にあり、メロディーもビート(拍)も和音も、数の並びそのものである。つまり書かれた音符は数の並びなのである。数として認識された音は、身体的行為としての演奏を通して音楽になる。

したがって、私たちは何気なしに音楽を聴いているが、それは無意識のうちに数学にふれていることにほかならない。

「音楽を考えることは数学を考えることであり、数学を考えることは音楽を考えることである」
 

とまあ、簡単に噛み砕くと以上のような話だった。音楽を長時間聴いたりすると自然に(頭が)疲れてしまう経験もこれで説明がつくのかもしれない。

とにかく、本書は超難しかったが数学とは切っても切れない縁を持つ理系人間に音楽好きが多い理由が、これで何となく分かってもらえたかな~?

「ど~もよく分からん、もっと詳しく知りたい」という方は、直接本書を読んで欲しい(笑)。

さて、実はこのことよりも、もっと興味のある事柄がこの本には記載されていたのでそれを紹介しておこう。こういう思わぬ“拾いもの”があるから濫読はやめられない。

第3章では数学家(桜井氏)と音楽家(坂口氏)の対談方式になっており、数学の観点から「アナログのレコードとCDではどちらの音がいいか」について論じられた箇所があった。(158頁)

数学家「これは数学と物理学で説明できます。デジタルを究極にしたのがアナログです。レコードの音はアナログだから時代遅れだと思う方がいるかもしれませんが、数学を勉強した人は逆なのです。アナログの音が究極の音なのです。

CDは1秒間を44.1K(キロ)、つまり4万4100分割しています。その分割した音をサンプリングと言って電圧に変換してその値を記録する。これをA/D(アナログ→デジタル)変換といいますが、このCDになったデジタルデータはフーリエ変換によってアナログに戻されます。

しかし、レコードの原理はマイクから録った音の波形をそのままカッティングするので原音に近いのです。だから究極では情報量に圧倒的な差があるのです。CDは情報量を削っているから、あんなに小さく安くなっていて便利なのです。」

音楽家「ただし、アナログで圧倒的にいい音を聴くためには何百万ものお金が必要になりますよね(笑)」

数学家「それなりのリスニングルームとそれなりの装置と、そこに費やされる努力はいかほどか・・・。だから趣味になってしまうんです。それはやはり究極の贅沢みたいなことになります。そんなことは実際に出来ないということでCDができて、さらにiPodができて、どんどんデジタルの音になっています。」

音楽家「結局、それで一つの文化というものが作られました。アナログの時代には“オーディオマニア”という人種がいたのだけれども、今、そういう人種はいなくなってしまいましたね。ほんのわずかに残っているみたいですが。」

その「ほんのわずかに残っている人種」のうちの一人が自分というわけだが(笑)、いまだに続いているアナログとデジタルの優劣論争においてこの理論は特に目新しくはないものの、いざ改めて専門家からこんな風に断定されると、
現代の流行り「ハイレゾ」をどんなに詰めてみても所詮「アナログには適わない」ということを頭の片隅に置いておいた方が良さそうだ。

自分のケースでは15年以上も前にワディアのデジタルシステムを購入してアナログとあっさり手を切ったわけだが、それではたしてよかったのかどうか?

その後にはさらにエスカレートして「ワディア」から「dCS」に乗り換えてしまったがこれらの機器の
値段を書くと「お前はバカの上塗りか!」と言われそうなので差し控えるが、これだけのお金をアナログに投資する術もあったのかもしれない。

   

つい最近でも仲間の家でレコードの音を聴かせてもらったが実に自然な「高音域」が出ているのに感心した。

いまだにアナログに拘る人の存在理由を改めて現実に思い知らされたわけだが、貴重なレコード針が手に入りにくくなったり、ターンテーブルの高さやフォノモーターの回転精度、アームの形状で音が変わったり、有名盤のレコードがたいへんな値上がりをしていたりと、いろいろ腐心されていたのでレコードマニアにはそれなりの悩みもあるようだ。

また、真空管プリやパワーアンプ、あるいはスピーカーなど周辺システムに細心の注意を払ったCDシステムと、幾分かでもそれらに手を抜いた場合のレコードシステムのどちらがいい音かという総合的な問題も当然ある。

俯瞰(ふかん)しないと、その優劣について何とも言えないのがそれぞれの現実的なオーディオというものだろう。


まあ、CDにはCDの良さもあって、前述のようにソフトの安さ、取り扱い回しの便利さなどがあるわけだし、今さらアナログに戻るのはたいへんな手間がかかるし、第一、肝心のレコードはすべて処分してしまっている。

もはや乗ってしまった船でオーディオ航路の終着駅もぼちぼち見えてきたので、CDで「潔く“良し”とするかなあ」と思う今日この頃(笑)。

 


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音楽好きが理系人間に多いのはなぜ?~その1~

2018年06月07日 | 復刻シリーズ

つい先日、高校時代の同級生(福岡在住3名)から連絡があって、我が家での試聴会の日程が6月好日に決まった。

メールのやり取りは別にして、およそ3年ぶりぐらいの再会になる。在学中はそれほど親しい仲でもなかったが、ブログを通じてお互いに音楽好きだと分かりお付き合いが始まった。

ただし、よく考えてみると3名とも理系出身である。卒業後の進路は建築科、機械科、電気科と見事に色分けされるし、自分だって理系の“端くれ”なのでいわば4人すべてが理系を専攻している。

”たまたま”かもしれないが、「4人そろって」となると確率的にみてどう考えても意味がありそうである。

全員がオーディオというよりも音楽の方を優先しているタイプで音楽を聴くときに、より興趣を深めるために仕方なくオーディオ機器に手を染めているというのが実状である。

つまり「音楽(クラシック)好きは理系人間に多い」。これは、なかなか興味深い事象である。

周知のとおり、ほとんどの人が高校時代に大学受験のため「文系と理系のどちらに進むか」の選択を迫られるが、これはその後の人生をかなり大きく左右する要素の一つとなっている。そのことは、一定の年齢に達した人たちのそれぞれが己の胸に問いかけてみるとお分かりだろう。

「自分がはたして理系、文系のどちらに向いているか」なんて、多感な青春時代の一時期に最終判断を求めるのは何だか酷のような気もするが、
生涯に亘る総合的な幸福度を勘案するとなれば、なるべくここで誤った選択をしないに越したことはない。

現代でも進路を決める際の大きな選択肢の一つとなっているのは、おそらく本人の好きな科目が拠り所になっているはずで、たとえば、数学、理科が好きな子は理系を志望し、国語、英語、社会などが好きな子は文系志望ということになる。もちろんその中には「数学は好き」という子がいても不思議ではない。

それで概ね大きなミスはないのだろうが、
さて、ここからいよいよ本論に入るとして、なぜ、音楽好きは理系人間に多いのだろうか。

その理由について実に示唆に富んだ興味深い本がある。

「音楽と数学の交差」(2011.5.20、桜井進、坂口博樹共著)

                      

音楽と数学の専門家によって書かれた本書の目次の一部を紹介してみよう。

1章 響き合う音楽と数学
   1 音を数えることから音楽は始まった
   2 数とは何か 
   3 宇宙の調和 根本原理を求めて
   4 音律と数列
   5 数学の中の音楽 素数の神秘
   6 音楽と数学の中の「無限」

といった調子だが、序文「はじめに」の中で音楽と数学の関わり合いについてこう述べられている。

「私たちは、数の世界の背後には深い抽象性があることを、ほとんど無意識で感じています。音楽によって与えられる快感は、ときにはこの抽象世界の中を感覚的に漂う心地よさで高まり、それは広がっていく心の小宇宙に浮遊し、魂が解放されるような感動まで到達することがあります。~中略~。音楽は数の比によって成り立っており、それを考える数学の一分野です。」(抜粋)

抽象的だけどなかなか含蓄のある文章だと思うが、要するに音楽は数の比によって成り立っており数学の一分野というわけ。

以下、さらに分け入ってみよう。

~次回へ続く~


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男性は女性よりなぜ早死に?

2018年06月01日 | 復刻シリーズ

アルファベットの「Y」という文字を見るとミステリーファンの一人として、ついエラリー・クィーンの「Yの悲劇」を連想する。

最後になって「ありえない犯人」の実像が示され、誰もが納得せざるをえないその緻密な論理構成はまことにミステリーの金字塔にふさわしい。

それはそれとして、今回は同じYでも
「Yの哀しみ」という遺伝子の話。

ご承知のとおり男性はXYの染色体(女性はXXの染色体)を持っているが残念なことにそれは基本仕様ではなく、生まれたときに片方にそのY遺伝子という貧乏くじを引いたばかりに女性よりも短命になっているという話である。

    「本が好き」〔光文社月刊誌)    

本誌に「できそこないの男たち~Yの哀しみ~」(36頁)というのがある。著者の福岡伸一氏は青山学院大学理工学部(化学・生命科学科)教授。

2016年の時点で日本人男性の平均寿命(生まれたばかりの男子の平均余命)は80.98歳であり、対して女性の平均寿命は87.14歳。ゼロ歳の時点ですでにおよそ6年もの差がある。

「女性の方が長生きできる」
この結果はすでに人口比に表れている。現在、日本では女性の方が300万人多いが、今から50年たつとその差は460万人にまで拡大する。

男女数の差は年齢を経るほどに拡大する。80歳を超えると男性の数は女性の半分になる。100歳を超える男性の数は女性の5分の1以下にすぎない。中年以降、世界は女性のものになるのである。

どうして男性の方が短命であり、女性のほうが長生きできるのだろうか。諸説ある。

☆ 
男の方が重労働をしているから
☆ 
危険な仕事に就くことが多いから
☆ 
虐げられているから
☆ 
男の人生の方がストレスが大きいから

いずれももっともらしい理由だが、6年もの平均寿命の差を生み出す理由としては薄弱である。

著者が着目したのは上記の理由がいずれも環境的要因に限られていることで、むしろ
生物学的な要因
に原因があるのではと焦点を当てて検証が進められていく。

その結果、世界中のありとあらゆる国で、ありとあらゆる民族や部族の中で、男性は女性よりも常に平均寿命が短い。そして、いつの時代でもどんな地域でも、あらゆる年齢層でも男の方が女よりも死にやすいというデータが示される。

結局、生物学的にみて男の方が弱い、それは無理に男を男たらしめたことの副作用
とでもいうべきものなのだという結論が示される。

その証として、取り上げられるのが日本人の死因のトップであるガン。

ガンは結構ポピュラーな病だがそれほど簡単にできるものではない。細胞がガン化し、際限ない増殖を開始し、そして転移し多数の場所で固体の秩序を破壊していくためには何段階もの「障壁」を乗り越える必要がある。

つまり多段階のステップとその都度障壁を乗り越えるような偶然が積み重なる必要があって、稀なことが複数回、連鎖的に発生しないとガンはガンにはなりえない。

それゆえに、確率という視点からみて
ガンの最大の支援者は時間
であり、年齢とともにガンの発症率が増加するのは周知のとおり。

もうひとつ、ガンに至るまでに大きな障壁が横たわっている。それが個体に備わっている
高度な防禦システム、免疫系
である。

人間が持つ白血球のうちナチュラルキラー細胞が、がん細胞を排除する役割を担っているが、何らかの理由でこの防禦能力が低下するとガンが暴走し始める。

近年、明らかになってきた免疫系の注目すべき知見のひとつに、性ホルモンと免疫システムの密接な関係がある。

つまり、主要な男性ホルモンである
テストステロンが免疫システムに抑制的に働く
という。

テストステロンの体内濃度が上昇すると、免疫細胞が抗体を産生する能力も、さらにはナチュラルキラー細胞など細胞性免疫の能力も低下する。これはガンのみならず感染症にも影響を及ぼす。

しかし、テストステロンこそは筋肉、骨格、体毛、あるいは脳に男性特有の男らしさをもたらすホルモンなのだ。

男性はその生涯のほとんどにわたってその全身を高濃度のテストステロンにさらされ続けている。これが男らしさの魅力の源だが、一方ではテストステロンが免疫系を傷つけ続けている可能性が大いにある。

何という両刃の剣の上を男は歩かされているのだろうか。

以上が「Yの哀しみ」の概略。

結局、「男性がなぜ女性よりも早死に?」の理由は「男性に生まれたばかりにYというありがたくない染色体を無理やり持たされ、男らしさを発揮した挙句に早死に」というのが結論だった。

ただし、同じ男性でも当然のごとくテストストロンの量に濃淡の差があるような気がする。

たとえば濃いタイプは筋骨隆々として野性味あふれた男らしい人物、その一方淡いタイプは「柳に風」のような細身の神経質そうな人物に色分けされ、前述した論調によると前者は「太くて短い」人生に、後者は「細くて長~い」人生とに分けられそうだ。

そして、クラシック音楽ファンともなるとことの性質上どうも後者に分類されるような気がするが、人生は「太くて長~い」が一番いいにきまっているので、どうもままならないのが残念(笑)。


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書く力は、読む力~いい文章とは~

2018年03月24日 | 復刻シリーズ

「上手いか、下手か」は別にして「書くこと」にはあまり苦にならないが、もっと“上手くなりたい”という気持ちは常に持っている。

「自分が考え、伝えたい意味をもっと的確に読者に届けたい」というのがその理由だが、そういう人間にとって格好の本があった。

              

2週間に1度くらいのペースで2か所の図書館通いを続けているがなかなか「これは」という本に出くわさない。もちろん自分の読解力不足も否定できないところだが(笑)、久しぶりに感銘を受けた本に出会った。

著者は現役の高校教師(「国語」)だそうだが、この内容は音楽鑑賞にも十分通用する話なので紹介してみよう。いつものブログよりもちょっと長くなるが最後まで付き合ってくださいね~。

まず冒頭、或る友人女性から著者に対する問いかけが紹介される。

「中学校の卒業式の日、担任の先生が教室でギターの弾き語りをしてくれた。それが「神田川」(1972年、かぐや姫)だった。歌い終わると、最後の歌詞の意味が分かるかとクラスに問いかけ、誰も答えられないのを見て、その男の先生がこういった。

“あと10年もすれば分かる日が来るだろう。これは人生の宿題にしておく。”」

その最後の歌詞とはこうである。

「若かったあの頃 何も怖くなかった ただ貴方のやさしさが 怖かった」

つまり友人女性から「“貴方のやさしさがナゼ怖かったのか”という意味が今になってもよく分からないから教えてほしい。貴方は国語教師だから分かるでしょう」というわけである。

歌詞の全体を紹介しておかないとフェアではないので、ちょっと長くなるが次のとおり。

「貴方はもう忘れたかしら 赤い手ぬぐいマフラーにして 二人で行った横丁の風呂屋 一緒に出ようねって 言ったのに いつも私が待たされた 洗い髪がしんまで冷えて 小さな石鹸カタカタ鳴った 貴方は私の身体を抱いて 冷たいねって言ったのよ 若かったあの頃 何も怖くなかった ただ貴方のやさしさが 怖かった


いろんな答えが紹介される。

 あなたから優しくされればされるほど、いつか別れの日が来たとき、つまり、今の幸せが失われたときのショックは逆に大きくなると思って怖くなる、だからそんなに優しくしないで。

これが著者の答えだが、直感に頼り過ぎる読み方として友人女性からあえなく却下される。

次に、歌詞の範囲から導けるぎりぎりの論理的な答えとして

 私を粗末に扱う一方で、優しくもしてくれる貴方。もしかしたら、ほかに好きな人がいるのではないか。その優しさは偽りの優しさなのではないか。そう思うと怖くなる。

ところが、「この答えはあまりにもありふれていて“人生の宿題”にはなりません」と、これも否定される。

とうとう白旗を掲げた著者だが、意外にも同僚の数学教師から次のような解答が導かれる。

 この女性は彼との同棲生活に多少の不安を持っています。悪い人間ではありませんが、理想や夢ばかり追って地に足がついていないような、まあ、男はみなそうですが、そういう人間として彼を見ている。もしかしたら別れることを考えていたのかもしれません。

ところが、彼がときどき見せる優しさに触れると、その決意はたちまち揺らいで、またしても彼の胸の中に包み込まれてしまう。コントロールが利かなくなるのです。

神田川は学園紛争全盛の時代を回顧した歌です。当時は親も教師も警察も怖くはなかった。強く出てきたら強くやり返せばよかった。しかし彼は違います。ここというところで優しく接してくるのです。それは無意識のものでしょうがその優しさを前にすると、彼女は険を削がれ無防備になってしまう。自身が操縦不能になってしまうのです。だから、彼の優しさだけが怖かったのです。」

模範解答があるわけではないが、“大人の知恵が盛り込まれている”この解釈こそが正しいと著者は確信する。この新解釈を友人女性に告げると、大いに納得した様子だったが、こうも言った。

「ほんとうは作者に正解が聞けるといいんだけどね」

実はここからがこのブログのポイントになるのだが、著者に言わせると「それはちょっと違う!」

「作者に正解を聞いてもあまり期待できません。理由は簡単です。作者が自分の思いを正確に表現できているとは限らないからです。正解は作者の頭の中にあるのではなく表現の中にこそあります。問うべきは書き手はどういうつもりで書いたかではなく、どう読めるかです。“読み”は文字どおり読み手が主導するものなのです。」

まさに、これはクラシック音楽にも十分通用する話ではあるまいか。

古来、作曲家が残した「楽譜」の解釈をめぐって沢山の指揮者や演奏家たちが独自の読みを行ってきた。たとえば同じ「運命」(ベートーヴェン)をとってみても星の数ほど演奏の違いがあり、演奏時間だって長いのから短いのまで千差万別である。

「いったいどの演奏が正しいことやら。さぞかしベートーヴェンが生きていたらぜひ訊いてみたいものだが」と思ったことのあるクラシックファンはきっと“ごまんと”いるに違いない。

今になってみると、楽譜は作曲家の手を離れて独り歩きをしていることが分かる。いろんな「読み方」があっても当然で、どれが正しいとか正しくないとか、それは鑑賞者自身の手に委ねられているのだ。

卑近な例だが、いつぞやのブログでも紹介したように「吉田拓郎」が作曲した「襟裳岬」が作曲家のイメージとはまったくかけ離れた形で歌手の「森進一」用に編曲されたが、初めはその変わり様にビックリしたものの、そのうちこれはこれで自分の意図した「襟裳岬」ではないかと思うようになった、というのがこのことをよく物語っている。

地下に眠っている大作曲家たちも現代の数ある演奏の中には自分の意図しない演奏があったりしてさぞやビックリしていることだろうが、おそらく全否定まではしないような気がするがどうだろうか。

最後に本書の中で、「いい文章」というのが紹介してあった。ちょっと長くなるが紹介しよう。

「1943年初め、中国戦線に展開していた支那派遣軍工兵第116連隊の私たちの小隊に、武岡吉平という少尉が隊長として赴任した。早稲田大理工科から工兵学校を出たインテリ少尉は、教範通りの生真面目な統率で、号令たるや、まるで迫力がない。

工兵の任務は各種土木作業が主であり、力があって気の荒い兵が多い。統率する少尉の心労は目に見えていた。1944年夏、湘桂作戦の衛陽の戦いで、敵のトーチカ爆破の命令が我が小隊に下った。生きて帰れぬ決死隊である。指揮官は部下に命じればよいのだが、武岡少尉は自ら任を買い、兵4人を連れて出て行った。やがて大きな爆発音がした。突撃する歩兵の喚声が聞えた。爆発は成功したのだ。

決死隊5人は帰ったが、少尉だけが片耳を飛ばされ顔面血まみれだった。なんと少尉が先頭を走っていたという。戦後30年たった戦友会で武岡少尉に再会した。戦中と同じ誠実な顔をされていた。大手製鉄会社で活躍、常務となって間もなく亡くなった。」

さて、これがなぜ「いい文章」なのか、分かる方は相当の「読み手」といっていい。

解答から言うと「書かずともよいことを、ちゃんと書かずにいるからいい」のだそうだ。

たとえば、「なんと、少尉が先頭を走っていたという。」のあとに何もない。結びの部分にも「戦中と同じ誠実な顔をされていた。」とあるだけで、余計な賛辞がない。

つまり
「書くことよりも書かないことの方が難しい。」

このパラドックスを前にして、しばし考え込んでしまった。

どうやら「読み手が想像の世界に遊ぶ余地を残している膨らみのある文章こそいい文章」
のようである。(201頁)

しかし、こればかりは「書く力」と「読む力」の共同作業になるので簡単なことのように見えてとても難しい。少なくとも自分には無理だなあ(笑)~。



 


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ドビュッシーのオペラ「ペレアスとメリザンド」

2018年01月20日 | 復刻シリーズ

50年前くらいの旧い話になるが、当時優れた音楽評論で知られた「五味康祐さん」(作家:故人)が個人的に秘かにメモされていた「クラシック音楽ベスト20」というのがある。

そのうちのベスト10を掲げてみると、

1位 モーツァルト「魔笛」(カラヤン)  2位 ドビュッシー「ペレアスとメリザンド」(アンセルメ) 3位 バッハ「平均律クラヴィーア曲集(ランドフスカ) 4位 「空欄」 5位 バッハ「無伴奏チェロソナタ第1番、2番」(カザルス) 6位 「空欄」

7位 バッハ「三つのピアノのためのコンチェルト」(カサドジュ) 8位 ヴィオッティ「ヴィオリン協奏曲」(ペーター・レヴァー) 9位 フォーレ「ノクターン6番」(エンマ・ボワネ) 10位 モーツァルト「フィガロの結婚」(カラヤン) 

となる。

あくまでも個人的な好みの範囲なのだが、1位に挙げられた魔笛はこれまでのブログでも再三再四述べてきたようにクラシック音楽の最高峰としてまことにふさわしい曲目で、かの文豪ゲーテも魔笛を愛していたし、楽聖ベートーヴェンに至っては魔笛を最高傑作と称え、感銘のあまり「魔笛の主題による12の変奏曲」を献呈している。

私見だが、このオペラを愛好しない限りモーツァルトのほんとうの美は味わえないし、逆説的に言えば魔笛でもってはじめてモーツァルトの美に陶酔できるといえよう。

問題は2位の「ペレアスとメリザンド」である。

あの五味さんが堂々の2位にランクされるほどだからきっと素晴らしい音楽に違いない。

ドビュッシーの唯一のオペラで2時間半にも及ぶ大作を、ちょっと本腰を入れて聴きたかったので2組のCDを求めてみた。

五味さんご推奨の「アンセルメ盤」(2枚組)と、近代のデジタル録音の「ハイティンク盤」(3枚組)である。
              

後者のハイティンクは昔から大好きな指揮者で、彼が指揮したものはハズレがないので何のためらいもなく選んだ。「田園」、「ヴァイオリン協奏曲」(ベートーヴェン)、そしてオペラ「魔笛」などいずれも素晴らしい。

ちょっと、前置きが長くなったが「ペレアスとメリザンド」の内容をネット記事からかいつまんで紹介すると、

「5幕の抒情劇《ペレアスとメリザンド》は、クロード・ドビュッシーが完成させた唯一のオペラである。台本には、著名な詩人モーリス・メーテルリンクの同名の戯曲『ペレアスとメリザンド』が、ほぼそのままの形で用いられている。 

1893年に着手され、およそ10年かけて1902年4月30日にパリのオペラーコミック座で初演された。 

これは、王太子ゴローの弟ペレアスと王太子妃メリザンドによる禁断の恋の物語である。本作の録音は数多く、定期的に上演されているが、オペラ愛好家の間でも、必ずしもすぐに理解できるような作品であるとは見なされていない。しばしば印象主義音楽のオペラと呼ばれるが、しかしこのような皮相な見方は、ドビュッシー自身が遺した解題に楯突くものである。 

旋律法はムソルグスキーの影響を受け、伝統的なアリアとレチタティーボの分離が避けられ、両者が融合されている。つまりフランス語の抑揚の変化がそのままピッチとリズムの変化に置き換えられているため、歌うというより語るような旋律となっており、伝統的な意味での旋律的な要素は目立たなくなっている。

しかしこのようなドビュッシーの旋律概念の再発見(もしくは革新)は、その後のシェーンベルク、ヤナーチェクやバルトークの旋律法(パルランド様式)にも明瞭な影響を与えている。」

以上のとおりだが、「オペラ愛好家の間でも必ずしもすぐに理解できる作品だとはみなされていない」、しかも「歌うというよりも語るような旋律」とは、いかにも取っ付きにくそうだ。

いずれにしろ音楽鑑賞に理屈はいらないので、このオペラをアンセルメ盤とハイティンク盤とぶっ続けで5時間ずっと聴きとおしてみた。こういう曲目はこれまでの経験から「さあ、聴くぞ」と正面から向かい合うとハズレがちなのでミステリーを読みながらBGM風に流してみた。

すると、想像どおりとても一度や二度聴いただけでは理解し難い曲で明らかに万人向けの音楽ではないというのが第一印象。

こんな「ややこしい曲目」がどうして五味さんのような稀代の音楽愛好家の琴線に触れたのだろうか?

それを解くカギが五味さんの著作「西方の音」に記されているので紹介してみよう。(112頁)

「ニイチェはワグナーを捨ててモーツァルトに回帰したが、ドビュッシーもまた、一時はワグナーの熱烈な信奉者だった。文筆家と違って彼はやがて音楽でワグナーを通過し、『ペレアスとメリザンド』を作る。

ワグナーの過度の雄弁や饒舌が我慢なりかねたと、ドビュッシーは言っているが、(言葉で表現できないところから音楽は始まるべきだ)、一方では『従前の歌劇はどうも歌が多すぎる。台詞が詩本来の簡潔さで要求するドラマの進行を、何ものも、音楽さえ(いかにそれが美しく作られていようと)妨げてはならないし、詩が要求せぬ音楽的発展はすべて、間違いだ』

そう言ってペレアスとメリザンドを彼は書いたが、このオペラの画期的傑作に、ワグナーの半音階的和声法を聴きとるのはさほど困難ではない。

白状すると私ははじめてアンセルメ指揮のLPでペレアスとメリザンド全曲を聴いたとき(昭和28年)、音楽というにはあまりに詩的過ぎるその楽想の扱い方に、こんなオペラがあったのかと茫然としたが、その後『ラインの黄金(ワグナー)』全曲を聴いてドビュッシーがワグナーからどれほど多くを汲み取ったかを知った。

ドビュッシーのあの象徴性とワグナーの饒舌とはおよそ両極端のようだが、ワグナーの楽劇がなければ、やっぱりペレアスの絶唱はうまれなかったろう」。

というわけで、自分如きの感性ではとうてい歯が立たなかったはずというのがよく分かった(笑)。

また、この曲目の鑑賞はシステムによっても大きく左右されるようで、CDのように細部にわたって
音のメリハリが利いた写実的な再生スタイルは向いてない気がする。再生装置の責任にするわけではないが、「漠然とした雰囲気感」(?)の再生に優れたレコードの方が断然向いていそう(笑)。

きっと五味さんが愛用されたシステム「タンノイ・オートグラフ」(モニターレッド・イン・オリジナルエンクロージャー)と真空管アンプ「マッキンのC22+MC275」との組み合わせがその真骨頂を十二分に発揮したに違いない。

今回はオーディオ的再生能力が必ずしも音楽鑑賞には良とならないことに気付き、少しばかり慄然としたことだった。



 


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「音楽&オーディオ」を通じて人生の質を高めよう

2017年12月16日 | 復刻シリーズ

今や日本の作家の中で「ノーベル文学賞」に最も近いと言われている「村上春樹」さん。

あまりにも世界的に有名になりすぎたせいか、近年受賞を逸し続けているが、むしろご本人はそういう「ご大層な賞」に無縁であることを良しとし、まったくこだわっていないことが何となく作風から察せられる。

            

その村上さんの本だが、つい最近読んだのが「雑文集」(新刊)。

膨大な作品群があって、とても”ひと括り”には出来ない作家だが、タイトルに「雑文集」とストレートに銘打つところがいかにも”偉ぶらない、もったいぶらない”村上さんらしい。

周知のとおり、村上さんは作家デビュー前にジャズ喫茶を経営していたほどの音楽好きでその「音楽論」には心惹かれるものがある。たとえば、いつぞやのブログで「指揮者小澤征爾との対談集」を題材にしたことがあるが、ジャズのみならずクラシックにも造詣が深いことが伺える。

ただし、オーディオマニアではないのが残念(笑)。

日常聴かれているのは「レコード」が主体で、それはそれで充分頷けるのだがシステムのほうがアキュフェーズのアンプとJBLの古い3ウェイのSPというずっと不動のラインアップ。

「この音が善くも悪くも自分のメルクマールになっている。そりゃあ、いい音で聴くのに越したことはないがオーディオに手間と時間をかける気にはなれない」とのことで、いっさいシステムを変えようとされない。

たしかに一理あるが、
第三者からすると実に惜しい!

作家だけあってものすごく筆は立つし、前述のように音楽への造詣は深いし、カリスマ性もあるし、もし村上さんがオーディオマニアだったら、立派に「五味康祐」(故人、作家)さんの後継になれたのにと思う。

もしそうなると読者の一部がオーディオに興味を持ったりして日本のオーディオ界も随分と潤い、元気が出たことだろう。

ちなみに、ほかに音楽好きの作家といえば「石田依良」さんが浮かぶ。

豪華なオーディオ装置のある部屋で執筆しながら、グールドの弾くモーツァルトのピアノソナタや、オペラ「魔笛」(クリスティ指揮)を愛聴されている。

これから「音楽論」や「オーディオ論」がどんどん出てくることに期待したいが、参考までに
「石田依良」というペンネームの由来はご本人の姓が「石平」(いしだいら)だから。

話は戻って、この「雑文集」の中に「余白のある音楽は聴き飽きない」の標題のもと、以下のような文章があった。

オーディオ専門誌「ステレオ・サウンド」の特別インタビューに応えたもので、オーディオ愛好家にとって随分と励みになるコメントだと思うのでちょっと長くなるが引用させてもらおう。

「僕にとって音楽というものの最大の素晴らしさは何か?

それは、いいものと悪いものの差がはっきり分かる、というところじゃないかな。大きな差もわかるし、中くらいの差もわかるし、場合によってはものすごく微妙な小さな差も識別できる。

もちろんそれは自分にとってのいいもの、悪いもの、ということであって、ただの個人的な基準に過ぎないわけだけど、その差がわかるのとわからないのとでは、人生の質みたいなのは大きく違ってきますよね。

価値判断の絶え間ない堆積が僕らの人生をつくっていく。

それは人によって絵画であったり、ワインであったり、料理であったりするわけだけど、僕の場合は音楽です。

それだけに本当にいい音楽に巡り合ったときの喜びというのは、文句なく素晴らしいです。極端な話、生きてて良かったなあと思います。」

以上のとおりだが、以下、文中の音楽を勝手に「音楽=再生音」と変換させてもらうことにしよう。

オーディオに熱中して随分長くなるが、常にいいの悪いのと価値判断を続けていると時折り自虐的になることがある。

いったい何をやってんだろう、こんなに手間と時間を費やしている割りには目立った成果がいきなり上がるわけでもないし、むしろ、一歩前進、二歩後退のときだってある。

うちのカミさんなんか、「よくもまあ飽きもせずにあれこれ”いじり回してる”けど、ちっとも(音が)変わらないじゃない」と半ば呆れ返っている始末だし、このブログの読者だって「少しばかりの音の差にこだわっていつも騒々しいが、どうもこの人の心理状態がよく分からん。」と、きっと眉を顰める向きがあることだろう(笑)。

そういう多勢に無勢のときに、世界的作家の村上さんから「微妙な小さな差を識別できることで”人生の質”が違ってくるし、価値判断の絶え間ない堆積が人生を作っていく」なんて言葉を聞かされると、まるで「百万の味方」を得たようにうれしくなる。

ここで村上さんが言う「人生の質」とは人それぞれの受け止め方になるのだろうが、少なくとも「お金持ち」になることや社会的に成功する事で得られるものでないことはおよそ想像がつく。

ほんのささやかな「音楽&オーディオ」というフィールドだが、これからも「微妙な差」にこだわりながら「ボケ防止」も兼ねて「人生の質」を高めていこうと決意している今日この頃(笑)。


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ヒューマンエラーを防ぐ知恵

2017年12月04日 | 復刻シリーズ

悲惨な事故のきっかけになることが多いヒューマンエラー。人間の「うっかりミス」による悲劇はいまだに後を絶たない。

たとえば乗り物でいえば、自動車のアクセルとブレーキの踏み間違い、飛行機の整備ミスによる墜落や落下物など枚挙にいとまがない。

地震とか台風とかいった自然災害ならともかく、ヒューマンエラーが原因の事故ともなると、加害者も被害者側にとっても悔やんでも悔やみきれないだろう。

このヒューマンエラーをどうやって防げばよいのか。

「ヒューマンエラーを防ぐ知恵」(2007年3月20日、化学同人社刊)   

著者
:中田 亨氏、2001年東京大学大学院工学系研究科博士課程先端学際工学専攻終了。工学博士。

この本は次のエピソードから始まる。

「ある男が避暑のために静かな田舎に引っ越してきた。ところが、早朝に近所のニワトリの鳴き声がうるさくて熟睡できない。そこで男は睡眠薬を買ってきて、ニワトリの餌に混ぜてみた。」

一見冗談のような話だが、この話は原因を除去するという発想に立つことの重要性を説明しており、事故分析と事故予防を考えるうえで大切な教訓を与えている。

この本の構成は次のとおり。

第1章 ヒューマンエラーとは何か
第2章 なぜ事故は起こるのか
第3章 ヒューマンエラー解決法
第4章 事故が起こる前に・・・・ヒューマンエラー防止法
第5章 実践 ヒューマンエラー防止活動
第6章 あなただったらどう考えますか
第7章 学びとヒューマンエラー 

各章ごとの解説は長くなるので省略するが、第6章「あなただったらどう考えますか」に28の事例があり、興味深いと思ったものをいくつか抜粋してみた。

☆ 医師が書いたメモが悪筆で、部下の看護師が読めない場合どうしたらよいか。

まず、なぜ看護師は読めないメモを医師に突き返さないのかと、素朴な疑問を第一の問題の捉え方とする。

医師と看護師の間で権威の落差(権威勾配)が大きすぎることが問題の原因。これでは、たとえメモの問題が解決したとしても権威勾配を背景にした別の事故が起こりかねない。事故防止のためには、たとえ権威のある人でも行動に間違いがあればそれを正す仕組みを作り出す必要がある。

たとえば偉い人の間違いを正す体験や部下に正される体験をする模擬演習が効果的。
偉い先生が「これから私はわざといくつかミスをするので変だと思ったら質問してください。また、私から「やれ」といわれても、不審な点があったら従わないでください」と宣言し、この訓練を年に1回でも実施する。

(こういう模擬演習に協力してくれるような先生なら、そもそも最初から権威勾配なんて起きそうもないがとは筆者の独り言)

☆ 高速道路をオートバイで二人乗りする場合は事故が少ないといわれているが何故か。

緊張感は人間を慎重にさせる。高速道でのバイクの二人乗りは一歩間違えれば危険な状況であり、バイクの運転者は背後の同乗者の命への責任を感じ安全運転を心がける。周りの自動車の運転者も警戒する。

この緊張感に関連して、古典「徒然草」百九段の箇所が有名。「高名の木登り」。

木から下りようとする人を、木登りの名人が監督していた。高くて危ないところでは何も言わず、低いところになってから”注意せよ”と声を掛けた。

緊張のレベルが高い段階では何も言わなくても自分で気をつける、緊張のレベルが下がる局面で油断が生じ、怪我をしやすい。だからそこで声を掛ける。緊張レベルの適正化
は現代の人間工学でも重要事項となっている。

☆ 名前の呪い

専門用語には名前の付け方が不適切なため誤解や事故のもととなることがある。例えば”自閉症”という字面は”自分の殻に閉じこもっている精神症状”と誤解を招く。なぜ、このような呼称になったのか。

専門用語は学問の歴史と密接な関係があり、発見者が命名権をもち、それが名誉となる。このため、研究が未成熟の段階で憶測を含んだ名称をつけてしまうことが頻発する。

つまり命名は名誉や権力の証ということだが、正しい命名法としては客観的で控えめな名前をつけるべきで憶測や価値観を匂わせる名称は控えること。事柄を何かにたとえた名称も避けるべき。たとえば”うどん粉病”はうどん粉とは関係がない。

以上のほかにも、
・自動車の速度計がアナログ方式とデジタル方式のどちらを選択するか
・人気のラーメン店で店頭で順番を待つのとレストランの店内でオーダーをとられて待つのと客の心理はどう違うかなど面白い事例があった。

さて、読後感だが本書の内容は失敗を予防する面からの記述に尽きるが”失敗は成功の母”という言葉にもあるように、世の中には実際に失敗してこそ成長の糧となるケースも多々あるのは周知のとおり。

卑近な例だが自分も50年近いオーディオ人生の中で数限りない失敗を繰り返し、高~い授業料を払ってきたおかげでどうにか現状の「そこそこの段階」に至った。まあ、けっして自慢できる話ではないが(笑)。

その点、「あとがき」で次のように申し添えてあった。

学 校 → 教えたことを間違えない生徒が有利

社会人 → 間違いをしても原因に気づきその後に生かせるタイプが有利

とあって、「学校での成績が必ずしも社会人としての成功と直結しない」とあった。この辺は実感される方が多いのではあるまいか。

そういえば、「輝かしい学歴と経歴」の持ち主たちが仕出かしたとてつもない失敗事例を思い出した。政策的な失敗は多くの人命の損失、国家の損失につながるのだから、とてもヒューマンエラーで片付けられる次元ではない。

話はあのケネディ政権の時代にさかのぼる。

当時の政権の中枢にいた「一流大学を飛びっきり優秀な成績で卒業し、光り輝く経歴の持ち主」たちが引き起こした「ベトナム戦争」をはじめとした政策の失敗の数々はまだ記憶に新しい。

これらについて鋭く問題提起した本が「ベスト・アンド・ブライテスト」(ハルバースタム著)だが、彼らに欠けていたのは「歴史観と展望力」だと指摘されていた。

「人間の知力とはいったい何か」について深く考えさせられる本である。


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いい音楽は「和気あいあいの演奏」では生まれない

2017年11月11日 | 復刻シリーズ

メル友の「I」さん(東海地方)はこのブログの「ご意見番」として非常にありがたい存在だが、先日のメールで「オーディオネタはもちろん面白いのですが、音楽ネタも大好きです。音楽好きでないとオーディオが始まらないということをひしひしと感じます。」と、あった。

正直言って「オーディオ好き」と言われるよりも「音楽好き」と言われる方がうれしい(笑)。

そういえば、これまでたくさんのオーディオ愛好家とすれ違ってきたが長続きしている人は「心から音楽が好き」という人だけだった。

このブログでいつも小難しい理屈を振り回しているようだがシンプルに言うと、ただただ「いい音楽」を「いい音」で聴きたいというだけである。

というわけで、今回は調子に乗って音楽ネタということでいきましょう。


いつぞやのブログで、指揮者トスカニーニを引き合いに「指揮者とオーケストラの関係が和気あいあいの民主主義ではいい音楽は生まれない」なんて生意気なことを書いたものの、所詮は音楽現場に疎いズブの素人の「たわ言」と受け止められても仕方がない。

そこでオーケストラの一員それもコンサート・マスターとして第一線でバリバリ活躍している方に応援してもらうことにした。

語るのは矢部達哉氏(1968年~ )。

90年に22歳の若さで東京都交響楽団のソロコンンサートマスターに就任して大きな話題を集めた現役のヴァイオリニストである。97年NHK連続テレビ小説「あぐり」のあの美しいテーマ音楽を演奏した方といえば思い出す人もあるかもしれない。

知ってるようで知らない指揮者おもしろ雑学事典」(2006.6.20) 

この本の第4章「指揮者はオーケストラを超えていたら勝ち」に対談形式で述べられていた内容である。

☆ 指揮者とオーケストラが仲良し友だちみたいだと奇跡的な名演は生まれにくいのですか?

生まれにくいと思う。結果的には練習のときに僕が指揮者から怒鳴られて嫌な気持ちはしたけど、その演奏会を思い出すと幸せなんです。その指揮者をものすごく尊敬するし、尊敬の気持ちって一生消えない。仲良く和気あいあいとやった場合に、芸術的な深みのある演奏をした記憶がないんです、残念ながら。

ものすごくいい演奏ができるのは一年に一度か、運がいいと二度、三度かもしれない、そういうときはある種のストレスとか、負荷がかかって舞台にいるんです。すごい緊張かもしれないし、このメロディを綺麗に吹くことができるかどうかっていう瀬戸際かもしれない、そういうことを感じながらみんなが次々にクリアすることが積み重なって奇跡が起こることがある。

ある意味で、そういうストレスとか負荷を与えてくれる指揮者でないと、名演はできない。みんながご機嫌で全然ストレスがなくて、いい指揮者だな、この人はなにか居心地がいいよなっていうときはそこそこしか、いかない
です。

だから、今まで僕が経験した、素晴らしかった演奏というのはいい意味でのストレスは沢山ありましたよ。指揮者からの音楽的な要求が高くて、自分やオーケストラがそこまで行かれるかどうかを考えているときは精神的にプレッシャーがかかるけど、それを乗り越えたときにいい演奏ができる。

☆ コンサートマスターにとって、指揮者とはどのような存在なのですか?

指揮者って本当にミステリー。指揮者がいなくても演奏はできるがレベルをもっと高いところまで持っていくためには、やっぱり指揮者は絶対に必要。

レベルの高いオーケストラには、音楽に対する確固たる信念と個性を持った一流の器楽奏者が沢山集まっています。だから、指揮者はオーケストラの存在を超えているんじゃないかと思わせる人が勝ちなんです。

それはおそらく勉強とか経験とか、耳がいいとかスコアがよく読めるとか、そんなことではダメかもしれない、というのが僕の意見。

「生まれたときからそういう資質がある人じゃないと指揮者にはなれない」と、ある人が言っていますが、指揮者になれないのになっちゃっている人が意外に多いんです。「この指揮者は本物だ」と思える人はひと握り。

本物の指揮者だったら、音楽を離れたときにどんな人なんかあまり気にしない。音楽がものすごく出来て、しかも人間的にもバランスが取れている指揮者なんて、ほとんど聞いたことないです。

本物の指揮者は人並み外れているっていうのが僕の考え。そういう能力があって我々やお客さんに喜びとか幸せを与えられる指揮者なら意地悪だろうとお金に汚い人だろうとかまわないんです。

以上、関連箇所の抜粋だが、随分と歯切れのいい発言でこれが指揮者に対するオーケストラ側のおよその見解とみてもいいだろう。

ところで、以上の話は「演奏」という言葉を「仕事」に置き換えると音楽の世界だけではなく私たちが一般的に働いている職場にも通じるような話になる。

たとえば「なあなあの仲良しクラブみたいな職場ではいい仕事が出来ない」
とは在職中にもよく聞かされた話だが、ともすれば穏やかな雰囲気に流されがちだった我が身にとってはいささか耳の痛い話である。

組織の世界では単なる「いい人」
では済まされないことが多い。とりわけ管理職になると「厳しい上司と忠実な部下」という構図が当たり前のように求められるが、ストレスを受ける部下にしてみれば迷惑千万な話で「居ないのが一番いい上司」と言われる所以である(笑)。

「あいつは悪(ワル)だ」とレッテルを張られることはひとつの勲章といってもいいが、そこはそれ本人の人徳とも微妙に絡んできて「いい人」と「ワル」との兼ね合いはなかなか難しい。

結局のところ、最後の決め手となるのは「組織への忠誠心」と「人間的な誠実さ」にあるような気がするが、その辺が音楽芸術の才能の世界と大きくかけ離れているところだろう。


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音楽のジャンルとは

2017年11月04日 | 復刻シリーズ

音楽のジャンルといえば、まず意識するのが、クラシック、ジャズ、ポップス、歌謡曲などの区分ということになるが、いざこれらを「選り分ける具体的な基準は?」と問われると明快な答えを得るのはそう簡単なことではない。

たとえばクラシックとポップスの違い、ジャズとロックの違い、加えてクラシックひとつとってみても古典派とかロマン派といった分類がある。

    「音楽ジャンルって何だろう?」(1999年12月、新潮選書)  

この本は、そのジャンル分けの基準を研究した著作だった。著者は「みつとみ俊郎」さん。

本書の姿勢は、極端にマニアックな定義ではなく、標準的にこの程度の理解があれば、お互いに意思の疎通ができるような音楽のジャンルを示したというもので、根っこの部分では皆同じ音楽
なのだという考えに立っている。これにはまったく同感。

音楽を聴くときに己の「琴線」に触れるものであれば「モーツァルトも演歌も同じだ。音楽に貴賤はない。」と思っているが、これは一部のクラシックファンにとっては眉をひそめるような話かもしれない。

つい最近のブログで「ちあき なおみ」や「フランク永井」を俎上に上げたところ、クラシック通の知人から申し出があったので「フランク永井」のCD盤を「
貸して」あげたところ、今や大の愛聴盤とのこと。音楽の食わず嫌いって多いんですよねえ(笑)。

「メロディと歌詞」が一体となって切々と訴えかけてくる日本の歌謡曲は心情的にピタリとくるところがあって、やはり
人間の生まれ育ったルーツは争えない。

さて、テーマをクラシックのジャンルに移そう。

歌謡曲などと比べると極めて長い伝統を有するクラシックについてはどうしても身構えるところ多々あるが、いろんな歴史を知っておくと曲趣の理解がより一層増すという利点もたしかに無視できない。

音楽のジャンルを分ける基本中の基本は西洋音階(ドレミファソラシド)とそれ以外の民族特有の言語としての音階をもとに作られた音楽との二種類に分けられるという

「クラシック音楽
の定義」となると一見簡単そうに見えて意外と手ごわい。そもそも定義なんてないに等しいが、結局のところ、古さ(歴史)、曲目の奥深さ、作曲家自身の多彩な人間像などがポップスなどとの境界線になる。

以上を踏まえて、クラシック音楽のジャンルの中味をそれぞれ定義するとつぎのようになる。以下、堅苦しくなるので興味のない方はどうか素通りを~。

Ⅰ ルネッサンス音楽
14世紀から16世紀にかけてのヨーロッパ・ルネッサンスの期に書かれた音楽作品の総称

Ⅱ バロック音楽
1600年から1750年ぐらいまでのヨーロッパの音楽を指す。大型の真珠の形のいびつさを形容するbarrocoというポルトガル語がもともとの語源で「ゆがんだ」「仰々しい」といった意味合いを持つ。

イタリア
モンテベルディ、ヴィヴァルディ、コレルリなど多彩な作品が多くバロック音楽をリードした。

フランス
リュリ、ラモーなどのクラブサン(チェンバロ)に特徴づけられ、オペラの中にバレエが頻繁に使われたのもフランスならでは。

イギイス
ヘンリー・パーセルが様々な作品を残し、ヘンデルがイギリスに帰化して「メサイア」などの完成度の高い、劇的な作品を数多く残した。

ドイツ
シュッツが宗教音楽を数多く残し、
バッハが宗教曲、器楽曲に数多くの傑作を残した。

Ⅲ 古典派音楽
ハイドン、モーツァルト、ベートーベンの初期までを中心とした1800年次前後のおよそ30年間のヨーロッパ音楽の総称。
メロディと伴奏がはっきり分かれるホモフォニック形式で作られているのが特徴で、これを音楽のスタイルとしてまとめたのがソナタ形式。

Ⅳ ロマン派音楽
19世紀始めごろから印象主義の始まる19世紀末までの作曲家たちで、もっとも多い。古典派のように形式にとらわれず旋律が自由で伸び伸びしており、メロディ主体の音楽が多い。

ベートーベンは古典派とロマン派の過渡期に位置しているがほかに、シューベルト、シューマン、ブラームス、ショパン、ヴェルディ、プッチーニ、ビゼー、ベルリオーズ、

そして、後期ロマン派としては、ワーグナー、マーラー、ブルックナー、リヒャルト・シュトラウス、ムソルグスキーなどのロシア5人組、チャイコフスキー、グリーグ、スメタナ、ドヴォルザーク。

Ⅴ 印象派の音楽
近代音楽の幕開けを飾るドビュッシーやラベルなどのフランスの作曲家たちの音楽スタイル。
音楽の特徴はモネなどの絵画のように全体のつくりの焦点をぼやけさせ、始まりと終わりを合理的に解決しないところ。イギリスのディリアスなどの作品も印象派音楽として位置づけられる。

Ⅵ 近代音楽
ロマン派音楽と現代音楽との橋渡し的な役割として理解される面が多い。
ストラビンスキー、バルトーク、シベリウス、スクリャービン、シェーンベルク、ベルク、そして、ショスタコーヴィッチとプロコフィエフ。

Ⅶ 現代音楽
第一次大戦終了後から現在に至るまでの音楽を総称して現代音楽と呼ぶ。この中に含まれる音楽スタイルはさまざまで現在もなお進行中のジャンル。電子音楽の試みをしたシュトックハウゼン、前衛的なアプローチの第一人者ジョン・ケージ、自然音を楽器によって模倣しようとしたメシアンなどがあげられる。

最後になるが、本格的なクラシックの歴史がバロック時代(1600年~)からとすると今日までおよそ400年経過したことになる。一方、絵画の世界ではダ・ヴィンチの傑作「モナ・リザ」が描かれたのが1500年頃だからこちらの方が100年ほど古い。

西洋芸術の粋は音楽と絵画に尽きると思うが、いったいどちらに優位性があるだろうと、ときどき妙なことを考えてしまう。

ついては、ずっと以前の朝日新聞の「天声人語」にこんな記事が載っていた。

「絵画は音楽に負ける」と冒頭にあって「音楽に涙する人は多けれど、絵画で泣いた話はめったに聞かない」とあり、興味深いのは音楽側の人の発言ではなく、昭和洋画壇の重鎮、中村研一氏の言ということ。

耳からの情報は五感の中でも唯一脳幹に直結しており、感情が生まれる古い脳に最も近い。

だから、音楽を聴いて一瞬で引き込まれ、涙することもある。音楽の効用の一つに感情の浄化だと言われるのはそのためだ。

この天声人語の最後はこんな言葉で結ばれている。

「心がうらぶれたときは音楽を聴くな」(笑)。




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「昔の指揮者は良かった」症候群

2017年10月29日 | 復刻シリーズ

「昭和33年」(2006年12月、布施勝彦著、ちくま新書)という本がある。
                                             

著者の執筆動機が表紙カバーに次のように書かれている。

「映画”ALWAYS 三丁目の夕日」を見て多くの中高年と、なぜか20台の若者までが”あの頃は良かった”と涙を流した。昭和30年代を黄金期とする言説がある。あの頃は日本が一番輝いていた、貧しかったが夢と希望のある時代だったという。だが、本当にそうだったのだろうか?」

こういう問いかけのもとに、本書は昭和33年当時の政治、経済、社会、国際情勢などを具体的に数字を交えて一つ一つ克明に追っていく。そして結局のところ世界で最も豊かな先進国の一つとなった今の日本の方がはるかに生活しやすく、人々も幸せに暮らしていると分析し、過去への幻想を切り捨てて未来志向へと切り換えなさい、というのがその趣旨だった。

人間は押しなべて「あの頃は良かった」と過去を美化しがちな傾向があるのは否めない。

いわば、「昔は良かった症候群」。

それも、”昔は”と言うくらいだからそろそろ人生のゴールが見えてきた中高年層にその比率が高いだろうし、さらには当時を振り返ることで自分の「若さ」が持っていた可能性や夢といったものを懐かしむ側面もきっとあるに違いない


さて、「この昔は良かった症候群」に関連して、つい音楽の世界を連想してしまった。


たとえば、指揮者の世界。

トスカニーニ、フルトヴェングラーなど1950年代前後を中心に活躍した往年のマエストロたちに対する賛美はいまだに尽きない。

フルトヴェングラーは先年の「レコード芸術」で50人の評論家と読者による名指揮者ベスト・ランキングで堂々と第1位に選ばれており、トスカニーニも第4位と健闘しているほどで、だれもその卓越した指揮振りに口をはさむ者はいない。

                                 

それに比べて今の指揮者の評価は一般的に「スケールが小さくて小粒だ、芸術性に乏しい」などの厳しい評価が後を絶たない。

「昔の指揮者は実に良かった」!

しかし、本当にそうなのだろうか?「昭和33年」のようにいたずらに過去を美化しているだけではないのだろうか。


と、いうわけで、現代の指揮者を客観的に見てみると、一番大切とされる「作曲者の意図を理解して忠実に再現する能力」は往年のマエストロに比べて少しも遜色はないように思える。

たとえば、自分の知っている範囲では、「春の祭典」を聴いて度胆を抜かれたワレリー・ゲルギエフ、「魔笛」のDVDを視聴して感心したフランツ・ウェルザー・メスト(現クリーブランド管弦楽団音楽監督)、ヨーロッパで活躍されている大野和士さんもオペラの指揮で多彩な才能を発揮されている。

しかし、残念なことに昔とは決定的に違うところがあって、それは当時の指揮者たちが絶対的な権力を持つことが許されていたこと。

トスカニーニなどは練習中に楽団員たちに”のべつくまなく”罵詈雑言を浴びせ、絶対服従を強いた。その結果当時の録音を聴くとよく分かるが、楽員たちが一糸乱れぬまるで軍隊の行進のように緊張しきって演奏しているのがよく分かる。

楽団員全員の神経が張りつめた「緊張感あふれる演奏」、ここに指揮者のカリスマ性が生まれる余地がある。

フルトヴェングラーも似たようなもので、楽団員たちが「マエストロの指揮にならついていける」と、心酔していたからあのような神がかった演奏が達成できた。

これに比べて、今の指揮者たちは当時とは時代背景がまったく変わってしまっているのがお気の毒~。すっかり民主化という波が押し進められ絶対的な地位が失われて、団員たちとの距離もすっかり近くなってしまった。

ユニオンという背景もあって、音楽以外の雑用も気にしなければならず、これでは指揮者が自分の個性を十二分に発揮しようがないのも事実。

それにもう一つ決定的な違いがある。

1950年代前後は周知のとおりクラシックの黄金時代とされているが、「芸術(クラシック)と娯楽の境界」が現代と比べて比較的はっきりしていたので、指揮者に対する尊敬と称賛が自然に注がれていた。

それに引き替え、現代は両者の境界というか垣根が徐々に低くなってきていて、まあ平たく言うとクラシックが地盤沈下したのか、あるいは全般的な娯楽の質と量が向上したのか、それとも両方の相乗効果か、いずれか定かではないが、どうかするとクラシックが娯楽並みに「コマーシャル・ベース」や「暇つぶし」の感覚で扱われるようになっている(ブルーノ・ワルター談)。これでは指揮者の社会的に占める位置づけも当然変わろうというものだ。

結局、「昔の指揮者は良かった」というのは事実だろうが、「当時は取り巻く環境に恵まれていたからね」というエクスキューズが必要な気がするがどうだろうか。


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オーディオ満足度と対数関数

2017年06月18日 | 復刻シリーズ

つい先日のこと、行きつけの図書館の新刊コーナーに次のような本があった。タイトルは「人生を変える数学、そして音楽」。

                           

「数学」と「音楽」とを関連づけて述べるなんて、まことにユニークな視点だと思いつつ、はたしてどんな方が書かれたんだろうかと興味を引かれて末尾にある著者のプロフィールを見ると驚いた。

「中島さち子」さんという方で、1979年生まれの大阪府ご出身で「東京大学理学部数学科卒」。

「学歴」というのはこれまでの経験上あまり当てにならないが(笑)、高校2年生の時に国際数学オリンピック・インド大会で金メダルを獲得という勲章には心から敬服した。しかも日本人女性の受賞は後にも先にも唯一人というからすごい。

現在一児の母として、またジャズ・ピアニストとして活躍されているそうで、こういう方なら「数学」と「音楽」について述べる資格が十分あるに違いないと、いそいそと図書館での借入手続きを済ませた。

余談になるが、人間を文系、理系で大雑把に分けるとすると、音楽好きはどちらかといえば理系に多いというのが、自分の大まかな見立てである。

代表的なのがあの「相対性理論」で有名な物理学者アインシュタインで日頃からヴァイオリンを”たしなみ”つつ「死ぬということはモーツァルトを聴けなくなることだ」という有名な言葉があるほどで、天才が楽しんだ趣味を凡人が同じレベルで味わえるなんて、音楽ぐらいではあるまいか。

ちなみに自分は(文系、理系の)境界線に位置しており、都合によってどちらかに変色するカメレオンみたいな存在である(笑)。

さて、本書をざっとひととおり目を通してみたが、前半は数学の面白さについて、中程は数学と音楽のつながりについて、後半は音楽の楽しさについて述べられている。

正直言ってなかなか高度な内容だった。自分のような冴えない人間が理解するのはたいへんというのが率直な感想。

読後感を書こうにも隔靴掻痒の感があるので、数学にもっと素養のある方が読めばこの本の奥深さを的確に伝えられるだろう。


さて、数学の面白さで印象に残ったのが「オイラーの公式」として紹介されていたもの。(28頁)

「1/1の二乗」+「1/2の二乗」+「1/3の二乗」+「1/4の二乗」・・・・・=π(パイ)の二乗/6

何でもない数式なのに「解」となるとなぜか急に、「円周率π(パイ)」が登場してくるという数学の神秘な世界には恐れ入った。

折しも、先日の深夜放送(NHKーBSハイ)では数学界最大の難問とされる「リーマン予想」(素数の並び方の規則性)についての番組が放映されていた。素数とはこれ以上分解できない数をいう。(2、3、5、7、11・・・・・)

素数だけを使った数式が円周率πと関係しているという興味深い番組だったが、あまりに魅力的な命題のため、深入りし過ぎて精神に異常をきたした幾人もの数学者たちが紹介されていた。


この「リーマン予想」が証明されると宇宙全体の真理の解明に寄与するという。これは素人考えだが、そもそも太陽系の惑星はすべて球体だし、円というものが万物の基本形なのは間違いない。したがって、あらゆる局面に円周率πが顔を出してくるのは当然のことであり、大切なSPユニットだってほとんどが円形だ。ホーンも円形にしなくては~。エッ、ちょっと意味不明(笑)。

さて、前置きが長くなったがいよいよ本題に入ろう。

本書の194頁に次のような話が紹介されていた。以下、引用。

「ウェーバーの法則によると、人はお金持ちになればなるほど金銭感覚が変わってきます。

例えば、所持金100万円の人が所持金200万円になる嬉しさと、所持金1億円の人が1億100万円になる嬉しさは、(同じ100万円増えても)違いますよね。~略~

これは一定の金額が増えたときの嬉しさは所持金に反比例するということです。この”微分不定式”を解けば、
嬉しさは”対数関数”で表されるとわかるのです。対数関数なんて、なんだか難しい関数によって嬉しさが表されるなんて・・・・少し面白いと思いませんか?

音の大きさに驚く感覚も、このように音量に反比例するので対数関数になっています。」

こうして分かりやすく説明してもらうと、オーディオでも思い当たる節が沢山ありますねえ。

たとえば低域用に使っている20センチ口径を複数使うときのエネルギー感覚についても同じことが言える。

つまりウーファー1発のときに比べて2発のときは√2(≒1.414)倍、3発のときは√3(≒1.732)倍、4発のときは√4(=2倍)となるのもそう。

お金で換算すると、1発10万円として、2発(20万円)のときのエネルギー感覚は1.4倍にしかならないし、3発(30万円)のときにしても1.7倍に過ぎない。突っ込むお金に対してけっして倍々ゲームにならない。


そういうわけで、どこまでもキリのない高得点の世界を狙うのがはたして妥当なのかどうか、対数関数に照らし合わせてみるとまったく「非効率の極み」と思うのだが、こればかりは分かっちゃいるけど止められない(笑)。

オーディオは理屈や数式で割り切れないところに究極の面白さがあるようだ。


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指揮者「トスカニーニ」の虚しい顔

2017年05月21日 | 復刻シリーズ

大好きなオペラ「魔笛」(モーツァルト)の50セット近くに亘るCD盤、DVD盤の視聴を飽きもせず繰り返し聴いているが、久しぶりに見方を変えて指揮者に焦点を当ててみよう。

綺羅星の如く並ぶ数ある指揮者の中で一番印象に残るのは1937年のライブ演奏をCD盤(当時はSP盤)に遺してくれた伝説の指揮者「
トスカニーニ」である。

          

トスカニーニの芸術を表現するにはこれ以上ない名文があるのでそっくり引用させてもらう。引用先は
「栄光のオペラ歌手を聴く」(2002年4月、音楽の友社刊)の序文。

「アルトゥーロ・トスカニーニ。20世紀に活躍した指揮者たちの中でも、その偉大さと名声において、疑いなく五指のうちに入る人物である。その彼が、ときにひどく虚しい顔をしていることがあったという。

自分が指揮した演奏会の後に、である。うまくいかなかったから、ではないらしい。オーケストラがミスをしたから、でもないらしい。それなら、彼は烈火のごとく怒り狂うばかりで、おとなしくしているはずがない。

演奏会が特に良い出来で、指揮者も演奏者も聴衆も、一体となって完全燃焼できたような晩にこそ、彼は虚しい顔をした、というのである。

理由は、想像するに難くない。

今、たった今体験した音楽が、もはやあとかたもなく虚空に消えて、自分の肉体だけが現世に残っていることに、彼はどうしようもない喪失感を味わわされていたのだろう。

それが演奏家たるものの宿命であった。

画家は絵を、彫刻家は彫像を、建築家は建造物を、詩人は詩を、作曲家は楽譜を形として現世に遺す。

しかし、演奏家は、トスカニーニが生まれた19世紀後半までの演奏家達は、聴衆の思い出の中にしかその芸術を留めることができなかった。彼と、彼の聴衆が死に絶えれば、その芸術は痕跡すら残らない。以下略」

以上、音楽に完全燃焼する指揮者トスカニーニの面目躍如たる姿を伝えている文章である。これは彼がいかに演奏に熱心に取り組み愛しぬいていたかの証左であり、そのまま作品の充実感、完成度につながっていく。これほどの感情移入がなければ名演、名盤は生まれてこない。

この魔笛のライブが終了したときにも同様にきっと彼は虚しい顔をしたに違いない。この日から、今日まで80年が経過している。当時、劇場にいて鑑賞年齢にふさわしい30歳以上の人が現在まで生きているとすれば全員が110歳以上になる。まず、大多数が生き残っておらず、当日の演奏の模様を詳しく語れる人はもういない。

しかし、私達は当日の演奏を機器の性能が十分でないためまことに雑音の多いソースとなったが、このCDライブ盤により微かにでもその痕跡を偲ぶことができる。よくぞ形として遺してくれたと思う。それほど、この魔笛CDライブは不滅の輝きを放っている。

中でも、当時の名歌手ヘルゲ・ロスヴェンゲ(タミーノ役:テノール)の熱唱が際立っている。ロスヴェンゲは同じ1937年にビーチャム盤にも出演して録音しているがまるっきり緊張度、歌唱の密度が違う。いろんな見方があるのだろうが、指揮者によって歌手とはこんなに燃え方が違うものかといういい見本だろう。

トスカニーニ(1867~1957:イタリア)は指揮者というまだ海のものとも山のものともいえない職業に決定的な意味をもたらした最初の人物といわれている。

原譜に忠実で、いかなる主観的な解釈も許さないという姿勢を貫いた。この高度な要求を実現するためにオーケストラとも妥協せず、自分の意に添わない楽員の演奏には激しい怒りの爆発でまくしたてた。このため、楽員の誰もが緊張感に張りつめて全力で演奏しようとした。

オペラを指揮するときも同様で、「椿姫」のプローベ(予行演習)のときに求めるリズムに従わなかったという理由で、有名なバリトン歌手ロバート・メリルのところに駆けつけて頭を指揮棒でたたいたという。(「指揮台の神々」134頁)

それでもこうした侮辱的な目にたえず遭っていながら、楽員や歌手達からは真の意味での賛辞が捧げられた。

こうしたマエストロに似たタイプが現代の音楽界に是非蘇ってきて欲しいし、それはとても意義あることと思うが、才能以前の問題としてオーケストラ楽団員の「人間性と自発性」の尊重などで時代がすっかり変わってきているのでとても無理な相談だろう。

今どきの指揮者がトスカニーニみたいなことをやっていたらすぐに「ボイコット運動」が始まってしまうのがオチだ。


しかし、近年の音楽界を見ると、いい演奏にとって果たして「和気合い合いの民主主義がいいのかどうか」素朴な疑問が湧いてくる。やはり昔の幾多の名演を知る者にとっては現状は少々物足りない。やたらにスマート過ぎて、胸が打たれるような演奏がないのだ。

聴衆にとっては、上質の音楽が鑑賞できさえすればよいのであって必ずしも民主的なやり方にこだわる必要は何もないと思うのだが、やっぱり無理かなあ~。
                      


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眼に蓋あれど耳にふたなし~その2~

2017年04月30日 | 復刻シリーズ

(前回からの続きです)

「苦情社会の騒音トラブル学」という本は、読んで字のごとく「騒音トラブル」に対して様々な角度から分析した学術専門書だった。

図書館で、ふと見かけた「騒音トラブル」の文字が気になって、手に取ってざっと目を通したところタメになりそうだったので借りてきたが、実際に読み出すと想像以上に堅苦しい内容。とても半端な覚悟では読みづらいこと間違いなしなので、けっして万人向けではない。
                          

著者の「橋本典久」氏は、大学教授でご専門は音環境工学。

「騒音トラブル」といえば一般的に、二重窓にしたり防音室を作ったり、とかくハード面から考えがちだが、本書では「概論」「音響工学」「心理学」社会学」「歴史学」「解決学」といった、様々な角度から同じような比重で分析されており、視野の広さを感じさせる。

とりわけ、心理学の面から騒音問題を考察している部分がとても面白かった。以下、そっくりそのまま「受け売り」として抜粋させてもらおう。なお※部分は筆者が付け足した部分。

 騒音の定義とは音響用語辞典によると、端的には「いかなる音でも聞き手にとって不快な音、邪魔な音と受け止められると、その音は騒音となる」。このことは騒音が極めて主観的な感覚によって左右されることを物語っている。これではまるでセクハラと同じである。

※ 好ましい異性からのアプローチはセクハラやストーカー行為にはなりえない。同様に、好ましい相手が出す音は当人にとって騒音にはなりにくいというのは興味深い!(笑)

 上記の定義を別の表現で示せば「”うるさい”と思った音が騒音」となるが、なぜ”うるさい”と感じるかは学問的に明らかにされていない。音量の大きさが指標となるわけでもない。たとえば若者はロックコンサートの大音量をうるさいとは思わないし、また風鈴の風情ある小さな音でもうるさいと感じることがある。複雑な聴覚心理のメカニズムが騒音トラブルを生む大きな要因となっているが、これは今後の重要な研究課題である。 

 明治の物理学者「寺田寅彦」は次のように述べている。「眼はいつでも思ったときにすぐ閉じられるようにできている。しかし、耳の方は、自分で閉じられないようにできている。いったいなぜだろう。」これは俗に「眼に蓋あれど、耳に蓋なし」と称されるが、「騒音トラブル」を考えるうえで、たいへん示唆に富んだ言葉である。 

 人間の体はミクロ領域の生体メカニズムからマクロ領域の身体形態までたいへん精緻に作られており、耳に開閉機構がない事にも当然の理がある。これは人間だけではなく、犬や猫などほとんどの動物が基本的に同じだが、その理由の第一は「外敵への備え」である。敵が発する音はもっとも重要な情報源であり、たとえ眠っているときでも常に耳で察知して目を覚まさなければいけないからである。

 騒音トラブルの相手とはつまり外敵にあたる。その外敵が発する音は自分を脅かす音であり、動物的な本能の働きとして否応なしに注力して聞いてしまうものである。こういう聴覚特有の働きが、現代社会に生きる人間の場合でもトラブルに巻き込まれたとき現れてくるのではないだろうか。

 こういう話がある。「ある著名な音楽家が引っ越しをした先で、どこからか子供のピアノの練習音が微(かす)かに聞えてきた。そのピアノは、練習曲のいつも同じ場所で間違うのである。最初のうちは、また間違ったというぐらいであったが、そのうち、その間違いの箇所に近づいてくると、「そら間違うぞ、そら間違うぞ、やっぱり間違った」と気になり始め、ついには、そのピアノの音が聞えてくると碌に仕事も手につかなくなった。その微かにしか聞こえないピアノの音はいつしか音楽家にとっては堪えがたい苦痛になり、ついには我慢できず、結局、また引っ越しをする羽目になった」。

 なぜそんなに微かな音を一生懸命聞いてしまうのか。それは普通の人には何でもない音であるが、音楽家にとって間違った音というのは一種の敵だからである。敵に遭遇すると自然に動物的な本能が働き、敵の音を一生懸命に聞いてしまうのである。これは音に敏感とか鈍感とかの問題ではなく動物としての本能であり、敵意がある限り、このジレンマからは逃れることができない。

※ これを読んでふと思いついたのだが、もしかして、常に生の音に接している指揮者や演奏家にとって電気回路を通したオーディオの音とは「不自然な音」として外敵に当たるのではないだろうか。
音楽家にオーディオ・マニアがほとんど見当たらないのも、そもそも「聞くと不快になる」のがその理由なのかもしれない。 そして、気の合う仲間のオーディオは「いい音」に聞え、そうでない人のオーディオは「ことさらにアラを探したくなる」のもこの外敵意識が微妙に影響しているかもしれないと思うがどうだろうか。

 一方、敵意がない場合はかなり大きな音でもうるさくは感じない。たとえば先の阪神大震災の折、大阪の淀川堤防の一部が液状化のため破壊された。大雨でも降れば洪水を引き起こしかねないと、昼夜を分かたず急ピッチで復旧工事が行われたが、数週間にわたるこの工事騒音は近隣の住宅にとって大変大きなものだったろう。

しかし、当然のことながら、夜寝られないなどの苦情は一切寄せられなかった。むしろ、夜に鳴り響く工事の騒音を復旧のために一生懸命働いてくれる心強い槌音(つちおと)と感じていたことであろう。

とまあ、いろんなエピソードを挙げればきりがないほどだが、281頁以降の肝心の「騒音トラブルの解決学」を見ると、初期対応の重要性が指摘されており、手に負えないときは公的機関の相談窓口も紹介してあるが、法曹界には「近隣関係は法に入らず」という格言があるように、あまり当てにはできないようだ。

結局、「騒音トラブル」対策の要諦は「その1」の冒頭に掲げた「ピアノ殺人事件」のように、「迷惑かけているんだからスミマセンの一言くらい言え、気分の問題だ・・・・・・」に象徴されるようである。

誰にとっても「人間は不可思議な生き物、この生き物を理解することは一番難しくて永遠の課題」だが、なるべく日頃からご近所とは仲良くとまではいかないまでも、せめて「外敵と見做されないように」工夫することが、騒音トラブル回避の要諦のようだ。


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