goo blog サービス終了のお知らせ 

「音楽&オーディオ」の小部屋

クラシック・オーディオ歴40年以上・・身の回りの出来事を織り交ぜて書き記したブログです。

眼に蓋あれど耳にふたなし~その1~

2017年04月29日 | 復刻シリーズ

昔、昔、そのまた昔、日本が高度経済成長を遂げている華やかりし頃の昭和49年(1974年)、神奈川県のとある県営住宅で「ピアノ殺人事件」が起こった。

4階に住む無職の男性(46歳)が階下のピアノの音がうるさいと、33歳の母親と、8歳、4歳の2人の娘の計3人を包丁で刺し殺した実に痛ましい事件である。季節はうだるような暑さの夏。

被害者の部屋には黒光りした真新しいピアノが置いてあり、その隣の部屋には「迷惑かけているんだからスミマセンの一言くらい言え、気分の問題だ・・・・・・」との犯人が残した鉛筆の走り書きがあった。逃走した犯人は3日後、自ら警察に出頭したが、その後、自首したにもかかわらず死刑判決が確定した。

この事件は”いたいけな”幼児までもが2人も犠牲になるという、あまりの惨劇のためまだ記憶に残っている方がいるかもしれないが、「騒音」が「殺人」に至るほどの深刻な問題になることを提起したものとして当時、世の中を震撼させ、その後もずっと語り継がれている。

オーディオ装置で毎日、音楽を聴いている自分にとっても、それほど広大な家に住んでいるわけでもなし、「騒音問題」はとても他人事では済まされない問題である。世の中には音楽好きの方もいれば興味のない人もいる。いや、むしろ興味を持たない人の方が多いが、そういう方にとっては音楽は単なる騒音に過ぎない。

そこで、折にふれ、直接、騒音被害を蒙る対象の”向う三軒両隣”に対して、「うるさくないですか?」と訊ねることにしているが、「いいえ、全然~」という返事が異口同音に返ってくる。

「ウソをおっしゃいますな!」

近所付き合いの手前、きっと遠慮されているに違いないと、およその察しはつく。あまり甘えてばかりでもいけないので、お客さんが来たとき以外はできるだけ控えめの音量で聴くことにしている。

組織で働くときの上司と部下、そして自宅の隣近所は残念なことに自分で選択することはできないものだが、たまたま、(隣近所が)”いい人たち”に恵まれて「ほんとうに運が良かった」と胸をなでおろしている。

気の合わない人間と一緒に働くことになっても2~3年ほど辛抱すれば、異動があって顔を見なくて済むようになるが、隣近所ばかりは簡単に家を売って逃げ出すわけにはいかない。

丁度、日本にとって「一衣帯水」の地「中国」や「韓国」をイヤだからと避け続けるわけにはいかないようなものである。


都会のマンション暮らしでオーディオを楽しまれている方には、両隣のほかに上下の階が加わるので「騒音トラブル」がもっと切実な問題であることは想像に難くない。

したがってオーディオ愛好家は”すべからく”「騒音」に対する加害者、被害者の両方の立場から、日頃それなりの知識を蓄えておくのも悪くはあるまいと思う。

というわけで、「苦情社会の騒音トラブル学」という本を紹介しておこう。冒頭の「ピアノ殺人事件」も本書からの引用である。

                          

以下、次回に続く~。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

疲労医学の研究

2017年04月24日 | 復刻シリーズ

今や春たけなわだが、今年の冬を振り返ってみると体感的にことさら寒かったという記憶がある。

たとえば、以前は毎日のようにトレーニングジムに通っても全然疲労感を覚えなかったのに、今年の冬は2~3日に1回ほどは何となく気が進まない日があって、そういうときは用心をとって休んでいた。もっとも、これは何も寒さのせいではなくて寄る年波のせいかもしれない。

そういうわけで、自覚症状だけに頼っている自分の体調が果たして医学的に見て「いい状態なのか、悪い状態なのか」いまいち判然としないのがどうも不安なところ。

つまり、現状が果たして「トレーニングのやり過ぎなのか、逆にやり足りないのか、あるいはこれを乗り越えるともっと体力が増強できるのか?」という選択肢がどうもよく分からない。

こういうときに自分の現在の「疲労度」がピタリと何らかの数値で示されれば十分納得して休養を摂るか、あるいは運動を続行するのかその辺の按配がうまくいくのにと思う人は意外に多いのではなかろうか。

その点、人間に比べて金属材料の「疲労度の測定」は十分に調査研究が行われているようだ


もちろん致命的な箇所における金属疲労によって飛行機が墜落したり、架橋が崩落したりして多数の人命が一度に失われる危険性があるので”ゆめゆめ”放置できない分野である。

金属の疲労とは、破壊力以下の微小応力が繰り返し負荷されることによって機械的強さが低下し、破壊する現象。

いささか専門的な領域になるが次の技術用語によってきちんと分類されている。もちろん本の受け売りだが題名は忘れてしまった。

1 疲労強度
一定回数の周期的応力を負荷した場合に破壊に抗する最大応力

2 
疲労寿命
疲労破壊にいたるまでの応力負荷の繰り返し数

3 
疲労限度
無限に繰り返し負荷しても疲労破壊を起こさない応力振幅の最大値

この指標によって現在、多くの材料の綿密な研究がなされたうえで膨大なデータが蓄積され構造物の建造や機器の生産における安全設計にきちんと反映されている。

ところが、残念なことに私たち人間の身体にとってこれらのような「疲労強度」、「疲労寿命」、「疲労限度」に当たるような指数が何一つ分かっていないのが実状である。

「人間さまよりも金属の方がそんなに大事なのか?」なんて思いたくなるほどだ。

もっとも、人間にとっての疲労は肉体的疲労のみならず精神的疲労も加わるために
物理的な測定が難しいし、個々の人間によってストレス耐性も違うので万人共通のスタンダードが設定されていないのもよく分かる。

もし人間の疲労メカニズムが深く解明されて各人ごとに簡単な検査で疲労度の数値が客観的なデータとして把握できるようになればあの電通の新入社員のような過労死などの悲劇は起こらなくなるし、もっと安心できる平和な世の中になるに違いない。

これに関連して、以前のブログで「オーバートレーニング症候群」
について紹介したことがある。

これは、スポーツ医学の見地から、トレーニングのしすぎによる一種の慢性疲労の状態を指したもので、主な症状は次のとおり。

基 本 症 状  
疲労感+パフォーマンス低下

その他の症状  
たちくらみ、動悸、息切れ、体重減少

重症になると   
不眠、意欲低下、うつ状態

これらの症状を客観的に見分ける方法として
「朝起きたときに脈拍をとる習慣を身につけると良い、疲労はまず脈拍に表れ、1分間に5~10拍以上増えていればトレーニングを控えたり抑える」。

これは朝日新聞の日曜版に掲載されていた記事だったが、そうはいっても脈拍を毎朝とるのも面倒だし、ときには心配事や家族との”いさかい”の名残で血圧とともに異常に高くなっている場合だってある(笑)。

それにヤル気満々の頑張り屋さんにとってはいろんなマイナスの自覚症状を、むしろ怠惰な自分自身を許すまじとして叱咤激励の発奮材料に使う場合だって十分あり得る。

というわけで、たとえばの素人考えだが血液検査には実にいろんな検査項目があり「好中球」「リンパ球」などの免疫指数があるので、これらを動員させて総合的に疲労度を判定できる指標があると現在の自分がどういう状態か即座に分かるし、今後の健康維持にとっても大いに役にたつ。

これはいわば、「予防医学」の範疇に入るのだろうが「疲労医学」
をもっと掘り下げて調査研究してもらえると病気の予防にも効果があってが医療費の抑制にもつながると思う。

ただし、むやみに長生きを願望し「大きな塊が年金を食いつぶす」と評判の悪い”団塊の世代”以降は「世の中に役に立っている就労者」を除いて医療費は保険適用外が妥当だろう。

自分なんかはもちろん適用外に区分されるし、そもそも早く死んだ方が世の中のタメになるのは間違いなし(笑)。
           


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

美人は得をするか「顔」学入門

2017年04月09日 | 復刻シリーズ

今回の「復刻シリ~ズ」は6年前に登載した「美人は得をするか顔学入門」である。それでは以下のとおり。

「顔」のことを話題にする資格はサラサラないが、「人は見た目が9割」という表題の本があるように単に両親からもらっただけの「顔」のために人生の「幸せ度」が大きく左右されるのはなんとも納得がゆかない話だと、昔からずっと思ってきた。

そう、自己の努力とはまったく関係ない「生まれつきの顔」のせいで~。

たとえば、超「就職氷河期」の昨今、面接で若い人たちが次から次に振り落とされているのを見聞すると心からお気の毒に思う。

人に与える印象に何がしかの影響を及ぼすのはやっぱり「顔」というのは争えない事実だから、次第に自己嫌悪の罠にはまりやすい虞が十分ある。

そもそも「顔」とは人間にとってどういう意味とか位置づけを持っているのだろうか。

「美人は得をするか、”顔”学入門」(2010・9)集英社新書)は、そういう疑問に社会的、科学的な見地からアプローチした文字通り「”顔”学」そのものの本だった。

           

著者の「山口真美」さんは現在、中央大学教授で「日本顔学会」の理事。「日本顔学会」なんてあることを初めて聞いたが巷には眼や耳鼻咽喉の学会があるだろうから、とても大切な顔の学会があってもいいのかも
(笑)。

そして、本書を読んで顔に対するこれまでの認識をすっかり改まってしまった。

結論から言えば
「この社会で生きていく上で顔の美醜はそれほど問題ではない、表情の豊かさこそがはるかに重要です。」と、いうわけ。

そこで、「表情の豊かさ」とは何か、というわけで本書の読みどころは後半にある。

「第4章 第一印象は顔が決め手か」と「終章 顔を巡る、もう一つのお話~自分の顔を考える~」に著者の主張は集約されている。

表題の「美人は得をするか」の回答らしきものもこの第4章で出てくる。

読解力不足のせいもあって「隔靴掻痒」の感を免れないだろうが、せめてポイントと思しきものを抜粋しておこう。

☆ 顔の進化

目、鼻、口と言った感覚器官が集中する場所が顔と定義すれば、そもそも顔は、口から進化したといわれている。

口はエネルギーを摂取する器官であるから、身体の前にあると便利。そのため口のある方向が生物の進行方向になった。

顔はたくさんの脂肪と筋肉がからまるようにして出来上がっている。筋肉には二つの役割があって、それは表情を作ることと、食べ物を噛み砕くことにある。

☆ 表情こそが、その人の顔である

表情をあらわす顔は様々な筋肉で出来ている。長年の生活の積み重ねによって顔への筋肉のつき方は変わり、さらに歳を取れば、それが明確な皺となってあらわれる。

顔の筋肉は、その人がどんなものを食べ、どんな表情で人生を過ごしてきたかをあらわす証のようなもの。

つまり人相は柔軟に変えられるものであって、もって生まれた骨格による人相だけでその運命が決まるわけではない。

「年をとったら自分の顔に責任を持ちなさい」。


☆ よい顔、悪い顔

顔の社会的な役割とは、まず、その人が誰であるかを知るための必要な看板として、次にその人が今、どんな感情を抱えているかの情報を提供するためにある。

取り分け感情的な情報の提供は社会の中ではとても重要なメッセージ。

「よい顔」とはこの大切なメッセージを表現できる顔であり、悪い顔はその逆。

入社試験や入学試験で面接があるのは、姿かたちや表情からこうした社会的な処世術が出来ているかどうかを試している。

以上のとおりだが、世の中にはいろんな駆け引きを要するケースで心の動きを相手に悟られないために意識的に無表情を装うことが多々あると思うが、そういうときでさえ顔の筋肉の使い方がなかなか難しい(笑)。

なお、表題の
「美人は得をするか」の回答だが、それほど単純なものではない。そもそも美人の定義がひとくくりにできないのが難点。

もし、美人が標準的な造作の美しい顔だとすると、それは美しいだけに終わってしまい、いずれ飽きられ、忘れ去られてしまう。

したがって、その人の持つ個性的な魅力〔表情)こそが人の記憶にずっと残っていくものだが、魅力とは人それぞれで受け止め方が違ってくるので、結局、スパッとした答えは出されていない。

最後に、謎かけをひとつ。

「防犯カメラの機能の向上で整形外科医が繁盛すると解く」 
そのこころは?

つい先日のNHKテレビで東京で開催されたセキュリティ・システムの展示会が報道されていた。

たくさんの防犯グッズが紹介される中で取り分け印象に残ったのが「防犯カメラ」にコンピュータと連動させて人の顔と氏名を記憶させるシステムが 完成したこと。

たとえば、カメラが該当人物を部屋の入り口で認識すると「○○さん、いらっしゃいませ」と声を出して案内するシステム。

たった一つの表情でも記憶させておくと、三次元の映像で解析して”うつむき顔”でも”横顔”でも認識するというから驚く。

それが、本書によるとさらに進化していて「指名手配」の顔写真を全国の防犯カメラに連動させ、コンピュータによって自動的に犯人を割り出すというSFまがいの便利なシステムが研究途上にあるという。

したがって将来はあらゆる主要なポイントに防犯カメラを置いておくだけで「指名手配犯」が次々にキャッチされることに。

おそらく将来は全国的に警察官の配置も様変わりすることだろう。

何せこちらが捕まえに行かなくても、相手から「飛んで火に入る夏の虫」

そうなると、指名手配犯も用心して「顔」の整形をするために整形外科医に行くというわけ。

ただし、本書によると人間の顔で一番重要なのは「目、鼻、口の配置〔間隔)」で、この整形をするとなると莫大な費用がかかってしまう~。

結局、違う顔に生まれ変わるのが一番手っ取り早いようだ(笑)。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ロシア人の寿命が短い理由

2017年04月03日 | 復刻シリーズ

今回の「復刻シリーズ」は6年前に投稿した「ロシア人の寿命が短い理由」です。それでは以下のとおり。

ピアニストの「エフゲニー・キーシン」、ヴァイオリニストの「ワディム・レーピン」ともにまだ40歳前後と芸術家としては比較的若年ながらも現代のクラシック界を背負って立つほどの逸材だが、いずれもロシア出身
というところが共通項だ。

文学界の頂点に位置するドストエフスキーをはじめ昔から幾多の優れた芸術家を輩出してきた「芸術大国ロシア」。

ただし日本ではロシアという国に対してあまりいいイメージを抱かない方が多い。自分もそうだ。

第二次世界大戦終了時に日ソ不可侵条約を踏みにじって、まるで火事場泥棒のように北方領土を強引に奪った事実は歴然として残っている・・・。

表と裏の顔の落差が激しそうな国だが、なにしろ興味のある国なので何でも知っておこうと日頃からそれとなくアンテナを張っているところに、なかなか面白い本が見つかった。

「ロシア人しか知らない本当のロシア」(2008.11、日経新聞社)

                                      

著者の「井本沙織」さんは、モスクワ生まれ。ソ連崩壊直前の1991年に中央大学の研修生として来日、98年経済学博士、02年日本に帰化、05年より内閣府、06年大和総研入社とある。

完璧な日本名だが本書を通読してみると生粋のロシア人のようで、道理で
現代のロシアの実状を知るには実に分かりやすいと思える書籍。

第一章 オンリーイエスタデイ 様変わりした祖国

第二章 ロシア経済を救ったのは火星人?

第三章 ソ連の風景 ロシアの暮らし

第四章 新生ロシアの祝祭日事情

第五章 ロシアは資本主義国になったのか

この中で一番興味を引かれたのは第三章の中の「ロシア人はなぜ寿命が短いのか」というくだり。

ロシアの人口は1993年の1億4860万人をピークに減少傾向にある。直近の2007年1月時点では1億4220万人で1年間で56万人減少した。

国際連合の世界人口予測(06年)によると、ロシアの人口減少のスピードは日本を上回って推移し、2050年時点では1億783万人とピーク時の約4分の3に縮小する。21世紀末には半減するという悲観的な予測もある。

その人口減少が加速している要因だが出生率低下という先進国共通の問題だけではなくアフリカ並の異常に高い死亡率
が挙げられる。

ロシア人の平均寿命は男性がおよそ59歳、女性が72歳で日本の79歳、85歳と比べて短命ぶりが際立っている。

1965年~2005年の40年間で日本人男性の平均寿命は10歳延びたが、ロシア人男性は逆に5歳短くなっている。

高死亡率の原因は一概には言えないがアルコールが原因の一つであることは明白。

一人あたりの年間消費量は英国と並ぶ水準だが、英国はビールが主流なのにロシアはウオッカなどのスピリッツ(蒸留酒)が70%超でアルコール度数が高い酒の大量摂取が心臓血管疾患、肝硬変の要因になっている。

おまけにロシアは離婚率も高いがその最大要因もアルコール中毒が51%を占めている。

ソ連解体後の社会・経済的な混乱に伴うストレスからの逃避による飲酒、それと「ウオッカが安すぎる」ことも一因とか。

要約すると以上のとおりだが、あの広大な国土に人口が日本と同じくらいというのがまず驚きだが、何といっても男性の寿命が日本とは20歳も違っていて59歳というのは要注目
である。

平均的なモノサシになるが自分などはロシアに生まれていればとっくの昔にこの世に存在していない勘定になるのでホントに身につまされてしまう。

本書は女性の視点から書かれたものなのでアルコールの摂取に厳しい見方をしているが、ああいった厳寒の地ではアルコールを止めろといっても皮下脂肪に恵まれた女性は別として男性はとても無理だと思う。

以前のブログ
「寒い地域でイスラム教が広まらなかったのはなぜ?」で書いたとおり、厳寒地では身体を中から温めて寒さを凌ぐ習慣が根強くアルコールは生活必需品並で、豚肉のタブーには耐えられても禁酒というタブーにはイスラム教といえども耐えられなかったというのがその理由だった。

結局、アルコール摂取という高いハードルを前にしてロシアにおける高死亡率改善の難しさが伺えるところだが、こういう状況を踏まえてロシアの男性は「短命」
に対してどういう人生哲学を持っているのだろうかとつい気になってしまう。

厳寒、荒涼たる大地などの厳しい外的要因と否応なく短く終えてしまう人生は「芸術」などへの内省的なアプローチの密度の濃さと決して無縁ではないような気もする。

そういえばロシア出身の芸術家といえば男性に限られており、女性はいっさい見かけないようだが自分が知らないだけかな~。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

男性は女性よりなぜ早死に?

2017年03月26日 | 復刻シリーズ

今回の「復刻シリ~ズ」は7年前に登載した「男性はなぜ女性より早死に?」である。それでは以下のとおり。

周知のとおり男性はXYの染色体(女性はXXの染色体)を持っているが残念なことにそれは基本仕様ではなく、生まれたときに片方にそのY遺伝子という貧乏くじを引いたばかりに女性よりも短命になっているという話である。

    「本が好き」〔光文社月刊誌:2008年6月号)    

本誌に「できそこないの男たち~Yの哀しみ~」(36頁)というのがある。著者の福岡伸一氏は青山学院大学理工学部(化学・生命科学科)教授。

2009年7月17日時点で日本人男性の平均寿命(生まれたばかりの男子の平均余命)は79歳であり、対して女性の平均寿命は86歳。ゼロ歳の時点ですでに7年もの差がある。

「女性の方が長生きできる」
この結果はすでに人口比に表れている。現在、日本では女性の方が300万人多いが、今から50年たつとその差は460万人にまで拡大する。

男女数の差は年齢を経るほどに拡大する。80歳を超えると男性の数は女性の半分になる。100歳を超える男性の数は女性の5分の1以下にすぎない。中年以降、世界は女性のものになるのである。

どうして男性の方が短命であり、女性のほうが長生きできるのだろうか。

☆ 
男の方が重労働をしているから

☆ 
危険な仕事に就くことが多いから

☆ 
虐げられているから

☆ 
男の人生の方がストレスが大きいから

いずれももっともらしい理由だが、7年もの平均寿命の差を生み出す理由としては薄弱である。

著者が着目したのは上記の理由がいずれも環境的要因に限られていることで、むしろ生物学的な要因
に原因があるのではと焦点を当ててさらに検証が進められていく。

その結果、世界中のありとあらゆる国で、ありとあらゆる民族や部族の中で、男性は女性よりも常に平均寿命が短い。そして、いつの時代でもどんな地域でも、あらゆる年齢層でも男の方が女よりも死にやすいというデータが示される。

結局、生物学的にみて男の方が弱い、それは無理に男を男たらしめたことの副作用
とでもいうべきものなのだという結論が示される。

その証として、取り上げられるのが日本人の死因のトップであるガン。

ガンは結構ポピュラーといっていい病だがそれほど簡単にできるものではない。細胞がガン化し、際限ない増殖を開始し、そして転移し多数の場所で固体の秩序を破壊していくためには何段階もの「障壁」を乗り越える必要がある。

つまり多段階のステップとその都度障壁を乗り越えるような偶然が積み重なる必要があって、稀なことが複数回、連鎖的に発生しないとガンはガンにはなりえない。

それゆえに、確率という視点からみてガンの最大の支援者は時間
であり、年齢とともにガンの発症率が増加するのは周知のとおり。

もうひとつ、ガンに至るまでに大きな障壁が横たわっている。それが個体に備わっている高度な防禦システム、免疫系
である。

人間が持つ白血球のうちナチュラルキラー細胞が、がん細胞を排除する役割を担っているが、何らかの理由でこの防禦能力が低下するとガンが暴走し始める。

近年、明らかになってきた免疫系の注目すべき知見のひとつに、性ホルモンと免疫システムの密接な関係がある。

つまり、主要な男性ホルモンであるテストステロンが免疫システムに抑制的に働く
という。

テストステロンの体内濃度が上昇すると、免疫細胞が抗体を産生する能力も、さらにはナチュラルキラー細胞など細胞性免疫の能力も低下する。これはガンのみならず感染症にも影響を及ぼす。

しかし、テストステロンこそは筋肉、骨格、体毛、あるいは脳に男性特有の男らしさをもたらすホルモンなのだ。

男性はその生涯のほとんどにわたってその全身を高濃度のテストステロンにさらされ続けている。これが男らしさの魅力の源だが、一方ではテストステロンが免疫系を傷つけ続けている可能性が大いにある。

何という「両刃の剣」の上を男は歩かされているのだろうか。

以上が「Yの哀しみ」の概略。

結局、「男性がなぜ女性よりも早死に?」の理由は「男性に生まれたばかりにYというありがたくない染色体を無理やり持たされ、男らしさを発揮した挙句に早死に」というのが結論だった。

しかし、何やかや言ってみても今度生まれ変わるときはまた男性に生まれたいと願っているが、皆さまはどう思われますか?(笑)


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

音のエチケット

2017年03月20日 | 復刻シリーズ

 春日和の3連休(18~20日)ということで、「復刻シリ~ズ」2日つづきのサービスです。今回は8年ほど前に投稿したタイトル「音のエチケット」です。

それでは以下のとおり。

小さい頃からなぜかミステリーが大好きで、江戸川乱歩やコナン・ドイルにはじまって、名作「Yの悲劇」で有名なエラリー・クィーン、あるいは推理作家の登竜門といわれる江戸川乱歩賞受賞作品まで内外の話題作はほとんど読んでいるつもり。

もちろん謎解きの面白さに魅かれてのことだが、加えて雑学的にもタメになることが多い。

最近、偶然読む機会があって面白いと思ったのが次の本。

 「人生に必要なすべてをミステリーに学ぶ」(1994年:同文書院)  

著者は馬場啓一氏である。ご覧になった方もあるかと思うが、この中の「古今東西”音のエチケット”」が特に印象に残ったので紹介しよう。

さて「マフィアに”おなら”」とかけて何と解く。

ご承知かと思うが欧米では身体から発する音は全てエチケット違反である。おならに限らず、ゲップもダメ、お腹が鳴る音もだめ、ものを飲み込む音でさえもアウト。

これらを我慢するのは日本人にとっては結構大変なことだが、なにしろ生活上のルールだから彼らとお付き合いをする以上従わなければしようがない。

当然スープを飲む音もダメでバリバリとかバシャバシャと噛む音も絶対ダメなのである。欧米人には民族的歴史や経験の違いがあるのだろうが、彼らは固いフランスパンだって音もなく食べてしまう。

深田祐介氏のエッセイに部下にラーメンを音を立てて食べろと命令するのがある。ところがこの部下が英国人であったから、この命令がとてつもなく大きな意味を持ってくる。

取り澄ました紳士の代名詞である英国紳士に、音を立ててラーメンを食べさせようというのである。さあ、どうなる?

結果は英国人の負けで、彼はどうしてもズルズルと音を立てて食することが出来なかったのである。もちろん、英国人だってラーメンをズルズル食べることは可能である。

しかし、それは英国人である誇りとメンツを失うに等しい、というのがその部下の本音だったのであろう。彼の歯と口には音を立ててものを食するというデータがインプットされておらず、それを行うには民族としての誇りを失う必要があったのである。こうして「エチケット=マナー」には意外と深い意味が込められているのだ。

冗談でよくいわれるのは、もし日本が太平洋戦争に勝っていたら、食後に歯を楊枝でシーハーする作法を世界中の人々が学ばねばならなかっただろうという話で、この逸話はマナーというものには絶対的な基準というものがなく相対的な存在であることを示している。

戦争に強いアングロ・サクソン系のマナーが、幸か不幸か世界の一般的常識となってしまったのでやむなく我々東洋人もこれに右を倣えしなくてはならないのだ。

さて随分と寄り道をしたが「マフィアに”おなら”」への解答である。

リチャード・コンドンの書いた「プリッツイズ・ファミリー」でいつでも好きなときに低音から高音まで自由自在に音を発する”おなら”の名人が登場し、マフィア・ファミリーの余興の人気者になる。

西洋人にとって大切なルールを平気で破る芸をあえて賞賛することで治外法権といえば大げさだが”ムラ”的な存在であるマフィアと”おなら”とが、彼らの中で一本ちゃんとつながっているのが分る。

したがって「マフィアに”おなら”」とは、「ファミリー独自のルール=マナーでお互いに結束を確認し合っている」と解く。

これを敷衍すると、洋画をみていると登場人物がヒックをしたりゲップをしているシーンを時折見かけるが、あれはその人物がルールに従わない人間であることを暗示しており、またその場に相手がいる場合にはその人物を軽んじていることを示唆しているそうだ。

ところで先般、ネットでヤンキースの松井選手が居並ぶ外人記者の前で大きな音で”おなら”をして平然としていたとの記事をみかけた。本年で契約切れとなる松井には高額年俸に見合う実績が伴なっていないとかでシーズン当初から放出の噂みたいな記事が絶えない。

松井ほどの人物が西洋人のエチケットを知らぬはずがないので、これはそのウップン晴らしなんだろうか。それとも単に神経が図太いだけなんだろうか。真相は松井のみぞ知る。            

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

耳トレ!

2017年03月19日 | 復刻シリーズ

今年(2017)から「日曜 ~ 月曜日」に限って、これまでのブログの中でいまだにアクセスが絶えない記事をピックアップしてお届けしているが、今回は5年ほど前に投稿したタイトル「耳トレ!」である。それでは以下のとおり。 

「音楽&オーディオ」を愛する人間にとって「耳が遠くなる」ことほど悲しいことはない。自分などは、そうなるともう死んだ方がマシとさえ思うが、悲しい現実として聴力は20歳ころをピークに徐々に低下しはじめていき、65歳以上の4人に1人、75歳以上の2人に1人は補聴器が必要な状態だ」と、ショッキングな書き出しで始まるのが「耳トレ!」(2011.10.3)である。

                      
 

大学教授で現役のお医者さんが書いたこの本には「耳の健康」に対する情報が満載で実に”ため”になる本だった。

以下、とりわけ興味を引いた点を自分自身のために忘れないように箇条書きスタイルで整理してみた。

なお、の部分は自分勝手な独り言なのでけっして鵜呑みにしないようにしてくださいな(笑)。

☆ 難聴の大きな要因は「騒音」と「動脈硬化」

2007年10月、日本の国立長寿医療研究センターから「加齢と難聴には相関関係がない」というショッキングなニュースが発表された。主として難聴に関係していたのは「騒音」と「動脈硬化」の二つだという。

「騒音」の原因には「騒音職場」とともに「ヘッドフォン難聴」「イヤフォン難聴」が挙げられ、
一方の「動脈硬化」は言わずと知れたメタボリック・シンドロームである。

この二つは日常生活の中で十分予防が可能だが、今の段階から一人ひとりが心がけていかない限り、近い将来「大難聴時代」がやってくることは必至だ。

☆ 日本語は世界一「難聴者」にやさしい言語

どの国の言語にもそれぞれ固有の周波数帯というものがあり、母国の言語を繰り返し聞いて育つうちにその周波数帯以外の音を言語として聞き取る脳の感受性が失われていく。

そのため生後11歳くらいまでには母国語を聞いたり発音する能力に特化した脳が出来上がる。

日本語で頻繁に使われる周波数帯は125~1500ヘルツで、英語は200~12000ヘルツと随分と違う。日本語は世界の言語の中でもっとも低い周波数帯の言語で、英語は世界一高い周波数帯の言語である。

したがって、英語民族は高齢になると早い段階で高い音が聞き取りにくくなって不自由を感じるが、日本人はすぐには不自由を感じない。その点で日本語は世界一難聴者にやさしい言語である。

 これは一人で二か国の言語を操るバイリンガルの「臨界期」が10歳前後と言われる所以でもある。また、英語圏の国で製作されたアンプやスピーカーなどのオーディオ製品には、高音域にデリカシーな響きをもったものが多いが、これで謎の一端が解けたような気がする。その一方で、とかく高音域に鈍感な日本人、ひいては日本のオーディオ製品の特徴も浮かび上がる。

☆ 聴力の限界とは

音の高い・低いを表す単位がヘルツなら、音の強さや大きさ(=音圧レベル)は「デシベル(dB)」であらわす。
 

人間が耳で聞き取ることのできる周波数の範囲は「20~2万ヘルツ(空気中の1秒間の振動が20回~2万回)」の間とされているが、イルカやコウモリなどは耳の形や構造が違うのでこの範囲外の超音波でさえ簡単に聞き取れる。 

ただし人間の場合は20ヘルツ以下の音は聴覚ではなく体性感覚(皮膚感覚)で感じ取り、2万ヘルツ以上の音(モスキート音)は光や色として感じ取りその情報を脳に伝えている。

 人間の耳は一人ひとりその形も構造も微妙に違うし、音を認知する脳の中味だって生まれつき違う。したがって同じオーディオ装置の音を聴いたとしても各人によって受け止め方が千差万別というのが改めてよくわかる。

自分でいくら「いい音だ」と思ってみても、他人にとっては「それほどでもない」という日常茶飯事のように起こる悲劇(?)もこれで一応説明がつくが、音に光や色彩感覚があるように感じるのは超高音域のせいだったのだ!

☆ 音が脳に伝わるまでの流れ

耳から入った空気の振動は外耳道と呼ばれる耳の穴を通り、アナログ的に増幅されて鼓膜に伝わり、アブミ骨などの小さな骨に伝わってリンパ液のプールである蝸牛へ。そこで有毛細胞によって振動が電気信号に変換され、聴神経から脳に伝わる。これで耳の中の伝達経路はひとまず終了。

この電気信号が言語や感情と結びついた「意味のある音」として認識されるまでにはもう少し脳内での旅が続く。

電気信号が聴神経や脳幹を経て脳内に入ると、まず、大脳の中心部にある「視床」に送られる。ここは、脳内の情報伝達の玄関口となっている。視覚、聴覚、皮膚感覚などあらゆる感覚情報が必ず通る場所で、単純に音だけを聴いているつもりでも、様々な感覚情報とクロスオーバーしている。

また「視床」を通過すると音の伝達経路は「言語系ルート」と「感情系ルート」の二つに大きく分かれる。前者は最終的に「言語野」に到達するが、後者は大脳の一次聴覚野を通らず、いきなり「扁桃体」に直結していて「イヤな音」「うれしい音」というように音を直感的・情緒的に受け止める。

※ 音楽を聴くときにカーテンなどでスピーカーを隠してしまったり、あるいは目を瞑って聴いたりすると、機器の存在を意識しないでより一層音楽に集中できるのは経験上よく分かる。

さらに、直感的なイメージとしてオーディオマニアが音楽を聴くときには主として「感覚系ルート」がはたらき、それ以外の人たちが(音楽を)聴くときには主として「言語系ルート」が働いているように思うが果たしてどうだろうか・・・。

ほかにも本書には「音楽好きための難聴予防テクニック」など貴重な情報が満載で、末永く「音楽&オーディオ」を楽しみたいと思われる方は是非ご一読されることをお薦めしたい。
 
 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

爆笑!大江戸ジョーク集

2017年03月13日 | 復刻シリーズ

今年(2017)から「月曜日」に限って、これまでのブログの中で今でもアクセスが絶えない記事をピックアップして登載しているが、今回は7年ほど前に投稿したタイトル「爆笑!大江戸ジョーク集」である。それでは以下のとおり。

たまには肩の凝らないジョークの紹介をしてみよう。

「爆笑!大江戸ジョーク集」(2007.11.10、笛吹明生、中公新書刊  


「幕府高官、大名から市井の人々まで、彼らはこの天下太平の江戸時代をどのように過ごして「笑い」にしてきたか。それは現代のサラリーマン社会に通じるものがあるはず。いつだってジョークは庶民の楽しみ!」
という前置きのもとに本書の中から三点ほど抜粋してみた。

☆ “唐渡り”

中国製品というと現時点では”やや不安"のイメージが拭いきれないが、当時の「唐渡り」というとありがたいように思える。これは、江戸の昔、中国からの輸入品に偽装があったという話である。

【唐渡りの雀を、お殿様に献上することになった。ところが目録の記載に一羽足りない。目録を直すのはたいへんなので、日本の雀を一羽加えて誤魔化しておいた。

ところが、目の肥えたお殿様は、一目で日本の雀を見破った。「唐の雀とは珍しい献上品よのう。だが、日本の雀が一羽混じっておるようじゃな」

殿様に言い当てられた日本の雀、「恐れながら申し上げます。私は通訳なのでございます」】

☆ “素行調査”

【江戸城表御殿で、密談が行われていた。
「このたびの人事でござるが、この者を勘定方へ役替えいたす所存でござる」
「ふむ、いかような人物じゃ?」
「それはもう。文武に励み、性は篤実。生活ぶりも質素倹約。勘定方へうってつけの人物でござる。」
ならばよかろう、と決しかけたとき、別の者が口を挟んだ。
「お待ちください、目付けによる人物評価が届いてござる。それによると、なんと、長唄の稽古に通っているとのこと」
一同は嘆息した。
長唄といえば、色っぽい女師匠がつきもの。弟子はそれを目当てに入門する。謹厳実直な幕府高官でも、それぐらいは知っている。
「長唄はいかんな。別の者にいたせ」
こうしてせっかくの出世をふいにした御家人の趣味は、実は和歌、ウタ違いの三十一文字を習っていたのであった。】

☆ “・・・・・臭い”

江戸時代は建前社会である。建前さえあればどんな理不尽でも横車でも通る。

【土屋能登守野泰直は急な病に倒れた。まだ23歳の若さなので跡継ぎもいない。どうも病が重そうだというので、弟を養子にする届出をした。根回しを受けた老中は
「病と申すが、まだ能登守は若い。急いで養子をせずともよいのではないか?」
「いえいえ、こればかりは・・・・・・・・」
「ふうむ、・・・それでは養子ということで。大事にいたせ」
養子の手続きには大目付が出向き、親戚なども立ち合う。むろん、病気療養中の土屋能登守泰直本人も・・・・・・・。
さて、手続きが済み、養子となった弟・土屋英直は病臥中の兄に改めて、「父上」と挨拶する。
大目付も能登守に「このたびは跡継ぎを得られて祝着(しゅうちゃく)至極」
と言葉少なに挨拶して終了する。
さりげなく座を外した一同、いっせいに外の空気を吸って、「やれやれ、臭い病人だ」
土屋能登守はとっくに死んでいるのだった。】

解説

実話である。常陸土浦藩九万五千石の土屋能登守泰直は23歳の青年大名であったが、亡くなったのは寛政二年(1790)五月三日で、現代の暦では六月十五日にあたる。実際に亡くなったのはもっと前なので、季節柄かなり臭かった・・・はずである。

手続きに立ち合う大目付も、許可した幕府もとうに亡くなっていることは知っているが、そこは目を瞑(つむ)って、生きているつもり、で押し通したのである。
                        


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

脳は何かと言い訳する

2017年03月06日 | 復刻シリーズ

今年(2017)から「月曜日」に限って、これまでのブログの中で今でもアクセスが絶えない記事をピックアップして登載しているが、今回は7年ほど前に投稿したタイトル「脳は何かと言い訳する」である。それでは以下のとおり。
 
「脳はなにかと言い訳する」(平成18年9月15日、祥伝社刊)   

本書は脳にまつわる知識や考え方を述べた本、といえばかた苦しそうだが従来の「脳の本」には載っていないような新しい知見が紹介されている。興味を引いたものを2項目紹介してみよう。

なお、著者の池谷裕二氏は薬学博士で、現在東京大学大学院薬学系研究科・講師。

☆ 脳はなにかと錯覚する~ヒトも動物も、なぜか「赤色」が勝負強い~

2005年5月の「ネイチャー」誌に掲載された科学論文に英ダーラム大学の進化人類学者ヒル博士の研究成果として「赤い色は試合の勝率を上げる」という話題。

たとえば、ボクシングやレスリングなどの格闘競技では、選手のウェアやプロテクターに赤色と青色がランダムに割り当てられる。

ヒル博士がアテネ・オリンピックの格闘競技四種の試合結果を詳細に調査した結果、すべての競技について、赤の勝つ勝率が高いことが分かった。赤の平均勝率は55%というから、青よりも10%も高い勝率になる。実力が拮抗した選手同士の試合だけを選別して比較したところ、赤と青の勝率差はなんと20%にまで拡大した。

赤は燃えるような情熱を、青は憂鬱なメランコリーを暗示する傾向があるのは民族を越えて普遍的であると考えられている。

自然界においても赤色は血や炎に通じるものがあるようで、サルや鳥類、魚類でも一部の体色を赤色に変えることで攻撃性を増したり異性に強くアピールしたりする種がある。

ヒル博士は赤色が相手を無意識のうちに威嚇(いかく)し、優位に立ちやすい状況を作るのではないかと推測している。もしかしたら「真っ赤な顔」
で怒るというのもそれなりに意味のあることなのかもしれない(笑)。

☆ 脳はなにかと眠れない~睡眠は情報整理と記憶補強に最高の時間~

何かを習得するためには、ひたすら勉強すればよいわけではない。睡眠をとることもまた肝心であるという話。

2004年7月「ニューロサイエンス」誌に掲載されたチューリヒ大学のゴッツェリッヒ博士の論文は、睡眠による「記憶補強効果」を証明した。

ある連続した音の並びを被験者に覚えさせ、数時間後に音列をどれほど正確に覚えているかをテストしたところ、思い出す前に十分な睡眠を取った人は軒並み高得点をはじき出した。

ところが驚くことに、目を閉じてリラックスしていただけでも、睡眠とほぼ同じ効果が得られることが分かった。つまり学習促進に必要だったのは睡眠そのものではなく周囲の環境からの情報入力を断ち切ることだった。つまり脳には情報整理の猶予が与えられることが必要というわけ。

それには、ちょっとしたうたた寝でもよいようで、忙しくて十分な睡眠が得られなくても、脳に独自の作業時間を与えることが出来れば、それで十分なのである。

これは不眠症の人や、重要な仕事を明日に控えて緊張してなかなか寝付けない人には朗報だろう。眠れなくともベッドで横になるだけで、脳にとっては睡眠と同じ効果があるのだから。

そう、眠れないことをストレスに感じる必要はないのだ。ただし同博士によるとテレビを見ながらの休憩は効果がないとのこと。あくまで外界から情報を隔離する
ことが肝心。

以上のとおりだがこれは自分自身でも体験して思い当たる節がある。というのは、ときどき夜中にバッチリ目が覚めてしまい以降なかなか寝付けないことがあるが、眠れなくてもいいと開き直って目を瞑って横になっているだけでも随分と違う。

逆に途中で起き上がってゴソゴソやったりするのが一定期間続くと耳鳴りとかいろんな体調不良を覚えた経験がある。生体リズムが狂って自律神経(?)がおかしくなったのかもしれない。

作家:吉村昭さん(1927~2006)の本に出てくる話だが、吉村さんは若い頃結核だった時期があり、それも手術を要するほどの重症患者で、長期間、日中でも絶対安静にしてじっと寝ていたそうだが「意識は覚醒したまま横になって体を休めておくというのも慣れてしまうとなかなかいいものだ」という記述があった。

自分に言わせると死んだ方がマシともいえるこういった退屈な時間をそう思えるほどの境地になるのはなかなかできないことだと思った。吉村さんの作風には他の作家にはないゆったりとした時間の流れを常々感じていたのだが、若い頃にそういう体験が背景にあったのかと思わず頷いたことだった。

これを読んで以来、寝付けなくてもあまり苦にしないようにしたが、逆にこの頃では外界の情報を遮断して冷静に考えるには1日のうちで最も適した思考の時間
ではないかと大切にするようになった。

眠れなくてあれほどあせっていた人間が今度は逆に不眠の時間を楽しむようになる、ほんとうに人間は気持ちの持ちようで随分と変わるものである。

とはいえ、やっぱり熟睡できるのが一番だ。

これも結局、自分の脳がなにかと言い訳をした結果かもしれない(笑)!
 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

クラシック ゴシップ

2017年02月27日 | 復刻シリーズ

今年(2017)から「月曜日」に限って、これまでのブログの中で今でもアクセスが絶えない記事をピックアップして登載しているが、今回は5年ほど前に投稿したタイトル「クラシック ゴシップ」である。それでは以下のとおり。

「音楽は哲学よりもさらに高い啓示である」と語ったのは楽聖ベートーヴェンだが、一般的に知的でお堅いとされるイメージを持つクラシックの作曲家たちも、一皮むくと一癖も二癖もある生身の人間たちだったというのが「クラシック・ゴシップ!」~いい男、ダメな男、歴史を作った作曲家の素顔~(2011.9.7、ヤマハ・ミュージック・メディア)という本だった。

                           

著者はフリーライターで音楽関係の著作が多い上原章江さん。

興味本位で読んでみると、これまで自分が多少なりとも蓄えていた知識とそれほど食い違っているわけでもなく、なかなか正鵠を射ている本だと思った。それを裏付けるように巻末の「主な参考文献」には36冊もの専門書が挙げてある。

目次を追ってみると次のとおり。

第一章 おなじみ三大巨匠にまつわる”噂の真相”

J・S・バッハ  生涯働き続けた、真面目で頑固なマイホームパパ

孤高の哲学者? はたまたストイックな数学者?/子供はなんと20人。頑張れ!働くお父さん/夫婦円満のコツは、亭主関白?

モーツァルト  子供のように無邪気な天才は、本当に愛妻家だったのか?

名だたる作曲家の中でも、ズバ抜けていた神童ぶり/早熟な天才肌は金勘定が苦手・・・/世間知らずゆえ、やり手の未亡人に手玉にとられる/妻・コンスタンツェは本当に悪妻だったのか?

ベートーヴェン  野暮で不器用で孤独。母性本能をくすぐる色男!?

ルックスで女心をくすぐる要素はほぼゼロ?/次々と淑女たちを引きつけた魅力の秘密/いまだに確定していない”不滅の恋人”/うら若き教え子に次々惚れた恋多き男/年の差なんて関係ない!とにかく結婚したかった!/人妻と不倫中に元彼女が妊娠というドロドロ劇

こういった調子で、以下、「メンデルスゾーン」、「リスト」、「ショパン」、「シューマン」、「ブラームス」、「チャイコフスキー」、「ドボルジャーク」、「ロッシーニ」、「ベルリオーズ」、「ワーグナー」、「マーラー」、「ドビュッシー」、「ストラヴィンスキー」と著名な作曲家たちが続く。

ゴシップという観点からするとスケールの大きさから「ワーグナー」にトドメをさす。

ワーグナー  恩を仇で返してのし上がってきた、究極のオレ様男

男も女も引きつける、常識はずれの強烈なキャラクター/圧倒的な才能ゆえ、友人の妻を寝取っても許された?/さすがのリストも堪忍袋の緒が切れた!/コジマのワーグナーへの献身はファザコンの裏返し?/王様のパトロンを得て、オレ様人生ここに極まれり

といった具合。

あの崇高な音楽とそれを創りだす作曲家たちの落差が実に印象に残る本で、才能と人格は別物だと分かってはいるものの「音楽と倫理観」とはいったいどう結びついているんだろうと思ってしまう。

そこで登場するのが、かっての名指揮者ブルーノ・ワルターが1935年にウィーンの文化協会で「音楽の道徳的な力について」と題して行った講演の内容である。

今どき「道徳」なんて言葉を聞くのは珍しいが、中味の方は音楽に対するワルターの気取らない率直な思いが綴られたものでおよそ80年前の講演にもかかわらず、現代においてもまったく色褪せない内容だ。

以下、自分なりに内容を噛み砕いてみたので紹介してみよう。

はじめに「果たして人間は音楽の影響によってより善い存在になれるものだろうか?もしそうであれば毎日絶え間ない音楽の影響のもとに生きている音楽家はすべてが人類の道徳的模範になっているはずだが」とズバリ問題提起されている。

ワルターの分析はこうだ。

 恥ずかしいことながら音楽家は概して他の職業に従事している人々に比べて別に少しも善くも悪くもない

 音楽に内在する倫理的な呼びかけ(高揚感、感動、恍惚)はほんの束の間の瞬間的な効果を狙っているに過ぎない。それは電流の通じている間は大きな力を持っているが、スイッチを切ってしまえば死んだ一片の鉄に過ぎない「電磁石」のようなものだ

 人間の性質にとって音楽が特別に役立つとも思えず過大な期待を寄せるべきではない。なぜなら、人間の道徳的な性質は非常に込み入っており、我々すべての者の内部には善と悪とが分離しがたく混合して存在しているからだ

以上、随分と率直な語りっぷりで「音楽を愛する人間はすべて善人である」などと語っていないところに大いに感心する。いかにもワルターらしい教養の深さを感じさせるもので「音楽の何たるか」を熟知している音楽家だからこそ説得力がある。

作曲家にしろ演奏家にしろ所詮は同じ人間であり、いろんな局面によって変幻自在の顔を見せるのは当たり前のことなので、ワルター言うところの「音楽=電磁石」説には大いに共感を覚えるのである。

ただし、ここで終わると、まったく味も素っ気もない話になってしまうのだが、これからの展開がワルターの本領発揮といったところ。

「それでも音楽はたぶん我々をいくらかでもより善くしてくれるものだと考えるべきだ。音楽が人間の倫理に訴える”ちから”、つまり、音楽を聴くことで少しでも正しく生きようという気持ちにさせる」効果を信じるべきだという。

ワルターは自分の希望的見解とわざわざ断ったうえで音楽の倫理的力を次のように語っている。

☆ 音楽そのものが持つ音信(おとずれ)

「音楽とは何であるか」という問いに答えることは不可能だが、音楽は常に「不協和音」から「協和音」へと流れている、つまり目指すところは融和、満足、安らかなハーモニーへと志向しており、聴く者が音楽によって味わう幸福感情の主たる原因はここにある。音楽の根本法則はこれらの「融和」にあり、これこそ人間に高度な倫理的音信(おとずれ)をもたらすものである。

という結びになっている。

肉体も精神も衰える老後において「充足感=幸福感」というものをどうやって得られるかは、たとえ束の間とはいえ切実なテーマだと思うが、日常生活の中でふんだんに「いい音楽(倫理的音信)を、好みの音で聴く」ことは比較的簡単に手に入る質のいい幸福感ではなかろうか、なんて勝手に思うのである。

まあ、オーディオ愛好家特有の「我田引水」というものだろうが(笑)。 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

順番への思惑

2017年02月20日 | 復刻シリーズ

今年(2017)から「月曜日」に限って、これまでのブログの中で今でもアクセスが絶えない記事をピックアップして登載しているが、今回は6年ほど前に投稿したタイトル「順番への思惑」である。それでは以下のとおり。

「阿刀田 高」氏の「ミステリーのおきて102条」
は、ある新聞の日曜版に1996年から1998年まで週1回連載されたエッセイをまとめた本。

              
                 
 
著者によると「新しいミステリーを紹介するんじゃなく、ミステリーの本質を語るような軽いエッセイ」ということで、連載順に102編を列挙してある。

日ごろ、ミステリーと名のつくものは眼がない存在なのでこの本も気持ちよく読ませてもらったが、その中の18編目の「短編集の打順」
が特に面白かった。

内容は、いくつもの短編を編纂して1冊の本にするときにどういう順番で作品を並べると効果的かということにあった。

かいつまんでいえば次のとおり。

著者によると、40冊以上も短編集を出版しているがその都度、どういう順番にするか考え込んでしまうという。

たとえば、短編小説を10本並べて1冊の本を作るとして、10本全てが良い作品であればそれに越したことはないが、現実には困難でどうしても良作は4本程度に絞られてしまう。

どうしてもバラツキが出てくるのは世の中、万事がそうなので仕方がないところ。

たとえば自分のブログにしても記事によって当たりハズレがありバラツキがあるのは十分承知している。中には「意欲作」の積もりが蓋を開けてみると意外にも(アクセス数が)サッパリというのは日常茶飯事だ(笑)。

また、日本で最高峰の難関〔文系)とされ、全国から選りぬきの秀才たちが集まる「東大法学部」でさえ入学してからバラツキが出るという。

たとえば550人の卒業生のうち”とびっきり”優秀なのは1割クラスで、後は”十把(じっぱ)ひとからげ”なんて話を、聞いたか、読んだか、したことがある。まあたいへんなハイレベルでの話だが。

さて、話は戻って短編集の順番だが、良い方から順番にABCDの作品があるとすれば、冒頭にBを置く。2番目に置くのがAである。Cが3番目、そしてDがラスト、つまり10番目に置くとのこと。

もし5本良い作品があれば、さらに”いい”としてその場合はさしずめEとなるが、Eは6番目あたりに置く。

かくて10本の短編を編纂した本は普通の出来栄えの作品を☆とすると「BAC☆☆E☆☆☆D」の順番になる。

理由はお分かりのとおり、やはり最初が良くなくてはいけない。

読者は最初の1編を読んで期待を持つ。これが悪いと、その先を読んでもらえないおそれがある。小説というものは、読者に読まれて初めて存在理由が生ずる。

ただ、一番最初にAを置かないのは、Bで引き込み、さらに面白いAへとつないだ方が運動性が生ずる。

展望が開ける。BからAへと弾みをつけ、3番目もCで、そう悪くはない。ここらあたりで、「良い短編集だ」と読者は思ってくれる。

それ以後が少々劣っても「どれも”いい”ってワケにはいかんよな」
と許してくれる。

そして、最後も、それなりに悪くないDで全体の印象を整える、という寸法である。中だるみのあたりにEを置く理由もこれでお分かりだろう。

著者の作品で言えば直木賞をもらった短編集「ナポレオン狂」では、二番目に「来訪者」(推理作家協会短編賞受賞)を、三番目にちょっとユニークな「サン・ジェルマン伯爵考」、最後に「縄」とおおむね上記の方針に沿って編んでいる。

要約すると以上のとおりだが、これまで短編集を読むときに順番の並べ方などあまり意識したことがなかったのでまったく「目からウロコ」だった。

この並べ方の背景を知っておくとそれぞれの作品がどのように評価されているのかという作者なりの思惑が透けて見えるので興味深い。

これはいろんな方面に応用がききそう。

たとえば、真っ先に思い浮かぶのが音楽のCD盤の曲目の並べ方。

交響曲や協奏曲では楽章の順番がきまっているのでこの限りではないが、歌手や演奏家の名前で銘打たれたCD盤はおおむね該当する。

たとえば、アトランダムに10曲以上収録されているCD盤の中で全てがいい曲かというと絶対にそういうことはない。どんなに気に入った歌手でも曲目によって当たり外れがある。

これまで何番目に気に入った曲が多いのか気にかけたことはないが、手持ちのCD盤を改めて確認してみると、これが以上の内容とかなり当てはまるのである。

取り分け2番目の曲が一番好きというCD盤がかなりあるのに本当に驚いてしまった。しかも、中ほどに1~2曲わりかし気に入ったのがあって、ラストにまあまあの曲が多いのもよく該当する。

たとえば、エンヤのCD盤「ベスト・オブ・エンヤ」。16曲の中で2番目の「カリビアン・ブルー」が一番好きだし、フラメンコの名曲ばかりを集めた「フラメンコ」も2曲目の「タラント~ソン・ソン・セラ」が一番良い。

ジャズ・ライブの名盤とされるビル・エヴァンスの「ワルツ・フォー・デビー」にしても1曲目と2曲目を抜きにしては語れない     
          


CD盤の曲順以外にも、演奏会などの当日の演目の順番あたりもこれに該当しそう。

世の中、すべての物事に順番はつきものだが、皆様も、手持ちの短編集やCD盤などのほかいろんな順番付けされたものについて確認してみると、意外にもこの「順番への思惑」
に心当たりがあるのではあるまいか。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「楽隠居」と「素隠居」

2017年02月13日 | 復刻シリーズ

今年(2017)から「月曜日」に限って、これまでのブログの中で今でもアクセスが絶えない記事をピックアップして登載しているが、今回は5年ほど前に投稿したタイトル「楽隠居と素隠居」である。それでは以下のとおり。

このたびの山中教授の「ノーベル賞」(医学・生理学部門)受賞は久しぶりに明るい話題。

万能とされるIPS細胞が難病治療に応用できるようになるのは、遅かれ早かれ時間の問題と言っていいだろうが、こういう恩恵を日本にことさら無理難題をふっかけるアジアの某国にだけ利用できないようにする手立てはないものかな~(笑)。

気取ることなく、人柄の良さそうな同教授の喜びのインタビューを観ていたら、「10回のうち9回は失敗する、それでもくじけない」という趣旨のことを仰っていた。「根気が大切」ということなんだろうが、一方では、9回も失敗してそれが許される環境というのも非常に大切だという気がした。

「物事の本質」というと大げさだが、それに類するものをある程度極めていくためには、本人の能力と情熱に加えて時間的、心理的なゆとりも必要なのではあるまいか。


ノーベル賞を引き合いに出すのはたいへんおこがましいが、文化的な分野においても同じことが言えそうな気がする。

一昨日(10月12日)のNHK-BSハイで「伊能忠敬~国の要・日本地図への挑戦~」という番組をやってた。

周知のとおり、伊能忠敬(いのう ただたか)は、婿養子として入った下総の造り酒屋で財を成した後、50歳であっさり身代を後継者に譲って隠居生活に入り、その後は江戸に出て大好きな天文学に打ち込み、その知識を応用して56歳から72歳まで、ほぼ日本全国を踏破して測量したうえで画期的な日本地図を完成させた。

踏破した距離はおよそ4万キロでほぼ地球一周分。

当時(江戸時代後期)の欧米列強は未開の中国をはじめアジア諸国を次々に植民地化同然のことをしていったが、日本だけはそれをためらわせるものがあったという。その要因の一つとして当時としては画期的な日本地図があったことが挙げられると番組の中で言っていた。

来日した欧米人は日本地図の精密さに驚嘆したそうだが、それはいわば文明的に自立できる国民の証明みたいなもので、日本を尊敬させた地図として伊能忠敬の功績は実に大きい。

番組の解説者によると

「当時、浮世絵を始め世界に冠たる江戸の絢爛たる文化を担っていたのは市井の民だが、その中で大切な役割を果たしていたのが隠居だった。侍の場合は隠居料が支払われ、町民の場合は隠居するときに取り分が保証されていた。時代的に自由さを許す許容度がそのまま文化度に繋がっていた」

          


葛飾北斎しかり、歌川広重だって画業に専念できる隠居同然の身分だったし、それこそ伊能忠敬みたいな隠居が市井には溢れていて、何かにつけ、実際に手と足を動かし、口うるさく講釈を垂れていたことだろう。

毎日、きまった仕事に追われることがない、子供も成長して家族の世話をしなくていい、暇をたっぷり持て余して金儲けを考えずに好きなことに没頭できる隠居たち。時間的、心理的なゆとりに恵まれていたことは言うまでもない。

さて、そういう隠居さんにも「楽(らく)隠居」「素(す)隠居」とがあり、「楽隠居」とはお金持ちの隠居のことであり、「素隠居」とはお金がない隠居を言うそうな。

たとえば広辞苑によると、「素」という言葉は「素顔」「素手」とあるように「ありのまま」という意味があり、さらに軽蔑の意味を込めて”みすぼらしい”とあって、「素寒貧」(すかんぴん)、「素浪人」などという用語例がある。

はたして自分は「楽隠居」と「素隠居」のどっちなんだろう?

もちろん、乏しい年金生活者なので「素隠居」に決まっている!(笑)。
 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

患者を殴る白衣の天使

2017年02月06日 | 復刻シリーズ

 今年(2017)から「月曜日」に限って、これまでのブログの中で今でもアクセスが絶えない記事をピックアップして登載しているが、今回は7年ほど前に投稿したタイトル「患者を殴る白衣の天使」である。それでは以下のとおり。

看護婦さん(現在では看護師さん)のことを「白衣の天使」という。

傷つき、病む者にとって手厚い看護をしてくれる爽やかな白衣を身につけた女性はまさに天使のごとくにも思える存在。

今回は、その白衣の天使が
「手術室で手術を受けている患者を怒声とともに殴りつける」
という話である。ちょっと変わった面白い話なので紹介してみよう。

先年亡くなられた作家「吉村 昭」さんは個人的に大好きな作家の部類に入る。冗長なところがなく実に簡潔な文体とリズム感がこちらの呼吸(いき)とピッタリ合っていて読みやすく自然に作風に溶け込んでいけるところが気に入っている。

大方の作品は読んでいるつもりだが、どちらかといえば長編よりもエッセイ風の小品が好みで、この「殴る白衣の天使」は次の
薄い文庫本に収録された小編。吉村さんの実体験にもとづいた話である。
   
    「お医者さん・患者さん」(中公文庫)      

吉村さんは20歳のときに喀血し、診察の結果、結核と判明、自宅で絶対安静の日々を過ごしたものの、体力が衰える一方で兄の知り合いの東大助教授の診断によると余命6ヶ月と断言された。

「死にたくない」その一念で、ある雑誌で知った手術による結核の治療法「胸郭成形」を受けるため東大付属病院に入院。

当時、「胸郭成形」術は開発されて間もない手術で、術後1年生存率がわずか40%、しかも肋骨を5本ほど取ってしまう土木工事のような荒っぽい手術。

また、麻酔法が未発達で全身麻酔をすると肺臓が圧縮されて患者が死亡してしまうので局所麻酔だけで手術するが、想像を絶する苦痛のため当時の手術場は阿鼻叫喚(あびきょうかん)の巷(ちまた)だった。

「阿鼻叫喚」という表現とはまさに当を得ており、隣室にいた逞しい体をした中年の男性は手術途中で「やめてくれ!」と泣き叫んだという。

一方では25歳前後の〇〇さんという気丈な女性もいて、看護婦さんたちが言うには「〇〇さんは手術中泣き喚くこともせず、頑張りぬくんだから凄い、××さんも殴る必要がないと言っていた」。

××さんとは「患者を殴る白衣の天使」のことである。手術は通常5時間前後かかるが、その間、患者は激痛に耐えかねて泣き叫ぶ。慎重さを必要とする大手術に患者の絶叫は外科医の神経をいらだたせる。必然的にそれを制止させる行為が要求される。

そうした手術場の要請に応じて××さん、つまり殴る専門の看護婦さんが配置についていたというわけ。

彼女は、泣き喚く患者に「黙れ!」という怒声とともに頬に平手打ちをくらわす。
色白の肌をした目の細いちょっとした美人だが、腕も太い大柄の女性で、痩せこけた患者からみればすさまじい体力に満ちた巨漢にも思えた。看護婦たちの話によると大半の患者が××さんの殴打を受けているという。

そうした恐るべき白衣の天使が控えている手術場にいよいよ吉村さんが送り込まれる日がやってきた。

肉を切り裂き骨を切断する手術の激痛は、まさに地獄そのもので叫び暴れた。殴る白衣の天使もたしかに手術台の傍に立ち、決して本意ではないだろうがその日も殴らねばならぬと心の準備を整えていたはずである。

しかし、吉村さんは結局、彼女から殴られなかった。その理由は簡単、手術中「痛くナイッ、痛くナイッ」と、わめき続けていたから。

「痛い」と叫ぶかわりに「痛くない」と叫んだのは、我慢しようという気持ちがあったからで、それは「痛い」という叫びと同じ意味を持っている。
しかし、看護婦としては「痛くない」と泣き叫ぶ吉村さんを殴るわけにはいかない。

こうして手術は無事成功し、1ヵ月後には無事退院できた。切断された5本の肋骨は1年たつと両端から伸びてつながった。

その後社会人として働き、結婚し二児の父となったがこれはすべて手術のおかげと感謝しているものの異様な体験であっただけに、手術前後の2ヶ月に満たない期間のことが鮮明な記憶として今でも胸にやきついている。

殴る専門の白衣の天使もおそらく結婚して家庭の人となっているのだろうが、もしも看護婦を続けているとしても患者を平手打ちすることはもうないだろう。

現在は、麻酔術が急速に進歩していて、手術場で泣き喚く患者はもういない。

以上が、「患者を殴る白衣の天使」真相である。

この話、「白衣の天使が患者を殴る」という意外性とともに、「大音声で叱り飛ばす、殴りつける」という暴力行為が時と場合によっては有効な手段になるというのもなかなか面白い。

たとえば、地震や火事など大切な命が掛かった災害時の緊急避難の際にも大いに使えそうだ。

さて、舞台が随分と変わって昨今の日本の政界は相変わらず政治資金がらみなんかでうるさくて仕方がない。

以前、「佐藤優」氏と「亀山郁夫」氏の対談本(「ロシアという闇の国家」)の中で、理念がない、求心力がない、座標軸が一定しない日本のような国家はふらふらと漂流するばかりとあった。その責任の一端は国策を担っている政界にもあると思う。

「重要閣僚をいびって辞めさせる強もての幹事長」をはじめ「優柔不断で何とも頼りない首相」など、こういう政界を「しっかりしろ」と大いに叱り飛ばし、殴りつける役割は一体誰が果たすんだろう?

筆者(註)

この話は当時のお粗末極まりない民主党が政権を取っていた時代の話ですから念のため(笑)。 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

なぜイギリスは「ミステリーの宝庫」なのか?

2017年01月30日 | 復刻シリーズ

今年(2017)から「月曜日」に限って、これまでのブログの中で今でもアクセスが絶えない記事をピックアップして登載しているが、今回は6年ほど前に投稿したタイトル「なぜイギリスはミステリーの宝庫なのか?」である。それでは以下のとおり。


「ミステリー好き」
という点に関しては、”人後に落ちない”と思っているが、本格ミステリーの宝庫といえばまず「イギリス」

に落ち着く。

作家コナン・ドイルの名作「シャーロック・ホームズ」シリーズを嚆矢(こうし)としてアガサ・クリスティ以降、今日に至るまで延々とすぐれたミステリー作家を輩出してきている。

ミステリー作家が多いということは、需要供給の面から商売として成り立つということでその背景にはそれだけ好んで読む国民が多いということになる。

しかし、当然のことながら
「なぜミステリ-がイギリスで発祥し、このように隆盛を極めているのか?」
という素朴な疑問が付きまとう。

この理由について、興味深い記事が下記の本の152頁に書かれてあった。

「イギリス病のすすめ」(2001年、講談社文庫) 

                      

本書の著者は田中芳樹氏と土屋守氏でお二人の対談によって構成されている。

題して
「ミステリーとデモクラシー」。

「ちょっと大げさに言うと、ミステリーとデモクラシーには相関性があるって言いますね。つまり『事件が起きたら証拠なしで怪しげなやつをひっつかまえてきて拷問して白状させる』というような社会では、ミステリーは発達しない。科学的に証拠を固めて、推理して・・・という過程を踏むような社会でこそ発達する~」

ナルホド、なるほど。

中国やアフリカ、南米諸国にはミステリー作家がほとんどいない、したがって読者も少ないという理由もこれでおおかた”カタ”がつく。政治思想犯をとっ捕まえて監禁するなんてまったく論外。

ミステリー発展の根源を求めていくと「一人ひとりの人権を大切にする社会風土と警察の科学的な捜査手法」
に突き当たるなんて、なかなかユニークな見方だと思う。

イギリスの警察は世界で一番歴史が古い。18世紀に始まった市民警察を前身として1829年には正規の警察組織として発足している。(ウィキペディア)

余談だがスコットランド・ヤード(所在地の地名)といえばロンドン警視庁のことだが、これは日本の首都・東京の治安を一手に引き受ける「警視庁」を「桜田門」と呼ぶのに等しい。

とにかく、ミステリー発展のためにはそれなりの環境が必要ということがこれで分かる。


ミステリー作家が活躍し幅広く国民各層で読まれるのは社会がある程度健全に機能している証拠の一つというわけで、ミステリー・ファンのひとりとして何となくうれしい気分になる。

そういう意味でイギリス、アメリカ、フランス(メグレ警部シリーズ)、スウェーデン(マルティン・ベックシリーズ)、そして我が日本などは大いに胸を張っていいのかもしれない。

もっともその日本でさえ第二次大戦前は江戸川乱歩が「怪人二十面相」を書くことさえ禁止されていたくらいで、あの悪名高い「治安維持法」による共産主義者などへの弾圧、「蟹工船」の作者小林多喜二の拷問死なんかを思い起こせば現代と比べるとまさに隔世の感がある。

何とも「いい時代」になったものだが、はてさて今日の日本におけるミステリー隆盛の礎を築いたのはもちろんその江戸川乱歩(享年71歳)さん

日本の推理作家の登竜門として有名な「江戸川乱歩賞」(賞金1千万円)は彼が私財を投げ打って1954年に創設したもので以後、西村京太郎、森村誠一、東野圭吾など幾多の人気作家を輩出しながら今日まで55回を数える。

そのほかいろんな新進作家の面倒をみたりして育成に力を注ぐなど(日本のミステリー界で)彼の果たした役割と功績は計り知れない。

その辺のミステリー発展の軌跡について推理作家「佐野 洋」氏によって詳らかにされているのが次の本。

 「ミステリーとの半世紀」(2009.2.25、小学館) 

 
                                 

佐野 洋氏の自伝ともいうべき本だが、日本ミステリー界の歴史についてこれほど内輪話が載っている本も珍しい。

興味津津で読ませてもらったが、江戸川乱歩の思い出と功績については
「乱歩さんとのこと1~4」
までわざわざ4項目を割いて詳述してある。若手作家による原稿料の値上げなどの要求にも真摯に応じる気配りの細やかな乱歩の人間像が見事に浮かび上がってくる。

そのほか
「冷や汗二題」
では次のような面白いエピソードが語られる。

あるホテルのロビーで川端康成氏が座っている前のテレビを三好徹氏と一緒になって中央競馬桜花賞の中継をどうしても見たいがために無断でチャンネルを変えてしまい、後になって関係者からもし相手が江戸川乱歩氏だったら同じようなことが出来たかどうかと詰問される。

そのときは「うう~ん、乱歩さんだったら、ちょっと躊躇したかもしれません」なんて正直な告白が出てきたりする。

純文学とミステリーの間の落差というか、垣根みたいなものを物語っているようで面白い。 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「タンパク質の音楽」とは

2017年01月23日 | 復刻シリーズ

今年(2017)から「月曜日」に限って、これまでのブログの中で今でもアクセスが絶えない記事をピックアップして登載しているが、今回は7年ほど前に投稿したタイトル「タンパク質の音楽」である。(「復刻シリーズ」)

2回に分けて投稿していたものを1本にまとめたので長くなったが悪しからず。それでは以下のとおり。

音楽の効用といえば通常、ストレス解消~精神の高揚などが言われているが、それ以外にもたとえば乳牛にモーツァルトの音楽を聴かせると乳の出が良くなったとか、トマトに音楽を毎日一定時間聞かせると成長が促進されるなどの不思議な現象の話もしばしば散見する。

その因果関係については科学的な根拠がハッキリと示されたわけでもないので「偶然の産物」とか「眉唾モノ」という受け止め方が一般的。

しかし、こうした生物と音楽とを結びつける不思議な現象の「科学的根拠」として提唱されているのがここで紹介する
「タンパク質の音楽」だ。

「生命の暗号を聴く」(2007.8.14、深川洋一著、小学館刊)    

興味をもったのでやや”理屈っぽくなる”が順を追って紹介してみよう。

ただし、最終的にこの内容を信じる信じないは個人の自由であり、決して押し付けるつもりはないので念のため!

☆ 「音楽の不思議な力の由来」について

「音楽」とは一体何か。音楽を知らない人はいないのに、言葉で説明しようとするとうまく説明できないのが音楽だ。(そもそも音符を言葉で表現するなんて、どだい無理な話だ。)

まず、音楽の起源について。

中国では音楽を意味する文字として「樂」という語が一般に用いられていた。「樂」は象形文字で、楽器とそれを載せる台の組み合わせでできている。上辺の中心文字である白という字が鼓を象(かたど)っているとすると、太鼓のような楽器を叩いて音を出したことが、音楽という概念が生まれるきっかけになったとも考えられる。

西洋に目を転じると、「音楽」に対応する英語は「ミュージック」である。その語源をたどっていくと、ギリシャ語の「ムシケー」に行き着く。

これは「ムーサの技芸」という意味で、これに対応する英単語が「ミューズ」(学芸をつかさどる女神)→「ミュージック」(ミューズの技芸)となる。因みにミューズの女神を祭った場所が、美術館や博物館を意味する「ミュージアム」である。

ミューズ(女神)は全部で9人いる。いずれも神々の頂点に立つゼウスと記憶の女神ムネモシュネとの間に生まれた娘たちである。それぞれ、天文学、喜劇、舞踊、宗教音楽、悲劇、音楽、歴史、叙事詩(2名)を担っている。

(音楽には終始優しい女性的なイメージがつきまとっているがこの辺に由来しているのかもしれない)

なお、天と地の結びつきによって生まれた女神ムネモシュネ(天空の神ウラノスと大地の女神ガイアの娘)がミューズたちの母であるというのは音楽の意味を考える意味で示唆的である。

アフリカでは「音楽は神々の言語である」と見なされているし、カトリック・キリスト教でも、「音楽は天国の言語であり、それを人間が発見して真似したのが教会音楽である」とされている。

音楽が天と地をつなぐものであれば、神秘的な力を持っているのは当然で音楽の不思議な効果は古今東西を問わず、物語の形で多数残されている。

☆ 「細胞が奏でる音楽」
とは

こうした不思議な効果を持つ音楽と生物を科学的に結びつけるカギがステルンナイメール博士(素粒子論を専門とする理論物理学者)による「タンパク質の音楽」の発見である。ご承知のとおり、タンパク質は生物の身体を構成する基本材料である。細胞の中で必要に応じて必要なタンパク質が合成されるから生物は生きていける。

たとえば皮膚のコラーゲン、髪の毛や爪のケラチン、赤血球に含まれるヘモグロビン、それに血糖値を下げるインスリンなどの酵素もそうだが、これらは壊れては新たに合成されるという新陳代謝によって生まれ変わっている。

ステルンナイメール博士によるとそれぞれのタンパク質は独自のメロディを持っているという。「コラーゲン」という題名の曲、「インスリン」という題名の曲があるというのだ!それぞれの曲はDNAの中に「生命の暗号」として隠れている。

DNAが四種類の塩基からなることはよく知られている。A=アデニン、T=チミン、G=グアニン、C=シトシンである。これらの塩基が決められた順番で並ぶことで一種の「文章」が作られている。つまりDNAとは四種類のアルファベットでできた書物であり、「辞書」を作ればそれを読んで理解できるようになるはず。

ステルンナイメール博士は理論的な研究に基づき、同じDNAという書物を文章としてだけでなく音楽としても読めることを発見した。タンパク質のアミノ酸配列を解読してメロディに変換する規則を見出すとともに、そのメロディの持つ意味まで明らかにした。その規則にしたがって得られたメロディを「タンパク質の音楽」と呼ぶ。

ひとつのタンパク質には合成を盛んにするメロディと合成を抑えるメロディとがあって、それぞれ独自の非可変式チューナーがあり、そのメロディを同調させて電磁波に変換して細胞に伝えていくという。 

☆ 生き物に働きかける「タンパク質の音楽」

<トマトの生育実験>

1999年ベルギー人によりトマトの成長に及ぼす効果が実験で確認された。ラジカセにより2ヶ月間、一日につき12分間、エクステンシン(成長を促進するタンパク質)、シトクロムC(光合成を促進するタンパク質)などのメロディを聞かせたところ、そうでないトマトとでは平均で高さ20cmの差が出た。

しかし、薬と同じように適量の使用を守ることが大切で、度を越して聞かせすぎるとかえって害が出たり、合わない音楽を使ったりすると逆に副作用が出る。

☆ 「タンパク質の音楽」と「人間が作曲した音楽」の関係

さて、「タンパク質の音楽」と「人間が作曲した音楽」の関係だが、具体的な曲目を明らかにして話が展開されていくが、ここではとりわけ人間にとって極めて厄介な病気「ガン」について詳述してみよう。

これまでに見つかったガン遺伝子は100個以上にのぼるが、そのうち初めて人のガン細胞から見つかったラス遺伝子
が非常に有名である。このラス遺伝子は細胞の外から中へと情報が伝達されるときの中継役を担っているわけだが、各種のガンで異常が見られるケースの割合は次のとおり。

肺ガン → 30%、大腸ガン → 40%、 膵臓ガン → 80%となっており、そのほか甲状腺ガン、子宮頸ガン、造血系ガンなどにも広範に関係している。

この恐るべきラス遺伝子の働きを抑制するメロディの断片を含んでいるのがサイモン&ガーファンケルの「サウンド・オブ・サイレンス」(出だしの部分)
である。
 

さらに、ガン細胞を殺すNK-TRタンパク質にはベートーヴェンの「第九交響曲」の合唱部分「歓喜の歌」の出だし部分とそっくりのメロディが隠されている。日本では年末に「第九」が恒例のように各地で演奏されるがこれはガンを退治する上でもまことに結構なこと。

「音楽を聴くことで癌を寄せつけない」となるとこれぐらい”いい”ことはないが~


くどいようだがさらにガン対策を続けよう。

ガンを殺すのに重要な役割を担っているナチュラル・キラー細胞だがストレスによってその活性が低下する。そのためストレス解消を謳ったCDが市場に数多く出ている。

その中の曲目でよく用いられているのがドイツ・バロック時代の傑作パッヘルベルの「カノン」
である。この曲は特にストレス軽減に良いと言われているが、効果に科学的な根拠はあるのだろうか。

94年に「カノン」その他の音楽が身体に及ぼす影響を調べる実験がアメリカで行われた。被験者は男性外科医50名、平均年齢は52歳、自己申告によると全員音楽好き。

連続して引き算をさせるというストレスを与えながら、

1 パ
ッヘルベルの「カノン」
2 
被験者が自分で択んだ曲
3 
音楽なし
の3つの場合で、血圧、心拍数、皮膚の電気抵抗を調べた。

すると、1の「カノン」を聞かせたときには3の音楽なしのときと比べて明らかにストレスが減ることが分かった。この「カノン」の特徴は出だしの八つの音符にあるが、このバリエーションに関係するのがGTP分解酵素活性化タンパク質(略してGAP)の主題のメロデイである。このGAPは前述したラス遺伝子を不活性化する働きがある。
 

ただし、1の「カノン」より2の自分で択んだ曲を聴く方がストレスがはるかに少なくなる結果が出た。因みに好きな曲は46人がクラシック、2人がジャズ、残る2人がアイルランド民謡を択んだが、面白いことに択ばれたのはすべて異なる曲であった。

この事実から、ステルンナイメールイ博士は次のように語っている。
 

「ストレスといっても人によって千差万別で、自分の好きな曲を聴くのが大切である。これは人によって問題のあるタンパク質が異なっていることを意味している。

だから、聴いた人が心地よく感じる曲を分析してその人のストレスにはどのタンパク質が関っているかを知ると、より適切なストレス低減ができる。このことはストレスだけでなく、病気にも当てはまる。」

続いて、ガン遺伝子の合成を促進するメロディを含んだ歌(「キス・ミー」)を長年歌い続けたばかりに2000年に肺ガンで亡くなったフランスの歌手C・ジェローム(53歳)の実例が紹介される。彼は晩年、「この曲を歌いたくない」と言っていたが「持ち歌」だったので仕方がなかったらしい。

用心しないと「タンパク質の音楽」を不用意に聴きすぎて副作用が出たケースも沢山あるそうで、音楽は自分の好きなものだけを好きなだけ聴くことが大切
で、イヤなものを強制されて聴くということがあってはならないとのことだった。(さもないとガンになってしまう可能性がある!)

以上のような内容だったが、興味のある方は原典を読むに限る。

将来、自分のいろんなタンパク質のメロディを分析することで、病気になったときに薬や手術に頼らずに症状に対応した音楽を聴くことで治ってしまう夢のような時代がいずれやってくるかもしれないと思った。

いずれにしても、聴いて快感を覚える音楽が自分のある種のタンパク質が求めている音楽であり、病気の予防・治癒にも大いに効果を発揮するに違いない。

日頃、ふと、あの曲が聴きたいなんて思うことがよくあるが、無意識のうちにDNAが要求しているのかもしれない。

「モーツァルト好きはガンにならない」という統計結果あたりが出てくれると、おおっぴらに「音楽&オーディオ」に打ち込めて「けっして無駄な投資ではない」と、カミサンへの何よりの説得力になるのだが(笑)~。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする