時流は、時が流れる、と書く。時とともに変化すれば、これまで良しとしたものが、良しとしなくなる。だから時流に合わすことができないものは淘汰する。淘汰がいやなら、適応する方向に持っていく。そうすればいい。
空き店舗の存在は、そこに存在していたお店が、「そうしたことをなさなかった」という証といった側面と、他の店はちゃんと対応して生き残っている、という証の側面、この両面がある。その片面だけを見て、商店街そのものの、あるいは全体がダメと見たり、その存在意義を否定するという論は、おおよそ公平ではないし物の見方としてのゆがみを感じる。
変化の主体はなにか。そして変化の中身は何か。これが掴めなければ対応しようがあるまい。たとえば、「売れなくなった」という。これは消費者が買わなくなったということである。また、どの店でも売れなくなったということではなく、その店で買わなくなったことを意味する。その理由個別問題か普遍的問題か、原因は特殊か、普遍性があるものか、と詰めていって、その理由なり原因を除去、買ってもらえる理由、原因と入れ替える。これが対応である。
そもそも事業の成否は消費者の支持で決まる、という当たり前のことへの認識すら乏しい、というのが、私のこれまでの仕事を通じての現場での実感である。
資本主義国家では、事業の存亡は消費者の選択如何にかかわってくることは当たり前だ。
結果的に消費者から選ばれない企業なり商店が多く、空き店舗や空き事務所などが増加すれば土地価格や賃貸料も下がる。それなら、「出店しよう」という店も出てくる。そうした彼らは、環境に適応し、より強い店舗だ。こうした流動性が生まれるこそ、本来の対応の動きのはずである。そしてやがてまた次に弱いところ、ふるい落とされ空き店舗がでる。ここへより強いお店が進出する。こうした新陳代謝が常に見られる状態は、望ましいこと、これが健全なあり方である。
それを、どうして危惧の状況というのか、私にはわからない。個店で売れない商品を撤去し、売れる商品に入れ替えることを活性化している。これを危機状態という人はいまい。望ましい姿といっているではないか。
問題は、この新陳代謝が進まないことにあるのだ。だから対策として少なくとも一元的対応は、空き店舗を人為的に埋めることではなく、むしろ新陳代謝を阻害しないことに尽きる。
これは、消費者から見てみたらよりわかりい。自分たちにとってなくてはならない店を失うことは消費者自身の損得にかかわるから利用する。だからその店は残る。お客が利用しない、必要がないお店が消える。だが消費者は困ることは全くない。むしろより良い店に変わってくれた方が得だ。
閑古鳥が鳴く、という変化の本質は、「消費者の支持」を失ったころにある。だったら対応は、「消費者の支持」を得るということだ。
だがこの側面に着眼した経営や対策を行っているところは本当に少ない。
作り手、売り手側の立場と方向から論じられているのが経営学、というのなら、そうした経営学自体を時流に合わないと、捨てたらいい。作り手・売り手中心主義の理論で占められていて、それが合わなくなったのであればそれは捨てるべきなのだ。
そして消費者中心の観点から、その正しい有り様を模索する。これが対応である。
それを依然、作り手・売り手中心主義の立場から一歩も踏み出さず、あれこれやるから混乱だけを商事、逆効果、衰退していっている。
消費者を中心において、今一度やるべきことをみたら、やらねばならないことをやらず、やってはならないことをやっていることが見えてくる。
空き店舗の存在は、そこに存在していたお店が、「そうしたことをなさなかった」という証といった側面と、他の店はちゃんと対応して生き残っている、という証の側面、この両面がある。その片面だけを見て、商店街そのものの、あるいは全体がダメと見たり、その存在意義を否定するという論は、おおよそ公平ではないし物の見方としてのゆがみを感じる。
変化の主体はなにか。そして変化の中身は何か。これが掴めなければ対応しようがあるまい。たとえば、「売れなくなった」という。これは消費者が買わなくなったということである。また、どの店でも売れなくなったということではなく、その店で買わなくなったことを意味する。その理由個別問題か普遍的問題か、原因は特殊か、普遍性があるものか、と詰めていって、その理由なり原因を除去、買ってもらえる理由、原因と入れ替える。これが対応である。
そもそも事業の成否は消費者の支持で決まる、という当たり前のことへの認識すら乏しい、というのが、私のこれまでの仕事を通じての現場での実感である。
資本主義国家では、事業の存亡は消費者の選択如何にかかわってくることは当たり前だ。
結果的に消費者から選ばれない企業なり商店が多く、空き店舗や空き事務所などが増加すれば土地価格や賃貸料も下がる。それなら、「出店しよう」という店も出てくる。そうした彼らは、環境に適応し、より強い店舗だ。こうした流動性が生まれるこそ、本来の対応の動きのはずである。そしてやがてまた次に弱いところ、ふるい落とされ空き店舗がでる。ここへより強いお店が進出する。こうした新陳代謝が常に見られる状態は、望ましいこと、これが健全なあり方である。
それを、どうして危惧の状況というのか、私にはわからない。個店で売れない商品を撤去し、売れる商品に入れ替えることを活性化している。これを危機状態という人はいまい。望ましい姿といっているではないか。
問題は、この新陳代謝が進まないことにあるのだ。だから対策として少なくとも一元的対応は、空き店舗を人為的に埋めることではなく、むしろ新陳代謝を阻害しないことに尽きる。
これは、消費者から見てみたらよりわかりい。自分たちにとってなくてはならない店を失うことは消費者自身の損得にかかわるから利用する。だからその店は残る。お客が利用しない、必要がないお店が消える。だが消費者は困ることは全くない。むしろより良い店に変わってくれた方が得だ。
閑古鳥が鳴く、という変化の本質は、「消費者の支持」を失ったころにある。だったら対応は、「消費者の支持」を得るということだ。
だがこの側面に着眼した経営や対策を行っているところは本当に少ない。
作り手、売り手側の立場と方向から論じられているのが経営学、というのなら、そうした経営学自体を時流に合わないと、捨てたらいい。作り手・売り手中心主義の理論で占められていて、それが合わなくなったのであればそれは捨てるべきなのだ。
そして消費者中心の観点から、その正しい有り様を模索する。これが対応である。
それを依然、作り手・売り手中心主義の立場から一歩も踏み出さず、あれこれやるから混乱だけを商事、逆効果、衰退していっている。
消費者を中心において、今一度やるべきことをみたら、やらねばならないことをやらず、やってはならないことをやっていることが見えてくる。