経営コンサルタント田上康朗の雑感帳

経営コンサルタント田上康朗が、気ままに本音で記す雑感帳です。書く日もあれば書かないときもあります。

対と応、情と理

2006年05月03日 | Weblog
情と理では、根本的に違いがある。例で説明したい。うっかり熱い鍋をさわったとき、「アッチ」とおもわず、悲鳴を上げてしまうのは前者。現実には稀有なことだが、熱い鍋をさわって、「なんでこの鍋、熱いのや」と首をかしげるのは後者。

 言葉の違いではない。だから、「感激しました!」と言っただけでは、前者か後者の区別は付けがたい。
売り手が、アプローチする接遇、接客というのは、後者である。 むしろ情を絡ませることがタブー視されてきた。理が嘘だと言うことではないが、「まあ、心にもないお世辞を」、「売りたいから、お上手いって」と、お客側が揶揄的に言ったりする。その点、情のほうには嘘がない。無理がない、とはいえる。
 
複雑な、かつ微妙な変化を即つかみ、即対応3、「理」では難しい。「情」抜きには、いわば「とっさの判断、対応」はできまい。
用意したものを吐くのは理である。対して、現場で消費者との接点を持つ従業員が、五感で感じたことを、そのお客と共感共有して「対応」する。ここへ一歩か二歩進めてみたらどうか、というのが、私の提案である。

 マニュアルに基づいてとか、ましてや経営者や店主へ伺いを立ててからとか、会議で論議してからというのでは、忙しい消費の神様は、背を向け他に走り去ってしまうのではないか。
 対応の、「対」の将来(さき)には、刻々変化する対象、相手がいる。「応」とはその変化に応じるという意味である。情をそぎ取っては、到底出来ないことだ。
 一方「情に流され」とか「ほだされ」といったこともある。大局を見るには、冷厳さ、それに科学的計算性に持つ付いた理性が不可欠である。

 要は、情と理の特性を活かし、上手に使いこなすことと、極端な偏重に背理することだろうが、合理主義の行き過ぎとは、その過程で人の持つ情の側面をそぎ落としていくところにある。このことこそ消費者がもっとも望んでいないこと。背を向けている理由ではなかろうか、と考えているものである。