経営コンサルタント田上康朗の雑感帳

経営コンサルタント田上康朗が、気ままに本音で記す雑感帳です。書く日もあれば書かないときもあります。

サービスを思う

2006年05月10日 | Weblog


 商品とサービスといった言い方がある。
いうまでもなく商品は貨幣によって購買される使用価値を持ったモノ=ハードである。これは目にみえるからよくわかる。
しかし、サービスとなると、ちょっとあいまいで、捕らえがたい。試しに、朝礼ででも「商品にサービスを添えて」とか「サービス精神でもって」といったことを、従業員に言ってみる。いつもの通り、「ハーイ」と皆、元気に、明るく応えたとする。
「これで良し」と朝礼をお終いにせず、彼ら、彼女らに名指しして、尋ねてみようではないか。
「あのね。君。それで、サービスを添えて、といったらハーイと返事したよね。そのサービスを添えて、ってどういう意味?君だったら、何を添えるのかな。」。

そう尋ねたご本人に、従業員の一人が「専務(あなたのことですよ)、ではそのサービスつて何ですか。具体的な中身は?」と切り返して、きたらなんとお答えされるだろうか。ハタッと困るのではないか。

中身がわからず、具体的に表現できなかったら、第三者のお客様に伝えることができないではないか。伝えることが出来ないことを、朝礼で話しても意味がないではないか。

だったら、そうした曖昧語、横文字、カタカナ語を使わずに、最初から、やって欲しいサービスの具体的内容を指示したらいいのである。「挨拶は、25度ではなく35度までは腰を折り、」と。実際にやって見せたらいい。このお辞儀のしたら、その前後の言葉も丁重になった、とは実践したお店の経営者の話である。

ところで、サービスというと、すぐ浮ぶのは価格サービスだ。「サービスしなさいよ」とお客が店主に迫る。これは値引きの要請である。同じ使い方で「誠意を見せなさいよ」といった言い方もする。とすれば多分に、サービス=誠意=値引きであるろうか。
だから、「誠意見せているから、丁寧に応対しているではないですか」と、いった返答をしたとしたら、お客の方がキョトンしてあきれた顔をするはず。「人の気持ちがわからんのかいな」。ちなみにこの「人の気持ち」も、人の気持ち=サービス=誠意=値引き、になろう
か。
売り手も買い手も曖昧な言葉を交わしているのは、前者は「値引きを恐れ」、後者は「値引きを求めて」、そのためにそうしたあいまいでぼかした言葉で、丁々発止やっているわけである。これらはサービス自体があいまいで、価格以外に具体性がない、ということに起因している、と言うことだ。

「そもそもお客やその折の気分でサービスとか誠意を見せるとかいって値段をまけるというのは一物一価の原則に反しており、近代的商法から外れている。」と、経済原則を持ち出して抗弁しても、この問題は解決しない。これはその経済則「原理一物一価の原則」が間違いではなく、その原則の前提要件として「同じ物なら」という、この前提を崩壊させている作り手、売り手の責任問題なのであるから。
つまり、「本来のサービス概念は、消費者へ利する、消費者にとっての付加価である」のに、それがないか、希薄だから、ことが起きている、というのが私の持論である。

事例で述べたい。
「モーニングサービス」や「サービス定食」はどうであろうか。喫茶店が、手軽な朝食を用意するといったこと、またばらばらのものを組み合わせ(セット)にしたサービス定食は便宜性の提供といったサービスになろう。が、サービス定食はそれぞれ単品で注文するより若干安くなっている、というのであれば一種の値引き。しかしそれがそれなりの味、量なら、なにもサービスしたことにならない。
つまり、この事例では、サービスは売り手の販促の1つ。そして付加価値を得るのも売り手側(が大)といってよい。
その典型的例が、スタートはスーパーに始まり、今はガソリンスタンドで使われている「セルフサービス」だ。

本来のサービスには、上に触れたように消費者に利する、消費者から見てのサービス、消費者がそう感じるサービスであって、企業側にしたらどこか無償の行為という非経済的動機がそこに含まれるのではなかろうか。

ともかく、相手、消費者に喜んでいただく、といったサービスの本質を二の次にして、サービスと言う名目の元に人の気を引きつけ、最終的には己の利を図る、といった、いわば釣り針みえみえの撒き餌的サービスの反乱自体が、サービスをさらにわかりにくくし、ときには怪しげで、胡散臭いものにしたことは否定できまい。
そういう意味で、サービスは低下してきている、というより不良化してきている、というのが、現場で感じる私に実感である。
そのことは、モノづくりに起因、いな同根だ。なぜなら、本当にいいものは「サービスなど不要で、消費者に益し、売れるもの」だ、と考えるからである。