十方世界共生山一法寺

自己の世界を建設しよう
 日本のことも世界のことも自分自身のこともみな自己の内のこと。

天動説

2008年08月17日 | 生命

 元薬師寺管長 橋本凝胤はなかなか面白い昭和の傑僧の一人である。断言坊主とあだ名されるほど断定的にものをいう、つまり「決定(けつじょう)の説」の吐く和尚だった。


 秀逸なのは「人はどうあれ、オレは天動説だ。それで何の不都合もない」と嘯いていたとのことである。


 東大の印度哲学科を出た人だから、科学的真理としての地動説は教養として勿論承知している。しかし、仏教の世界観は違うのである、仏教僧としてその世界観で彼は生きて来たというわけである。


 私も天動説をとる。もちろん、地動説を否定するわけはない。が、天動説と地動説の違いは、視点の違いに過ぎないのである。地動説を確認するためには太陽系の外に視点を持っていかなくてはならない。現実にはそんなところに視点を持っていけないから頭で計算して想像するしかない。要するに頭の中で作られた物の見方の一つに過ぎないのである。


 一方、我々はその動く地球に乗っかって視点をそこにおいて、そこでいろいろ体験していて生きている、視点はいつも自分のいるところに固定されている、それが現実なのである。
 朝、日が昇る、これは地球が東の方向に回転しているのだと実感するであろうか。日の出、日の入りで生活のリズムを刻んで生きているのである。何万年も人間はそれで生きてきたのである。地動説なんかで生きてはいないのである。


 世界の中心は視点のあるところである。天も地も自分を中心として動いているのである。カーナビ付きの自動車に乗っているように。 

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