十方世界共生山一法寺

自己の世界を建設しよう
 日本のことも世界のことも自分自身のこともみな自己の内のこと。

4歳下の弟の葬儀に参列

2024年05月31日 | 佛教

 5月28日に弟が死亡した。

 弟は15年8ヶ月前に一人で観光に出かけた福知山城の近くので心疾患を発症。近くにいた人の救急呼び出しで福知山の市民病院へ運ばれて救命治療を受けた。

 命は取り留めたが頭に血が回らずに脳に大きなダメージを受けた。古い記憶は思い出すことも多かったが、新しい記憶は失われてしまった。妻や3人の子のことが分からない。

 内科医だったが当然のごとく医師としての能力を失った。

 私が会いに行くと、覚えていてヤーというわけである。元々タイガースファンでタイガースの試合は必ず見る。

 しかし、いわゆる痴呆状態、誰かが介助していないと、自発的には何も出来ないのである。

 以来、奥さんがずっと介護してきていたのである。勿論、子の手助けや病院、介護サービスを取り混ぜて見守りであった。

 15年8ヶ月ですよ。長過ぎる。

 事故から救急治療に至る1分、2分の時間の違いで、正常回復、あるいは死亡、そして長期間の認知症状に運命が分かれたのである。

 ピンピンコロリが理想と言われていますが、このようなケースも起こり得るということを知っておいていただきたいと思い、記事にしました。

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安泰寺での修行風景

2024年03月14日 | 佛教

 以前テレビ放送された安泰寺の修行風景がユーチューブにアップされたので興味のある人はご覧ください。

https://www.youtube.com/watch?v=vj84dJHwbBo

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人生料理の本

2023年06月10日 | 佛教

 その後、申し込みがありません。

 遠慮深い人が多すぎるようです。

 一部、PDFにコピーしたサンプルをメールで送りますから、メッセージからアドレスを書いて申し込んでください。

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人生料理の本

2023年06月08日 | 佛教

 前回、「人生料理の本」を読みたい希望の方に差し上げたい旨のお知らせを致しましたが、今日まで一人もお申し出がありません。

 内山老師は私にとって、日本一お坊さん、つまり、それは世界一のお坊さん、その老師のナンバーワンの著作と考える本です。つまり、私が最も影響を受けた本なんです。

 今日はこの本に関わるエピソードをお示ししたいと思います。本の中の3ージをご覧ください。

 

 エピソードというのが、この部分が盗作されたのです。
 この「人生料理の本」は、曹洞宗の発行する小冊子「禅の友」に昭和44年ごろ連載されていたものを纏めて昭和45年単行本として出版されたものです。

 普通の場合は盗作は他者の著作を無断引用して自分の著作として発表するものです。その場合、バレないように気をつけるはずです。

 ところが、食物文科史研究家の平野雅章氏はけしからんことに、内山老師の人生料理の本を丸写しして自分の文章として「禅の友」に投稿していたのです。

 上のPDF「第二話 宗教生活について」のところをちょっと変えてほぼ丸写しだったのです。

 普通の場合は盗作は他者の著作を無断引用して自分の著作として発表するものです。その場合、バレないように気をつけるはずです。


 私がビックリしたのは、老師と同じ「禅の友」にほぼ丸写し文を載せたことなんです。「禅の友」は曹洞宗宗務庁が出している檀家向けの雑誌で「人生料理の本」の出版元は曹洞宗宗務庁です。

 そんな文章を投稿する方もする方だが、誰も気づかずに来てしまっていたようだ。

 私は昭和55年ごろ宗仙寺の正法眼蔵味読会に参加していた時、無料配布されて「禅の友」にそれを発見したのです。これには私がビックリしました。私には「人生料理の本」座右の書として何回も何回も繰り返し読んでいる文章です。すぐ気が付きました。

 私もこんなのが出てますよと老師のところへ持って行こうか、いや、いらない気を揉ませてもと思ったりして結局私としてはそのままにしていまいました。

 後にパソ通でコミしていたHさんが、平野氏の全集を調べてくれまして、全集の中に「典座教訓・赴粥飯法」(昭和48年)というのがあり、ちゃんとパクられた文章が確認され、また、中根環堂先生の「赴粥飯法現代講話」からも,パクパクやっているということでした。

 北大路魯山人の弟子だというのに、パクリばっかりなのには驚きました。

 素晴らしい本なのに申込者0なんて(泣)、とにかく「メッセージ」から申し込んでください。タダです。

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出逢うところわが生命

2023年06月03日 | 佛教

 5月20日に内山興正老師との出逢いについて書いたが、「縁は異なもの」という出来事があった。

 今、居住しているアパートの屋根や壁面の補修工事をするというので、長年扉を閉めっぱなしにしていた物置を開けてみた。前に物をおいていて見ることがなかったのである。

 開けてビックリ、ガラクタを整理すると混じって出てきたのが「人生料理の本」5冊である。

 私が人生において一番影響を受けた本である。

 秋月龍珉さんが、ある著書の中で布施として施本を勧められていたので、この本こそそれにふさわしい、有縁の人に配ろうとまとめ買いをしていたものである。

 しかし、施本もなかなか難しい。誰にどのように言って渡すのか、誰彼なしに渡せるほど小遣いに余裕がない。

 この本は曹洞宗宗務庁発行のもので、絶版後再刊行されていない。老師の本の再刊行に尽力されてきた櫛谷宗則さんに頼んでみたこともあるのだが、曹洞宗宗務庁が何故か応諾しないのだそうである。

 そこで、読んでみたい人はメーッセージから申し出ください。読めるようになるかも知れません。

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縁は切れない

2023年05月14日 | 佛教

 ヤフーの知恵袋で一切皆苦、十二支縁起、四諦、諸行無常、諸法無我等の質問があったので、下のとおり回答を書いた。

 仏教の根本教説は縁起説、あらゆる教説は縁起を根本としそれから派生したものである。

 ところが縁起が切ったり結んだり、あったりなかったりしている。私は縁は切れない、切りようがないと考える。宇宙の果まで繋がっているのである。

 

「以下知恵袋の文章」

 仏教の根本命題は苦からの解脱です。それをいろいろの視点から説いています。
 物事を分析的に見る、諸要素にバラバラしてしまう。それらが仮にくっついて成り立っている、つまり、縁起だというわけです。
 本来、バラバラなものだから実態はない、無我、無常、無自性だというわけ。だから、自分も存在しない、その苦しみも本来ないのだというのです。

 しかし、これは無茶な論理です。それで納得しているのがおかしいでしょう。

 例えば、五蘊説というのがある。人間生命を色受想行識の五蘊から成り立っているという。では五蘊に分かられるかというと実際に分けようがない、無理に分ければ死んでしまいます。
 元々、生命がちゃんとあるのです。そして、生きているのです。
バラシは頭の中での思考によるもので、実際にはバラせていない。バラしようがないのです。

 仏教の根本教説は縁起説です。
縁というのは繋がりです。それは切りようがないのです。
ところが、皆んな切って考える、切ったものをくっつけても元には戻りません。

 我々の身体も切り分けられるとして切り分けて行くと、素粒子まで行ってしまいます。素粒子には4つの力が働いていて、電磁力と重力は影響範囲が無限大で相互作用していると言います。
相互作用は仏教で言うところの縁ですから、実は縁は切れないのです。

 ところが従来の仏教の縁は切れてしまいます。切ったり結んだり、あったりなかったり。

 切れない縁で仏教を考え直す時代に来ています。
誰がそんな事を言っている? 私が言っているのです。(笑)

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村上光照老師が亡くなられました

2023年01月28日 | 佛教

 以前当ブログでも紹介した村上光照老師が亡くなられました。

 年始めには写真のような年賀状を頂いたのですが、1月22日に亡くなられたということです。お年は私より少し上です。

 老師について、以前ニフティサーブのパソコン通信で対話していたいちりんさんが、ご自身のブログで老師のことを紹介されていますので、ご覧ください。

https://ichirindo.hatenablog.com/entry/2023/01/28/064941

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上座仏教の生命観

2023年01月14日 | 佛教

 以前はヤフーの知恵袋で、多くの回答を書いてきたが、近頃はあまり覗かなくなった。回答する気の起こらない、私の関心を呼ばない質問が増えて来たようだ。

 で、近頃はツイッターを見ることが多くなった。仏教関係のツイートにリツイートすることがほとんどである。

 その中で、特に気になるものがあったので、紹介する。

アーチャン・チャーと上座仏教の僧侶の言葉である。

「もし、あなたが「人」というものは実際には存在せず、本当はただ五蘊とその要素だけが存在すると明晰に理解することができるのなら、誰かがあなたに何か言っても、もはやそれは大したことではないでしょう。

 けれども、もしただ存在するのは五蘊だけであるということを理解していない人が中傷されたり、侮辱されたりしたら、彼はあまりいい気はしないでしょう。その場合、中傷に対し、彼は歯を食いしばって自分を抑えなければならないことになるのです。」

 これは、「人」は存在せず、五蘊だけが存在すると言っている。

 「人」は五蘊と要素からできており、縁起による要素の寄せ集めに過ぎない。だから、「人」が存在すると言えないと言うのである。

 「無我」ということを文字通りに我の存在を否定している。が、存在している自分を否定するのはやはり無理がある。五蘊があって「人」があるのではない。

 五蘊なんてどこにある?

 初めに「人」がいるのである。「初めにいのちありき」である。それを分析的に考えると、五蘊に分けて考えることができる。

 考えられるが実際には分けようもない。無理に分けようとすれば「人」は死んでしまう。ありもしない五蘊を組み合わせて「人」にできるはずもないのである。

 縁起というのは、いろんな要素の寄せ集めである。その要素は無限なのである。人間の思量では届かないものである。

 五蘊なんてたった5つの要素にすぎない。

 人体(内向考察)→37兆の細胞→分子→原子→素粒子⇒宇宙力
 人体(外向考察)→地球→太陽系→銀河→銀河団→大規模構造→宇宙⇒宇宙力

 宇宙力とは宇宙を生み出し構成する力、私の造語(多分)である。 

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切れない縁 宇宙力

2022年12月05日 | 佛教

 12月8日は成道会の日、釈尊が悟りを開かれた日とされている。
それに因み、禅門においては1日から8日まで臘八摂心という8日間連続の坐禅の修行が行われている。

 7日7晩、自己の内面を点検された結果、バラモン教のいう我の本体たる霊魂、いわゆるアートマンの存在を見つけることはできなかった。

 しかし、現に生きている自己の存在がある。それをいろんなものの寄せ集め、つまり縁起による化和合の存在と考えられたのである。

 つまり、縁の集合体だから、我という本体はない、それを無我にしてしまった。でも、これが問題。

 無我という言葉に囚われ、縁による集合体を認めない人がいる。それでいて輪廻を認めている。どういう思考からそうなるのか。不思議である。

 その問題の根本は、縁というものが切れると考えられていることである。縁を切る、縁を結ぶ、有縁、無縁という言葉のとおりである。寄せ集めだからバラバラになる。ないとも思えばないということにもなる。

 しかし、私の探究では縁は切れないということである。遠ざけたり近づけたりはできるが絶対に切れない。一つの存在にあらゆるものが関わっている、宇宙の一切のものが関わっているのである。私のいう宇宙力とは縁のことなのである。

 そのことは仏教でもちゃんと言っているのである。
 一即一切、一切即一
 重重無尽 法界縁起

 なぜそう言えるのか、これは近代科学のお陰である。電磁力と重力の影響範囲が無限大という物理の法則があるからである。この無限大の力が縁なのである。

 我々は縁で繋がった宇宙全体を生きているのだし、そうすると我々のちょっとした動きが宇宙全体を動かしているということにもなる。

 その宇宙生命を我が生命とするなら、それは死ぬことはないのである。この宇宙は釈尊の生きられた宇宙であり、釈尊の生命である。
 宇宙生命から新しい生命が生まれてくる。我々は釈尊の生命を継いで生まれてくるのである。

 私がいて、あらゆるものが存在する。あなたがいてあらゆるものが存在する。あらゆるのものが欠けることなく繋がり合って、宇宙を構成する。
 私がいなければ、宇宙は存在しない。あなたがいなければ、宇宙は存在し得ない。 

 
 「宇宙力で生きよう 死んでも死なないいのちを生きよう」

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七仏通戒偈

2022年11月22日 | 佛教

 近頃、マインドフルネスや上座仏教の冥想(瞑想)をやる人が増えてきているようである。

 日本にはちゃんと仏祖正伝の坐禅があるのに、新しいものに飛びつく日本人の癖なんだろうか。

 前にも紹介したことがあるが、坐禅について内山興正老師の文章を再度転載し直してみる。

 ーーー
 『龍樹祖師いわく。坐禅はすなわち諸佛の法なり。しかも外道も亦坐禅あり。
しかりといえども外道は着味の過あり。邪見の刺あり。ゆえに諸佛菩薩の坐禅に同じからず。二乗声聞も亦坐禅あり、然りと雖も、二乗は自調の心あり。涅槃を求むるの趣あり。ゆえに諸佛菩薩の坐禅に同じからず (永平広録 巻七)』

 つまり外道の人もーーたとえばインドのヨガの人なども坐禅するし、日本の生長の家の人でも、神想観といって坐禅みたいなことをやるわけです。「然りといえども、外道は着味(じゃくみ)の過あり、邪見の刺あり」と出ていますが、何か色合いがついている。味付けがしてあり、坐禅すると健康にいいとか、頭がよくなる、とかいう。インドの人たちは、坐禅して昇天の福を得ようとか、来世は天人に生まれ変わろうというのが殆どで「ゆえに諸仏菩薩の坐禅に同じからず」といいます。

 それから又「二乗声聞も亦坐禅あり、然りと雖も、二乗は自調の心あり。涅槃を求むるの趣あり。ゆえに諸仏菩薩の坐禅に同じからず」とあります。いま南方佛教の人たちは、坐禅してだんだん煩悩を細めていって、最後にはそれを全く無にするという。これはいわゆるの「自調の心」であり、最後には煩悩を断滅してニルバーナをえようというので、そういうつもりになっています。

 ところが「諸佛菩薩の坐禅」というのは、これに反して「坐禅はまっすぐにただ坐禅する」という一事に尽きます。坐禅するーーただそれだけで、何の「つもり」ももたない。これが本当の坐禅であり、これを「只管打坐(しかんたざ)」といいます、それが道元禅です。

ーーー

 マインドフルネスは上の例からするとヨガ禅みたいものでしょう。

 とすると、我々、諸仏菩薩の坐禅をやっていくしかないと思うところである。

 ところが禅門の坊さんが瞑想を取り入れているのはどうかと思う次第である。

 勿論、仏教の範疇であることは否定しないが・・・。

 佐々木閑先生は瞑想は精神の集中だと言われている。で、その言を取り入れることにして思いついたのが、七仏通戒偈である。

 諸悪莫作 衆善奉行 自浄其意 是諸仏教 これを修行のやり方として2つに分けてみた。

   諸悪莫作 衆善奉行  (瞑想  念、想、観の測量あり  思い手放し)

 自浄其意     (只管打坐  念、想、観の測量なし  頭手放し) 

 仏法としてはたとえ瞑想をやってもその集中を解く只管打坐の坐禅に落ち着かざるを得ないと私は考える。

         

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無我について

2022年11月04日 | 佛教

 私は2年半前から、駒澤大学の佐々木閑名誉教授のユーチューブ講座を視聴している。説明が一般向けに分かり易く説かれていて、いろいろ学ばせていただいて仏教に関心のある者として非常に有り難いことだと思っている。

 ただ、仏教信奉者としてもこれは認められないと、思うことがある。一例を挙げれば輪廻説である。死んだ者がそのままの続きとして再生してくるなんて信じようもない。

 輪廻思想は先生も信じていないと言われているが、講義としては阿含経に書かれているとおり輪廻を前提として話をされている。

 信じていないけれど、学問としてはお経に書かれていることを解説しなければならない、先生もジレンマを感じておられることであろうと思う。

 さて、昨日の講座は十二処に関するものだった。六根があって、六境があり、それら要素を集めたものを自分だと思っているが、その自分は錯覚である。元にである十二処は無常であり、苦であり、無我なのであるから、それが集った私というものも錯覚で無我なのであるという説明である。

 ところが私はこの説明が気に入らないのである。自分はちゃんと存在しているではないか。自分は存在しないという意味の無我はどう考えておかしい。

 バラバラしたものを先に持ってきて、それが無我だからつなぎ合わせて出来上がったものも無我と言っているのである。

 そもそも、無我なんていうのも先に思考力を持った人間が先にいて言えるのである。無我よりも自我が先である。

 十二処も五蘊も生きている人間を観察して、頭の中で分析思考したものでしかない。実際に分けることもできないが、分ければ生命は死ぬことになる、そんなものをつなぎ合わせても生き返ることはない。

 では、無我とは何か。限定できないということ、肉体も精神も常に変化しているし、それだけで存在し得ないということ。つまり、無限ということ、宇宙一杯ということである。

 生命体が存在するためには、空気、水、食べ物、着る物、寝るところがいる、それらは地球上にある、地球は太陽がなければ存在し得ない、太陽は銀河、銀河は宇宙、みんな揃って自分という存在がある。宇宙全体の力で生きているのである。

 物と物がどうして繋がっているのかというと、電磁力と重力による。電磁力と重力はその影響範囲が無限大なのである。我々、地球を介して月や太陽に繋がっているのではダイレクトに繋がっているのである。

 これが仏教で言う縁である。縁は切れない、相手を遠ざけることはできても絶対に切れないのである。

 佐々木閑名誉教授 仏教講座
https://www.youtube.com/watch?v=7hfQ9gyOS-4&t=617s

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生まれ変わり

2022年09月01日 | 佛教

更新をサボっています。

安直にヤフーの知恵袋で、「生まれ変わりがあるのか」との質問があったので次の通り回答したのを転載します。

死んだ人が生まれ変わるということはありません。
しかし、その人の記録、記憶は残ります。遺産です。後の人がそれを活かすことを事ができます。

例えば、お釈迦さんの教えは2500年、代を替えて引き継がれてきました。今もお釈迦さんの教えを継いだ人がおられます。

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道元禅師の輪廻観

2022年06月23日 | 佛教

前回、生まれ代わり思想としてのいわゆる輪廻転生に2種類あると、書いた。

道元禅師はどう考えていたか。私の思うところを書いてみたい。

道元禅師は正法眼蔵弁道話で、霊魂による輪廻をはっきり否定している。霊魂により生まれ変わるとするのは外道の説であると言われてる。

しかし、正法眼蔵三時業の巻では、業による生まれ変わり、現生、次生、後次生という三世における生があることを解説している。

晩年において、なぜこのような三時業の巻を書かれたのか、訳の分からない話で、道元禅師のような知性をもってしても、経文の記述から脱することができなかったようである。

この三時業については、秋月龍珉老師が口を極めて批判しておられる、以前に老師の著書「間違いだらけの仏教」を引用して紹介したことがあるので、読み直しされることを勧めたい。

「正法眼蔵三時業」
http://www.shomonji.or.jp/soroku/genzou.htm

「間違いだらけの仏教」

https://blog.goo.ne.jp/ippouji/e/4fd9211ab82b33afe30155fe89394aed

https://blog.goo.ne.jp/ippouji/e/9e17c5c87447962833b5a71875ebc5a3

https://blog.goo.ne.jp/ippouji/e/93d1f615e5b8547b566b6264a24b583c

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3つの輪廻

2022年06月10日 | 佛教

 知恵袋で輪廻転生について、質問があったので次のとおり回答したので、ここに記録しておく。

 

 輪廻はサンスクリットの原語サンサーラは「流れること」「転位」を意味します。つまり、物事が法則に従って動いていくさまをいうのです。
それを漢訳された時に輪廻としたのです。壊れた輪が蘇るそんな意味は飛躍がありすぎるでしょう。

 生死を繰り返す様を輪の回りに例えたという説もあります、むしろ、こちらが主流です。

 さて、そんな輪廻転生説を唱えたのはバラモン教です。バラモン教では輪廻の主体をアートマンという霊魂だとしました。アートマンは不滅であり、輪廻から解脱しないかぎり永遠に苦しみの生死を繰り返す、解脱するには長い期間の苦行をしなければならないのです。解脱することができればアートマンは天に上り、ブラフマン(梵天)と一緒になります。梵我一如とか梵我合一とか言われ、もう生まれ変わりることはなくなるというのです。

 お釈迦さんはその修行に挫折されます。絶望のあまり、菩提樹のふもとでへたりこまれたのでしょう。7日7晩、坐り込んで8日目の朝、明けの明星を見た途端、悟りを開かれたのです。

 お釈迦さんの悟りは輪廻の根源たるアートマンの否定です。代わりに縁起説が唱えられました。無我です。アートマンの否定で輪廻転生思想は終わりのはずですが、そうはいかなかったのです。

 世の中は輪廻を信じる人ばかり。お釈迦さんが解脱されたとしても特別な人扱いだったのでしょう。

 輪廻思想は無くならず、輪廻の理由が業に置き換えられたのです。

 その業とか縁起というものは、一本つながりで論じられるものでなく関係するものは無数にあり、それが皆関係しているのです。

 生命のような複雑なものが、こうすりゃこうなるというようなトンコ節のような簡単な因果で生じるものではありません。

 生命は心理の問題であり、生理の問題であり、物理の問題です。心理だけでどうかなるものでは決してありません。 

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晋山結制式を見かける。

2022年05月12日 | 佛教

先週金曜日、毎日のサイクリングコースにある曹洞宗の寺院、南詢寺で多くの坊さんが集まっているのが見えた。

帰り道に自転車を止めて、覗いてみると「晋山結制式」という看板が見えた。

晋山式とは、新しく任命された住職の正式な就任式であり、また、結制法要とは新住職が最高の法階である大和尚の位に就くための儀式である。

https://sgl.sixcore.jp/soto/ceremony/special/shinsanshiki

後から聞いた話では親父の住職が引退し、息子が跡を継いだそうである。

さもありなん。寺は建て替えられてから10年くらい。今時、寺の新築は珍しい。

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