十方世界共生山一法寺

自己の世界を建設しよう
 日本のことも世界のことも自分自身のこともみな自己の内のこと。

自己世界

2013年09月30日 | 生命

この度は自己の世界に書いてみよう。

自己の世界は内山興正老師が図示した下図のようなものであるがもう少し掘り下げて考えてみたい。


まず今この瞬間、自分の部屋でパソコンをいじっているとする。そこで体験する世界といえばまず五官で捉えた世界である。眼で見、耳で聞き、鼻で匂いを嗅ぎ、舌で味わい、そして触れて感覚する世界である。
 
その場合見る世界は自分の今いる場所から自分の視力で捉えたものであり、この周囲の状況は自分だけのものであるのは自明である。たとえ、よく似た双子が頬をくっつけあって同じ方向を見たとしても決して同じ景色とはなり得ない。
 
自分独自の世界を時々刻々五官を駆使して体験しているのである。独自体験する世界を自分が持っているとも言えよう。
 
例えれば飛行機や船舶がレーダーを映しだしたり、カーナビ付きの自動車を運転するようなものと考えればよい。
 
「行き先に 我が家ありけり カタツムリ」という句があるが、何処に赴こうとそこが自分の世界ということになれば、安心というものである。
 
さて、五官で捉えた世界は当然五官の範囲に限定されたもので、たとえば部屋のにいればそれだけの空間でしかない。それ以外のところはどうなるのか、壁の向こうにも世界が広がっているはずである。
 
今、見えていないものであっても当然あるはずである。それはどういうものか、過去に体験した記憶されたものが呼び出されそれによって構成される世界なのである。記憶されのは当然今ではない、過去のものである。過去の体験を今呼び起こしているに過ぎないので実際はどうか本当のところは分からない。また、記憶違いや細かいところまで記憶されているとは限らずそのディテールはあいまいなものである。
 
頭に記憶された情報が心のデイズプレイに投影れたものが外の世界なのである。そして、
分からないところは想像で補って、世界認識としているのである。
 
つまり、確かに宇宙という実世界があることは間違いないのだろうが、認識力が働いたところが世界が我々の世界なのである。
 
認識されたものだけで世界ができているのではないとの反論が聞こえそうである。確かに人間の認識力なんかしれたもので、知らないところが圧倒的だが、そのように認識する程度の世界となっているという話なのである。
 
だから、この世界は自己世界というべきものだが、皆、それが共通の世界と思ってしまっている。既成的出来上がった世界にその1員として生まれてきたのが自分だと思い込んでしまっているのである。人それぞれが独自世界を生きているのに共通世界だと思っているところに認識の齟齬があるのである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

彼岸

2013年09月23日 | 佛教

今日は彼岸の中日で各寺院では彼岸の法要が行われたことと思う。我が家にも寺から案内が来ていたが意義を感じないから行かなかった。
ところで、私はこの彼岸という言葉は佛教の教えにそぐわないように思うのである。
我々凡夫は此岸、つまりは迷いの世界にいて、いずれ理想の世界である悟りの世界、あるいは佛の世界である彼岸にたどり着きたいと思っている。
つまり、今いる世界から向こう岸に移動し、そこの人間になるというようなイメージである。
そういうイメージで佛道修行をするならどうせ中途半端なことになってしまうことは間違いない。
何となれば自己は自己の世界を持っていて、いつだってその中心にいるのであるから、本来どこへ行くということはないのであるからである。その世界を佛的世界とするか、はたまた凡夫的世界を現出するかという話なのである。
つまり、今ここにおける心のモードの切り替えの話なのである。地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上、声聞、縁覚、菩薩、佛の十界というモードを切り替える。モードを切り替えればそこにその世界が浮かび上がってくるのである。
人間なら10モードを持っていてそれを切り替えつつ生きているのである。人間が一つのモードで生きるなんてことはあり得ない。勿論、理想的には佛モード、菩薩モードで生きるのが願わしいのは当然と思うところだが・・・。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする