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十方世界共生山一法寺

自己の世界を建設しよう
 日本のことも世界のことも自分自身のこともみな自己の内のこと。

磁気カード乗車券

2008年10月31日 | 共生

 自動改札機は1970年の大阪万博の時開発されて使われ始めたらしい。以来38年経つのだが、裏に乗車履歴や残額が表示されるカード式の乗車券が使われだしたのはいつ頃だろうか。切符をいちいち買わなくてもいいから便利で、早くから利用していたように思う。


 長らく使用しているのに今日始めて気がついたことがある。JR京橋駅で改札を通る時に方向を示す矢印とは反対からカードを挿入したのである。そしたら何のことはなく普通に通れたし印字もきちんとされていたのである。下車駅で改札を出る時は上下を裏返して挿入すると表替えってちゃんと印字されていた。


 今日の今日までカード面を確かめてきちんと矢印方向に入れてきたのである。ええ加減にしろ~~、と思わず言いたくなった。


 しかし、よく考えてみると、やはりカードを確かめ矢印方向に入れた方が良いのかも知れないと思い直した。まずカード違いを防ぐこと、方向違いや裏返しにすると機械に負荷がかかり、消費電力も増えることが考えられるからである。 


 まあ、今後は急いでいる時などカードを気にせずに気楽に改札を通れそうである。


P.S. バスの機械はひっくり返したり、反対方向から印字する  機能はないはずだからやはり矢印の表示はいると今朝気がついた。(11/1)

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あけびの実

2008年10月25日 | 共生

  実家の離れの樋にまとわりついた「あけび」が初めて実をつけました。
 
 離れは敷地ぎりぎりに建ち、特に角のブロックの塀との間隔は20cm、そこにあけびが生えている。いつ生えたのか、10年前からか、20年前からか、随分前からで母親も分らないという。家の者が植えたわけでもなく、自生する環境でもなく、誰かが種を投げ入れたのか、鳥が運んできたのか分らない。

  樋にからみ、窓格子にからみしていたが、邪魔になるところを切るくらいで、手入れらしいことはしたことがない。実などつけたことはなかったし、どういう植物か知りもしなかったのである。

  実は1個だけ。いつ食べたらいいのか。ネット検索で調べてみると、パクッと割れたときが食べごろとのことで、毎日母親と見張っているのだが、道路際手を伸ばせば誰でも取れるところにあるので、盗まれないかと気を揉んでいる。

 

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学道の人は、先づすべからく貧なるべし

2008年10月23日 | 佛教
 独り言に対して、今度は坊ンさんからクレームをいただいた。やはり、二世には二世の悩みがあってののしるなんてとんでもない、同情してほしいということらしい。 しかし、お経でも祖師方の伝記でもののしり迫害にあって得道した話は出てくるが同情されて得道した話はとんと聞かない。

私に対して耳を洗えとのことであるが、むしろ坊ンさん方には眼を洗って次の道元禅師の言葉を噛みしめてもらいたいものである。

 一日僧来って学道之用心(がくどうのようじん)を問ふ次(ついで)に示に云く、学道の人は、先づすべからく貧(ひん)なるべし。財多ければ必ずその志を失ふ。在家学道の者、なお財宝にまとはり、居所を貧り、眷属(けんぞく)に交はれば、直饒(たとい)その志ありと云へども、障道(しょうどう)の縁多し。古来俗人の参ずる多けれども、その中によしと云へども、なほ僧には及ばず。僧は一衣一鉢(いちえいっぱつ)の外(ほか)は財宝を持たず、居所を思はず、衣食を貧らざる間(あいだ)、一向に学道す。是れは分(ぶん)々皆得益(とくやく)有るなり。その故は、貧なるが道に親しきなり。

(道元禅師の『正法眼蔵随聞記』の巻四、第九節の一節)
コメント (1)
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自立と共生

2008年10月21日 | 共生

 昨年、福田内閣が発足したとき、福田首相がキャッチフレーズとしたのが「自立と共生」である。
 しかし、記者会見で「自立と・・・・」と言い詰り、間をおいて「共存」と言って記者に「共生」と教えられて言い直すお粗末。


 その上、小沢民主党党首から、「それは自分が昔から言っていること」と指摘されるに至って使われなくなってしまった。


 しかし、政治家の考える「自立と共生」は、「自助と互助」と言い直した方がよい。政府は借金を抱えて面倒みきれない。自分で自分の面倒をみろ、近いところで面倒見合え、ということなのである。 

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ブログの作り替え

2008年10月19日 | 共生

 ブログパーツ「あしあと」を追加しました。感じられたところを送信いただければ幸いです。


 このパーツを追加するために、テンプレートを変更せざるを得ず、山の写真にしました。

 今後ともよろしくお願いします。

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鯛一匹の値段はただである

2008年10月16日 | 共生

 信用度の低い向けのローン、サブプライムローンの返済の延滞率が上昇し住宅バブルがはじけたことから、世界中の金融機関の信用収縮がおこり、破綻を起こすところも出て株価の大暴落で世界中が大騒ぎ。 

 しかし、物の金銭的価値なんて人間が勝手につけたそれこそバブリーなものなんである。まして紙に書かれた信用だけの、それも空鉄砲を写真にとったようなものはそもそも価値なんてなかったのである。

 物の価値という話になると、山田無文老師のことばが思い出される。

「鯛一匹の値段はただである」 

 海の中で泳いでいる時の鯛は人間の価値付けがされていないから価値以前の存在であるが、それを漁師がとらえ港に水揚げしセリに掛けられたところから値段がつく。中買い、卸、小売と人の手を経るごとに経費や口銭が上乗せされて消費者の手に渡るときには何百円、何千円とするようになるのである。

 鯛はまだ食料としての実物的価値がある。

 ところが三笠フーズの汚染米転売のごとく、本来の価値のないものが何段階も経ることによって最終段階では正常米とあまり変わらない値段になってしまっている。

 世界金融の危機も金融機関が本来価値なきものに価値あるごとく見せ、価値あるがごとく扱ってきたところにある。三笠フーズと何ら変わりはないのである。

参照: http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E7%94%B0%E7%84%A1%E6%96%87

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緒形拳 坐脱

2008年10月10日 | 人生

 禅門の高僧の死に方に坐脱立亡(ざだつりゅうぼう)というのがある。坐脱は坐禅しながら死ぬこと、立亡は文字通り立ったまま死ぬことで立ち往生である。


 立亡はむずかしそう、死んでもすぐ倒れそう。伝説の弁慶の立ち往生は金剛棒に掴まっていたのだろうか。大方はもたれかかっていたのだろう。


 坐脱はありそうなことで有名なところでは、山岡鉄舟がやったらしい。勝海舟が山岡を訪ねると白の死装束で坐禅をし「これより涅槃に参るところでござる」なんて言って死に、死んでも坐禅の姿勢がくずれなかったので近所の人が拝みに来たという話が残っている。


 禅門では「生也全機現 死也全機現(しょうやぜんきげん しやせんきげん)」とか言って機は働き、現は現すことだから、今の言葉で分り易くいえば全力投球すること、死ぬのも全力投球する。死をもコントロールできるということなんでしょう。


 さて、今日の朝日新聞の天声人語によると緒形拳さんの死に様が書かれていたので次にその一部を紹介すると、


「天声人語}
歌舞伎役者のように虚空をにらんで、緒形拳さんは静かに息を引き取ったそうだ。臨終に立ち会った津川雅彦さんは、その時を「おれもあんな死に方をしたいと思うほど格好いい最期だった」とまとめた▼危篤と聞いて病院に駆けつけると、71歳の名優は一度ベッドに座り直したという。ひとしきり仕事の話をし、「治ったらウナギ食いに行こうな。白焼きをな」。この誘い、津川さんの激励ではなく、緒形さんの言葉というから驚く。淡いユーモアがにじむ、骨太の幕である


 息を引きとる時には寝た状態だったのだろうが、危篤状態の人間が坐り直して応対するのは坐脱みたいなもんだと思う。
 自分の死を見届けながら死ぬ、最後はそうありたいもんである。


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