十方世界共生山一法寺

自己の世界を建設しよう
 日本のことも世界のことも自分自身のこともみな自己の内のこと。

「自分と自己」(内山興正老師著)について(変更)

2021年02月24日 | 佛教

 積年の垢いうべきゴミのようなものが家の中に溜まりに溜まって整理を始めたところです。

 そうすると物入れの奥から内山老師の書かれた「自分と自己」という冊子が20冊ほど出てきました。

 昭和54年に発行されたもので40年も前のものです。大量に仕入れて関心のありそうな有縁の方々に配りもしましたが残りをしまい込んでそのままになっていたものです。

 捨ててしまうのも勿体ないし、今回欲しい方に無料でお分けしたいと思います。

 まずはメールでお申し込みください。

メールには次の項目を書き込んでお送りください。

 1 氏名
 2 住所
 3 メールアドレス
 4 年齢
 5 何時頃からブログを御覧いただいているか、お教えください。


 「自分と自己」

   内山興正著

   曹洞宗発行

   禅の法話シリーズ5

   昭和54年3月26日発行

   B5サイズ 28ページ

  目次
   ・ 出世コースを外されただけでノイローゼ

   ・ 人と人と出逢うと狼である

   ・ 水引きの喧嘩半ばの俄か雨」的な道

   ・ 一切は私の生命の風景である

   ・ 思いとはアタマの分泌物である

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念想観とは何?

2021年02月24日 | 佛教

 普勧坐禅儀には「念想観の測量を止めて」とあり、また、正法眼蔵坐禅儀には「念想観にあらず」とある。これについて前に自説を展開したところである。

 今回、ネット上で普勧坐禅儀の解説文を拾ってみると次のように多岐に渡ることが分かった。

分類してみると、念想観を一つの観とみるもの。

「思いを一つに固着させようとなどというはからい」
「思慮分別をめぐらしてある一つの観念をすること」
「自らへと向かう思慮分別の働きである」

曖昧だが一括の言葉として解釈していると思われるもの。

「思慮分別をめぐらしていろいろ考えること」
「頭で何かを考えること」
「一切思量を巡らすこと」

念想観を念、想、観と三つの働きとみるもの。

「心に念が浮かぶことも意識に想像することも、何かを観じるという認識作用も働かせること」

 私の考えと同じなのは最後の1件だけである。

 驚いたことに前段の三つは曹洞宗の僧侶のものである。


 しかし、澤木興道老師は「坐禅の仕方と心得」という本の別のところで念想観察という言葉を使っていたのでここも念、想、観と心の働きを分けて考えていたのだと思う。

 ところが最近、念、想、観を重視する坐禅、瞑想なるものがりに関心を持つ人が人が増えている。

 念・重視のマインドフルネス。想・重視の瞑想、観・重視の五感禅である。

これは心を念、想、観に集中することで、コロコロする心を繋ぎ止める働きがある所詮は心の問題、頭の働きの問題である。

 下図は内山老師の「天地いっぱいの人生」という本にある老師の自作の挿絵である。

 頭を空っぽにしてこそ首が繋がるのである。

 仏法つまり生命の実物は、不得不知(無知亦無得)、無我、空、尽十方界真実人体、無量無辺等、つまりは無限ということである。

 気づきがどうとか、何たらかんたら、有限なるものをいくら積み上げても無限には届かないのである。 

コメント (2)
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「生命力は宇宙力 宇宙力が生命力」

2021年02月20日 | 一法言

「生命力は宇宙力 宇宙力が生命力」

 これはぜひ覚えておいてほしい言葉である。
私が78年生きてきてたどり着いた言葉である。
これを玩味して生きていけばちゃんと生きていけると思う。
まあ、私の遺言である。

 しかし、これは単なる私の臆見ではない。

 華厳経に「一即一切 一切即一」を現代風に分かりやすくしたものである。
これは部分は全体あっての部分であり、全体は部分があっての全体だという意味です。

 私は宇宙があっての私であり、私がいてこそ宇宙もあるということ。

 私は今宇宙の中に存在しているのであり、宇宙は私を外せない、無理に私の存在を否定すればそれにつれて宇宙の崩壊してしまうことになる。

 つまり、私の存在が宇宙を支えているのである。

 そうすると私の存在があなたを支え、あなたの存在が私を支えている。つまり、のっぴきならない関係で繋がっているのである。

 コロナも宇宙力を生き、私もあなたもあなたも宇宙力を生きている。宇宙的にはコロナは私の命から生まれてものであり、その私の命を奪おうとするコロナが実は私を生かしてくれているのである。

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安泰寺の冬景色

2021年02月17日 | 佛教

 NHK神戸で放送された安泰寺の映像がユーチューブにアップされていたので紹介します。

 日本海に近い盆地で雪が深いところ。修行僧が2人雪のために亡くなっています。

 私が受戒のために初めて安泰寺を訪れた昭和56年4月8日にはまだ山陰には多くの雪が残っていました。

https://www.youtube.com/watch?v=RR5qSsUDzp0&ab_channel=Antaiji

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地震警報鳴動

2021年02月15日 | 世相

 今日、午後1時28分。昼の食事をしていたらスマホがけたたましく鳴動、慌てて見てみると、地震が発生し、震度3の警報だった。

 家内に「地震が来るぞ」と大声で知らせ、身構えたが地震が来た様子がない。

 後でテレビで確認すると和歌山が震源で震度4の地震だったかが、住所地では震度1だった。

 こちらはホッとしたところだが、一昨日には東北地方で震度6強。

 大震災時の余震と思しき地震だが何時まで続くのか、同情を禁じ得ない。

 被災された方にお見舞い申し上げます。

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将棋の藤井二冠が朝日杯で優勝

2021年02月11日 | 道楽

 本日、本日、全騎士参加の朝日杯将棋オープン戦本戦トーナメントで準決勝、決勝戦が有楽町朝日ホールで行われ、藤井王位・棋聖はまず準決勝で渡辺明名人に勝ち、決勝で三浦弘行九段に勝利し優勝した。

 藤井二冠はこの朝日杯は滅法強く初参加で優勝、翌年連続優勝、昨年は準決勝で破れたが、4回で3回優勝している。

 しかし、今日の対戦はどちらも薄氷を踏むような一戦となった。王様が追いかけ回され、相手のミスで逃げ切った。

 終盤、局面の評価値がとても挽回できない数値になっていたので観るのを止めようと思ったが、以前負けたと思い観るのを止めたら勝っていたことがあったので、じっと観ているとひっくり返してしまった。

 彼は詰将棋が滅茶苦茶強いがその終盤力が活かされた格好だ。

評価値グラフ

対渡辺(先手)戦

対三浦(後手)戦

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俺のとは違うな~

2021年02月02日 | 佛教

 テレビはよく観る方で、刑事もののドラマが好きである。「相棒」は初回から観ている。

 10年ほど前には内野聖陽主演の「臨場」もずっと観ていた。鑑識の主任検死官である倉石が毎回口癖のようにいう言葉が「俺のとは違うな~」。周囲の人間とまるで見解が違うのである。

 私も「俺のとは違うな~」と思うことが結構多い。

 最近、道元禅のやり方について、瞑想やマインドフルネスとの違いを指摘してきたが、そんな中で安泰寺の前住職 ネルケ無方師の指導に関しても、疑問点がありそれを指摘しておきたい。

 というのは、2012年に「ただ坐る」という彼の著書が出版され、私も当ブログで紹介もしているからである。

 その中に書かれている、P166「坐禅中は、五感はいつもより活発に働かせなければなりません」というところである。

 普勧坐禅儀には「心意識の運転を停め、念想観の測量を止めて」と書かれている。五感を働かせるということは念、想、観の観に当たる。彼も念想観と一つの言葉として読んでしまっているようである。念想に関する観ということで、それなら完全に的外れである。

 沢木興道老師はこの部分のところでないが、念想観察という言葉を残しておられる。これでは念想の観察と言うことではないのである。

 五感を働かせることの非は次の言葉で明確になるのではないかと思う。

 ・世間虚仮 唯仏是真 (聖徳太子)

 ・生死は名字のみあって実なし。世界の法の中には生死あれども ,実相の法の中には生死あることなし(大智度論)

 ・如来は如実に三界の相を知見するに、生死の若しは退、若しは出、有ることなし。亦在世及び滅度の者無し。実に非ず、虚に非ず、如に非ず、異に非ず、三界の三界を見るが如くならず。(法華経 方便品 仏之知見)

 世間、世界、三界とはそれぞれ我々のこれが世界と思っているもののことである。

 それらは真実にあらず虚仮だというのである。

 では仏のような見方とはどんな見方だというと生まれて間のない赤ちゃんの見ているようなもの。言葉で分別しないということだと思う。

 「坐禅中は、五感はいつもより活発に働かせなければなりません」これでは虚仮の世界に取り囲まれていることになる。坐禅中意識脳を働かしては駄目だと思う。

安泰寺本堂(帰命の扁額)

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福は外

2021年02月01日 | 生活

 明日2月2日は節分。例年より1日早い。1897年以来124年ぶりのことだそうである。

 地球の公転の関係で、4年に1回のうるう年を400年に3回減らすことで暦の調節がされている。

 オリンピックの開催年はうるう年で2月は29日になるのが普通であるが、今年は28日しかない。

 前回は124年前だから誰も経験した者はいない。

 節分というと、厄年に当たる人が多く寺社に厄除け祈願に行かれるのを目にする。

 ところが、先日、NHKの「チコチャンに叱られる」を見ていたら、厄年の本来の意味が紹介されていた。

 厄年とは役年のことだという。人生の節目で役目、役割を担い、責任がつく。精神的にも肉体的にも負担が増え気苦労も増える。それで厄年ということにもなる。

 男性の厄年は、25歳、42歳、61歳、女性は19歳、33歳、37歳である。

 男性の25歳は結婚し妻子を養う、42歳は家長となり仕事でも責任のある立場となる、61歳は引退し地域の役を引き受けたりする年である。

 女性の場合は19歳は結婚の歳、33歳は嫁から母の地位が確定し、37歳で家事の一切を任され主婦と呼ばれる。

 さて、私は豆撒きには、以前から「福は外」を提唱している。楽しくやりましょう!!

https://blog.goo.ne.jp/ippouji/e/27da3f93dba97bf34f69c8d78fe3523e

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